明治開化期の日本と朝鮮(24)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

朝鮮(大韓帝国時代)の「監獄」。当時の監獄施設が劣悪な環境にあったことが窺われる写真である。(韓國出版協會發行「韓國寫眞大觀」)より。

 

大部隊の清兵

 条約調印なった8月30日、南陽から清国軍艦が大院君及び兇徒およそ40名を乗せて出航した。

 9月1日、井上毅参事院議官が視察の為に京城に入る。(在朝鮮国井上参事院議官ノ信書)
 「清兵が大勢来ている。大砲なども運び込んでいる。清国はどの程度まで朝鮮国に干渉する積りかは分からない。朝鮮人は京城やその他道中に於いても自分を懇ろに接待し、『公使はいつ頃再び入京されるか。館舎の掃除等を手当てするよう官令があった。』と申し、また人民は安堵して生業に就く様子があり、家具を背負って帰宅する者陸続として見受ける。」と。

 9月2日、南陽には清国軍艦が結集していた。上陸した清兵はおよそ5千とも3千とも言う。海岸の要所に兵営を築いている。大小の砲も装備している。(花房公使談判筆記)

(以下「花房公使談判筆記」「朝鮮事変弁理始末/1 死者礼葬」「朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」「花房公使入京参朝及復命手続並ニ復命書」より。)
日本人葬儀

 同日の2日、外務御用掛大庭永成たちは日本人死者葬儀準備のために仁川の仮埋葬地に再び赴いた。
 棺を処置して白布で覆い朝鮮政府が差し出した役軍兵が一個の棺を10人で担ぎ、計60人と仁川府使、朝鮮軍将校などと共に行列を整えて進行する。

 済物浦の濁溪峴の墓所に到達したのは夜の10時であった。即ち改葬する。
 この日大庭永成は府使と中軍にかつての遺体扱いの非情を質したが、彼らが答えるのに「当時使役した者達は既に離散して不明であり、軍乱の時でもあり捜索は出来ない、また当時の府使は死んでいてこれを知る方法は無い」とのことで、ついに明らかにならぬままとなった。

 3日、草芝鎮に仮埋葬の死者を移し共に改葬する。

 その後、朝鮮政府による儒教式の葬儀が執り行われ、日本陸海軍将校と共に会葬をする。朝鮮政府から礼曹佐郎をして墓前に供物を捧げ、仁川府使と花島別将が三拝の礼を行う。花房義質は哀悼の祭文を奏した。
 この後、金剛艦にて立食の会が開かれた。

清兵、乱党を誅す

 その前日2日(朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法)、領議政より書簡が来る。兇徒処分について以下のようにしたとあった。
・軍領兵官2人を変乱の防御が出来なかった責任により島流しとした。
・8月29日に枉尋と利泰の地に居る乱党を襲撃し銃殺した者10余人、そして捕らえた者10余人はただちに処刑した。

 しかしこれは朝鮮政府が行ったものではなく清兵が干渉したものであった。しかも、捕らえた者の取調べもせずに誰がどのような罪を犯したかの調書も無く誰が首謀者で従者であったかも不明であった。
 これで条約第1箇条のことを済ませたいとの意向が窺えたので直ちに弁駁の返書を出すことも考えたが、返答の方法を考慮して済物浦を出立し仁川で一泊(護衛兵規模は不明)。

 4日、近藤書記官を先発させて京城に入らせ、領議政に会して質問させたところ、すでに乱党は駆除したので第一箇条のことは勘考願いたいとのことであった。しかし近藤書記官が、犯罪者を処置するのに公使館襲撃の首謀者は誰で殺人の実行犯は誰でどうしたか、などを吟味もしないこのような漠然たることでは満足な処置ではない、と追及すると、それでもまげてこの侭承認してくれとの事であった。それでも我が公使は必ず異議を申すであろうと懇々と説くと、それでは徹底して条約の通りするので先の書簡は返却してほしいとのことであった。以って書簡は返却した。

 7日に花房は入京。
 中田敬義通訳官が東大門外の関王廟の清国水師提督呉長慶陣営を訪ねる。留守との事で袁世凱が応対する。ここで先の枉尋と利泰の地で乱党を銃殺し捕獲者も処刑したのは清兵であったことを確認する。また城内には王宮護衛などの兵若干を置き、城外におよそ2千人の兵を配置しているとのことであった。

 この日、王妃の無事が発表された。当時難を避けて忠清道忠州に隠れていたとの事。その布告によって喪服は除かれた。
 領議政はその奉迎に行ったために代わって左議政の金炳國が花房と対談。5日に日本人殺害実行犯を含む数名を捕獲したことを告げた。また公使館を銃撃した者も捕らえたが怪病=吐瀉病(鬱火病?)の為に死亡したと言う。

 9日、この日の花房の報告によれば(「花房公使秘密信及馬建忠書翰」p3)「清兵の数は清人の話によれば6千人と称するがその実数は分からない。尤も、城内外におよそ2千人は駐在しているように見える。(略)(当地)上下の人々は、やや清国の干渉を憂い、とりわけ清兵の中には賊行為や強姦をする者もあって、為に京城内は一時人心に動揺を来たしたが、昨今は軍律厳しく厳罰を示したので治まってきている。我が兵士が入京してからは清兵側もよほど注意して、争いなどが無いように城内をみだりに徘徊せぬよう命令を出しているとの事であった。もちろん我が方は素よりその辺は注意しているが尚厳戒を加えている。」とあった。

(支那兵が略奪行為や婦女暴行をすることはよく知られているが、筆者知る限りでは公文書中に記述されるは初出である。)

 

兇徒の捕獲と罪状
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)

 10日、朝鮮政府の報せによれば殺害犯を更に1人、また関わる軍士3人を8日に捕らえたとのことであった。

 11日、左議政金炳國によれば、捕獲した者は計9名。取調べた結果、4名に死罪[内1名は既に病死]、3名に流罪の刑罰をそれぞれ与えることにしたと。また1名は王宮侵犯に関係した者で日本側には関係ない者であり、1名は無罪とした、とのことであった。

 以下は関係ない者(軍官)と無罪の者(兵士)を除いた捕獲者の調書や裁決などである。

(「朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」p24より抜粋参照。)

・日本人1人を路傍の石塊で猛打していた者2名。1人は麺売り業57才、尋問1回で供述。1人は酒売り業31才、尋問1回、施威(拷問か)3回、牢刑(拘留しての拷問か)3回によって供述。それらの供述によれば2人は、衆に囲まれて打たれていた日本人1人を杖で打ち石塊で猛打し倒れた後も石で打ち続けたとのこと。
 いずれも死刑。

・衆人を公使館襲撃に誘導した者1名。兵士26才。尋問1回で供述。更に施威を加えたが供述に異なるところはなかった。供述によれば、喇叭を鳴らして衆人を公使館襲撃に誘導し、それによって衆が集まって誰々が棒を持ち環刀を持ち或いは(公使館裏の)山に登って投石をし、また深夜に至って日本勢が公使館から突出してきた時に避散したとのこと。
 死刑。

・公使館襲撃の者1名。兵士25才。尋問1回で供述。罪が深いので再三施威を厳しく加えたが供述に異なることなし。供述によれば、騒動を聞いて鳥槍(火縄銃)を携えて駆けつけ、崖上から公使館内に向けて打つこと数回。しかし飛んできた銃弾に股を負傷して家に帰る。捕獲した翌日に吐瀉して病気となり、その翌日に病死する。
 死刑[既に病死]。

・公使館の前で松明を照らして乱を導いた者1名。鍛冶屋、32才。尋問1回、施威1回。乱暴はしていないが乱に導いた罪は免れず。
 流刑。

・包丁を持って立っていた者1名。売饌業(食品売り)。尋問1回、施威1回。供述によれば、公使館襲撃当日に柴を燃やして道路を照らし門前に包丁を持って立つ。
 流刑。

・公使館に槍を投げようとした者1名。鍛冶屋24才。尋問1回、施威3回、牢刑2回。供述によれば、公使館襲撃当日に兵営の武器庫を破って槍を持ち出し、公使館に投げようとしたが出来なかった。人が逃げ散った後に槍を兵営に返した。
 流刑。


「訊杖」
 調書中にある「施威」とは拷問をしたことを意味するのであろう。写真は大韓帝国時代のものと思われるが、朝鮮にはこのような拷問方法があった。記録としては、朝鮮政府による罪人調書(アジ歴レファレンスコードA03023656700 画面20)に「訊杖」という名で書かれている。文字通り杖に訊ねるというものであり、両足を縛し、棒を差し込んで無理やり開くというものである。体重を掛ければ容易に骨折までに至る。時に死刑に伴う「骨折刑」として行われることもあったという。まことに残酷なものであるが、奇妙なことに現韓国の「独立記念館」などに展示されている「日帝による拷問」と称する蝋人形の姿に同じ方法のものがある。日本には勿論このような拷問法はなく、実際は朝鮮伝統のものなのである。

花房公使の判断

 乱の規模と被害の大きさに対して捕獲9名はいかにも少なく日本襲撃への指導的な者でもない。
 (また兵士に限って不審死をとげたり尋問供述の書き方が他とは違ったりと変である。事件時の兵の命令系統を隠そうとする意図があったのかもしれない。)

 しかし花房は以下のことをよくよく考慮して、これ以上追求することを止めることを決意した。

・清兵によって捕らえられて既に処刑された者10名(いずれも兵士)の調書が提出され、その内5名が日本人殺害(2名)、公使館襲撃(2名)、仁川襲撃(1名)の者達であることが判然としたこと。(これも真偽は不明であるが。)
・実際に離散逃亡した者のこれ以上の捜索が困難であること。
・それでもなお兇徒捕獲を要求して見つからないままに期日が過ぎれば日本側が内政に干渉せねばならなくなること。
・朝鮮政府が清兵の干渉を憂慮していること。故に日本側は内政に干渉せずの恩情を表すほうが良いこと。
・日本人殺害と公使館襲撃の実行犯数人が捕獲できており、その処刑に立ち会うこと。
・明日12日には王妃帰還の慶事があること。

 なお足りない分は洋夷侵犯の石碑を壊し、善交の意を全国に厳達することを以って充当することとした。
 左議政金炳國にそのことを話すと、金炳國も石碑を壊すことは全く異議ないとのことであった。ただ政府に稟議せねばならないとのことで実施は13日以降となった。

 朝鮮政府は直ちに処刑執行の準備にかかったが、手間取って12日の朝6時に執行することになり、日時を11日の夜の内と見なして行うとのことであった。

処刑執行
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)

12日朝6時、京城敦義門(西大門)外慕華館前において3人の処刑が執行された。

 執行場両側には朝鮮兵員およそ4、5百名、太鼓、喇叭、旗手が並び、小旗の数知れず、「粛静」の字を大書した碑を立てる。
 また日本陸軍1小隊が外周に並ぶ。幕内に椅子を置き、その前に禁衛大将趙義純座る。その横に日本側立会人として岡警部、浅山賢蔵、杉村濬などが座す。その両側には朝鮮軍官軍卒数10名が左右に立つ。椅子は空けたままであった。
 処刑者3人が台に乗せられ兵士5、60人に前後を護衛されて刑場に着く。刑人は座らされて上衣を脱がされ裸の上に荒縄を巻かれる。顔面に水を打ち白粉をまぶす。この間すべて号令がかけられる。軍官が館前に立って罪状を宣告する。それが終わると刑人の髷に2本の矢を結び、引き回すこと数10歩、再び座らせる。
 3人一同に刀を当ててこれを引いて斬る。刀は鈍にしてすぐには首は断たれず、1人に至っては13回目にしてようやく首が斬れる。地に落ちた首を一尺四方ぐらいの台に載せて禁衛大将の検視に供する。検視が終わると台もろともこれを地に投棄した。
 6時40分であった。
 これにて日本側は別れを告げて去る。この後に首は梟首(さらし首)刑に付された。

 岡警部たちの報告を受けて花房公使は書を左議政に送り、王妃遷宮の式あるをもって梟首をただちに収めて恩意を示すよう進言し、金炳國も速やかに承諾した。

 なお、朝鮮国から日本国への謝罪の使節は朴泳孝を「修信大使」とし副使に金晩植、徐光範を従事官とし、金玉均は無役として同行する(他には閔泳翊なども)予定であることを朴泳孝から内々で通知して来ていた。それで花房が帰国する明治丸に同乗させることとなった。

花房公使ほか陸海軍、帰国する

14日、朝鮮政府は先ず城内大路鐘閣の前に建てている「洋夷侵犯」の石碑を破却し、続いて国内にも掲示をしたとの書を花房に出した。
 これにより長年の疑心氷解の実績が顕れたとして、近藤書記官と陸軍1中隊と軍艦1隻(天城艦)を残して皆帰国することに決する。

16日、国王高宗は花房公使並びに堀江大佐はじめ陸海軍士官11名を引見(陸海軍少将は病にて先に帰国)。
 「事の和平に帰するを喜び、後来の親睦を望む」との諭あり、後に別殿にて酒食の饗応あり。

18日、花房公使は近藤書記官を代理公使とし公使館(城内南山下の禁衛大将の宅を引き続き使用することになる)護衛の1中隊を残して京城を去る。(後に広島鎮台山口分隊2中隊が駐屯。)
 仁川で清英両国の水師提督と会す。

朝鮮修信大使も明治丸に

19日、朝鮮修信大使朴泳孝ら一行11人が京城を発し、明治丸に乗るために済物浦に向かう。

21日、花房公使らと修信大使一行を乗せた明治丸が日本に向けて出航する。2中隊を乗せた社寮丸、1中隊を乗せた住ノ江丸、その他の軍艦も天城艦を除いて皆日本に帰航する。

24日下関発、25日神戸着。朝鮮使節はここで数日間逗留する。(特別の使節として扱ってほしいとの花房公使の上申により経費全額を日本がまかなうこととした。ちなみにその接待経費予算は1ヵ月当たり5千円が計上されている。)
26日
には花房公使一行のみが横浜に向かう。
28日朝横浜港着。横浜人民の歓迎による朝食饗応。別仕立て汽車で新橋へ。
宮内省差し向けの馬車で鎮台騎兵半小隊に前後を守られ皇居に向かう。
参内復命。

 

調印の条約と続約

 8月30日に調印なった条約は次の通りである。

(「花房公使入京参朝及復命手続並ニ復命書」より意訳。この6箇条には正式な和文はない。)

第一 今期より二十日内に、兇徒を捕獲して首謀者と従う者を究明して厳重の処分をすること。日本国から人間を派遣して共に究明し、もし期日内に(朝鮮政府が)捕獲出来なかった場合は日本国が処弁する。

第二 日本属官たちの遭害者を、朝鮮国は優禮なる葬儀を以って手厚く弔うこと。

第三 朝鮮国は五万円を給し日本側遭害者の遺族並びに負傷者を救恤すること。

第四 兇徒暴挙による日本国公使館が受けた損害及び公使護衛の水陸兵費の内五十万円を朝鮮国が補填すること。
  毎年十万円ずつ支払い五個年で完済すること。


第五 日本公使館は兵員若干を警備に置くこと。兵営の設置修繕は朝鮮政府の任であること。
もし朝鮮国兵民が法律を守らば一年の後に日本公使が警備不要と認めれば撤兵するも妨げず。

第六 朝鮮国は日本国に国書を以って謝罪する大官を特に派遣すること。

 花房は、以上の箇条は事変についての一時行使のことであり、且つ緊急のことであるから批准を以って行う性格のものではないとして6箇条としてまとめ、他の箇条の居留地外遊歩規定と国内遊行のことは永遠条約であるからと、これを日朝修好條規附録の「続約」と規定して別条約としてまとめた。

(「朝鮮事変弁理始末/2 奉委妥弁 2 奉委妥弁二至ル旨公信 別紙 2」より現代仮名、()は筆者。) 

 続 約

日本国と朝鮮国と嗣後益々親好を表し貿易を便にする為め、茲に続約二款を訂定すること左の如し。

   第一
元山、釜山、仁川、各港の間行里程、今後広めて四方各五十里と為し[朝鮮里法]二年の後を期し[条約批准の日より周歳を算して一年と為す。]更に各百里と為す事。
今より一年の後を期し楊花鎮を以って開市場と為す事。

   第二
日本国公使領事及び其の随員眷従の朝鮮内地各処に遊歴するを任聴する事。
 遊歴地方を指定し礼曹より証書を給し、地方管証書を験しめ護送す。

右両国全権大臣各々諭旨に拠り約を立て印を盖し、更に批准を請い二箇月の内[日本明治15年九月(から)]日本東京に於て交換すべし。

大日本国明治十五年八月三十日
大朝鮮国開国四百九十一年七月十七日
   日本国弁理公使花房義質 印
   朝鮮国全権大臣李 裕元 印
   朝鮮国全権副官金 宏集 印

 

条約の万国公法上の問題点

 8月2日付けで花房に付与された訓条中の要求書は、状況に応じてその内容を変更することは花房の裁量に任されていた。即ち、
「訓条案中、特別に記載したる朝鮮政府へ対する要求の件は・・・朝鮮政府実際の情状に応じて権度軽重を酌量するの活用は是を公使に委任」
とある通りである。

 8月30日に締結なった条約内容を携えた中山参事院議官補が翌31日に軍艦迅鯨で至急下関に回航して到着したのは9月2日。ただちに井上外務卿宛に電信で報告、さらに東京に赴き9月5日に井上にそれを渡した。しかし、翌6日、井上は下関にいる宮本へ電信で次の文を送り花房公使に届けるよう指示した。要約すれば次の通りである。

(「朝鮮事変弁理始末/2 奉委妥弁 3 〔明治15年〕9月2日から明治15年9月6日」p7より)

 第一条の『もし期日内に捕獲出来なかった場合は日本国が処弁する。』の条は、我々の意見と異なるところあり。また他の文明国から(この処置は)過酷に過ぎるという嫌気を受けるだろう。。もし朝鮮政府が二十日以内に成就できなかった時は、むしろより困難なことと思われる日本側から捕縛懲罰の任に当たらざるを得なくなる。これまた騒乱を招くだけではなく韓人の怨恨も買うことになる。このようなことは専ら内政の部に属することで万国公法において嫌疑あるを免れない。

 第二条の韓人に葬儀させるのも肝要の箇条とは思われないのでこれを改めるべし。

 しかし、かかる配慮などが遅延を招き機会を誤らせるとするなら、拙者は貴下の意見に任すべし。
 なお「洋夷侵犯云々の石碑」は倒させること。これは各国との友好を保つために朝鮮政府が自らするべきことである。

 井上始め政府は第一箇条の後半が「万国公法」上問題ありとしたのであった。また第二箇条も改正を求めた。しかしもう条約は調印締結している。また葬儀も9月3日にすでに行われている。今更どうしようもないことである。

 事変一連の問題の処理が全て済んだ9月21日、謝罪のための朝鮮修信使を乗せた明治丸で帰国した花房は、9月28日に帰朝復命した。その中で条約の万国公法上の問題点も含めて各箇条に対し次のように説明している。

(「花房公使入京参朝及復命手続並ニ復命書」p42より要約)

 第一箇条について
・期日内に挙行出来ない時にはまず条約の効力を失うことになる。ために朝鮮側をしてゆるがせにすべからずを示すために、特に「もし出来ない時は日本が処理する」の字を載せた。
・この箇条は永続のものではなく一時のものであり、むしろ実際上の実行力を必要とする。
・後に削除すべき御下命があったが、既に調印なったものをこちらから左右すれば相手もまた改定を望むの端を開くことになり、再び終結することが困難になるのでそのままにした。
・期限が過ぎる前に数名の兇徒を捕獲することも出来たので、この箇条の効用もあったと察せられる。
・大院君が首謀者であることは十目十指の視指する(全ての人間が指摘する)ところであるが、国王の実父でもあり既に清国に拉致されていて強いては追及し難い事情がある。また兇徒処分については清兵が着手していて、その終結を得んがために国王に大赦を勧める情勢があり、この際に探求することを主張して時日を遷延すれば、自然深く干渉する不安ともなるので、王妃が帰還する慶日(12日。兇徒捕獲期限は18日)を限りとして追及を止め、そのなお足りないところは、1、「洋夷侵犯の石碑」を撤去する 2、善交の義を全国に布達する、の2項をもって補完することを取り計らった。

 第二箇条について
・訓条にはない箇条ではあるが、最初から賠償額を小額にせざるを得ないところもあり、物を薄くして情を厚くするとの意もある。
・死者の終焉を厚くするは人情の最も切なる義であるから特に朝鮮政府が我が国の死者に優礼を以ってするの意を示し、死者をして瞑目させ、遺族及び国民をして遺憾ないようにさせるためにこの条を設けた。
・削除の御下命あれど害なくまた既往に属するのでそのままにした。

 第三個条について
・訓条には金額が定めてなかったので、大概を見計らって取り決めた。8ヶ月内に3度に分割することも承諾した。

 第四箇条について
・訓条には経費の実数に準じるとあるが、あらかじめ金額を定めねば朝鮮側も目的が立たずに承諾できないことであるから金額を取り決めた。
・元来、貧国朝鮮のような国に対し賠償金額を多くすれば、人情において忍び難きことで、ましてこの額においても頗る負担であると申し出た。
・故に特に寛裕を示して5ヶ年支払いを許諾した。
・鉱山を開き、電線架設を日本によって創始することで減額することも説いたが話はまとまらなかった。
・賠償の二字を求めに応じて補填とした。
・ただ支払い方については、清国馬建忠は賠償金の減額を求める書面を送ってきたので、そのことで論じれば更に日時を重ねてついには干渉も引き起こすべき憂いも無きにしも非ずにより、朝鮮側が全権の使節を派出して東京で詳細は議定したいとの返答もあり、支払いの詳細は未決のものとした。
・もっとも、朝鮮政府は慶尚道の地税60万両(韓銭)を以ってこれに充てるとの内議は決定していると聞く。

第五個条について
・訓条には朝鮮政府をして護衛の兵員を備えさせるとの趣旨であるが、到底望むべきもない有様でかえって他国(清国)の兵員を備えさせることにもなるので止むを得ずに我が兵を置くことに取り決めた。
・今日の朝鮮兵は全て四方に逃散し宮門の番兵も清兵から差し出している。
・我が公使館は我が国で保護を為さざるべからずは無論の事である。
・朝鮮側の兵民が法律を守り速やかに自ら保護の兵を備えるようになるのを促し、また他国の兵を辞するを要するの意を示した。

第六個条について
・訓条には文書を以って謝罪とあるが、事体は重大且つ複雑であるので、鄭重且つ簡明なるを以って本書のように取り決めた。
・謝罪文は礼曹判書から外務卿に出させ、国書は親睦を厚くするの点のみに止まることに取り計らった。

 以上6ヶ条は事変について朝鮮政府が敏速に着手すべきもので、批准を待って行うべき類のものではないので別に分けた。

続約の第一について
・訓条中に「安辺で市場を開くこと」の件は間行里程を拡張して朝鮮人が日本人を見聞きする機会をもうけて、その猜疑心を解消することは勿論、また貿易上の利益少なからざる義に付き、里程を拡張した上は、「安辺」はすでに範囲内になるので開市の談に及ばなかった。

続約の第二について
・この件は朝鮮政府においても拒むべきでないことを知っており、異議ないことであった。
・ただし事前に朝鮮政府に届けるを要し、地方官に通達して不慮の事態無く通行できるようにしたいとのこと。

 以上2箇条は今後永年にわたって修好条規の欠を補うものである。

○洋夷侵犯の石碑を壊して善交の意を国内に布告すること
・朝鮮政府にも速やかに承諾した。

○安辺の一件処分のことこれは3月に日本人僧侶らが強盗殺害に遭った事に対する処理の件である。
・逃亡する兇徒の捕獲をさせ厳重なる布告をさせる積りであった。
・しかし、安辺地区も遊歩規定の拡張の約束が成って既に範囲内に入るので、今又ここで数名の土民を殺戮させて怨恨を重ねるよりもむしろ恩恵を示して後の善交に誘う方が好い。
・安辺の事件も今度の京城の事変も、皆朝鮮人が外国人を猜疑するところから起こったもので、その猜疑心を取り除き善交の意思を固めさせることが重要と思う。
・石碑を取り除き、布告をするの2項を以って友好を表す以上は、安辺の件は深く追及しないこととした。

○通商章程議定の件(税制のこと)
・談判を始めた頃に事変が起こり、朝鮮政府側もこちらも共に書類が紛散し、朝鮮側も速やかに目的を立て難く会議を開くことも出来なかった。
・全権の使節をもってとの提案もしたがなお議定まらず、しばらくは中止することになった。

 7月23日24日の京城・仁川での死闘も困難なものであったが、花房義質にとってこの事変処理のための交渉も実に困難なものであったろうと思う。
 執権大院君、清国の干渉、高宗政権、それらを相手に花房1人で対応したのである。その内容といい課題の難しさといい、とても日朝修好条規締結の比ではない。黒田全権派遣の時は謝罪文提出と国王印鑑のことで苦労したが、今度はそれどころか兇徒捕獲と処分、賠償金を払わせる、修好条規の改約、洋夷侵犯の石碑を破壊させる、などなど実に難しい問題ばかりであり、しかも状況は刻々と変化し、一時の判断の誤りも許されない。東京に上申し判断を上に仰いで何日も待つわけにも行かない。
 また、訓条での要求書条項も談判に付せるほど具体的なものではなく、従ってその全体を検討し又一つ一つを的確な状況判断の元に形あるものに仕上げていくのも花房1人がするのである。無論、近藤書記官始め有能な部下に恵まれてはいるが。

 井上馨外務卿も相当心配したようで、東京から何度も花房宛に指令の手紙を出している。しかしなんと言っても日にちがかかりすぎる。たとえば「大院君との対談は最も注意を要し云々」と東京で指示を出して、それが到着した時にはすでに花房公使は大院君と何日も前に対面している、という具合である。(朝鮮との間に電信を通す必要性が生じたのもこの事が発端であったと思われる。)

 万国公法に触れる懸念があるとの条項もその意図するところの内容と一時効力の条約であるから、との判断は的確なものであろう。二箇条の葬儀のことも、遺族と日本国民に向けての融和の計らいと且つ朝鮮側をしていささか贖罪の念を与えると共にいっそうの事変への責任をも自覚させるものとなったろう。
 また訓条通りの謝罪文の提出に終わらせずに謝罪のための修信大使派遣としたことも、目に見える形として日本国民を納得させる上で効果的なものであったろう。
 その他随所に花房公使の見事な判断があったと筆者は思う。

 訓条にあるように、当初日本公使館の護衛は朝鮮側で用意するようにとの内容であったが、朝鮮政府の実情からまた清国の干渉を排するところからも日本軍を置くことも止むを得なかったこともよく理解できるものである。そして朝鮮側の懸念を配慮してその兵数減少のことも確約している。

 朝鮮事変発生から問題が決着するまでのこの間の花房公使の言行には、日本国民が納得し且つ朝鮮側にも配慮をし、より良好な交際を計り又損なわないようにとの心遣いが随所に窺われるのである。

 筆者は思う。その能力の高さに於いて花房義質もまた日本が誇るべき外交官であったと。

英米公使、祝辞を贈る

 さて、朝鮮事変問題が決着すると英米の公使から井上馨外務卿宛に祝詞が贈られた。
(「英米両公使朝鮮談判結局ノ祝詞」より抜粋、現代仮名。)

 箱根に於て ハリー・エス・パークス(英国公使)
 「拙者より閣下へ向け祝賀の電信相発し候。その後ロングフォート氏の書簡にて該見の詳報を得候。そもそも此の如き満足の約束を得られたるは、拙者に於て欣喜措かざる義に之あり候。けだし此の約束は又公平至当にして且つ将来朝鮮に於て貴国人民安寧のために緊要なることと存じ候。・・・清国政府は同君(大院君)を如何に処理すべきか。彼を縊り殺すか若しくは彼をして事理に欧州見物でもさせる積りか如何に。・・・凡そ一友人へその奏功の祝詞を呈するは最も愉快のことなり。今拙者はすなわち閣下、貴皇帝並びに貴国と深く此回の事に関する満足の意を共にして以って祝詞を閣下に呈し候。」

 合衆国公使ジョン・エー・ビンカム
 「朝鮮人が同国へ駐箚する日本公使並びに在留日本人へ対し意外の暴挙に及びたるを天皇陛下の政府に於ては賢明穏当寛宥の御処理に交渉たるは、拙者が閣下並びに貴国政府に向かい祝賀する所に候。特に該事件を全く体面を損せず平穏に結了せられ候。」

 また、米国紙も次のように記事とした。
(「朝鮮問題ニ関スル新聞紙抜萃ノ件」より抜粋、現代仮名、()は筆者。)

華盛頓(ワシントン)ポースト新聞抜萃 十月三日
「倔強なる手段を以って朝鮮に対し処弁したる日本人の外交政略は実に近来欧州各国に行われたる外交政略と比較して恥ずる所なし。」

新約克(ニューヨーク)ヘラルド新聞抜萃 十月六日
「・・・李鴻章は朝鮮国王の親父を其の国に拘留するの強悍なる政略に出たるは尤も緊要なる点にして・・・李鴻章の教唆にて創草せるやの説ある朝鮮条約の条款は彼の半野蛮の人民をして開化に進歩せしむるの階梯ともなるべきものにて全く信用を置くべきものなり。但し該の狡猾なる清国の政治家の為には[もし当初より朝鮮を清国の所属と為す考えなれば]斯の如き条款を作れるは(米国の)真に失策と言うべし。なんとなれば我が国と朝鮮国との条約は永久彼の独立を基定すべき性質を有し、・・・」

 清国は評判を落とし、米国政府の朝鮮との条約の結び方にも国民から疑念が投げかけられた。
 当然であろう。

朝鮮政府、反日を禁じ善交を通達する

 約束どおり「洋夷侵犯」の石碑も壊され、善交の意を国内に布告することもなされた。元山の副田領事の報告によれば次のような掲示が朝鮮政府によって出されたと言う。

(「議政府榜示関文ノ件」より抜粋。文字空けは筆者。)

善隣厚好 國之大事 聯盟結款 誼同一家 乃与日本 修約以来 為日尚浅 各道軍民 未免扶嫌懷疑 時或粗暴滋事 失信隣邦 取天下国家之恥 莫大焉 懲前後 益修親好 以為善後之計 嗣後 如有行暴逞毒残害外人者 不論其乱首與加功 逮捕誅戮 以正國法 及有妄唱邪説 結黨聚類指斥外人 以傷好睦者 立即處分 決不寛貸 為此通論八道四都軍民人等處事

(上記を筆者意訳)

 善隣友好は国の大事である。日本と連盟を結んだことは一家が仲良くすると同じである。
 日本と条約を結んで以来なお日が浅いために、全国の軍民はまだ疑ったり嫌ったりして時には暴力をひどく行い、隣国に於いての信用を失い、天下に国家の恥をさらすことを免れられない。
 「もし大いに先に懲らしめれば後に大いに慎む」である。ここに親交を深めて善くするための施策を行うこととする。
 以後、もし外国人に対して暴行毒害残害する者があるなら、その首謀者と助勢した者とを問わずに逮捕して誅殺して国法を正す。
 また邪説を唱えて徒党を結び人を集めて外国人を排斥し、もって友好を阻害する者はただちに処分する。
 決して容赦することはない。
 このため八道四都全国の軍民等に対して通達する。

 これで本当に善交が進むことになるのかどうか知らないが、このような文章を朝鮮政府が全国に掲示しただけでも前代未聞のことであった。

 

国王、日本兵借用を申し込む

 事変処理を終えて帰京する花房一行の乗る明治丸に便乗した謝罪使節である修信使朴泳孝らであるが、途中神戸で下船し、10月4日には京都、大阪を見学して神戸に戻っている。まあなんとものんびりした話であるが、あるいは当時京都に滞在していた井上馨外務卿に会いに行ったのかもしれない。その後10月10日に東京丸に乗って横浜に向かったが井上外務卿もそれに同船している。(朝鮮事変弁理始末稿本/8 帰朝復命)
 その時に正使の朴泳孝は井上馨に内々で協議したい事があるとして、それについての朝鮮国王の親書があると告げた。
 この事についての記録は明治15年朝鮮事変一連の公文書類では見当たらないのであるが、後の明治27年朝鮮内政改革に関する簿冊の中の、当時京城駐箚全権公使井上馨と朝鮮総理大臣金宏集との会談記録資料(明治27年11月2日付談話筆記)に、そのことに関する具体的な内容が井上によって述べられている。

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/10 第八号 〔総理大臣トノ対談〕」p2より、()は筆者)

 当時拙者は職、外務に長たりしかば、花房に訓令を与え、兵を率いて京城に来り、談判を為さしめ、漸く平和の局を結ぶことを得て、修信使朴泳孝、副使金晩植と共に帰朝の途に就けり。

 恰も当時拙者は神戸にありて帰京の徒次(明治15年10月10日)、右一行と横浜迄同船することとなれり。然るに船中に於て貴国の信使は、内々協議致度との事なりしも、拙者は職務に関する事柄ならば東京着の上に譲らんとせしも、強て一応聞き置き呉べしと望まれし其内話の要領は、

 第一 此回貴政府に賠償すべき五拾万円の賠償金は目下我国財政の窮乏に坐し、償還方困難なれば何卒特別の容赦ありたしと云うにあり。

 第二 朝鮮は自主独立の邦国に無相違、兎角清国の掣肘を受け、動もすれば独立の実を傷けんとす。左すれば其独立も有名無実に過ぎざれば、断然独立の実を明せんとせば兵力に頼らざるを得ず。然るに我兵力の用ゆるに足らざるは已に業に御承知の事なり。就ては貴国の力を借り、因て以て独立の名を全うしたしとの考より、此回使臣は大君主の親書を携え居るの儀なれば、可成我大君主の意趣を貫き其成効を見たし云々。

 第一はともかく、第二は極めて重要な事項である。
 「兎角清国の掣肘を受け、動もすれば独立の実を傷けんとす。左すれば其独立も有名無実」とは、おそらくは国王父たる大院君拉致のことも含めての高宗の感慨であろう。
 井上はそれらに対して以下のように答えたという。

(「同上」p3)

 第一に対して拙者の答えは、賠償金の事、貴国の内情其れ或は然らん。然れども、和約後墨跡未だ乾かざる短日間、早く已に之れを容赦すると云う如き事は出来得べからず。我政府も貴国の財政を暁らざるにあらざれば、追て時機を見計い、貴国に必要迫りて鉄道を設くるとか、電線を架するの折りもあるべし。此等の時に於て何とか貴国の便宜を考うべきに付、先ず姑く定約の侭履行すべし云々。

 第二、借兵の事は頗る大問題なれば、拙者は左の趣意を明にせざるを得ず。

  借兵とは単に兵力を借ると云うにあって、貴政府内部の改良は、貴政府自ら之に任ずると云うにあるか。
  又は兵力を借り、並に日本の力に依り、内部の改良をも為さんとするにあるか。

 若し前段の如くなりとせば、日本は貴重の租税を用て養い置ける兵隊を、貴国に容易に借し得らるべきあらず。
 後段の如くせば、貴国内政に改良の実を認むる迄は日本に於て干渉せざるべからず。果して然らば我兵力の為め清国の干渉は免がれ得べしとするも、従って又日本の忠告は又干渉に似て、却て怨を結ぶ如きことなきや。

 何は兎もあれ、苟も此事に関して親書を携え居るとあれば、拙者一了見にて之れが差図出来兼ぬる次第なれば、追て東京着の上、奉呈■の手続にも及ばるべし。其上皇帝陛下の御下問に依り我が内閣員にも熟議を凝らすべし、と答え置きたり。

 賠償金のことは、すでに述べたように5年返済から10年返済とし、更に後に40万円は寄贈という形で帳消しにしている。つまりは朝鮮国王の要請を受け入れ、まさに時機を見計らって行うとの言葉どおりになっている。

 第二の兵を借りるということであるが、兵とは言わば国の生命と財産に関わる貴重の存在であって、容易に貸し借りできるようなものではない。まして朝鮮内政にまで関わる地位に置かれることになるなら、清国の一層の干渉は勿論、衝突すら免れ難いことになりかねない。

 しかし井上は、後にそれに応じる形で内決したことを以下のように述べている。

(「同上」p4より、()は筆者)

 右、親書は国書と共に程なく使臣謁見の次、奉呈せられ、果して我皇帝陛下は閣議に付せらるゝに至れり。其親書は使臣の言に同一の事を載せたるもの、今尚我外務省に保存せられ、而して閣議は愈之に応ずべきを以て答ゆべきに内決し、之を我陛下に奉答せり。又我陛下より御答の御親書も貴国王宮歟(か)、何れに歟(か)、存在する筈。

 ただし、ここで井上は「其親書は使臣の言に同一の事を載せたるもの、今尚我外務省に保存せられ」と言っているが、この対談後の11月22日付外務省からの回答では、「親書は外務省に保存せらるとあれども本省には、さる親書見当たらず」とある(朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/11 〔総理大臣トノ対談中朴泳孝ノ帝国兵力備用依頼ニ関スル親書ニ付回答〕)。外務省にはないと。しかし話が極めて具体的なので依頼そのものはあったと思われる。それは親書によるものなのか或いは口頭によるものだったかは分からないが。
 どちらにしろ要するに、朝鮮国王と日本政府は借兵のことで何等かの取り決めをした可能性が極めて高いと。
 筆者はこの資料で漸く合点した。すなわち次の朝鮮事変つまりは明治17年の竹添進一郎と公使館護衛兵1個中隊の行動にである。
 キーワードは、朝鮮国王が竹添公使に宛てた親書の4文字、「日使来衛」である。

 このことについては「日清戦争前夜の日本と朝鮮(10)」の「「日使来衛」の国王親書について」で少し触れてみたい。

 

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