明治開化期の日本と朝鮮(22)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

 

(以下、「仁礼海軍少将ヨリ朝鮮国実況郵報・二条」、「朝鮮事変弁理始末/1 死者礼葬」、「朝鮮事変弁理始末/2 奉委妥弁 2 奉委妥弁二至ル旨公信 別紙 1、2」、「花房公使入京参朝及復命手続並ニ復命書」を参照。)

花房公使入京す

 8月16日午後8時、降りしきる雨の中花房公使は護衛軍2個中隊を率いて京城に入り城内南山下の宿舎に至る。

 すぐに李祖淵が来る。第3回修信使に同行した者である。
 花房は近藤書記官をして応接させた。

「自分は講修従事官を命じられた。正官は金宏集であるが今は趙寧夏と共に清国軍艦(馬建忠の乗る艦)の所に行っていてまだ戻らない。」

近藤「今度の事件の談判は至大至重のことであり尋常の公務の比ではない。まさにただ執政大臣と議すべし。講修官の如きはその任に当たらず共に談ずるに足らざるなり。」

 (花房が談判相手と認めるのは全権を持つ者である。講修官のごとき取次ぎ人ではない。)

 また、大院君が食料を送ってくる。花房はそれを断って大院君の執政を認めない意を示し、兵糧を朝鮮側に仰ぐつもりはないことを表した。
 「夜色暗黒、雨甚だし。警備を厳にして明けるを待つ。」

 この日済物浦には軍艦清輝が入港し山口中佐と奈良少監が便乗して来る。

 翌日17日早朝、済物浦の仁禮海軍少将、高嶋陸軍少将、山口正定侍従長が共に京城に向かう。仁禮は60人の銃手を含む陸戦の水兵約90名、高嶋は陸軍1個中隊を率いる。

 京城の近藤書記官はすぐに宿舎を他に移せるよう促した。しかし約束したはずの洪祐昌は急病と称して来ず。(都合が悪くなるとすぐに病気になるのも朝鮮文化の一つの特徴である。)
 また伴接官等も言を左右にして言い逃れるばかりであった。督責数回に及びようやく掌楽院という所を借り受け、李大将の家宅と更に近傍民家七軒を借り増して護衛兵の宿舎とすることが出来た。

 この日、直ちに国王謁見を求める。伴接官が来て答えた。
「今日明日と両日、宮中祭式があって引見に適当でない。更に幾日か待たれることを乞う。」

花房「今日、国王殿下には速やかに引見を賜わることがないなら、交際の安危いまだ定まるところはない。本使は政府の命令を奉じ来て大事をなさんとす。どうして一日も浪費できようか。しかしながら今日明日と両日はしばらく貴意にしたがってこれを待とう。明後日の19日に至っては必ず引見あることを望む。もしその期に及んで王命がないなら、本使は自ら王宮に迫って引見を乞うのみ。又、日本公使がここに来たのに貴朝廷からは未だ何の沙汰もない。果たして本使に心から応接される気があるのか。」

 18日朝、近藤書記官は伴接官方に至り、尹成鎮に19日の国王謁見の期日を疎かにしないように政府に決議を取らせるように迫った。その場にいた李祖淵も「大院君の所に行ってそのことの指図をはかる」と言った。(李祖淵自ら、大院君の許しがなければ何一つ決まらない、と言ったようなものであろう。)

 午後になって国王慰問使として趙秉鎬が来た。第3回目の修信使だった者である。慰問の王命を伝えると言う。
「我が国王は明日に引見されんと欲しておられるが、予定外の事であるから差支えがあって出来ず。明後日20日の正午に引見することとなった。」

 (国王はこの時まで花房公使が来ることを全く知らされていなかったようである。馬建忠が言うように幽閉同然の状態だったのかもしれない。)

 花房は1日延期となるが期日が決定したのでこれを争わなかった。
 またこの日、高嶋鞆之助陸軍少将、仁禮景範海軍少将が陸海兵を伴って京城に来着した。これにより陸軍の部署は京城に2中隊半、楊花津に半中隊、仁川に1小隊、済物浦に3小隊となった。また山口侍従長も同着。

 19日、礼曹判書李會正が来る。ただ凶変のことを悔いる、と述べた後は時候の挨拶をするのみであった。

(実はこの李會正こそが大院君腹心中の腹心であり同志とも言われていた男である。大院君は彼を礼曹判書とし、遺体の見つからないままの閔妃の国葬をさせている。しかしこの時花房はそのことは知らない。(「第二号同上(第一号朝鮮国見聞諸況ノ件)」のp5 コレオモシロキモノナリ。スベテヨマレンコトヲ。)

 李祖淵がまた来る。
「大院君は今王宮に住している。一度公使に見えんと欲している。公使もまたこの意があるなら僕はこれを取り計らいたい。」

花房「大院君がもし会いたいのなら敢えて辞退はしない。」

「明日の謁見後に会見を願う。僕が案内する。」


国王に謁見し要求書を渡す

  さて、朝鮮政府に渡す要求書であるが、花房の裁量によって次のように具体的なものに変更された。

(「花房公使外務卿ニ呈スル書翰附商弁ノ手続並馬建忠ノ挙動報告」p29より意訳。)

第一 今より15日以内に、兇徒と首謀者及びその党類を捕獲し、厳重の処分をすること。

第二 遭害者を手厚く埋葬して葬儀すること。

第三 5万円を遭害者の遺族並びに負傷者に支払うこと。

第四 兇徒暴挙による日本国公使館が受けた損害及び出兵の費用を賠償すること。

第五 元山、釜山、仁川での遊歩規定を100里(朝鮮里)とし、楊花鎮に市場を開き咸興、大丘などの所に往来行商を許すこと。

第六 日本国公使、領事、及びその随員眷属などが内地各所に遊行できるを許すこと。

第七 今より5年間は日本陸軍兵1大隊を置いて公使館を護衛するを許すこと。ただし兵営の設置修繕は朝鮮政府の任であること。

 20日午後、伴接官が迎えて前導する(正午と記されていないから、また待たされたかも。)。
 公使と共に陸海の将校随行し陸軍2個中隊は前後に分かれて儀仗列を整い行く。王宮に至り公使は近藤書記官を伴い敦化門から輿を下りて歩く。伴接官、差備官等が出迎える。
 重熙堂に至り左の階段から上がり3揖(浅い礼を3回)して王座の前に進む。左右に領議政、6曹長官、侍従等が列立している。

 朝鮮国王高宗(李載晃)との直接対談となった。

高宗「遠路再来、つつがなきを賀す。」

花房「謝々。去月の23日の事変は実に古今未曾有のことで、公使館を焼き公使を逐い払うなど我が国に恥辱を与えたことは最も甚だし。条理まさに興り以って問うところあるべくして、また恐れることは和局がひとたび破れて補うことが出来ないことである。但し我が聖上はこの挙は朝鮮主上の本意に出るところではないことを知り、努めて和局を保持せんことを欲し、ゆえに再び義質を遣わして今ここに貴朝廷に議することあらんとするなり。義質が甚だ恨むことは、貴国の大喪に逢うも未だこれを奉弔するの期に及ばないことを。」

 (この頃すでに王妃の生死不明のままに国葬が行われていた。日本朝廷による侍従長派遣はこのためのものと思われ、ここに至ってもその弔意を受ける挨拶も通達も無かったのを指すことも含めての花房の言と思われる。)

高宗「堀本中尉は年来我が兵事に尽力せしも、不幸このたびの凶変にかかり、深くもって遺憾とする。」

花房「今、我が国の受ける恥辱を洗雪し、且つ善後の方法に付き貴朝廷に求めるところあり。願わくば談判の大臣を定められんことを。」

高宗「領議政及び礼曹判書をして談判させる。」

花房「すでにこれを命じられたるか。」

高宗「まだである。」

花房「しからばこの冊子をもってこれを殿下に奉呈す。義質の旨を奉じて貴国に求めるところは即ちこれなり。願わくば一覧あって談判大臣に下命あらんことを。」

 花房は懐中から朝鮮政府への要求箇条書を取り出して呈した。高宗は領議政を振り返って受けてよいかと尋ね、領議政の答えによって受け取った。

花房「両国交際すでに絶えんとするの今日にあたり、ただこの要請の件あるを以って旧交を維持し和局を保たんとするに他ならず。これに対する貴朝廷の決答は即ち交誼断続の別れるところなり。今日より3日間を機とす。こいねがわくば、この期を誤らずに決答を賜わらんことを。」

高宗「談判大臣すなわち領議政から相応の解答をさせるべし。」

 花房はこれにて退くを告げ3揖して階下に降り退出した。

 門を出れば李祖淵が出迎えた。大院君面会のためである。


大院君との対決

 

延賢門という門を入ると一堂があった。大院君(李昰応)の居である。堂は3室に分かれていて奥1室には寝床を設け、中1室には茵を敷いて机を置く。表1室には従者が満座していた。

 花房が階段を上り表室に入ると大院君は出迎えて花房の手を取って中室に案内し、茵に座らせた。

大院「今度の凶変の勢焔は貴館に及び慙愧に堪えず。」

花房「今般の事変により我が国が陵辱を受けたことは、これより甚だしきことはなし。国民一般の公憤を殆ど制することができない。しかしながら我が政府はなお和局を保ち旧交を維持せんとし、再び義質を派遣して雪辱善後の方法を定めんとするなり。」

大院「願わくば雪辱などの語をなし給うなかれ。今度の事変で我が朝廷の受けるところの損害は、貴国よりもなお甚だしい。」

 この時花房の話は更に乱を為した兇徒のことに及ぼうとした。すると大院君は俄かに筆を取って字を書いた。

文書 「請う。この談を止めよ。属垣の聆(従者たちがじっと聞いていること)を恐れるなり。」

花房「閣下は鎖国の説を持って久しい。西洋人は皆これを知らない者はない。今日閣下は外交のことをどうするのか。」

大院「往年、碑(「外国人と戦わない者は売国賊である」の石碑)を立て外交を戒めた。当時の西洋人のすることが無道であったからである。今や時勢は前と変わった。」

花房「碑はなお立っている。貴国の今日の主義に障ることはないか。」

大院「国の交わりをするに宜しく心を以って心と交わるべし。形を以ってなすべからず。碑の有無はこれに関せず。一国の向背を定めるは唯方寸の中(心のこと)にあり。云々」

 この時に入って来る者がいた。見ると手には国王に呈した要求書を携えている。この者大院君に耳打ちする。大院君はそのまま受け取って机の上に置く。

大院「引見の時に直に国王に呈書されるは対面において甚だ善ならず。今はこれを返付する。当然の順序を踏んで上奏せられるべし。領議政はすでに談判の命を奉じて他室で待っている。請う、これと会して改めて手続きをなされよ。又、決答3日を期された趣きなれども、およそ事を行うべきなら即座に弁ずべし。出来ないことは到底行うべきでない。これらの返答に何で日を限るを要しようか。」

 これにより花房は要求書を国王に直呈する理があることを一通り弁じ、且つ領議政がすでに他室に待っていることを聞き、まげて要求書を収めて暇を告げた。大院君は起って送った。



 花房らしい冷静な対応である。実際に事変で死線をくぐった人間である。また多くの部下や学生を死なせたことを思えば断腸の思いであったろう。仁川府での埋葬がどのようなものであったかもこの時すでに知っていたのだが。

 大院君が人に聞かれないように慌てて筆書して話を止めるように言ったのは、兇徒の話に及べば必ず首謀者の話になってくるを恐れたからであろう。花房としてはそれ以上追及していないし、また石碑の事もそれ以上話題にしていない。
 花房の公使としての使命は、すなわち朝鮮への要求書を政府に受け入れさせて日朝旧交に復するということである。もちろんここで大院君に思いのたけをぶちまけたり議論を挑むことが公務ではない。なおこの時の通訳もあの浅山顕蔵であったはずである。この勇猛なる外交官にしてかつて玄昔運を一言で黙らせた男である。余計なことを言いたくてウズウズしていたろうことが想像される。

 しかし、大院君の「外交は心でするものである。形をもってすべからず。碑の有無はこれに関せず。」とは何という幼稚な詭弁であろうか。心と形が合ってこそ誠意というものである。口では外交を説くが心は石碑のように固く拒絶するということであろう。日本の公使に自分の寝床まで見せていかにもオープンであることを装う。つまりこの人は倣岸且つ嘘つきである。

 さて花房公使は粛章門外内兵曹に於て領議政に会い、要求書を交付して決答の期は23日午後と定めると述べ、さらに、
花房「この期を過ぎて返答がなければ朝鮮政府にはこれを拒絶して挙行する意がないものと見るべし。」

「すべて教えの如くする。」

 これにて花房一行は帰館した。更に花房は一通の書を領議政に送った。

「23日事変の事に付き、貴国は信使を派遣して過失を謝罪するのは当然のことであるが、尋常の信使では事体を軽視することになり、また我が朝廷も甘受しないであろうことは至極当然の理である。我が国の要求ではないが、ここに思うにそのことが疎かになってはならないので念のために昨日提出した要求案件の箇条に次のものを加えることとする。『特派大官修国書以謝日本国事』(日本国に国書を以って謝罪する大官を特に派遣すること)」
 (花房義質の静かなる怒りを感ずる文章でもあるが、これで要求書は八箇条となった。)

 

謝罪の意思なく要求にも応じず

 翌21日に朝鮮政府が期日を緩くすることを求めているという情報があり、花房は再度領議政に、期日を必ず守らねば安危に関わることを忠告するとの書を送った。
 しかしそれと入れ違いに玄昔運、高永喜が来て近藤書記官に3日の期を緩くすることを求めた。近藤書記官はこれを斥けた。
 この夜領議政から特派大官の案件に対して返事が来た。その意味するところは、

「我が国の喪にあたって貴国から使節を出すことは受けるが、我が国から差し出すに及ばず。先頃から書契を出したのは貴国人の損傷が多いからである。」と、まるで不誠実なものであった。

 普通、朝鮮とのこのようなやり取りは朝鮮側が皆でいろいろと議論するからでもあろうか、返事が来るのはだいたい何日もかかるものである。それが即答の形で来たところに即決主義の大院君による言葉であることに間違いないであろう。

 しかしこれにより、朝鮮政府は謝罪の使節は日本に出さないことが明らかになった。つまり日本の要求書を受けるつもりもなく、謝罪の意思もないということを示していることになる。

 更に22日に領議政から再び手紙が来た。

「今朝から山陵墓葬の儀を命じられたから帰ってくるのはいつになるか分からない。また帰ってからでなければ(要求書について大院君との)相談に取り掛かることは出来ない。」

 花房儀質はこれを読んで終に以下のように断定した。

「それ朝鮮国王すでに三日の期を諾し専対を領議政に命じ、また命ずるに山陵のことを以って出て他に行かしめ両国公幹を理するの地なからしめ期限を徒立に帰せしむるに至る。その所為専恣なると交際事務を軽蔑するの甚だしき、皆今番の事件を藐視するに出るものに非ずして何ぞや。既に事を藐視する以上は終に旧好を維持するの念なき知るべし。」

「それ朝鮮国王はすでに3日の約束を承諾して談判の大臣を領議政に命じ、更に山陵墓葬の儀を命じて他所に行かせて談判の機会と期限をむなしいものにするに至る。その為すところの我侭にして交際事務を軽蔑するの甚だしさは、今度の事変のことを軽視するものでなくて何であろうか。既に事を軽視する以上はついに旧好を維持する気がないことを知るべきである。」

公使断然京城を去る

 これにより花房は仁禮高嶋両少将と相談して断然京城を去ることを決断。
 すなわち「即時退京の計を定め、上奏書を作りて国王に呈し『すでに領議政に命ずるに専対の命を以ってして、また命ずるに他事を以ってし、期を践み事を議するの道を失わしむれば、義質、駐京するも益なきを覚ゆる。』旨」を述べ「両国数百年の友好はまさに一朝にして煙と消えんとす。一言も無し。」と締めくくった書をただちに国王に送り、また領議政の非を鳴らして帰去することを政府各位宛に報じた。

 またも黒田全権派遣時以来の同パターンである。朝鮮側がこれで狼狽するのは目に見えているが、しかし問題は大院君の存在であった。例の石碑をそのまま人にしたようなこの老人(当時62才)が妥協することはありえなかった。まして朝鮮軍を掌握し政府の実権を握り、尚且つかつて水野大尉が得た情報によれば、慶尚道江原の激党(守旧過激派)に語ったように小銃のみで夷敵を撃退できると本気で思い込んでいる近代戦の何たるかもまるで知らない、形ではない心である、と信念する人である。

 案の定、仕方なく大院君に従っているだけの金宏集らがあわてて京城に残っている近藤書記官を訪ねたが、ただ嘆息するだけであった。

 しかし花房公使の決心を知って奔走したのは今度はなんと清国候補道台馬建忠であった。つまり属国の監督長官としての本領を発揮したのである。

 この日京城を去る決断をした花房公使のところに馬建忠から書が来た。
 「本日、護衛1小隊(陸海150人)を率いて入京する。その後会談したい。また近く丁汝昌が六営の兵(約3千人)を率いて入京する」と。
 よって花房は京城を去ることをその理由と共に返事を出した。

 23日朝6時、公使は両少将と共に京城を去った。護衛は陸軍1個中隊、海軍1個小隊。なお残務整理のために近藤書記官が残り護衛に1個中隊が付いた。残る半中隊は楊花鎮に向かった。

 すぐに金宏集、李祖淵が近藤書記官の所に飛んできた。以下、その時の応接大意である。

「仁礼海軍少将ヨリ朝鮮国実況郵報・二条」のp20より要旨現代語に。)

「我が主上は花房公使が出発されたことをお聞きになって甚だ御心配なされた。幸いに貴下がしばらくお残りなることを承りとりあえず罷り出た。」

「今度の事件に付き貴国のお取り扱いは実に意外のことで、勢いここに至ったのは止むを得ないことである。」

「当時我が朝廷も喪事につき混雑して評議の暇もなく、もっとも領議政も山陵墓葬儀の事をすませてから帰京して御熟議するつもりであった。いったい我が国の風儀は官民ともに埒の明かぬことが多いのは公使はじめ貴下もご承知のことなるべし。」

「これはもっての外の話である。勉強のために一応手続きを申し述べよう。そもそもこの度の事は万国歴史にも未曾有の一大変にして我が国にとっては一も九もなく直ちに問罪の軍を差し向けられて当然である。しかし我が政府はなるだけ和局を保たんがために花房公使をして再び貴国に遣ったのである。順序を申せば直ぐに入京して謁見し、その場で八箇条の要求案件の決答を承るはずである。それなのに公使は、所々で穏便をはかり謁見に至る間も三日間を費やし決答の期間も三日の余裕を与えられたのは寛裕の仕方と言うべきである。しかるに貴国では更にこれを心に留めずに談判を申し付けたる大臣に他事を申し付けて外出させ、期限をいいかげんにするに至ったのはいかにも我侭のなされ方であって少しも交際を重んじないという意味である。このように交際を軽蔑される貴国に対して最早交際を維持する方法もないので、公使は止むを得ずに帰国されるに至ったのである。」

「我が政府の不行き届きは一言の申し訳も無し。汗顔の至りである。実は山陵のことも大切な義ゆえに先ずこれをすませて後と心得たので大いに不都合を生じたのである。」

近「評議のために延期を願われるならば領議政が自ら来て事情を述べられたならば、公使も自ら勘弁する道もあったであろう。それを外に重大なことがあるからそれを済ませてから後にする、ということでは貴国政府は今度の事態を軽視されている意味であることは拭うべきもない。」

「ごもっとも千万の言なり。ただ我が主上はなにとぞ交誼を維持し益々親睦をあつくしたいとの思し召しであることはご承知ありたい。」

近「貴国主上は確かにその思し召しであらんと推察する。しかし今日すでに交際の道は断たれた。この後どうされるおつもりか。」

「主上はじめ政府も途方に暮れて何の考えもない。」

「自分はお指図は出来ないが愚考を申し述べるなら、花房公使も一両日は済物浦に逗留されるはず。大院君か領議政が速やかにそこに行って過ちを謝罪し八箇条の決答をするべきである。ただしこの八箇条は干戈をもって罪を問う代わりに要求されたものであって、貴国の情状を酌量されたものなので、一ヶ条でもこれを拒まれるなら御相談は整わないので、その心得で来られるべし。もっとも大体の取り決めが付いた上は何ほどか変通のご相談も出来ると考えるので、領議政なら相当の全権を有して差し向けられ、済物浦で直ぐに調印の用意があることが肝要である。この手続きを今日明日の内に行われるなら、既に断たれた旧好も再び維持するを得るべし。貴殿達の意見は如何に。」

「そこまでお心添え下さること深く感謝する。すぐにこれから御意見を主上にも奏上すべし。明日李祖淵を以って多分申し上げることもあるべしと存ずる。」

「ついでに申し上げる。今度の事は我が国内でも一般人心の奮起憤懣に耐えない状態であり、これらはだんだん新聞紙でもご承知あるであろうが、皆が憤怒して大兵を上げてこの恥辱をそそがんと、それは殆ど抑止することが出来ないほどの勢いである。しかし一人外務卿は江華島での条約以来(井上はその時に全権副大臣)の主義を維持して、なるべくは平和裡に陵辱を雪いで旧好を保続せんとされて衆憤を制し、再び花房公使を派出せられる手続きとなったのである。それなのに貴政府の事理に暗い今日、最早ここまでに至ったならどうしようもない。自分も恐れる。もしこの事態を聞いたら我が国の公憤がいっそう激しくなることを。」

「井上外務卿の思し召しは実に感銘するに余りあり。あとは只大息するのみ。」

 (近藤の意見を高宗に奏上しても無駄であろう。そもそも奏上できるのか。権力は大院君が握っているのであり、謝罪はしない方針であるから要求書も受けるはずはない、ということは話し合いもしないということであり、山陵墓葬のことは単なる口実であろう。)

 この頃、仁川に向かう花房の元に領議政から手紙が来たが、「国家の喪葬儀礼は重大なことで止むを得ないことで・・・」というもの。花房は彼に反省無し、としてそのまま仁川に向かう。仁川府使出迎えて応接する。


 一方、馬建忠一行はこの日夕方京城に入った。

 この日済物浦には英国フライングフィッシュ号が入港。また南陽には18日に移動した清艦揚威と共に軍艦3隻、護送船4隻が碇泊、1隻にはまだ兵員を満載、他の1隻は空船で出港。上陸した清国陸軍はおよそ8百から千人。また、2千人分の仮舎を建てるらしい。

 24日、花房は領議政に、「貴国は軽視して約束の期日を守らなかった。京城に長く駐在した自分がどうして両国の交誼を望まないであろうか。しかし事態は既にこのようになった」との書を仁川府使に託して送った。

清国の内政干渉

 この日午後、仁川府使から馬建忠が公使に面晤するために京城から来ることを報せる。よって花房は待つことにした。夕方、馬建忠は馬を飛ばして来た。今朝京城ですでに公使が去ったのを聞いて急いで来たと言う。
 馬建忠は間に立って何とか調停をしたい様子であった。しかし花房はそれを謝して訓条の通りにそのことは断り、且つここに至った経緯を説明した。
 馬は、朝鮮政府内を整理して大院君を斥けるつもりであるからしばらく帰国を待ってもらいたい、朝鮮の内政に干渉するといえども友誼を以ってするのであって、属国としてするのではない、と言い(ものは言いようだが干渉であることに変わりはない。)、今日は花島の別将営に泊まることを告げた。

 この夜、残務整理のために残っていた近藤書記官一行は済物浦に到着。
 仁禮高嶋両少将は金剛艦に戻る。

 25日、花房は済物浦に行き近藤書記官と両少将に会し報告を受ける。その後花島に行って馬建忠に答礼をし、2日間はこの地に止まることを告げる。
 馬建忠はただちに京城に戻った。

 馬建忠のその後の情報は28日にもたらされた。かつて水野陸軍大尉が使役していた朝鮮人の話によれば、25日午後に馬は京城4大門に清兵をおよそ20名ずつ守衛させ、26日には大院君を南大門外の屯山に呼び出し、そのまま南陽に拉致して行ったということであった。(後に花房が入手した「朝鮮国王李熙陳情表」には馬建忠が先に大院君を訪問し、その答礼として大院君が呉長慶駐営に行ったが夜になっても帰って来ずにそれきりである、とある。なお、この陳情表は朝鮮国王が中国皇帝に大院君の赦免を陳情した書である。「2.朝鮮事変弁理始末/2 兇徒伏法」p40

 26日早朝、領議政から反省する内容ではないが「公使が京城に戻って談判することを望む」の手紙が来る。
 よって花房は「今日から2日間は船を留め、自らこちらに来て談判するを待つ。」との返事を出す。

 28日、領議政から手紙が来る。(手紙を出しているのは日本歴の27日。この時にはすでに大院君は清軍に連行されている。)
 「公使の返事を承って深く喜ぶ。談判が遷延したことによって交際の障碍となったなら嘆かないではいられない。貴国とはただ和を保つことを思うのみ。停船2日の厚意に深く感激する。ついては主上にはすぐに大臣を派遣されることを独断されたので了解されたい。」と。
  (今までとは打って変わってのものであるから、高宗に主権が戻ったのは明らかであろう。)

 この後、仁川府使が、国王から李裕元と金宏集に命じて全権正副大臣と為して仁川に派して議を妥結させる諭旨があったことを伝えた。

 よって花房は比叡艦で待つ。夜10時に李と金来る。小蒸気船を出してこれを迎える。

 なお28日のこの日、軍艦迅鯨(外輪蒸気船 1465t 長さ76.0m 全幅 9.75m 兵装 4.7インチ砲2門 乗員 170 )が入港する。(当初は金剛などと共に派遣の予定であったが機関に修理の必要があるために軍艦清輝が代わって派遣されていた。)
 また英国艦エンカウンタ号(「Encounter」 砲艦 1970t 長さ67m 全幅 11.2m 砲14門 )が入港する。

 

黒田全権派遣時との違い

 さて、もし馬建忠が大院君を取り除くことをしなかった場合はどうなっていたろうか。
 当然タイムリミットは過ぎたろうから花房がとる手順としては、まず済物浦で決別の書を投じ、次に清米英3国に「万国公法に基づき強償処分をする」の公告を出し、巨済島または鬱陵島を占拠して要償の抵当とし、さらに朝鮮側の対応によっては割譲要求をすることになったろう。
 ここらへんが黒田全権派遣時と違うところである。あの時は「我が必要なる求望に應ぜざるに至るときは・・・我が政府は別に処分あるべしとの旨趣を以て決絶の一書を投じ速に帰航して後命を俟ち」と帰国して新たな命令を待つだけ、というのが訓条内容であった(第三巻 自 明治七年 至 明治九年/2 同八年乙亥2 対韓政策関係雑纂/朝鮮交際始末)。しかし今度は強償処分のことまで全権の裁量として持たせている。もちろん開戦の権限まではないが。

 かつての黒田全権派遣時には、「日本は開戦も辞さない態度だった」と言う人があるようだが、それは外交というものの順序を知らない人の空想であろう。「責軽ければ要求軽く、責重ければ要求重し」であり、今度の事変による朝鮮政府の責任の重さは雲揚号への砲撃事件の比ではない。それにもかかわらず開戦ではなく「占領して以って要償の抵当となすこと」である。黒田全権派遣時には「開戦も辞さない態度」などとは根拠のない論であると筆者は改めて理解した。

 ところで、もし花房が島でも占領する挙に出ていたら大院君はどうしたろうか。小銃隊でも編成して小船で奪い返しにでも来たろうか。それとも小島の一つ二つぐらいはと無視したろうか。いずれにしろ、後先も考えない愚かな大院君一派の一連の行動であった。

 一方、馬建忠の行動は清国が朝鮮の宗主国であることを日本に見せつけるものではあったが、平気で他国に干渉する油断のならない国であると改めて日本人に思い知らせることになったろう。つまり「万国公法」と「華夷秩序」を使い分けるダブルスタンダードであると。あ、これは今日に至るも同じか。
 思えば、国民性というかその国の文化というか、そういうものは百年やそこらでそんなに変わるものではないことを思う。

 なお馬建忠は、大院君連行後に直ちに京城各所に掲示をした。のっけから「中国藩服之邦(中国に属藩として服する国)」という文章で始まるこの掲示文では、日本公使館襲撃のことには一言も触れず、王妃を殺し王を辱め官吏を虐殺して乱をなし、また必ず主謀者がいるはずであり、それは大院君が知っていると誰一人言わない者がなく、ために中国皇帝は激怒して大院君に必ずそのことを問いただし、軍を送って厳しく懲罰し・・・」と最後は「「天朝與爾朝鮮臣主誼猶一家」と結んで朝鮮を臣下と呼ぶ中国皇帝の容赦のない権威溢るるものであった(苦笑)。

 清国は台湾問題で日本への対応を誤って手痛い目に遭っている(日本軍の出兵、50万両の賠償、琉球の日本帰属の国際認知。)。今度このような強硬な手段に出たことも、それだけ朝鮮事変に関わる事態の深刻さを理解していたからと思われる。もちろんそれは黒田全権派遣時の比ではなかったということである。

 

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