明治開化期の日本と朝鮮(20)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

 

「朝鮮事変弁理始末/1 死者礼葬」より「済物浦墓地略図」 堀本中尉以下事変で戦死した日本人が眠る。全て土葬である。肉体は大地に還り而して御霊は靖国に祀る。もっとも私費語学生の近藤と黒澤については、井上馨外務卿が靖国合祀を請願したが許可されなかったようである。(「同国ニ於テ戦死ノ私費語学生近藤道堅外一名靖国神社ヘ合祀ヲ請フ件 A01100224000」、「朝鮮国ニ於テ戦死セシ語学生靖国神社ヘ合祀ヲ許サス A03023647100」)
 しかし両名は、明治八年の太政官第百八十七号「一般人民、時機止むを得ず場合に於て身の危難を顧みず巡査同様の働きをなし死傷の者は同年一月第三号御達巡査死傷者吊祭扶助治療規則に照準し取り計らうべき旨・・・」により巡査と同等の祭祀料を下賜されている。(朝鮮国私費留学生故黒沢盛信外一名ヘ祭粢料下賜ノ件)

生死不明者の行方を求めて

 日本側が最も緊急を要したのは、堀本中尉ら生死不明者の行方とその救護である。花房は勿淄島で英国艦に乗り込む際にそのことを求めた書を雇っていた船主にも託したし、仁川でも府使に伝えてもいたろう。

 事変についての情報が最も早く得られたのは京城に近い元山に於てであった。奥義制が徳源府弁察官から聞いたところによれば、
 「今月23日に朝鮮兵士が暴挙。公使館を焼き、日本側に3、4名、朝鮮側に数十名の死者が出る。公使は仁川に出張中で、兵士は翌日には王宮に攻め入り、大臣や米倉の長官殺さる。原因は兵士に米を渡さなかったことを怒ってのこと。城門を固めて商人以外は出入りさせず、今のところ平定するかどうかも分からない。」などであった。
 それで奥は、直ちに元山に碇泊中の軍艦磐城(国産砲艦 656t 長さ 46.9m 幅 7.9m 15cm砲1門、12cm砲1門, 12ポンド砲2門、4連装機関銃3挺 乗員 112名 )を下関に行かせてそこで食料を積み込み、直ちに仁川に向かわせたいとの電報を下関経由で発した。時間を遡ると弁察官から聞いたのはおそらく7月29日であろう。(在朝鮮元山港奥義制ヨリ激徒暴挙ノ原因及碇泊軍艦仁川ヘ航行ノ電報到達)
 「日本側3、4名の死者」は明らかに堀本中尉たちのことと思われた。

 次にその詳細を得たのは、京城から釜山に遁れて来ていた朴永圭という閔泳翊(この時どこかに身を隠しているという。)の腹心の者である。その事情聴取(8月3日以前)によれば、日本人の死体が南大門内に1個、外の蓮池に1個、大路の曲がり角に1個、監営前に3個、清水館(公使館)前の蓮池に1個あったとのことであり、堀本中尉と語学生ら巡査ら生死不明者7人と思われた。(在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス)

 一方、仁川府の方はフライングフィッシュ号に同乗した久水三郎が、艦長と仁川府の官吏との対談により、すでに府の墓地に日本人6人の死者を各々箱に収めて埋葬したとの話を得た。(朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日)


朝鮮政府大臣と要人たちの生死

 また、国王は無事であったが王妃や大臣、政府要人も殺されているという情報も入ってきた。(在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス)
 以下は閔泳翊腹心の朴永圭の談による死傷者、また家屋を破壊された者たちである。

 死傷者
 中宮殿(閔妃)、世子妃、前領議政李最應、宣恵堂上閔謙鎬とその子、京畿観察使金輔鉉、参判閔昌植、輔國大臣閔台鎬、前恵堂尹滋悳、前大将李鍾承、別技軍左副領官兼南陽府使尹雄烈、参判韓聖根、参判李鎬翼、その他多数。

 毀された家
 李最應、金輔鉉、尹滋悳、李鍾承、尹雄烈、韓聖根、李鎬翼、金玉均。

 放火されて灰燼となった家。
閔泳翊、閔謙鎬、閔台鎬、天然亭(日本公使館のこと)

 悉く閔一族と開化派の者たちである。もちろん誤情報もある。閔妃、世子妃、尹雄烈も無事であったし、閔台鎬も大院君側に立っている。また玄昔運の家なども破壊されている。(玄君はすっかり開化派と認められていたらしい。)

 しかしこれを見ても単に軍民の叛乱というものではなく、閔一族と開化派の者を最も憎む大院君勢力の策動によるクーデターであることは明らかであった。

開化派が語る事変の経緯

 京城から元山に遁れて8月24日に下関に渡ってきた尹雄烈と、閔泳翊の腹心である朴永圭の話を総合すると、彼らが目撃した事変の経緯は次のようなものであった。
(「在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス」、「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日」p26〜)

 まず2人の共通した見解は、事変は大院君の画策によるクーデターであるということであった。
 尹雄烈の話によれば、大院君たち守旧派は依然として今の朝鮮政府の外交政策に反対であり、中宮殿(王妃)と閔氏の日本との外交は必ず邪教(キリスト教のみならず西洋文明そのものを指すようである。)を招き入れるとか、今の日本人は人類に非ずとか、頑固甚だしく、何度か叛乱を画策していたということである。
 そのまさに乱が起ころうとする兆候はまず昨年(明治14年)の5月(朝鮮暦)に一度あり、その時は事前に察知して国王に上奏してそれを防ぎ、またその年の8月(朝鮮暦)にもあったがこれも事前に告げる者があって幸いに乱となるを防いだ。(同上p33)

 しかし今度のは全く事前に知ることが出来ず、またその日(7月23日)は王宮に宿直していて、知ったのは既に乱が起こっている最中であったという。
 それで急いで教練所の堀本中尉に報せ、日本公使館にも通報の者を送ったが、しかし堀本や語学生らは下都監を出て公使館に向かう途中の南大門付近で襲撃されて殺害されたとのことであった。

 またこの時、尹雄烈は軍の乱であることを知っていなかったようである。あるいはその言に「負商とは商人中最も最下層の者で、瓦や土器や木器を売買する者を云う。乞食民家の類であり、その数は数万人である。近年大院君は彼等を党として集め、乱を企てようとしたことがあり、それもまた国王が事前に知るところとなり、今年の春にそれらの行商人を武衛営に属させるという鎮撫策をとった」(同上p35)とあったから、またそのような乱民の類であろうと判断したからであろうか。

 この時公使に報せた尹雄烈の書には『乱民が党をなして今兵隊と戦闘となっている。日本諸公を攻撃せんと欲する意があるようである。もし日本公館を侵撃する悪人があれば、銃を放ち剣を揮って自衛の策をされたい。』とあり、兵隊とは100人の別技軍であり乱民とは政府軍であるとは書いていなかった。だからこそ、花房は、「もし乱民あって我が公館を犯さんとするなら、政府よろしく兵を派して護衛されるべし。」と答えたのであり、結局のところはそれが判断としては誤りとなってしまったのである。

 また朴永圭は事変に至った事の発端を次のように詳細に述べた。

 「暴動の目的は、閔氏を減し外国人を排斥するために大院君が企てたものである。その使役した者は訓局の軍兵、すなわち5772名である。先ずこの訓局の軍兵に給料を渡さないこと既に1年間になる。本年6月(日本暦7月)に至って1ヵ月分の給料を渡したが、その給料が雑穀交じりの「陳腐米」であったので、兵卒(下士官)数人が軍資監に行って庫直(雑役係)に迫りこれを殴打した。庫直はすぐにこの4名を捕縛した。他の兵卒らはそれを聞いて赦免してもらうために武衛都統使と壮禦大将に訴えると『それは知らなかった、すぐに問い合わせよう』と言った。それで兵卒らが直接に捕庁(警察庁)に行くとすでに2人が処刑されており、後の2人もまさに刑されんとするところであった。それで即時に2名を救い出し、直ぐに大院君の所に行ってこの事を訴えた。大院君ら守旧党は、前から事を挙げんと企てている所にちょうどこの事があったので、大院君は『汝らの願意は聞き届ける。その間にこれらの者を誅殺し、また日本人を鏖殺せよ。』と自らその名前一覧を書いて与えた。また、最近上疏して獄に繋がれていた白楽寛なる者を獄から引き出させて兵の指揮を命じた。兵卒はこれにより仲間を募って当初200名を糾合し、まず下都監の閔謙鎬の家を襲った。次に日本公使館を襲撃した。夜になって兵卒たちが全員集まり、手を四方に分けて閔氏一門を襲い大院君の記した名簿の者を殺し、更に王宮に迫った。これにより大院君も王宮に入り、兵卒をいさめて『我の言を用いよ。我は今から国家の大事を処する』と述べて中に入り、ついに王妃を薬殺した。」

 尹雄烈が語るのに、この時別技軍は僅かに100名ほどであり、しかも日曜日に当たっていて多くが家に帰っていた。また叛乱兵は真っ先に武器庫を襲撃して武器を奪ったためにどうすることも出来なかったという。尹雄烈が逃亡できたのは、叛乱兵が閔氏一門を襲い、王宮にも迫って尹雄烈を差し出すように要求した時に、それを知った国王が直ぐに逃げるように言ったからである。当初尹雄烈は頑なに拒否して王の側に居ることを欲したが、国王から、今死んでは無益である、もし生きていればまた国を建て直す好機の望みもあろうから生き延びよ、と説得されて、ついに慟哭して王宮を離れた。
 服を召使の粗服に替え頭に農夫の笠を被り雨の中を逃げたという。背後には銃砲が鳴り響き地が轟き火光が天まで照らしていた、と。

 当初釜山に向かうはずであったが道が困難なことから元山に向かった。途中の寺の一庵に入り京城の様子を知ろうと数日を過ごしたが14日(日本暦7月28日)になって訪ねる者があるということで会ったら、頭を丸めた僧侶姿の閔泳翊であった。躍り上がって手を握り合った。翌朝、寺の僧侶が言うのに、10日(日本暦24日)の夜に叛乱兵が王宮に入り国母を殺し大臣たちを殺した。また閔某と尹某(閔泳翊と尹雄烈のこと)が逃亡中であるからこれを捕らえよと、大院君の命令が四方に発せられている、と。李相公(前領議政李最應、大院君の兄)もまた殺されたと。李最應は心からの開化の人ではなかったが、その子である故李載兢が主和者の中心人物であったから殺されたのである。王宮を去った日に一謁したが、その容貌が眼に残り忘れることが出来ない。(李最應は、いつもはっきりとした考えを示さずに誰の意見も聞くところから、その曖昧な態度を悪く言う者もいたが身近な者からは逆にその人柄が愛されていたようである。)その死は刀や槍で残酷に殺されるというものであったと聞いた(尹雄烈に同行した李秉輝の談)。
 これよりまた逃避行となり、途中別れて閔泳翊は金剛山に向かい、尹雄烈は通川に向かい船に乗って元山港に入り、日本の本願寺説教所に入って匿って貰った、ということであった。

 京城では、開化に心を寄せ日本人に親しんだ者は全て殺され或いは捕らえられた。百姓や兵卒たちは皆、倭人を殺した、倭人を殺した、と歓喜雀躍するに至ったという。

 

大院君の通達

 国王は害されずに無事であったが、大院君が政道となり百事を総裁した。
 しかしこれによって実権を握った大院君の外交は、とりわけ日本に対しては実にとぼけたものであった。いわゆる「朝鮮人待日本人六條」の「閃弄と変幻」である。

 元山、釜山、また仁川に着いた英国艦の久水たちが、事変の情報を朝鮮側から得たことを総合すると、大院君はすでに7月25日付けで各府に通達をしていたようである。
 釜山の東莱府使の所にも、日本の領事に説明するようにと通達や大院君直接の私信が来ており、通達の日付は朝鮮暦6月11日とあるから、日本では7月25日となる。(在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス)

 したがって、この後以降の朝鮮政府側からの情報は、事変の原因や経緯なども含めて全て大院君勢力の息のかかった情報であり、真偽の判断は難しいということを考慮しておかねばならない。

 さて、8月3日午後3時頃、釜山の副田節領事のところに東莱府使が突然訪れ、政府から今度の事変について通達があった、と伝えた。(在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス)
 府使は、
 「この度の事変は全く内乱に属するところのもので、その余勢がついに貴国の公使館に及んだものである。政府においても多数の要人が被害を受け、兵卒たちは全て叛徒であるから、その保護も行き届かなかったことは、真にもって気の毒千万な次第である。早速貴政府に書契も差し出すべきであるが先にこの意を領事館に通知して本国への報知を依頼するようにとの命令であった。」と述べた。

 更に大院君から自分に私書があったとしてその内容を洩らした。
 「この度のことは全く朝鮮国の内難であって日本国に関したことでは少しも無く、その余勢が公使館に及んだのは真に不安の至りである。しかし朝鮮人民は遠方にあって大声を発して小石を投げた位が最たるもので、決して肉迫して闘うようなことは無く、公使館の館員たちはそれをよく判断せずに、ただ情況の激しきを見て驚愕の余りに思い過ごしをしたと思われる。云々」

 これに対して副田領事は、
 「昨日から今度の事変の首謀者をお尋ねしても、未だ分からずとのみ申されているが、自分はこの私書を送った人こそ首謀者に違いないと考えられる。」と言った。

 すると府使は少しく動揺したような態度を見せ、どこから聞き込まれたのか、と問うので、副田は、これまでのことを含め様々な情報を総合すればそういうことになり決して間違いないことである、という意味の事を答えた。

嘘とごまかしの大院君

 また、仁川に碇泊するフライングフィッシュ号では、8月7日に大院君の使いが来て艦長(R.F.Hoskin)と対談をしている。(「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日」のp13)
  その使いとは、かつて済物浦居留地測量のために共に出張してその後に花房一行を仁川府で迎えた差備官高永喜である。当然、通訳の久水三郎、高尾謙三もよく見知る者であった。しかしまるで別人物のように顔色が憔悴しきっており、当初その誰かが分からないほどであった。聞けば、仁川府での当日は自分も危うく難を逃れて姿を変えて4日目にして京城に入ったが、あれからまだ家には帰っていないという。
 ホスキン艦長の質問に答えたその要旨は、
「 国王は無事、王妃はじめ4大臣すなわち李最應、閔謙鎬、閔昌植、金輔鉉は死んだ。王妃は賊が乱入するのを見て驚き倒れて死んだのであり、賊の手にかかったのではない。仁川府使も先日から急病で死んだ(明らかに毒殺であった)。政府は大院君が専ら政令をとっている。大院君は守旧家ではない。今度の乱前まではそうであったが、今度の乱の挙動に憤気止む無く自らの守旧の愚かさを悟り、日本公使館員が乱賊のために横死せられたのを最も憫然として追悼し悲憤は胸に迫って、外交の甚だ大切なことを悟り、懺悔の色を現して日本公使は何れにあられるや、またその安危はいかに、と切に公使の事を思わないことがない。公使には一日も早くこちらに来られてお会いしたい、と。自分は乱後まだ家に帰らずに常に大院君の側に留めおかれている。もって大院君の言動の真実であることを証する。」
  というものであった。

 懺悔の色を現したにしては未だ1人の挨拶の使節も元山・釜山の領事館にすら送ってはいないのだが・・・。花房がこの報告を聞いたときに「ハァ?」とでも言ったろうか。もし森山茂ならフフンと鼻で笑って侮蔑の色を新たにしたろう。

 嘘とごまかしは朝鮮外交の伝統の手法であるが、今度のはその最たるものであった。

 さて上記は英国に向けてのものである。通訳は日本の外務省職員であるが、話し相手はどこまでもフライングフィッシュ号艦長ホスキン氏であり、つまるところ大英帝国に向けての必死の言い訳とも言える。

 では日本に対してはどういう態度だったか。

 8月11日に釜山の前田献吉総領事の所に東莱府から朝鮮政府の書簡を日本に送ってもらいたいと言って来た。差出人は礼曹判書、宛先は外務卿井上馨である。
 その時は丁度日本向けの汽船が出たばかりであったから、総領事がこれを日本に送るには次の便まで待たねばならないと言うと、ぜひ至急に船を雇ってでも送りたい、と言うので湾にいた日本漁船を朝鮮側の経費で雇い入れて送ることになったものである。
 内容的にはそう急ぐものでもないが、大院君の命令を疎かにすることの恐ろしさをよく知るからであろうか。

 その書簡は3通あり、1つは、日本との外交の窓口として新設していた統理機務衙門などを廃止して以前のように礼曹判書とする、という通達。1つは、鬱陵島で日本人が木を伐採しているから取締りを厳重にするように望むという通告。もう一つが、朝鮮事変についてのものであった。

(「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 1 〔明治〕15年8月10日から〔明治〕15年8月15日」p37 より意訳一部略。括弧は筆者。)

大朝鮮国礼曹判書 李 會正  呈書
大日本国外務卿   井上馨 閣下

貴国と我が国は修睦して久しく三百年、開港通商、往来交際・・・(略)
 我が国の軍民なお旧習にこだわり、少し見て多くあやしむ。貴国人が来るたびにすなわち疑いを抱き、貴国人(堀本中尉のこと)は我が国の人(兵士)を見て、いろいろと難しく言い「そうではあるまい、こうであろう」と難詰弁論する。これによって時に弊害が生じたことは貴政府も必ず諒解することであろう。
 洞察するに、本月初九日(7月23日)に思いもかけず、我が国の兵民が小さな事から始めてたちまち怒りをあらわし、大騒動となり、千人万人が集まって蜂起して家屋を破壊し人命を殺害し、教練場に入って教官を手にかけた。防ぐことも出来ずに三人が死んだ。また四人も死んで路傍に倒れた。継いで清水館(公使館)を襲って火にかけた。
 貴国人は銃を打ち剣を揮い我が国の人を殺した。その数は殆ど数十人を超える。
 まったく我が国の不幸であり、貴国の不幸であった。
 無知の軍民は解散せずに初十日(7月24日)には我が大臣を害し王宮に侵入して咆哮し驚かせた。王は避難し、宰臣二、三人が殺されるに至った。
 これは千古の昔から無かった大事変である。花房公使は機を見て(難を)避けて済物浦に至り舟に乗る。その日時は分からない。
 すでに貴国に至る頃、兵民が仁川に追い、路上に殺した者六人、また京城に留まって殺された者、共に手厚く埋葬して明白なる墓標を立てた。調査検証を待つは偽らざることである。
 この度の驚きを鎮め安んずるに、幸い頼むに我が国太公(大院君のこと)あり。その威信はあまねく及ぶ。寛厳を互いに用いて干戈の中に自ら入り(兵民)の責任と義を諭した結果、感じ入って退散せぬ者なく、全ての者たちが頼ってついに恐れが無くなった。これ全く我が国の宗廟神祇生霊の徳による福である。これにより(元の平安に)還った。
 お互いに照応する条約と永遠締結の旧交があり共に遵守するものであるが、今度の事は、すなわち不幸に始まり大幸に治まったと言うべきである。
 思うにこれは貴政府も決して過ぎた語であるとは思わないことであろう。

壬午年六月 日
      礼曹判書 李 會正

 下関に臨時に設けられた外務省出張所の宮本小一は、この書を読んで井上馨外務卿に次のように報告している。
「事変に関しての書契文中の、『陸軍伝習で「弁詰滋弊」は我が政府も察知する所なるべし』とあり、また公使一行の遭難については気の毒であるとの語も無い。これ全て我が政府に対して不満足且つ敬礼を失いたる文体に見える。我が政府は果たしてこの書契を接収するか否かは知らないが、自分は途中で取り次いだだけであるからその写しだけは送る・・・」
 また、「『弁詰』とは『そうではあるまい、こうであろう』と難詰弁論すること、という意味であることを朝鮮人に尋ねて知った。」とも。

 つまり、堀本中尉が教官として指導する時にいろいろやかましいことを言うので弊害が生じたことは日本政府も察知することであろう、と暗に軍乱の責任を日本側に被せんとする文なのである。

 筆者思うに、現代ではこの時のことについて『堀本中尉は傲慢で兵士から憎まれていた。』などとまるで見てきたかのように記述する者がいるので、果たしてその根拠は何であろうかと思っていたのであるが、おそらくこの書契からの空想であろうか。

 堀本中尉が指導していたのは国王近衛兵たる別技軍である。朝鮮五軍営の志願者から選び抜かれたいわばエリートである。そのエリート志願兵が鬼教官の厳しい指導に耐えかねて、教官は殺すは、大臣も殺すは、別技軍の営舎は壊すは、日本公使館も焼き討ちするは・・・・というわけですかな?
 たとえ朝鮮人が大馬鹿者であったとしても、そこまではありえないだろう・・・と思うが。

 この書契には英国向けのポーズのように、公使を気遣い思いやり反省する姿は微塵も無い。
 宮本が指摘するように、気の毒であるとの語も無く、罪を日本側に被せて何食わぬ顔でやり過ごそうとする傲岸不遜の大院君の表情が見えるだけである。蔑視するとか見下すとかの表現では到底あらわせない、日本人に対する強烈な差別感情があることも伺えるものである。

 さて花房義質はどう思ったろうか。もっともこの書契は後に花房の手によって朝鮮側に突き返されているが。

 

尹雄烈の慨嘆

 ところで、開化派の過激派である徐光範と金玉均は日本視察を国王から命じられて6月1日に来日しており、そのまま長期滞在していて事変に遭遇していない。(朝鮮国金玉均徐光範来着ノ件 )
 当時、難を逃れて釜山・元山の居留地や下関まで来た朝鮮人は少なくなかった。中でも尹雄烈は開化派の中心人物の1人でもある。

 尹雄烈とその同行人である李秉輝(士族、別技軍士官兼教練書記官)、李春植(尹の家人)が元山津から千歳丸で下関に来たのは8月24日であった。当初、宮本小一は堀本中尉と共に死んだと言われていた尹雄烈が生きていたことに不審を抱き対面しようともしなかった。ただ尹雄烈の子息が日本に留学中であるから父親の無事を報せれば安心するだろう、と井上外務卿に報告した。すぐさま井上から電報が来た。(在馬関宮本外務大書記官ヨリ韓人尹雄烈ノ事ヲ電報ス並ニ回報)
「なぜに尹雄烈に面会しないのか。直ちに彼に面会し彼の意見及び暴動以後の模様など知るところを聞き取り直ちに報告せよ。また速やかに東京に来させよ・・・」とお叱りを蒙った。宮本が直ぐに外務省出張所に呼び寄せると、粗末な日本単衣の一枚にシャッポ一つの姿で現われ実に困窮の様子であったので、宮本は取り敢えず旅費や衣服一揃えの金銭を支給した。

 事情聴取した宮本は当時43歳の尹雄烈の印象を次のように述べている。
 「同人儀、活発なる才気はこれ無きように相見え候えども、天資正直一途に開国に着目する者のように相見え」と。

 以下8月25日の宮本小一と尹雄烈の会話である。朝鮮語ができる外務省職員は皆朝鮮に行っているので筆談となった。

(「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日」p29「別紙 筆話」から抜粋意訳要旨。)

宮本「かつて東京で会ってからもう6、7年たつが夢のようである。今回の事変で万死の中に一生を得られたのは真に幸いである。また、日本に来られるまでの苦労の大変さは想像に余りある。ご子息は東京で勉学に励んでいる。無事を聞いたらさぞ喜ぶとことと思われる。」

「今尊顔を拝して真に幸いの至り。自分が生きていられたのは我が国王の恵沢によるものである。なおこの後は貴国諸公の恵沢を頼みたい。」

宮本「今来日して難を避け、一時の安心を得たが、今後どうされるか。」

「それは自分の身一つのことを言われるのか。わが国は小国で東北には山が多いといえども、身一つを置く所が無いわけではない。また西は清国に接し北はロシアに連なっている。それをどうしてわざわざ貴国に向かおうか。」

宮本「言われることは分かる。しかしその詳細を知りたい。」

「花房公使が我が国に来て6、7度会い、僕は敏ならずといえども公使の情ある交わりに与った。故に日本に来て、両国の事を相議して図るために来た。しかし公使は既に去って(この時すでに花房は護衛軍を引き連れて朝鮮にて談判中である。)、また貴国の言葉も通じないので問うことも出来ない。貴政府が我が国にどのように対処されるのかも知らない。果たしてどのように措置されるのか。」

宮本「我が政府は花房公使に訓条を与えて以って貴国京城に再び行かせた。事変に遭難したのはなぜかを朝鮮政府に問うためである。もし朝鮮政府が誠意ある対応をするなら、処置は公平に帰結する。それ以外に我が政府には他意はない。しかしどのようになるかは分からないが。」

「貴政府の処置は当然の事である。しかし僕はただ臣として君王を知るのみ。人の子として父を知るのみ。今我が国の国母は殺され国王は孤立し朝夕に危急にあると言えど、ただ悩むしかない。僕の愚考であるが、貴政府が先ず兵力をもって乱をなした首謀者を捕らえ、隣国の変乱を平定し、以って両国友好の条約を全うするなら、これ千万の大望であり大幸である。もし日月が遷延するなら他国は乱を利用して何をするか分からない。」

宮本「乱をなした首謀者は果たして誰であろうか。これを捕らえるのは極めて難しいが。」

「我が国で乱の首謀者を知らない者は1人もいない」

宮本「近頃聞いたことに、大院君の執政は前非を悔いて外交を重視し、公使の京城入りを厚く遇したと言う。それで罪を問うても乱をなした証拠があるわけでもなく、どのように処置すればよいのか深く悩む所である。」

「この人が外交に目覚めたというならこの数10年は何だったのか。ついこの前には清水館(日本公使館)で事変があったばかりである。これは必ず老奸の計である。外交に意を置くというなら何故に外国人を殺すのか。貴国人の10余人が罪無くして害されたのである。もってこの言が何なのかは明らかであろう。」

宮本「大院君が果たして全外交を置くかどうかは分からないが、もし馬脚を露にするようなことがあれば、その時に我が政府はこれを追及するも遅くは無い。我が国の人間が惨たらしく屠殺されたのが大院君の意によるものとしても、それを示す証拠は明らかではない。ゆえに直ぐに責めることはできない。ただ直接手を下した者を責めるだけである。もし老奸の指示による証拠を得たら我が政府はこの人を許さない。必ず報いを受けさせるだろう。」

「老奸の証拠を述べたいが、僕は漢文が苦手でうまく書き表せない。同伴している李秉輝が達筆であるから彼に書かせてこれを呈しよう。」

宮本「それはよい。ぜひ詳細を知りたい。」

「花房公使宛ての書として宮本大人にも見てもらうということでよかろうか。」

宮本「然り。速やかに閲覧できることを願う。ところで、家族の安否はいかがか。」

「安否は分からない。牙山地方に郷里の家がある。京城には妻が居り弟も居る。家を壊された時にどうなったか聞き得ない。京城を出た後に家人が1人ついて来ただけである。おそらく哀れむべきことになっているだろう。」

宮本「仁川からの情報によれば趙寧夏氏は大院君に従い執事となり、金宏集、玄昔運、高永喜また従事していると。また統理衙門や交隣司など皆廃止して旧のように礼曹による外交となったと聞く。」

「僕の聞くところによれば、趙氏は果たしてそうだろうか。金宏集は乱軍に殺されたと聞いた。また玄昔運は命は逃れたが家は破壊されたと聞く。武衛営、統理衙、交隣司を皆廃止したと言われるが、これを以って見ても老奸の計であることを知るべきである。もし外交の意があるなら何のために交隣司を廃止しようか。」

宮本「副田領事によれば、先生は閔泳翊参判にあったと聞くが。」

「京城から百十里の山玉寺で閔氏に会った。」

宮本「閔氏はどこに避難されるつもりか。」

「閔氏もまた日本に行くことを望んだが、追っ手が多くいて今は深山に隠れていると思うが動静の詳細は分からない。」

宮本「今度の事で志士は各地に雲散霧飛して再び集合するのは難しいであろうし、甚だ嘆かわしいことである。貴殿はこの地にあってまた何ともし難いであろう。もし東京に行くことを望まれるなら尽力するが。」

「初めこのまま下関に止まらないつもりであったが、如何せんどうしようもなく数日疲労困憊していた。しかし子供も東京に居り、今そのことを承って感謝千万である。東京に行くことを幸い望みたい。」

宮本「同行の両氏はどういう人なのか。」

「李秉輝は士族であり別技軍士官兼教練書記官であり、まさに心を一つにする同志である。また1人は僕の家人である。」

宮本「ここ下関には新聞記者も多く集まっている。貴殿が来ていることも知っている。おそらく新聞記事に書かれていずれ海を渡って貴殿がこちらに来ていることを皆が知るであろう。大院君の耳に届けばその怒り甚だしく貴殿の家の人にも禍が及ぶことを危惧している。」

「僕もまた甚だしくこれを憂う。」

宮本「事が鎮まるのを待つしかない。日本人の服装をして名前も変えてしばらく東京に滞在するしか他に策は無いであろう。東京には李秉輝という人も同行されるか。」

「ご指導感銘する。李氏はこれまで死生不離の者であったから同行したい。」

以下略。

 この中での尹雄烈の「・・・武衛営、統理衙、交隣司を皆廃止したと言われるが、これを以って見ても老奸の計であることを知るべきである。もし外交の意があるなら何のために交隣司を廃止しようか。」と言う言葉は説得力がある。日本との窓口を旧に戻したということは開国以前の状態すなわち日本清国を除いて全外交を閉じたということに他ならない。おそらく大院君は米朝通商条約も破棄するつもりであったろう。守旧派の上疏などが活発となったのはこの米朝通商条約のことをめぐってであり、西洋人との交際こそ守旧派が最も嫌悪するものだったからである。

 また以下は文中にある、尹雄烈が述べた大院君が乱の首謀者であるとの詳述を李秉輝が漢文として提出したものである。

(「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日」p36「尹雄烈ノ書取」から抜粋意訳要旨。)

 前の大院君の執政は国を思うままにする権力となり、民の財は涸れ、好んで刑しみだりに殺す。よって人望を大いに失う。これにより我が国王は閔氏を執政に任じた。大院君はこれに不満を持ち叛乱を企てんとして10年になる。
 昨年我が国は貴国から教練の兵を迎えた。しかしその時の流言に、「王妃と閔氏ともに日本と交際して邪教を広め、ここに邪教を教える教師を迎えた。今に数千人が乱を起こして教練場を襲撃する」と。また言うのに、「日本公使からの贈り物の食品は人を使って捨てさせている。これを食べると心が変わって邪を学びたくなる」と。あるいはまた、「日本人は人類ではない」などと。
 その陰険凶悪なる流言悪言は国家有事となることを扇動する者の謀である。
 今度その機があって兵が叛乱し国王を脅し国母を殺し親や兄を殺した。それは開化の者と貴国の人たちを一網打尽とする勢いとなった。これらは日頃から彼らが欲していた事である。
 国王の権威を奪い、ついに思うままに恨みを晴らし、彼らが言うところの「邪教の党」の人々を殺し、それはここでは書き表せないほどである。
 この人の罪悪は我が国の憂いである。貴国に関することではないが、しかし両国は好隣の結びをしている。およそ危難あれば相救い合うは一大義理である。まして貴国の人の復讐をしなくてどうして光明正大の師と言おうか。
 僕は日夜痛恨の極みである。すなわち今や我が国は宰相から人民に至るまでやや開化に至り、故堀本公の招きに連なり接する者も多く、まさに志ある者達の業が成就する時機であった。それがこのような不幸となり凶禍となったことを悲しむ。

 

乱の首謀者

 さて、この尹雄烈の弁と閔泳翊の腹心である朴永圭の詳述と、事変の日に水野陸軍大尉に朝鮮人「某」が提供した情報と、さらに事変後の大院君執政下の朝鮮側の対応とを総合して見ると、軍乱の首謀者は大院君であることはほぼ間違いないであろう。つまり、兵卒の給与をめぐってのトラブルは処理次第で一つの事件として解決できる性格のものであった。しかしそれを軍乱にまで導いたのはまさに大院君の指示によるものであったと思われる。
 閔氏の力を削ぎ別技軍を解体し、開化派と「邪教」を指導する京城の日本人を一掃する。そしてその責任は兵卒と愚民のせいにし、また日本にもその責任があると言い募り、交際の仕方は旧に復したいとする。もし尹雄烈なども殺され公使館の日本人全員も殺されていたらこの後どうなっていたろうかと思う。

 なお朴永圭に託した閔泳翊の日本への要望は次のようなものであった。
「日本から手強い談判があることを強く望む。それまではいずれかに潜伏し、日本の軍艦が仁川湾に来る等のことがあればこれに乗りたい。また日本からの談判が穏やかなもので今の情勢が続くなら自分は生存の望みはない。」(在朝鮮国領事副田節東莱府使公書ヲ奉シ来館ノ始末ヲ報ス)

 また、尹雄烈は「僕の愚考であるが、貴政府が先ず兵力をもって乱をなした首謀者を捕らえ、隣国の変乱を平定し、以って両国友好の条約を全うするなら、これ千万の大望であり大幸である。」と。

 結局は日本の力に頼らざるを得ないのが開化派であったが、この後首謀者の大院君を引っこ抜くように連行していったのは清政府であった。

 

その後の釜山、元山、仁川

 事変後も釜山はいたって平穏であった。ただ朝鮮人商人たちが日本との開戦を恐れて居留地に寄り付かず、為に貿易は殆ど絶えた。

 京城に近い元山津ではさすがに日本人たちの動揺は著しかった。また、朝鮮人民も事変の事を聞いて居住の婦女子を諸所に避難させるなどしていたが、その途中で府の弁察官の官憲らがその婦女子を取り押さえて金を奪い指輪などを略奪するなど粗暴の振る舞いをした。それで弁察官に訴え出たがその処分が不適当だったためか民衆が怒って弁察官の家宅を破壊するなどの騒動になった。その勢いの激しさから日本の居留地にも襲来するとの噂が立ち、為に日本人居留民は荷物や婦女子を船に乗せるなどの防禦策を図り、夜中になって篝火が動くのを見て朝鮮人の襲来かと笛を吹き半鐘を鳴らし手に手に銃や刀を携え、一時騒然とした状態となった。その後、下関に行っていた軍艦磐城が戻ってからは人心も落ち着き、朝鮮人商人が遠のいていたことから粮米にも困っていたが日本から米の供給があり皆大いに安堵し、怪我人も出ることなく平穏に至った。 (磐城天城両艦長朝鮮釜山浦近況報告)

 仁川のその後は、花房公使ら日本人一行が済物浦を船で離れて暫くして朝鮮兵4、50人が追って来て火を点じて各所を調べ、日本人を匿っている者があれば同罪に処すると脅して食料などを奪い、やがて去っていったが、翌日にはまた数人が来て日本人を隠してはいないかと問い、その後2、3度はそのような状態が続いた。以来現地の人民は恐れて昼は家に戻るも夜には山間に身を潜めて過ごし、久水三郎らが同乗したフライングフイッシュ号が同湾に来た時には、皆が開戦が迫ったと奔走して逃げ去り、家々には1人もいない状態となったという。
 やがて仁川府の官吏と交渉する時期に至ってようやく平穏に戻った。 (「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報 2 〔明治〕15年8月16日から〔明治〕15年8月25日」p4)

 公使ら一行が済物浦で休まずにすぐに月尾島に向かったのは正解であった。

 

花房公使、再び京城へ

 さて、7月30日に花房義質が東京に打電した翌日31日、日本政府は井上馨外務卿を下関に出張させることに決定した。花房義質公使に訓条を与えてただちに京城に赴かせるためである。
 この後の日本政府の取り組みは実に律儀と言うか丁寧と言うか、迅速且つ用意周到に万全の体制を組み上げて行く。

 まず、あらゆる事態を想定した訓条を練り上げ(詳細後述)、ただちに公使護衛の軍編成を行い、また清国の動向を探り、米国が米朝条約を批准しているかどうかを確認し、ロシアの情勢を探り、お雇外国人であるフランス人の法学者ボアソナード(Gustave Emile Boissonade)に事変に対処する日本の立場を公告する草案を依頼し、ただちに公告を日本駐在各国大使に送付したのは8月2日であった。
 当時日本政府は、清国が朝鮮は属国である、と言い張って内政干渉してくるのは予想していたが、実はロシアこそ警戒せねばならないと見ていたらしい。

「今般、朝鮮国変動に付いてはロシア国政府の挙動は最も注意すべき儀にこれ有り。」
朝鮮事変ニ付熾仁親王随員西徳二郎ヲシテ露国形況ヲ探知セシム)

 この頃ロシアは領土拡張を各地で目論んでいたから当然と言えば当然であった。

 なおこの時、米朝通商条約は米国において上院に付されたが議会は閉会していて未だ批准に至っていなかった。(在米国高平臨時時代理公使ヨリ米国ト朝鮮ト条約ノ状況ヲ報ス)

 花房公使護衛のために派遣する陸軍部隊は歩兵と砲兵の1大隊であり、その編成命令は7月31日から次々と発せられて8月4日までには完了した。また、情況次第では開戦となるかも知れず、為に予備軍も召集して2大隊を編成し博多の地に置いていつでも出撃できる体制を整えることにした。(「陸軍省稟議朝鮮事変ニ依リ準備トシテ第六軍管々下予備軍召集ヲ裁可ス」、「陸軍省、朝鮮国ノ状況ニ由リ第一軍管々下予備軍召集ヲ候ス」、「陸軍省、朝鮮国ノ上京ニ由リ第二第三第四第五軍管々下予備軍同上」、「陸軍省、朝鮮国ノ状況ニ由リ第一軍管々下予備軍召集ヲ候ス」)(以下「朝鮮事変弁理始末/3 馬関彙報」より)

 8月3日、元山から下関に来ていた軍艦磐城が杉村濬らを乗せて釜山に到着。
 6日、先発として軍艦金剛(比叡と同型、魚雷発射管は2門)が生死不明者の探知と京城の情況の情報収集と、花房公使の再来あるを朝鮮側に通達するために、近藤書記官、大庭永成、武田邦太郎、陸軍士官・水兵を乗せて仁川に向けて出発した。
 7日には井上外務卿が下関に設置した外務省出張所に到着。一等巡査小林志津三郎は朝鮮の地理に詳しいということで陸軍に編入された。
 8日、品川丸(1338t)が陸軍2中隊を乗せて仁川へ向かう。前田総領事らが千歳丸で釜山に。
 9日には軍艦日進が仁川に向かう。
 10日、暴風で遅れていた軍艦天城が釜山に向かい、軍艦磐城は元山に。

 そして、この日、花房義質全権弁理公使と高嶋鞆之助陸軍少将を乗せた明治丸(全長73m、幅9m、1,027t、補助帆船汽船)が出発した。あの勇猛な外交官浅山顕蔵も、石幡翁も佐川海軍中軍医、鈴木看病夫、岡警部も同行した。なおこの時に金玉均、徐光範らも同乗している。

 これらを見ると、つい10日余り前に死線を掻い潜ってきたばかりの花房公使たち一行のほぼ全員が現場復帰しているのが分かる。まあタフと言うかなんと言うか。もちろん身一つで帰国した彼らには至急の支度金が出た。
「朝鮮京城在勤公使以下一同は事変遭難の際に非常の艱難を経て帰国した次第で、実に赤身の状態に付き、今般の再渡航については破格の御評議を以って海外支度金を支給されたし。」
 8日の宮本上申によるものであった。

 11日には、軍艦比叡が、軍艦清輝(897t 長さ60.96m 全幅 9.14m 兵装 15cm砲1門、12cm砲1門、6ポンド砲1門、四連装ノルデンフェルド機関銃 3挺 乗員 167 )には後の京城駐在公使となる外務大書記官竹添進一郎が搭乗して出発した。この時に山口正定侍従長も同乗して朝鮮に向かっている(侍従長山口正定清輝艦ニ搭シ朝鮮国ニ赴ク)。その理由は分からないが、おそらく朝鮮国王妃についての弔問であろう。
 また、陸軍1中隊を乗せた運送船和歌ノ浦丸が同じく仁川に向かった。これで先の品川丸の2中隊と合わせて1大隊規模となる。

 開戦に備えて博多の地に熊本鎮台から陸軍2大隊と騎兵隊・憲兵隊が結集したのは16日だった。博多湾には運送船高砂、高千穂、秋津州、住ノ江が待機した。この時、熊本管内の人心騒々しく特に士族からは開戦の日には従軍して先鋒となることを希望する声が相次いだ。

 仁川湾に日本艦船が到着したのは金剛艦9日、日進艦11日、明治丸12日、比叡艦14日、清輝艦16日であった。(金剛、日進、明治、比叡清輝ノ諸艦船仁川入港ノ電報)

 しかし、花房公使の乗る明治丸が到着した時には、仁川湾に3隻の清国軍艦がすでに停泊していた。清国道台(監督長官)馬建忠と北洋水師提督丁汝昌が率いる清軍である。

 

このページのまとめ

・朝鮮事変で襲撃を受けたのは、閔氏勢力、開化派、京城駐在の日本人である。

・叛乱の主体は別技軍以外の朝鮮兵であり、大院君の指示を受けた組織的なものであった。

・叛乱の兆候は以前から度々あっていたが、その都度事前に知った国王たちが防いでいた。しかし今度のは事前に知ることが出来なかった。

・よく言われている、兵士が給与米に不満なことから乱を起こしたというのは正確ではない。給与米のことで暴行事件を起こした兵士がおり、その処遇を巡って大院君に助けを乞うたことにより、叛乱のチャンスを伺っていた大院君が王妃をはじめ閔氏と開化派の人名をあげてこれを害するように言い、また日本人も皆殺しにせよと命じたところから兵士が仲間を募って争乱となった、という詳細な証言が残っている。

・事変翌々日の7月25日すなわち公使一行が済物浦沖に船で漂っていた頃、大院君は地方に何らかの通達を出しており、この時すでに大院君は政府の実権を握っていたと考えられる。

・大院君は、英国軍艦の艦長に対しては使者を送って、大院君はもはや守旧派ではなく守旧の愚かさに目覚め今までを反省しこれからは外交を重んじる、また日本公使の安危を気遣っていると言わせた。しかし一方で東莱府使には、この乱は日本に関係したことではなく公使館には人民が小石を投げたぐらいで、それを日本人が驚いて逃げただけであると私書を送り、また日本政府に対しては外交部から、日本人も死に朝鮮人も多く日本人に殺された、日頃から日本人がやかましく言うので朝鮮人とトラブルになっていたのは日本政府も知っているだろう、こんどの乱もそれが元になっているのではないか、という書契を送っている。そこには英国艦長に対するように公使に対して気の毒であるという言葉すらなく、暗に乱の責任は日本にもあるといわんばかりの書であった。また、守旧の愚かさに目覚めた、外交を重んじると言いながら新設されていた外交部を廃止して旧のものに復している。

・叛乱の首謀者は、あらゆる情報を総合すると大院君と思われる。

・開化派の中心人物の1人は日本に難を逃れ、朝鮮にようやく文明開化の芽が人々の間に生まれていた矢先にこういうことになった不幸を嘆き、日本が兵を送ってこの乱の首謀者である大院君を捕らえることを求めた。また朝鮮に潜むもう1人も、もし日本が強圧な談判をしなければ自分の命はおぼつかないと、やはり日本の軍艦が来ることを求めた。

・釜山、元山の日本人居留地は比較的に平穏であったが、元山では朝鮮官憲と朝鮮人民の間でトラブルがあって騒動となり、ために日本人居留民は一時緊張することがあった。

・日本政府は訓条を花房公使に与え、護衛の陸軍1大隊と軍艦5隻を共に朝鮮に送り、さらに開戦の恐れもあると考えて博多に2大隊を待機させた。

・公使が仁川に着くとすでに清国の軍艦と兵が展開していた。

 

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