明治開化期の日本と朝鮮(23)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

支那兵が朝鮮で我が物顔に振舞っている姿を想像させる。明治20年(1887)4月発行 「元山での支那兵」

 

朝鮮の全権大臣来る

 さて談判が始まったのはこの日8月28日の夜の11時ごろであろうか。近藤書記官陪席、浅山顕蔵通訳、石幡真筆記。

(「花房公使談判筆記」より現代語に、括弧は筆者。)

花房「京城出立の際に国王に差し出した一書は国王は御覧なされたか。」

「すでに御覧なされて愕然とし給い、すなわち我らを遣わされたり。」

花房「拙者、出立後に領議政に2度の書簡を往復した。閣下らはこれをご承知あるか。」

「拙者、これを見てはいないが承知はしている。我ら大臣を差し遣られたのも主上の特命をもってのことなり。御承知ありたい。」

花房「国王には既に上奏を御覧なされて特命をもって大臣を派遣されたことなら、閣下らはこの度の事件についてかねてから我が方から要求せし八箇条件の決答を議定する全権を有されるか。」

「それらのことは大抵承知いたせり。追々御相談も申すべきことである。」

花房「それでは公使館は他とは異なることも御承知あることであろう。公使は国に代わって事を執る者である。これに対して陵辱を与えたのは即ち日本国に対して陵辱を与えたも同じことである。」

「もとより我々も承知している。恐縮恐縮。」

花房「もともと今度の乱暴も一人一個の乱暴にあらず、また略奪をほしいままにする盗賊の所為にもあらず、すなわち政治上の変動から生じた乱暴であることは明白である。」

「それらのことも承知いたせり。」

花房「追々申し述べたる八箇条の行否に付き、今日まで停船したのは実に和交を維持する精神からこの猶予を貸したのも御承知のことであろう。」

「この節の事件については主上も頗る心配せられ、且つ貴官が京城を出られたについては実に心痛あらせられ、速やかに再来あらんことを望まれるのみである。八箇条のことはまとめては申し上げ難い。一箇条毎に御相談申すべし。」

花房「毎箇条について御相談も申すべきであるが先ず問う。貴方には八箇条の内で行いたくない箇条がありやいかに。今般の八箇条は皆貴方では必ず行われるべきものと信ずる。即ち乱民を処分するを拒まれるなら、乱民を庇護する政府には交際をし難いと言うが如し。箇条毎に御相談も申すべきであるが大体は必ず御同意なされるべきと信ずる。」

「私の考えに少し違いがある。この度軍艦を率いて渡来せられたのはただ両国の為だけでなくアジアのために和好を維持する思し召しであるを知る。なおこの上に仇をなす者あれば余儀無きことながら、今夜我々が罷り出たのは、すでに和好は結んだものと思し召し下され。八箇条の行否にかかわらず御相談申したい。」

花房「もとより箇条毎に御相談申すべきなれども大体に御異存ある趣ならば御相談は出来ない。」

「箇条毎に御相談申したい積りで、1条でも除いて議すべしという意味ではない。」

花房「承知した。」

第1条 (15日以内の犯人逮捕処分)はもとより貴方の言を待たぬことなり。しかし御承知の通り我が政府も害を受けた。人民一般の義ゆえに如何ともし難い。今これを懲罰せんとするなら再び変動を生じる恐れがある。日を限ってはとても行い難いのでそう御承知ありたい。もしこの処分あるを人民に示す時は変動再発の恐れがある。ただその時期を緩くして全きを得ることを望む。
  第2条 (埋葬と葬儀)は意義なし。
  第3条 (5万円の被害者補償)はもとより当然のことである。但し我が国は財力に乏しいので緩々施行したい。
  第4条 (損害と出兵への賠償)はもとより当然出兵費賠償については申し上げるべきことあり。今般貴下が引率されたのは護衛の為であって、我が国に於ても深く喜ぶところである。しかしその費用の賠償とあっては甚だ不穏且つ恥ずべきことにつき、出兵賠償などの字を除き前条と合わせて前条の金額をいくらか増額して済ませたい。
  第5条 (各開港場の遊歩規定百里)は百里にするもかねてから御承知の通り、愚衆の民なのでどのような変事を生じるかも測り難い。当分の間は20里又は30里として追々人民が成熟するを待って広げたい。楊花鎮のことは、仁川開港のことさえ人心穏やかならず。今我が政府は専ら人心を鎮安せんと謀っている時である。この意味は推察ありたい。大丘と咸興も同様に再びいかなる変事が生ずるも計り難い。すなわち即答し難い。
  第6条 (公使領事眷属の遊行)の公使領事が通行されるは当然の義と存ずる。しかし一言申し上げたい。通行の時はあらかじめ政府が知ってそれぞれに布達しての後に御通行なられたい。盗賊やその外の恐れがあればなり。
  第7条 (公使館護衛1大隊)は、この節の変事に付き護衛のためにされるは御尤もの義なれども、他国の兵を置くは宜しからずと考える。この節、清国の兵も来ており、もっとも多くは京城外に在るが、両国の勢い多数入り交じる時はいかなる変事を発生するも測り難い。愚見をもってすれば、およそ百名ばかり兵を公使館に置かれてしかるべきと思う。もっとも第1条の兇徒を処分した後はそれにも及ばないと思う。護衛の字は我が政府の恥じるところである。実際には止むを得ないことではあるが、約束文中に入れるのは甚だ厭うところである。願わくばこの箇条を省かれんことを。
  第8条 (国書をもって謝罪の特使派遣)はもとより当然のことで速やかに使いを派して謝罪するべしといえども、ここに願いたいことがある。貴国もまた特に国書の返簡を遣わされるか、又は公使駐在なれば公使まで便宜ある方法で送られて公使から奉呈なられるかの、国書往復の体を立てられれば穏当であると存ずる。」

花房「お話は承った。大体は御同意と承知したが箇条の内で意見が異なるものがあり、一つ一つこれを説明しないわけにはいかない。」

「すでに大体について決答を申し上げた上は、今晩はお暇申し上げたい。」

花房「ご老体お気の毒ながら(この年李裕元68才、金弘集40才。なお花房も40才)、この件は国家人民の安危に関わるところなれば、つとめて拙者の申すところをお聞きあるべし。第1条は、15日以内に出来ずと承ったが、それならばいかなる手段をもってこれを挙行されるのか。これを内密にしてそのままに捨て置くなら即ちこれを挙行しないとの同じことである。」

「先ほど日限のことを申さなかった。15日内には出来ないが遠からぬ内に必ず行うべし。敢えて15日以内に行えないということではない。再乱を恐れるゆえである。」

花房「兇徒の姓名、主だった者、関与した党など大抵は分かってあるか。」

「その事に当惑している。」

花房「主謀者は分からないと言われるか。」

「全く分からず。しかし近日のうちに取り調べ得るに至るべし。」

花房「今度の事変は政治目的から生じたことである。それなのにその主謀者の姓名を分からないと言われるぐらいならば、とてもこれを処分することも出来まい。もしこれが出来ないならその責任は政府に帰して、罪は政府にあると言わざるを得ない。」

「今は目的が立たないとは言え、遠くないうちに処分すべし。」

花房「目的が無いなら漠然として両国の規約とすることも出来ない。そのようなことなら罪人の取調べに我が国から取り調べの役人を出し、共に究明に関わるべしと言うほかない。この箇条の目的が立たないままに、第4箇条の賠償の額を省かんとするのも承知し難い。この目的が立たないならこの上にも我が国は幾千の兵力を用いるかも測り難い。第五箇条の遊歩百里のことも今年はこれだけ、明年はこれだけと、次第に広げることにすべし。人民の交際はこの規定に束縛されるために常に問題が起きている。楊花鎮、咸興、大丘のことも同様で、政府からその方向を示してそれに従わせるようにしないなら人民も開化に目覚める時がない。」

「もとより当然のことであるが、咸興、大丘の行商などのことは今の民心に於てどうにも即答申し上げ難いことである。咸興は別に他所と違うほどの市場もなく、遠く行商する益もないだろうし、大丘の市場は頗る雑踏して我が国の人間も年々怪我をする者が多い。もし日本人が行ったなら又何の事件があろうかも知り難い。」

花房「これは交わりを益々厚くするとの意を衆に示し、その方向を定めさせるためにあるのである。必ずしも即時挙行するということではない。多年の後に挙行するを約束するでもよい。容易なことまで約束が出来ないと言うなら交際を厚くしたいという証がないと言える。現に日本公使館への襲撃も軍民がその方向を誤れるによるものである。第7箇条は、貴国の兵がよく軍令を守り任務に堪えたというなら、敢えて我が国からこれをするには及ばない。しかし先般の通り、兵隊が乱民となり、政府がこれを制することが出来ない時は、少人数では守衛をし難い。必ず相当の人数を備えざるを得ない。もっとも、この後に貴国の兵が整備されるに至ったならば、これを減じ又廃するにも至るべし。」

「もし再乱の恐れがあれば護衛の多少は論じない。我が方から要請する位であるが、その恐れはないと明言した上は百名ばかりで事足ると存ずる。」

花房「先ほど乱民を未だ処分しないのはその再乱を恐れるためであると言われたではないか。この際に当たって相当の数を備えざるを得ないことは論をまたないことである。しかしこれは元来貴国の不行き届きから生じたことであり、その費用は貴国から弁じてもよいぐらいのことである。それなのにこの費用のことを記してないことからも我が意の止むを得ずに出ることを承知あるべし。第8箇条はすべてが合意した後の事であるべし。貴国書に対して我が国からも国書を贈呈されるであろう。先ほど、国王から再入京のことを仰せられたが、謝するに余りあり。しかれども、この件が皆満足を得ないなら入京をしても益なし。今日、ご老体の貴下を引き留めて徹夜の談をするのも、昨日申し上げたように停船2日の期限内にあるからである。今日に決答を得て満足すれば可なり。満足に至らないなら駐留するも益なし。今晩のお話の如きものは全く我が国に満足を与えるものに非ず。」

「貴下の再来は和好を維持する為と既にその命を聞いた。僕らのここに来たのもまたこれを保全せんが為である。八個条の決答もこれを拒むというわけではない。時勢と情実とをもって細目の変通を望むにあるのみ。貴下の言の如くでは1字1点を改めれば和議が整わないのに似たり。和好を保つ意がないことになるのではないか。」

花房「そうではない。先ほどから拙者が申しているのを皆了解してあるのか。多少の変通の道も申している。」

「貴意の所在はたいてい承知した。今夜はひとまず別れを告げて明日に再開してなお相談したい。閣下にはもし仁川に来られれば幸いなり。」

花房「すでに我が意を了解の上は副官(金宏集)がここに止まって双方協議の書面を作り双方調印される義なれば仁川に参り調印を行うべし。」

「自分も少し病気につき(多分船酔いであろう。)しばし陸で休憩し、明朝再び参上して協議いたしたい。」

花房「承知した。」

 対談が終わったのは朝の3時であった。

 ここで、花房「それでは公使館は他とは異なることも御承知あることであろう。公使は国に代わって事を執る者である。これに対して陵辱を与えたのは即ち日本国に対して陵辱を与えたも同じことである。」 彼「もとより我々も承知している。恐縮恐縮。」
とあるが、承知しているにも関わらず、これまで朝鮮政府の応対が不誠実であったのはひとえに大院君の指示があったからであろう。

 「朝鮮政府は公使館襲撃のことをそう重大な事とは見ていなかったのではないか」と言う人があるが、大院君という重石が取れた後の対応が一変していることからも、またとかく怠慢な国柄でこんな夜中に談判に出てくるということからも事の重大さは充分認識していたと思われる。

 もっとも、この後も大院君のことを朝鮮政府側から触れることはなかった。首謀者が大院君であることも分かっていたろうが、なんと言っても現国王の実父でもあり、内政のお粗末さを隠したい朝鮮政府のプライドもあったろう。花房もまた大院君が首謀者であることの明らかな証拠を得ていたわけでもなく、それに当人は清国に連行されてしまったことからも、大院君追及のことには触れずに、実際に日本人を殺害した実行犯を見つけて処分することを以って犯人処理の解決とすることを目標としていた。

 ところで、談判中の言として、「私の考えに少し違いがある。この度軍艦を率いて渡来せられたのはただ両国の為だけでなくアジアのために和好を維持する思し召しであるを知る。なおこの上に仇をなす者あれば余儀無きことながら、今夜我々が罷り出たのは、すでに和好は結んだものと思し召し下され。八箇条の行否にかかわらず御相談申したい。」
というのは興味深い。おそらく金宏集の発言と思われるが、朝鮮という国がアジアでどういうの立場にあるかを理解してのものであろう。あるいは先に近藤書記官が話したのかもしれない。日本が朝鮮に求めていることはまさしく朝鮮国が国際情勢(せめてアジアだけでも)をよく見て改革を行い文明開化を成し遂げて富国強兵の国となることに他ならないのである。

要求の確定と承諾

 翌日29日には金剛艦に於て談判が行われた。なお、金宏集から全権大臣李裕元が病気のため(船酔いであろうか。この時に仮病とは考えにくい。)に来船することが出来ないことを謝した。
 ところで、八箇条の要求書は前日の話し合いの中で内容が若干変更されている。すなわち、第1箇条の15日以内に犯人達を捕らえて処分すべしに対して、犯人の見当もついてない、と朝鮮側が答えたことに対し、花房「目的が無いなら漠然として両国の規約とすることも出来ない。そのようなことなら罪人の取調べに我が国から取り調べの役人を出し、共に究明に関わるべしと言うほかない。・・・」と言ったように、すなわち「日本国から人間を派遣して共に究明し、もし期日内に(朝鮮政府が)捕獲出来なかった場合は日本国が処弁する。」という文章が加わり、また第4箇条の賠償も、50万円という具体的な金額が記載された。

(「花房公使談判筆記」より現代語に、括弧は筆者。)

花房「昨夜、李大臣と話した箇条の大体においては御異存ないと思われるが、もしそうでないなら副官と話しても益ないことを恐れるが、如何に。」

「とくと長官と相談してきたので詳しく申し述べたい。」

花房「大院君は清国に行かれたと聞いたが本当であるか。(その後27日に丁汝昌が天津に送ったらしいことまでは花房は情報を得ていた。実際は30日であったが。)」

「清国から大院君に命令があって、来るべし、とのことで急に出発なされた。その話はどこから聞かれたのか。」

花房「清艦およびアメリカの軍艦から承った。」(これは花房の嘘である。もっとも正直に言うわけにはいくまい。なおここの問答だけは後に記録から削除するよう指示されている。)

花房「第1条はどうなされるのか承りたい。」

「15日の字を『速やかに』の字に替え、「共に究明し、もし期日内に・・・」の文章を省きたい。速やかに我が政府から究明する意味であればこそ種々相談もするが唯その日限を緩くされんことを願う。」

花房「『速』の字は具体的な日限もないので承認し難い。事後からすでに30日も空しく過ぎた。たとえ等閑でなくとも、我が国民の怒りを解いて憤りを治めるには貴政府は是非このようにせねば誠意あるとは言えない。」

「我が主上は特に意を両国交際に注がれ益々親睦を重ねて無事を希望しておられるので、その意を受けて熟議にいたるようにしたい。願わくばこの15日の期を緩くして1、2ヶ月として末の文章は削除したい。」

花房「この事はもともと必要重大の件であるからこそ文字に表してこうも明白に掲げたのである。貴政府が(犯人処分を)必ず出来ないというなら、我が国が別に自ら処するものである。しかしながらその意は平和を欲すればこそ先ずこれだけを貴政府に望んだのである。それなのにこれを拒んで協力されないなら止むを得ずに我が政府は我が政府で為すところを成さんのみ。(それでは)両国の不幸もまた甚だしくはないか。もし別に深い事情があってすぐに行うことが出来ないとあらば、少しく考えてみることもあろうが。しかし既に一ヶ月を空しく過ごしその上なお15日の猶予を与えたのに、更に延引を望まれるのは甚だ理解し難い。思うに、或いは我が公使館を焼き我が国の人を殺した罪人と、貴政府に対して乱暴をした罪人とを混同して日時の心配があるのであろう。しかしながら貴国の人と関わる罪人はたとえ貴政府の意のままにしても、公使館を襲い日本人を殺した罪人は我が国からその処分を促すのに急にならないわけにはいかない。ただ更に5日間を緩くして15日を20日とするべし。」

(花房が、乱の首謀者ではなく日本人殺害の実行犯を検挙することを求めていることは明らかであろう。)

「この20日の期はなにとぞ我が主上に復命した日から起算したい。ゆえに明後日から始まるべし。」

花房「承知した。他の箇条は如何に。一時の施行に留まるものもあり、永久に及ぶものもある。ゆえにこれを分別して締約するを要す。だいたい異議ないことにおいては更に分別して条毎に記すべし。」

「5日の延期の許諾を受けるといえども自分は副官なのでこれを専決するのは適当でない。一応大臣に報じて更に議決をするを要する。」

花房「このように遅きに留まるなら相談も無駄なことである。自分が自ら大臣の宿所に行って議すべし。」

「しからば御出張を願う。なお申したいことがある。乱民のために護衛兵を率いてこられたのは厚意であり、その事のために賠償の談あるのは甚だその情に反すると思う。且つ又50万円の額は我が国中から募っても有無を知らないほどである。国力の微力であることを実に恥じるが敢えて減額を願う。」

花房「もし貴政府において取り締まりが行き届いていたら我が政府もこの金額を費やさなかっただろう。しかしながらこの暴挙あらしめたのはもともと貴国の怠りからであるから貴国はその費額を弁償すべき義務がある。且つまた貴国は無力であるとのことは我が国もこれを知らないわけではない。ただし国にその力が無いのではない。人がそのことを勉めないことによる。貴国は近年砂金を精製する器械を購入したのに未だにこれを用いずに空しく放置していると聞く。貴国がもし鋭意採掘に従事したら以って目前の急を救うべきの道あるべし。またその意向なら我が政府もまた特に御世話するであろう。」

「我が政府から等閑に付するわけではないが、50万円は大金であり国中に有無も測り難い。不承知不同意というわけではないが、なにぶん困却の至りである。とにかく大臣に一応話すべし。また箇条中の目に付く賠償のなどの文字は御削除ありたし。」

花房「もとより目に付く文字を使ったのではない。このようなことはどのようにも御相談の上に改めることあるべし。」

「(公使館)駐留兵は百名ぐらいになしたい。もし実際に不足なら2百名とも致したい。大隊は多過ぎであり、若干とのみあってはその多少も知り難く困っている。」

(前後推察するに、花房はここで「大隊」の代わりに「若干」という言葉に変えることを提案し、それを使うことにしたようである。)

花房「護衛兵の多寡は貴国今後の形勢如何によることであり、あらかじめに定めるを要しない。今後安穏ならば減じ騒擾ならば増加すべし。好んですることではない。実に止むを得ないことである。」

 右にて終わり、正使李裕元に面会のため伴って上陸する。

 

 同日29日、花房公使一行は花島別将に赴き、花山政堂で全権大臣李裕元と談判した。近藤、金が陪席、通訳浅山、筆記石幡。

「第1箇条のことで先刻に副官から請うた通りに延日ありたい。」

花房「先刻、副官から委細既に談判したこと故に御聞き取りあって再びはここで繰り返さないようにしたい。」

(ここで金宏集が李大臣に説明をしたと思われる。)

「副官から談判があった通りに期限は20日とし、続く下の文章は御除きありたい。もはやこのようなことは他日に復たあるとも思われない。」

花房「貴政府は既に30日をいたずらに過ごされた。この後もし20日間に処分すべしと言われるも、これは必ず出来るとは言い難い。故にこの末文は削ることは出来ない。このまま協議するのを望む。文字を修正することは異議は無い。」

 これに於いて第1箇条の15日を20日と改め、且つ但し書きの文字を改める。(改める以前の文章は分からない。)

「第3箇条の5万円は大金ということではないが、我が国は貧国で一時にこれを弁償することは容易でない。1年内に幾度か納めるようにしたい。」

花房「2万円を即納し、4ヵ月後に1万、再び4ヵ月後に2万とすれば如何か。」

「その通りにすべし。但し文章には載せずに唯両方の心中に約束することとするべし。」

花房「それならば別に書簡にても取り遣わすべし。」

「承諾した。第4箇条の50万円は何分にも減額あられることを請う。賠償のことは、戦屈する者は勝者のために戦費を償うに在り、といえども戦者なお且つ賠償に議及ばざるの例なきにあらず、と聞く。貴国の今回の出兵は公使が固く和好の意をもって来るのを護衛するに止まり、未だ敢えて戦いを交えるに至らずに円満に帰せり。事理から言えば賠償の議に及ばないことに似たり。ましてこのような巨額は恐らくは国力の堪えるところではない。ただ望むのは減額の議を再考されんことを。」

花房「賠償のことは必ずしも一定の例によるものではない。今回の暴挙を貴国は予防出来なかったのみならず、後に事変を報じるに至っても一言の謝罪の意もなし。公使が兵を率いて来るのは実に貴国の責に当たらない事ではない。既にその責に当たる額の多少を論じるのは即ち諾否を論じているのである。(それならば)この議は承諾するか否かの談判に於いて必ずするものである。(賠償の)多寡を論ずるなかれ。しかもこの事は私事ではないので私がこれを増減することは出来ない。また貴国は常に貧国と称するが堂々たる一国の政府であって50万円を5年に割れば弁償し難い額ではない。それに先ほども副官に話したように、鉱山を開いて器械を使用し大いに資源の利益を開くことに力を入れれば貨財湧き出で、おのずからその道なきを煩う事はない。器械を使用して鉱元を検出するなどのことについてはかつてお話したように我が国から御世話いたすべし。その時にはおのずから余裕が生まれるべし。」

「鉱山、器械のことは皆意が無いわけではないが、現今に挙行する方法なく、何分この巨額は堪え難いところなのでただ幾分かの減額を乞う。」

 この時金宏集から、「願わくば一覧を乞う」と言って一書を出す。賠償を徴しなかった近例としてロシア黒海の役(クリミア戦争・パリ条約のことか。)清国雲南(?)の事を言う。
 (花房は)咸興、大丘の行商のこと、鉱山開発の事、電線架設の事などを日本に託することを約束するなら、まげて減額の計をすることを欲するの意を示した。

(李は)咸興、大丘の行商は行えないことの事情を述べ、開鉱山、架電線などの事は更に議すべきであるが、今はこれを約束は出来ないと言い、むしろ全額を償うことを約束することを可とするの意を述べる。

 これに於て終に50万円をもって賠償の額と議定する。ただしその文字は朝鮮国から補填すると改め、賠償の文字を除く。

「第五箇条の、兵数若干とのみあってその数が明らかでないので安心できないところがある。あらかじめ定数を示されて百名或いは2百名としたい。」

花房「今の勢いをもってすれば1大隊を置かざるを得ない。しかし貴国の今後の形勢によってはその多寡は臨時に文章を修正するわけにはいかない。故にあらかじめ定めないことを便とする。且つ公使館は(その国から)見て国の一部分とするのであるから極めて重んじないわけにいかない。あまねく国の人々にそれを示すべし。故にこの箇条を加えて公使館を軽視するべからずを示すのである。」

 その他に異議なし。故に浄書して明日に会同調印することを約束して別れを告げて帰る。

賠償金などのその後

 ところで賠償金50万円はどのような根拠に基づいて算出された金額であろうか。それを示す資料は見つからない。この時点では凡その金額として出されたものであろうか。それもどうやら本当に出兵経費を負担させるものではなくて、単なる懲罰の意味がこめられているように思える。
 実際の出兵費用の予算は9月12日に提出され、その金額は84万千百4円であった。(朝鮮国事変ニ係ル諸費別途下付ノ件)
 そして、実際の経費である決算は81万2千6百20円43銭であった。 (陸軍省朝鮮事件費決等帳整理方延期・二条)

 いずれも50万円をはるかに超える金額である。当初から少なめに賠償額を算出した可能性があるだろう。
 更に後に5ヶ年返済を10ヶ年返済に変更し、その上に7万5千円を領収した時点で、朝鮮の貧困の国情を考慮して明治18年度からの返済すなわち残り40万円を朝鮮政府に文明開化促進の購入費などに当てるようにと、寄贈という形で帳消しにすることを決定している。明治17年11月のことであった。
(外務省稟告朝鮮国填補金返還処分)

 また、公使館護衛のための駐屯部隊も当初は1大隊だったが、後に2中隊に減じ、更に明治16年7月には1中隊に減らしている。(「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通」「外務省稟議朝鮮国公使館護兵中一中隊引揚方」)

 「日本は賠償金を取り軍隊を駐屯させることに成功した」などとWebにも流して日本が搾取者・侵略者であるという汚名を着せたくてたまらない人々の評価と違って、事実はこのようなものであった。

条約の締結なる

 かくて明治15年8月30日、済物浦仮屋において、弁理公使花房義質、朝鮮全権大臣李裕元、副官金宏集、近藤書記官、従事除某、差備官玄昔運ら陪席中に条約締結する。後に済物浦条約と称するようになるものである。

 時候の挨拶終わり双方互いに条約書を出し照覧して差異無いことを確認しツ印して交換す。

花房「両国の和好全く整い慶幸これに過ぎず。これよりは旧に倍して益々親睦ならんことを希望する。」

「我が国の所望もまたそうである。仰ぐ、公使の斡旋を。」

花房「拙者、近日に貴京城で再び常務に就くべきに付き、公館の設けを速やかに取り計らいありたい。隋兵も多いので先ず下都監を駐留所とする方が都合よいと存ずる。」

「下都監には今は清兵が止宿いたしているので俄かに明渡しいたし難い。これらは全て政府に申し立て相応の場所を設けて更に申し上げたい。」

花房「それでは急いで設けられて当方へご通知あるべし」

「承知した。」

花房「堀本以下の死屍は済物浦に取りまとめて埋葬いたすべきつもりである。これについては貴政府からも相当の官員を出して埋葬式にも参加し、条約書どおりに手厚く葬儀することの趣旨に合うようにありたい。その他、人夫を出すこと並びに埋葬地所等のことは地方官に申し付けられて、当方からの打ち合わせに従い不都合の無い様にありたいと思う。」

「いつの日にその式を行われるか。明日帰京してそのことを政府に申し入れて後に官員を派出したいので両3日の猶予無くては行き届かないと思う。人夫地所のことなどは地方官に申し付ける。」

花房「それならば来月3日に埋葬式を行いたい。」

「承知いたした。」

花房「ついでに申す。京城にて横死した者はいずれも死屍を布で包み、かなりの御取り扱いがあったようだが、仁川の分は多く荒縄をもって死体を縛したまま棺に打ち込んでいる。これらはおそらく取り扱った役人の不心得から起こることで終に貴政府の趣意をも失うに至った。仁川でよく取り調べて相応の懲戒があるべきである。」

「今夜仁川で篤と取り調べ申すべし。誠に驚き恥じ入るに堪えない。」

 これにて終わる。

 花房が始めて死者の状況に触れたのは対談の最後であった。彼のどこまでも冷静公正な人柄が伺われる。

 しかし実は京城で戦死した者が布で包んであったのは、べつに丁寧な取り扱いをしたからという訳ではない。
 布にでも包まねば一個の遺体として扱えなかったからである。


京城での日本人死者の検死
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)

 京城での日本人死者は朝鮮政府側もまずその捜索から日時を要した。例えばある1人の場合、ばらばらに切断されて放置してあったものをある朝鮮人が誰かから命じられたのであろうか、それを集めて菰に包んでどこかに運び去った、という状態のを捜索せねばならなかったからである。(在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス)

(以下「朝鮮事変弁理始末/1 死者礼葬」より)
 
更に朝鮮政府の官員が、集めた遺骸を埋葬するために仁川に運搬中に軍艦の砲声を聞いて恐怖し、あわてて途中の草芝鎮の小島に埋めてしまったために更に検死の日が遅れることとなった。
 そのため金剛艦から小蒸気船を発して草芝鎮に向かったのは8月28日であった。朝鮮側官員の立ち会う中、検死をしたのは外務二等警部岡兵一、三等巡査横山貞夫など。2人は事変時に花房公使と行動を共にした者である。横山は負傷したがそのまま職務に服していた。

 なお岡警部の報告には、仁川で検死した大庭永成のような個人的感想は記されていない。しかしなんと言っても死者の凡そ半分は自分の直属の部下である。個人的な思いがない筈はない。それとも文字通り言葉もなかったのであろうか。

 検死は遺骸の損壊状態と腐敗の為に極めて困難を要した。

 その状況というものは、
「砕けたる骨に付着せる衣類のままを白布を以って巻きつけたり。頭骨皆砕けて髪は胸の辺りに散乱す。」「全身分明せず」「以下全て同様である」「頭骨等砕けたるを以って尋常の死体ならずと認定する。」
という有様であった。

 結局は生死不明者7人の内、1人はついに相当する遺骸は見出しえなかった。

 個人が特定できたのは1人であり所持品からである。

 日本人と特定したのは付着する衣類の一部が日本特有のものであったからである。

 特定できる衣類の一部などが無い者も日本人と判断したのは、全員の遺体損壊の状況がすべて共通していたからである。
 即ち「死体六個の内、其の二は遂に証拠ものと為すべきものなしと雖も、頭部及び其の他の骨惨酷に砕けたるを以って見れば決して他の死骨と疑いを起こすに及ばず。」とある通りである。

 真に凄惨極まる状況の報告であるが、なぜここまで惨酷な状態にせねばならないのだろうかと筆者は思わざるを得ない。


京城の検死体から伺える朝鮮文化

 それで敢えて筆者はこのようなタイトルをつけた。

 人をどのようにして死に至らしめ、またその時に肉体をどのように傷つけるか。そのことから加害者と被害者の関係が見えてくるのは司法捜査上の常識であろう。
 「刃物で数10回めった刺しにして」ということが殺人事件にはしばしば見られるが、その場合まず全てが「個人的な怨恨」による犯行と言われ、捜査において顔見知りの者によるとの判断が優先される。

 しかし、不特定多数による殺人並びに死体損壊行為というものがあった場合は、明らかに個人の事情によるものというよりは集団としての社会的文化的要因が関わっていると判断するのが相当であろう。もちろん損壊そのものは例えば砲弾・爆弾などによっても同様な状況も生まれよう。しかし実際に人の手によって、しかもそれがめった刺しなどというものどころか、全身の骨を砕き、最も硬度の高い頭骨も粉砕し、さらに切断してばらばらの肉片とするような、ここまで執拗な殺人と同時の損壊行為に至るような事例は、日本では筆者の無知ゆえか全く聞いたことの無い話である。「手足を切る、首をはねる」などという言葉は聞いても、わざわざ頭骨などを砕いたということは知らない。それをするには大きな石などでもって執拗に損壊する行為を繰り返さねばならないと想像する。しかも個人的な怨恨があるわけでもない、見知らぬ人間に対して集団で行う行為である。

 もし、「それほどに日本人を恨んでいたのだ」とする説があるとするなら、それは奇妙な説である。直接手を下した損壊行為の実行犯が後に朝鮮政府の手によって検挙されたが、その1人は麺類を商う者であった。また1人は酒売り業の者であった。いったい彼らが何の体験を以ってそのような惨酷行為に至る「恨」を抱くに至ろうか。(「朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」p24)

 しかもその行為がたまたま1人に対してだけあった訳ではなく、被害者全員に対してそうであったということは、もはや朝鮮国にはそのような文化習慣あるいは人々の性情というものがあると断定せざるを得ないであろう。

 さて、このようなことが新聞などに掲載されて日本国民が知ることとなったかどうかは筆者は知らない。しかし、少なくとも日本外務省職員始め政府関係者、また軍部・兵士らの知ることとはなったろうと考えられる。

 明治維新から15年、日朝修好条規締結から6年、朝鮮という国は中に入って知れば知るほど日本人にとって驚くべき腐敗と野蛮が横行する国であることが明らかになってきた。人々の間でトラブルが起こった時に、傷つけられ或いは殺されたのは常に日本人が先であった。日本政府は朝鮮がこのような国情であるのは、貧困であること、日本人をよく知らないこと、近代化に向かう過度期であること、からであると見て様々な対応をしてきたのだが、この国と交際することは実に骨の折れることであった。

 花房義質が最初に朝鮮に関わったのは明治5年である。この温厚で冷静且つ常に公人として行動する外交官は、事変の一連の問題処理が終わった後に駐露公使としてペテルブルクに赴任する。代わって駐京城弁理公使となったのは外務大書記官竹添進一郎であった。(朝鮮国在留弁理公使竹添進一郎外一名新任ニ対スル国書下付ノ件)
 竹添はそれまで在清国天津領事であったが、政府が彼を選任したのはこの後清国が朝鮮の内政に深く干渉してくるだろう事を予想してのことと思われる。清人の性情をよく知るこの人物は、花房のような温厚な交際路線はとらなかった。あの季鴻章が敬服するほどの優れた漢詩文もものするこの人は、対談などに於いても努めて感情を面に表し、時に面詰もし、激しく渡り合うことも辞さなかった。(竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通)
 彼が今度の事変を通して朝鮮の国情をよく知ったことも少なからず影響していたはずである。

 

英国艦隊が元山津に来港

 元山津碇泊中の軍艦磐城の艦長から8月28日付けで次のような報告がなされている。

(「花房公使談判筆記」p30の「朝鮮元山津景況報告」より現代語、文字強調は筆者。)

 近頃は元山津の人心静まり追々韓商が居留地に来、貿易は僅かずつ旧に復していますが、漢城の模様が分からないので日本人居留民は不安を抱き内地から商品を取り寄せるまでには至っていません。残っている物で交易をしているようです。
 8月21日から27日まで英国艦隊10隻が来泊して湾内は頗る賑やかであり、朝鮮人の出入りも多く、白昼居留地内は英国人が絶えず出入りして、それが為か今月上旬頃には元山津近傍の7ヶ村の人民が居留地を襲うとの計画を立てているとの話がありましたが、朝鮮人もその意を挫かれたのか、近頃はそのような噂も全く無くなったようです。
 当今の模様では、貿易も幾分か減じたかどうか測り難いですが日を待たず復旧すると考えます。右当今の元山津の景況を報告します。
      朝鮮国元山津停泊
       磐城艦長
        海軍少佐青木住眞
明治十五年八月廿八日

  中艦隊司令官
   海軍少将仁礼景範殿

 当然日本政府には英国公使から事前に連絡があっていたろうし、またそれを承知していることを窺わせる報告であるが、その該当資料は見つからない。そのため英国艦隊の意図するところは想像するしかないが、おそらくはロシアを牽制するためであろう。万が一日朝開戦となった時は、ロシアがかねてから睨んでいた元山などの湾岸地帯を占拠しようとすることは十分考えられるからである。日本もまた最も警戒せねばならないのはロシアの動向であることを自覚していたから、ある意味日英申し合わせての行動であった可能性もある。
 なお、花房公使一行を長崎まで送り届けたフライングフィッシュ号であるが、事変処理後、日本政府はこの英国艦に対して最大の感謝を表明している。(朝鮮事変弁理始末/4 致謝英艦)

 

 

このページのまとめ

・日本の要求書を巡って対立したのは、次のものである。

・第1箇条 15日以内に犯人検挙と処分。
朝鮮・・犯人を追及すればいつまた動乱が起こるか分からず、まして日時期限を設けるのは。15日を「遠からず」としたい。
日本・・既に30日が空しく過ぎている。朝鮮政府が犯人逮捕は出来ないというなら我が国がそのことをする他はない。また、15日を20日とする。
結果・・20日以内に犯人検挙、もしそれが出来ないなら日本が処理する。

・第4箇条 公使館損害と出兵費用の賠償50万円。
朝鮮・・兵を率いられたのは喜ばしいが、その費用を求めるのは意外である。また金額が多すぎる。減額を望む。
日本・・そちらが予防も謝罪もしなかった不行き届きからこの事態に至ったのである。そちらが負担せねばならない。それを減額を言うは要求そのものを拒否することである。それならば要求諾否の談判に戻らねばならない。
結果・・朝鮮側受け入れる。もっとも明治17年に日本政府は、40万円を文明開化のために使うようにと、寄贈という形で帳消しにしている。

・第7箇条 公使館護衛のための日本軍1大隊の駐屯と若干名の表現。
朝鮮・・再び乱がある恐れはないと明言する。また若干名ではその数が具体的でないので不安である。故に百人か2百人にしてほしい。
日本・・そちらが乱民を処分しないのはその再乱を恐れるためであると言ったではないか。1大隊は必要である。今後安穏ならば減じ騒擾ならば増加する。好んですることではない。実に止むを得ないことである。
結果・・1大隊駐屯、後に2中隊に減じ、更に明治16年7月には1中隊までに減らした。

「日本は賠償金を取り軍隊を駐屯させることに成功した」などとWebにも流して日本が搾取者・侵略者であるという汚名を着せたくてたまらない人々の評価と違って、事実はこのようなものであった。

・京城での日本人死者の検死は、その遺体状況から困難を極めた。7人の内ついに1人は見出せなかった。

・遺体状況のその惨酷非情さから、朝鮮の人々の惨酷な性情を思わせる社会的文化的要因があることを伺わせた。

朝鮮は日本人にとって驚くべき腐敗政治と野蛮の国であるとの認識を、とりわけ外交官や日本軍に知らしめたろう。

・10隻からなる英国艦隊が元山津に到来した。ロシアに対する牽制と考えられる。日英の連携とも取れる行動であった。

 

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