(「弁理公使花房義質ニ訓条ヲ付与シ復朝鮮国ニ赴カシム」より現代仮名、段落句読点を付す。[ ]は文中の括弧、( )は筆者。)
花房公使、訓条。
七月廿三日、朝鮮京城の事変報告の趣により更に特別の命令を下し京城に進行し、朝鮮政府と談判を開かしむるに付き其の方向を示す為に内閣の議を経、訓条を付すること左の如し。
朝鮮兇徒の所為は頗る惨暴を極め、我が国旗を汚すこと少なからず。而して朝鮮政府の鎮圧に怠慢にして交際の情誼を重んぜざるはすでに其の罪を問うに足るといえども、但だ新たに外交を開くに当たり物議洶々、従って内乱を醸成するに至るは東方各国の均しく経歴するところにして免れざるの事情たるときは、今般の事変の如きもまた之を公法と情誼とに照らし、宜しく朝鮮政府に責むるに相当の謝罪及び要償を以ってすべくして、未だ之に因りて俄かに兵馬の力を藉り、以って其の国を蹂躙するの極点の処分を施すに至らざるべし。
但し兇徒猖獗の勢い未だ測るべからずして朝鮮政府の隣誼を顧み、交際を保続するもまた未だ予知すべからざるが故に、今、陸海軍兵を派し重大の使命を護衛し以って危険を冒して京城に進行するに備え、もし不慮の変あるときは進退自ら護するに便ならしむ政府の陸海軍将校に下せる命令並びに陸海軍卿の内訓別紙に具するところの如し。
この非常の変に際し両国の為に紛難を解き更に和平の大局を全くし又我が国旗の辱めを回復し相当の処分を得て以って我が臣民の心を満足せしむるは実に使臣の大任とす。而して朝鮮の現状種々の場合あるに対し我が臨機の処分もまた一様なるべからず。今ほぼ彼の情形如何を区別して以って我が弁理の目的を示すこと左の如し。
この事変は兇徒の朝鮮政府に対する暴動なるや又は単に日本官民に対する暴動なるや、最初に之を区別するを要す。
もし朝鮮政府に対する暴動なるときは更に左の二つの場合を区別すべし。
第一 政府はすでに兇徒を誅鋤したるとき。
第二 政府と兇徒と未だ勝敗の局を分かたざるとき。
右、第一の場合に於ては、直に朝鮮政府と相当の談判に及ぶの時機を得たりとす。
第二の場合に於ては、我はしばらく局外に立ち陸海軍兵を以って専ら開港所を占有し、我が在留人民を保護し彼内乱終局を待って政府又は新政府と更に談判を開くべし。但し、その間政府と開談の機会あるを得るときは従って照会又は面晤を以って我が要求を提出し逼るに時日を期して兇徒を討滅し、我が国に対し満足を与うるの怠慢なるべからざることを以ってすべし。もし隣交の情誼を以って政府を援助し其の内事に干渉するに至っては公法外応変の処分にして今あらかじめ之を言明し難し。
もし単に日本官民に対する暴動なるときは朝鮮政府の責重きものとす。この時は左の三つの場合を区別すべし。
第一 朝鮮政府は日本に対し不良の心なしと雖もその防禦の力及ばざるに出たるとき。
第二 政府は兇徒の暴動を知覚しながら防遏を怠り又は事後の処分を怠り交際の親誼を忘却したる事蹟あるとき。
第三 政府は兇徒と一致したる時、例えば政府又は当局者より兇徒を教唆したるの証あるとき。
右、第一の場合に於ては、朝鮮政府は我が国に対し怠慢の責を免れざるべしと雖も其の事情、原諒すべきあるを以って我が要求するところもまた公平至当を要し最重の極点に出ざるべし。
第二の場合に於ては、朝鮮政府もまた我が国旗を汚すの責に任ずべきを以って我が要求は重大の点に於てし、我が談判の気勢もまた迅急快烈なることを妨げざるべし。
第三の場合に於ては、我が弁理は極めて激迫なるを要し、強償の処分に出、平和処分の範囲の外に在るは避くべからざるの事機なりとす。
以上、彼の種々の情形未だ概知すべからずして従って我が使臣の取るところの位置もまた一定なるべからざるを以って政府は使臣に委任するに臨機の弁理処分を以ってし、時宜に従い緩急操縦するところあらしむ。
使臣は宜しく政府の命令を奉ずることを怠らず、派するところの陸海軍と共に直ちに仁川港に進み上陸の後、先ず彼の同文司に照会する文簡を発し、近藤領事をして仁川府使に付して政府に送致せしめ、同時に別段の情状を見出さざるときは陸海軍と共に直ちに京城に進み、彼の相当の全権ある高等官吏に面議を要し時日を期して我が満足の処分を求むべし。
この時に当たり兇徒もし更に乱暴を逞しくし不意の侵犯を為すが如きあらば朝鮮政府の処置如何に拘わらず我が護衛の軍隊を以って充分に鎮圧の力を尽くし以って懲罰を示すことを妨げざるべしと雖も未だ朝鮮政府に向かい宣戦の場合に至らざるを以って使臣はなお平和の位置を保ち進退自ら護するに止まることを要すべし。
もし朝鮮政府に於て我が政府の好意を拠却し、兇徒の障碍を受けるに非ずして使臣を接待せざるか、又は忍ぶべからざる無礼の接待をなし又は開議の後もなお言を左右に寄せ故意に兇徒を庇護して之を処分せず、又は我が要求の談判を承諾せざるときは、すでに彼より和平を破るの心跡明白なるを以って我が政府はやむを得ず我が至当と認むるところの最後の処分に出るの一方あるのみ。この場合に至りては使臣は最末の書簡を以って具さに彼の国の罪を声明し陸海軍と共に仁川港に引退し便地を占拠し迅速に事情を具申し以って政府の大令を待つべし。
もし万一支那または其の他の各国より関渉し仲裁を申し入るることあるときは、使臣は政府より外国の干預に応ずるの命令を得ざるを以って明らかに之を拒辞すべし。
想うに朝鮮政府は素より和を傷むるの意あるに非ざるは我が政府の信ずるところなれば使臣の誠意を以って再び両国の大局を保全し反って将来の為に永遠の善良なる交際を得るに至らば、其の要求と保証の条約を併せて彼の国相当の大臣と便宜に換約し以って批准を請うの全権は我が政府の使臣に付与するところなり。
開議に先だち堀本中尉以下の安否を探聞し及び釜山、元山津、仁川各港の在留人民を保護するは使臣の最も注意すべき所にして茲に詳悉を要せず。
外務卿
外務卿上申弁理公使花房義質へ訓条案之事。
右謹んで裁可を仰ぐ。
明治十五年八月二日
太政大臣三條實美 印 右大臣岩倉具視 印
(中略)
上申之通り
明治十五年八月二日
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朝鮮政府に対する要求の件
第一
朝鮮政府は其の怠慢の責に任じ我が国に向かいて文書を以って謝罪の意を表し並びに左の件々を履行すべし。
第二
我が要求を受けしより十五日内を期し兇徒の党類を拿捕し我が政府の満足する厳重の処分を行うべし。
第三
遭難者の為に相当の贍恤を為さしむべし。
第四
条約違犯及び出兵用意の費に対し賠償をなすべし。賠償の高は我が準備の実費に準ずべし。
第五
将来の保証として朝鮮政府は今より五年の間、我が京城駐在公使館を守衛する為に充分なる兵員を備うべし。
第六
我が商民の為に安辺の地を以って開市場となすべし。
第七 以下三条口授に付す。
[もし朝鮮政府の過失重大の事情あるときは]巨済島又は松島(当時は「欝陵島」のことを指す。(「単行書・竹島版図所属考」より「松島ハ古代韓人稱スル處ノ欝陵島ニシテ」、「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」より「朝鮮國所属蔚陵島『我邦人、竹島又ハ松島ト唱フ』ヘ渡航シ」))を以って我が国に譲与し謝罪の意を表せしむべし。
第八
[もし朝鮮政府中兇徒を庇護するの事跡ある主謀者を見出すときは]政府は直ちに其の主謀者を免黜して相当の処分をなすべし。
第九
彼の情状至重の場合に於ては強償の処分に出るは臨機の≠ノ従う。
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本月一日を以って上申裁可相成り候花房公使訓条案中、特別に記載したる朝鮮政府へ対する要求の件は畢竟彼の国政府の暴徒に於ける関係種々の事情に依り其の責に軽重の区別あるべきの情理にして、もし其の責軽ければ我が要求も従って軽からざることを得ず。其の責重ければ我が要求も従って重からざることを得ず。
今日彼の国の情状未だ詳悉ならず。彼の政府の暴徒に於ける関係未だ明瞭ならざる時に於てあらかじめ一概の條疑を定め、必ず之に循由せしめて其の権度を軽重せしむること能わざらしむるは廟議の主意に非ざるべし。依りては朝鮮政府実際の情状に応じて権度軽重を酌量するの活用は是を公使に委任せられるべく、従って公使に面晤の便宜を以ってこの特別記載の条件は専ら本官へ御委任これありたし。この段特に上申候なり。
明治十五年八月二日
外務卿井上馨
太政大臣三條實美殿 |
談判激迫の際に至れば、我が軍隊をして開港所を占拠し或いは時機により要衝の諸島を占領して以って要償の抵当となすこと、公法上の許すところなるべし。右は外務卿臨機委任の範囲にして花房公使への訓条中にすでに具載するところなれども、果たして右強償の処分を実行するに至るときは、我が軍艦の将官より清米英三国の軍艦、朝鮮港に駐屯せるの将官に強償処分の公告を送ること必要なりとす。
依りて別紙ボアソナド氏に命じ試草せしむるところの文案を以って外務卿より花房公使に内授し、臨機の用に充つべし。
但し右は海軍卿よりあらかじめ軍艦将官へ下付すること当然なりと雖も、事専ら談判の時機に関わるに由り公使に内授せられ、臨機に将官に交付し施行することしかるべきかと。
明治十五年八月七日 参議山縣有朋 |
八月七日閣議の節、強償の説明
一 強償の処分は即ち花房公使の訓条中に指示すところの談判最末の時の処分にして、未だ宣戦の場合に至らず。
一 訓条中の、政府と兇徒と未だ勝敗の局を分かたざるときには陸海軍兵を用いて開港所を占有[オキュペイション]し我が在留人民を保護し彼の内乱終局を待つべし。
又、政府兇徒と一致したるときは我が弁理は極めて激迫なるを要し強償の処分に出、平和処分の範囲の外に在りとす。
右両条の場合に於て施行するところなり。
この強償の処分を行うときは其の地に在留する外国船舶は多少の関係を生ずることあるべきに付き其の艦船に向かいあらかじめ我が主上の一目的を明白に公告するを必要とす。右公告をなすには即ち我が海軍将官より施行すべし。
但し、右施行の順序は専ら談判の都合に依ることなれば花房公使に於て内授を得、臨機に将官と示談し必要の場合に限り之を発付すべし。
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一貫した日本政府の方針
明治8年12月の黒田全権派遣に際し付与した訓条とその方針は同じである。
すなわち、「想うに朝鮮政府は素より和を傷むるの意あるに非ざるは我が政府の信ずるところなれば使臣の誠意を以って再び両国の大局を保全し反って将来の為に永遠の善良なる交際を得るに至らば、・・・」と。黒田全権時の「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、今全権使節たる者は、和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ふときは・・・(第三巻 自 明治七年 至 明治九年/2 同八年乙亥2 対韓政策関係雑纂/朝鮮交際始末)」と、その趣旨は同じである。
筆者は、ここに至るまでの様々なる日本政府の言行を見てきたが、その態度は一貫していると思う。誠実、丁寧、争いを好まず相手に対し配慮があり、且つ理性的、またルール(万国公法)に忠実。
朝鮮事変における花房義質の態度はその典型である。
訓条は、政府の精神と行動を規定して付与するものであり、政府方針そのものでもある。8月7日に下関で井上馨外務卿から花房儀質に付与され、花房は日本政府の代理として行動することになったが、この時の訓条の根本精神は冒頭に述べられている以下のものであろう。
「朝鮮兇徒の所為は頗る惨暴を極め、我が国旗を汚すこと少なからず。而して朝鮮政府の鎮圧に怠慢にして交際の情誼を重んぜざるはすでに其の罪を問うに足るといえども、但だ新たに外交を開くに当たり物議洶々、従って内乱を醸成するに至るは東方各国の均しく経歴するところにして免れざるの事情たるときは、今般の事変の如きもまた之を公法と情誼とに照らし、宜しく朝鮮政府に責むるに相当の謝罪及び要償を以ってすべくして、未だ之に因りて俄かに兵馬の力を藉り、以って其の国を蹂躙するの極点の処分を施すに至らざるべし。」
「朝鮮の暴徒のしたことは極めて惨たらしく、我が国の人命、施設、体面を損なわせたことは少なくなく、そして朝鮮政府はその鎮圧に怠慢であり、日朝交際の友好を重んじなかったことはすでに罪を問うに値することである。しかし新たに外交を開くにあたってはいろいろと物議を呼び、ひいては内乱を醸成するにまで至ることは日本や中国などの東方各国が均しく経験するところである。朝鮮もまたそれを免れられなかった事情であった時は、今度の事変もまたこれを万国公法と友好の精神とに照らし合わせ、適切に朝鮮政府に対しては、その非を責めるに相当の謝罪と賠償をもってするべきで、未だこれにより直ちに軍事行動による朝鮮国の蹂躙という極端な処分に至るべきでない。」
国家の近代化の過程で様々な内乱を経験して来た日本政府が今度の朝鮮事変を見る時の目線は、極めて冷静な所に置かれている。また当時の日本政府の外交方針の基本となるものは「万国公法と情誼(友好の精神)」であることが分かる。つまりこれが当時の日本政府の一貫した方針と言えよう。
もちろんここには、もし朝鮮政府の過失が重大な事情がある時には巨済島か松島を譲与させる、あるいは占領するなどの物騒な文言も並んでいるが、これはフランス人法学者ボアソナードによる公告草案にもあるように、万国公法上の範囲内のことである。(雇仏国人ボアソナード在朝鮮各国使節ニ示ス公告案ヲ呈ス)
ところでこの時に「日本は巨済島または鬱陵島の割譲を要求し・・・清国軍とアメリカの軍艦派遣による牽制のため、領土の割譲は諦めた」などと言っているWebがあるが、妄想である。訓条をよく読めば分かることである。すなわち、「第三 政府は兇徒と一致したる時、例えば政府又は当局者より兇徒を教唆したるの証あるとき。・・・・第三の場合に於ては、我が弁理は極めて激迫なるを要し、強償の処分に出、平和処分の範囲の外に在るは避くべからざるの事機なりとす。」とあるように、結果として今度の事変が第三項には当てはまらなかっただけのことなのである。
清国の干渉をめぐって
さて、朝鮮事変の報を聞いて在日本清国公使が本国に向けて送った電信は1日、3日、4日と続き、それには「日本が高麗(朝鮮)に派兵する。水兵7百歩兵7百であり、外務卿井上馨も動く。中国もまた使節を送り派兵をして高麗を鎮圧し凶徒を懲罰し以って謝罪させるべし。」などとあった。(海軍卿、電報ヲ以テ金剛艦速ニ発航スヘキ旨ヲ仁礼少将ニ令ス)
当然暗号電文であるはずだが、日本側はしっかり解読していたようである。
これを受けて川村純義海軍卿は、
「片時も早く仁川へ発艦あるべし。もし支那使節又は軍艦より掛け合いあるとも、花房公使が着くまでは何事も取り合わぬ方しかるべし。」と三條太政大臣に上申。
5日になって清国欽差大臣(清国特命全権公使)黎庶昌から日本政府あてに「高麗の暴挙については道台(監督長官)馬建忠を乗せて兵船2、3艘を出す。貴国のために調停することを告げる。貴政府は疑うことなかれ」との文書を発し、さらに8日には「日本は我が国の条約国であり、日本公使館は我が属邦に在るので、兵を送って(花房公使を)護持したい」と書いた文書を提出した。
これに対し、下関に向かっている井上の代理として外務大輔吉田清成は「兵艦を派遣されるのは貴国と我が国の友誼により援護を与えられんとの厚意と我が政府深く感銘するところであるが、我が政府はすでに計画するところがあり、若干の兵員が保護して公使が前往し談判をして至当の処弁をするのであって、他国の保護を仰ぐことはこの際謝絶せざるを得ない。朝鮮は我が国と条約締結以来対等の礼で相対するを以って自主の国である。それを属国の文字を用いられるは我が政府において受け入れられないことであり、貴国から兵艦を派遣されては双方の誤解を招く恐れがあるので速やかにお差し止めなられたし。」との返事をする。(清国政府軍艦ヲ朝鮮ニ派遣スルノ旨同公使黎庶昌ヨリ通報並ニ復書)
「調停」とはいきなり軍隊を送り込むことであろうか。それも朝鮮を懲罰するための派兵と言っているのであるから、通常これは「侵略」と称するのではなかろうか。「閔氏が清に鎮圧を要請した」という説もあるのだが、筆者はその確かな史料を見たことがないのでなんとも言えない。後述するように3隻の軍艦で来た馬建忠は、在日本清国公使の電報によって朝鮮の日本公使館の事変を知り、9日に芝罘を発して来港したと言っているが。
山縣有朋の意見書
(「清国公使ノ啓文ニ由リ山県参議ノ意見書」より現代語に、括弧は筆者。)
5日の黎清国公使からの文書によれば清国は朝鮮事件について貴国の調停をすると明言した。調停とは熟語の意味は「居仲息争(居中して争いをやめさせる)」の義であるが、清国は果たして万国公法上の仲裁の針路に出るか、又は他の方法に出るか、予定し難い。しかし想像するに左の三つの場合があるに過ぎない。
第一 清国は朝鮮が属国であることを主張して今度の談判は清国で引き受けると言明する。
第二 清国は日本と朝鮮との間に立って仲裁を申し入れる。
第三 清国は極めて平穏の言詞をなし我が使節と強いて直接の談判をなさずして、ただ朝鮮と従来の関係あるに付き、彼の国の為に忠告しその謝罪処分を催促すべき旨を公告するに止まる。
右第一の場合に於ては、我は左の大意を以って拒絶するべし。
日本の朝鮮における交際は三百年来直接に往復し、かつて清国の居中を経由せず。
明治八年秋、朝鮮の暴徒が我が雲揚艦を砲撃し我が国その罪を問うの時に当たってかつて清国の居中を煩わしたることは無い。
当時我が森(有礼)公使は総理衙門に向かいて清国の朝鮮に於ける関係を問いたるに、総理衙門は、朝鮮は其の属国なりと雖も其の国政に干渉せずとの旨を答え、雲揚艦(への)暴挙のことはこれを不問に付し、かつて我が国の為に処弁するとの意思はなかった。
右の事由により、我が国と朝鮮と直接に対等の条約を結び清国の居中を経由せず平和に交際して以って今日に至った。
故に今度の事はもし戦争を開くの場合に至る時は他の外国は或いは局外に中立するか或いは両国中の一国に与国となるか、其の随意に任すといえども平和交際に於て決して他国の干渉を容るることは無い。今日我が国は朝鮮に向かいてなお平和の交際にして即ち明治九年の条約を続かんとするものなれば、条約記名の双方の外に他の関係はない。
もし清国、第二の場合に出る時は、我は明らかに万国公法上に言える、
「甲乙二国の紛争に際し丙の国仲裁を申し入るる時は、必ず甲乙二国の承諾を要すべく、もし二国の中一国仲裁を承諾せざるときは丙の国は仲裁を強いること能わず。」
の理に依り我が国は仲裁を辞すべし。
もし第三の場合に出れば、我が国は枝葉の葛藤に渉らずして一直線に朝鮮との談判を遂げ、清国の朝鮮に向かいて忠告し又は尽力せるは我と関係の外に置き、更に其の障碍を為さず又これを承認するの言を為さずして可なり。
もし万一前の三条の一つに出らずして清国は専ら朝鮮を庇い立てて我が要求を拒むなどの事あらば、これ即ち朝鮮の党与にして我が国と敵対の地に立つ者と認めるの他なかるべし。
又朝鮮より支那のことを口実として遷延の手段に出るとも、我より日時を期して速やかに決答を要し、もし返答なきときは直ぐに陸海軍を以って強償の処分に取り掛かるべし。
右、外務卿出立後の情勢に付き更に意見を具陳し閣議の裁可を請う。
明治十五年八月 参議山縣有朋
花房公使の訓条に於て、もし支那より干渉するときは、公使はその為に政府の命を得ざるを以ってこれを拒否すべき旨を示されたり。
但し支那よりすでに啓文を以って我が政府に掛け合いたる上は、公使は訓条の針路を履行して支那馬長官の掛け合いを辞する為には前陳の条理を心得居ること必要なりとす。
但し公使は単純に朝鮮に向かいて我が満足の償いを得るに止まり朝鮮所属論に渉り支那馬長官と目的外の葛藤に渉ることなきを要すべし。
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清の出方に対する山縣有朋の一つの意見書とは言え、最悪の事態も含めて想定しておかねばならないことであろう。
派遣された艦隊司令官である海軍少将仁禮景範も、「清国の意、朝鮮を助け我に抗するか又は朝鮮の内政に干渉し日本と平和に局を結ばしむるか、二条の外に出ず。たとえ内政に干渉し平和に局を結ぶを欲するも、我が要求の条中応ずるに至難なるものあり。しかる時は朝鮮との関係は転じて清国との関係となり、到底清国と事あるに至らんかと存候(仁礼海軍少将ヨリ朝鮮国実況郵報・二条)」と清国との間になんらかの問題が生じる事は避けられないことを想定している。
それにしても山縣は、さながら万国公法の鬼である。後に井上馨も花房公使がアレンジして朝鮮政府に提出した要求書のことで万国公法上問題があると指摘することになるが、いかに日本政府が当時の唯一の国際法と言われた万国公法を重視していたかが分かる。
一方、中国はその国名が表しているように「自国は世界の中心」という「中華思想」に基づいており、何故中心と言えるのか根拠も何もないその傲慢な考え方は「華夷秩序」という世界観となって自国と周辺国の地位を決めている。
筆者は歴史の再勉強に取り掛かってからまもなく「卑弥呼、邪馬台国」の文字が意味するものに気付いて愕然としたことがある。
「卑しい(者)と大いに呼ぶ」、「邪までけがれた馬(要するに怪獣である)の国」。
こんな漢字を当てるとは、いやはや人の悪い連中である。それを知らない日本人は歴史的な遺跡が発見されるたびに「卑弥呼!邪馬台国!」とかまびすしいが、とんだブラックユーモアである。「金印貰ってた!」と喜んだり自慢したりしてる場合じゃなかろうと思うが。
とにかく、清にとってかつて武力制圧した朝鮮は属国である。中国皇帝にとって朝鮮国王は地方官のようなものである。いわば中国の朝鮮地方で内乱があった、派兵するのは当然である、ということになる。
また、米国も朝鮮と通商条約を締結したときに(この時点で未批准)、朝鮮は清国の一部として属する藩であると承認していたようである。
「朝鮮条約に付き支那より朝鮮を清藩と米国等へ認承せしめしは日本に対し礼を失する義と存じられ候。もっとも、英国新聞には、日本内閣の怠り故に清国は得策せし、と相見え申し候。(朝鮮国釜山浦景況外一件)」とある。
しかし日本政府の怠りと言われてもなあ。米朝通商条約のことは、守旧派始め中間派からも猛烈な反発があることが予想できただけに日本政府は積極的に関与しなかったのであり、日本が朝鮮を自主独立の国として認めて交際していたことは清国も米国も知っていたはずである。それを属国扱いして無理やり条約締結させたのは清国と朝鮮政府内の支那党(魚允中たち)と米国なのである。確かにまあ日本政府の「他国の内政に干渉せず」という万国公法を守る生真面目さとアピール不足という今も変わらぬ大人しさが欧米から見れば「怠り」と映ったのは仕方あるまい。
しかし今度の事変勃発の遠因はこの米朝条約締結にこそあると筆者は考える。そもそも守旧派は日本とは3百年の交際があることを認めているが、西洋人と交際することだけは我慢がならなかったのである。日本は結果として大院君たちから八つ当たりを食らったようなものなのである。
(以下、「仁礼海軍少将ヨリ朝鮮国実況郵報・二条」、「朝鮮事変弁理始末/1 死者礼葬」、「朝鮮事変弁理始末/2
奉委妥弁 2 奉委妥弁二至ル旨公信 別紙 1、2」、「花房公使入京参朝及復命手続並ニ復命書」を参照。) |
近藤書記官、仁川に先着
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(以下、日時に関しては各報告により数か所違いがある。それで報告の性格なども考慮し且つ書簡の日付も参照して、日清艦船と軍の動きについては海陸軍からの報告を基本とし、日本側外交官並びに朝鮮と清国の人間の行動については外務関係の史料を主としながら、ある程度の調整を行っている。なお修正とまでは言い難し。) |
下関から近藤書記官らを乗せた軍艦金剛が先発したのは6日朝、途中忠清道沖で仁川から戻るフライングフィッシュ号に出会い、高尾謙蔵を収艦する。
仁川済物浦に投錨したのは9日夕方。直ちに通訳を上陸させて現地官憲に明朝近藤書記官が上陸することを告げる。
8月10日午前7時半、近藤書記官上陸する。水兵1小隊を護衛として率いる。護衛司令官杉山陸軍少佐も共に上陸。参謀本部派出の尉官が直ちに済物浦近傍を測量する。
上陸するや直ぐに仁川の中軍金泔九、花島の別将金弘臣が来て出迎える。仁川府使が欠員であるので冨平府使が兼帯すると言う。しばらくして冨平府使来る。
近藤書記官は次の件を依頼する。
一、花房公使から領議政に送る書を政府に転送すること。内容は、7月23日の公使館への攻撃と仁川府での襲撃について朝鮮政府に問うところがあって来たので、京城で駐留できる館と護衛兵の止宿の場所を設けてもらいたい、というもの。
一、花房公使が到着すれば直ぐに入京する。それで護衛兵およそ4、5百名が通行するのでその用意と人民が驚かないように諭告すること。
一、公使の船が着けば多人数が上陸して木材なども多く揚陸するので、これに用いる朝鮮船20艘人足百人を用意すること。賃金は給する。
一、朝鮮帆船に乗り組みの日本人3人がこの頃から漢江を遡ったとのことでその消息を知らせ又保護をすること。(事の顛末は分からない。)
その後、府使と共に仁川府に行く。7月24日に府兵らに襲撃されて戦死した日本人6人の検死のためである。
仁川府での検死
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)
検死は外務御用掛大庭永成が命じられた。仁川府からは中軍金弘求が倍検人として立ち会った。大庭永成は、かつて猛攻を受ける京城公使館に於て去就をどうするかの議論になった時に、この公使館で死を迎えたいと言った人である。
仁川府に埋葬された者は幸い全員どれが誰であるかが確認できた。しかし筆者は敢えて特定できる名はここでは伏せたい。また、事実を事実と残すために一部の詳細は述べたい。(朝鮮事変弁理始末/1
死者礼葬)
検死結果は仁禮海軍少将の報告にも、
「遺骸は衣袴全き者一人もなく、或いは首を斬り或いは手を断ち或いは首に縄を縛るなど頗る残酷を極めたり。ここに於て領事(近藤書記官)は、『政府までも厚く葬斂せりと言い、中軍なども同様に申されたれども、その実かくの如く相反し、刑人又は禽獣の死体と一般なるはその意を得ず』と詰問せるに、彼答うるに辞無し。」
とあるように、戦死体を見慣れている当時の軍人ですら異常なものに見えるものであった。
大庭永成の検死報告によれば、松板で作られた棺6体は、地上を窪めてこれを置き、その上に土を盛ってこれを覆い、それぞれに「日本人塚」と書した木標を立てていた、と言う。いわゆる土饅頭のような形状である。
開けて検死すると、全員が衣服がまともな者がなく、一人は襲撃を受けた当時に大庭がその倒れている姿を見ており、その時は確かにまともな服装のままであったのに、ここでは上半身はシャツ一枚、下は褌のみというほとんど裸の状態であった。尚両手を後ろにして縄で縛られており、かつ両肩から股間まで縦横に数条の縄で縛られていた。
またその他全員が縄で胸や腰を縛されており、そのまま投げ込むように棺の中に入れてあった。
死因は一人が瓦石による額骨陥没以外は全員が刃傷によるもので、しかも頚骨切断或いはそれに近い状態であるところから、そのほとんどが寝ているところを襲われたと思われる。
大庭は、縛したのはおそらく死体を一箇所に集める時に縄をかけてそのまま埋葬したのだろうと言っている。
つまり引きずっていったのだろう。両手を後ろに束ねて縛し、なお衣服を剥いでいるところから処刑者としての扱いを受けたように思われる。
「その為すところ、刑人を処するが如く、実に拙者等をして憤怒に堪える能わざらしめたり。」
大庭永成の激昂の報告である。
近藤書記官も怒りをもってこの現状を花房公使に報告するとしている。
死者をどのように弔うか。日本人の最もセンシティブな領域のひとつである。まして近藤たちにとっては共に死線をくぐってきた者達のことでもあり、その怒りは甚だしかったろうと思う。
なお、京城での遺骸は更に酸鼻を極めたがこれは後述する。
艦船結集する済物浦
同じく10日の午後9時、清国軍艦3隻が入港する。威遠、揚威、超勇。候補道台馬建忠、北洋水師提督丁汝昌は威遠に乗る。
11日、近藤書記官、金剛艦長と共に馬丁を存問。日清両艦で礼砲を交換した後、馬丁が金剛に来艦。在日本清国公使の電報によって朝鮮の日本公使館の事変を知り、9日に芝罘を発して来港したとのこと。また3艦の他に砲艦も来るとのこと。更に米国軍艦も一隻来着する予定とも。
この日、仁川府使は清国軍艦を訪れたが日本の軍艦には病を発したとのことで訪問せず。
同日午前6時半、日進艦、品川丸入港する。小倉の陸軍2中隊来る。
この日、近藤書記官、杉山少佐は人夫と朝鮮船の手当てをする。
12日清国軍艦威遠が水師提督丁汝昌と共に天津に帰る。陸兵を運搬して来るためである。
正午、日進艦が碇泊場を月尾島の沖合いに移す。下関出港以来コレラ患者が発生したことにより消毒隔離のため。
同じく12日の午後1時半明治丸入港。花房義質公使、高嶋鞆之助陸軍少将、その他陸軍将校、外交官など。仁禮海軍少将が明治丸に公使を迎え高嶋少将と共に金剛艦にて諸事協議。明日13日、花房公使は仁川府を経由して直ちに入京することに決定する。
この日陸軍1小隊と鍬兵上陸して炊舎を用意し井戸を掘って野営を張る。
花房公使は明日出立する旨を書して日本に戻る品川丸に託して政府に送る。
この日、花房公使と馬建忠は互いに往来した。その時の対談で花房が公使としての来意を説明すると馬建忠が話したことは次の通りであった。
一、今回の事で貴政府の処置は至極当然のことである。適当な時機に朝鮮政府に対して貴政府に謝罪をさせることに尽力したい。
一、暴徒を教唆し対立する党を倒して政権を握るがごとき者が政治を執っては国が治まることは難しい。国王を助けて大院君を斥けたいと思う。国王は多分幽閉されているのであろう。
一 丁汝昌は軍艦及び兵隊を率いて来港する積りである。
花房、遷延の策を斥ける
8月13日、先着していた近藤書記官はすでに朝鮮側に公使入京のことを通達していたが朝鮮政府からはなんの返事もなかった。しかしこの日領議政洪淳穆なる者から公使宛に書簡来る。
「今度の事変で貴国人の多くが被害に遇ったが棺に納めて手厚く埋葬した。不幸の極みである。今国事で繁忙を極め大院君の承命を待って上申するつもりである。公使が兵隊を引き連れてきたのは一分の疑いあってのことか。我が国軍民は未だなお静まっていないから却って人民は動揺するだろう。今は大院君公の指揮により平穏無事であるが意外のことである。願わくば伴接官の所で護衛兵を留められたい。」
との意味の返事があった。
品川丸の陸軍兵員を残らず上陸させて直ちに出発の準備をさせる。また、清国軍艦の所に来ていた兵曹判書趙寧夏から後で会いたいと言って来たが、花房公使はすでに出発するつもりであるから今夜仁川にて会おうと返事をした。
花房公使、護衛兵1中隊を率いて出立、仁川府に至る。仁川の新府使が出迎え公堂を開いて宿泊所に充てた。
この後、済物浦に和歌ノ浦丸入港2中隊(先の「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報」では1中隊とあったが仁禮少将は2中隊と報告している。)来着する。また、米艦モノカシー号(砲艦Monocacy)来る。在日本米国公使から、状況を尋ねて報告せよとの命で来たと。
夜12時になって趙寧夏が仁川府の公使のもとを訪れた。馬建忠から書を預かって京城に戻る途中に寄ったものである。
趙「当日の変では軍民が皆叛乱し他に鎮圧するべき兵力がなかった。わずかに領官(尹雄烈)をして貴館に報知させたが、実に僕の注意外のことであった。賊が王宮に迫るに及んで何度か身をもって国王を庇い危難を避けた。今は大院君が執政を専らにして国王の意思が通じることはない。公使はもし入京されるなら少なくとも1大隊は率いられるべきである。兵が少ない時は却って侮りを生ぜん。今夜僕は京城に戻り国王に謁して密かに公使の入来と馬建忠の来たことを奏し、明後日に再びここに来るので、願わくばしばらくこの府に止まって再報を待たれたい。」
花房「徒にこの府に止まるを得ずといえども、明日は兵員を休息させて明後日には1隊を楊花鎮に先着させるつもりである。もしこの日に再び貴下に面会できれば報を聞いた後に出発しよう。」
翌日14日、和歌ノ浦丸の陸兵上陸。また比叡艦来る。竹添外務書記官、中山参事院議官補など。
この日、大日本公使館書記官の名で次の掲示文を各所に張る。
「我が兵ここに来る。他意にあらず、前日から我が公使が京城にあるとき乱民は党をなして公使館を焼き兵を走らす。ゆえに日本政府は特別に派兵して公使を護衛する。もとより干戈することにあらず。すなわち耕す者は鍬を捨てることなく、機織る者は止めることなく、各々安心してその生業をし、驚き恐れ動揺することなかれ。 大日本公使館書記官」
また近藤書記官をして仁川府使に明日15日には兵員が楊花鎮に先着することを通知させた。公使はまたこれを京畿観察使に報せた。
15日、竹添、中山、陸軍1中隊仁川府に来る。先発の部隊を楊花鎮に向かわせる。
伴接官尹成鎮と差備官玄昔運などが来る。
「京城の館の多くは頽廃しているので旅館に充てるべきものがない。相当の場所を設けるまでしばらく入京を見合わせてほしい」と言った。
しかし花房はその非を論じて聞かず。
(当時の日本が朝鮮との外交において一番注意していることは「遷延の策」には決して乗らないということであった。決定したことは前に前に進むことこそが大切なのである。)
尹「大院君が言われるのに、貴国は先年に慎徳公薨去の時に開港時期を延期したと。果たしてそのことありや否や。」
花房「知らず。」
尹「政府は今般機務衙門を廃した。ゆえに交際事務は従前の通り礼曹にて掌る。云々」
また趙寧夏と金宏集が来る。(どうやら馬建忠の応接はこの2人らしい。)
趙「すでに上奏は経たが大院君のことであるからどうなるか分からない。大院君は公使が率いている兵が京城に入ることを喜ばないだろう。必ずこれを城外に置こうとするだろう。公使は断然入京あるべし。その公幹(朝鮮政府に対する要求書)などは願わくば僕が京城に帰った後から提出されたい。両3日内に帰って内から賛成すれば必ず好結果に至るだろう。願わくば僕を信じてこの言を採り上げられたまわんことを。」
花房「貴下はしばらく済物浦に止まるというなら、我らはいたずらに貴下の帰京を待つべからず。貴下がもしその意があるなら速やかに帰って尽力せられよ。云々」
また、花房が先に国王宛てに出していた文書を朝鮮政府は仁川府使を通して返却してきた。格式に適わないからと言う。内容は公使が事変遭遇した時の様子を簡単に述べて、国王には公平に事後を処置してほしい、という当たり前のものであったが、文書形式がいわゆる台頭の書法でなかったことによるものと思われた。
また、玄昔運が来て「公使がしばらくこの地に止まられんことを請う。民心を憂慮しているのではなく接待の都合がある」と。
花房は無視して16日早朝に楊花鎮に向けて出発した。途中また玄昔運が来て「京城から10里西の所にある伏波亭に両3日止まって京城で客舎を整えるまで待たれんことを乞う」と言って来る。
花房「本官は日本政府の意向を奉じて再来したのである。ただ進んで王宮に赴き国王に謁見し速やかに公務をつとめるのみ。」
すなわち楊花鎮に至る。(玄君空気読めよ。)
京畿観察使洪祐昌来る。
洪「京内は未だ人心穏やかならず、また旅館も整わず。幸い伏波亭はその堂すこぶる広大で願わくばしばらくここに止まられんことを。」
そこは大院君の別荘であると言う。
花房「配慮感謝す。しかし直ぐに入京する。」
洪「それならば僕は先に帰って用意をする。なにぶん今夜設ける所は手狭であろうけど咎められないことを願う。明日になれば更に善処したい。」
花房「承諾した。」
ただちに近藤書記官に護衛兵1小隊を付けて洪祐昌を伴い京城内に先着させる。城内南山下の禁衛大将李鍾承の宅に至る。
李大将は事変24日に暴徒が乱入して家財を破壊され田舎に逃れた。柱や壁には斧や刀の跡が生々しく残っていた。
やや広いといえども2中隊を収容するには足らず、近藤は洪祐昌と相談して統理機務衙門を借り受けんとしたが公使一行もすぐに到着することにより、ついにこの家宅をもって仮の宿とした。
明治丸の金玉均
この日16日には済物浦の仁禮海軍少将は高嶋陸軍少将と明日京城に向けて出発することを定め、その後明治丸にいる金玉均から次のような話を聞いている。(「仁礼海軍少将ヨリ朝鮮国実況郵報・二条」のp37)
「今朝鮮で多数を占める意見は、支那の兵力を藉りて内地の暴徒を鎮圧し、その力によって国政を改革するの論であるが、我等は決してそのようなことは願わず、他国の力を借らずして国政を一新することを切望する。死を決して王に面謁し一度このことを上奏せんと決意したが、これを止める者が多いゆえに思い止まった。また、魚允中は大概自分と同論であるが彼は思慮深き者であるから今度の事件の落着後に為すことがあろうと思う。云々」と。
(あ、そ)
なお、この後仁禮少将は上陸した金玉均が18日に錦陵尉正一品である朴永(泳)孝ら4人を伴って戻り、京城あたりでは潜伏出来難いので逃れてきたと言って避難救護を求めたので品川丸に滞在させている。(「同上」のp5)
・明治維新後の政府の朝鮮との外交方針は一貫していた。すなわち「永遠の善良なる交際」である。これはかつての黒田全権派遣時においてもその意とするところは同じであり、日本公使館を焼かれ多くの日本人の命が奪われた朝鮮事変時において尚そうであった。また外交方針の基本となるものは「万国公法と情誼(友好の精神)」であり、花房公使に付与された訓条はそのことを如実に語るものであった。
・国家の近代化の過程で様々な内乱を経験して来た日本政府は、朝鮮事変もまた朝鮮が近代化する過程でありがちな一つの事変であると冷静に見ていた。
・もちろん、朝鮮政府の過失責任は免れないことである。故に日本政府は次の箇条の要求書を提出することにした。要求書は、1、文書を以って謝罪。2、15日以内に犯人逮捕と処分。3、日本人被害者への補償。4、条約違反と出兵用意の経費賠償。5、今より5年間、公使守衛として十分な兵員を置くこと。6、日本人商人のために市場を開くこと。
・また、「其の責に軽重の区別あるべきの情理にして、もし其の責軽ければ我が要求も従って軽からざることを得ず。其の責重ければ我が要求も従って重からざることを得ず。」とあるように、朝鮮政府の責任の軽重又その出方によっては対応も変えざるは得ないことである。その責任が重大な時は、7、巨済島または鬱陵島の譲与を以って謝罪の意とすること。8、政府内に兇徒を庇護する者があった時は罷免して相当の処分をすること。9、朝鮮政府の出方によっては臨機に応じる。であった。
・これらは例えば、要衝の諸島を占領して以って要償の抵当とすることは、万国公法上の許すところであったが、それら強償処分に出る程の過失ではなかったのでそこまでには至らなかった。
・このような日本政府の行動に対して、清国は軍艦と兵員を派遣して調停したいと言った。しかし内部的には「中国もまた使節を送り派兵をして高麗を鎮圧し凶徒を懲罰し以って謝罪させるべし」との在日本清国公使の意見もあった。また米国も軍艦を1隻派遣して、その実情を詳しく知ることを求めた。
・日本政府は万国公法に基づき調停を断ることが出来る。しかし清国は、属国で起きた事件であるから兵を送って日本公使を保護したい、或いは朝鮮政府に謝罪させ、或いは又大院君を斥けて国王を助けたい、と言った。また米国も朝鮮は清国の属藩であると承認した上で米朝通商条約を結んでいたらしい。これに対して朝鮮の自主独立を認める日本は、万一の場合は清国と事を構えることも想定の範囲内に入れていた。
・また朝鮮事変の遠因は米朝通商条約を無理に結んだことにあると言える。守旧派は日本とは3百年の交際があると認めていたが、西洋人と交際することは最も嫌悪していたからである。いわば大院君たちの八つ当たりに遭ったようなものと言える。
・仁川の済物浦に先着した日本外交官は、真っ先に仁川府の墓地に埋葬されている日本人被害者の検死をした。その結果、朝鮮政府は「手厚く埋葬した」と文書で言っていたが、戦死者を見慣れているはずの日本軍人すら異常に思えるほどの残酷で無情な死体状況と扱い方をされていた。「その為すところ、刑人を処するが如く、実に拙者等をして憤怒に堪える能わざらしめたり。」共に死線をくぐってきた大庭永成の激昂の検死報告であった。
・すでに清国の軍艦が展開する済物浦に到着した花房公使は、直ちに護衛部隊を引き連れて京城を目指した。途中、朝鮮政府の者が「宿の用意が出来ていない、数日間待ってほしい」などと何度も止めようとしたが、花房公使はそれを斥けて仁川、楊花鎮、そして京城と向かった。当時の日本政府が朝鮮との外交において一番注意していることは、朝鮮の時間引き延ばし戦術である「遷延の策」には決して乗らないことであった。決定したことは前に前に進むことこそが解決の唯一の道だったからである。
・公使と共に来た開化派の金玉均は、しばらく上陸して開化派の何人かを連れて戻り、京城潜伏は無理であると日本に救護を求めた。国政の独力改革の志を日本人に披露する金玉均はその理想と現実の違いをどうもよく理解できていないように思われた。
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