(「水野大尉筆記朝鮮事変ノ概況」、「朝鮮事変弁理始末/1 長崎報変」「朝鮮事変弁理始末/9 戦死墓表」「朝鮮事変弁理始末/1
死者礼葬」より参考、一部略、括弧は筆者註)
明治15年(1882)7月23日、この日は仁川開港(日本政府としては完全に決定したわけでなく、朝鮮側の意向に配慮して依然として他の候補地も探索中であった。(「同国南陽麻山浦実測ノ件」、「朝鮮国南陽麻山浦ハ開港場ニ不適当ニ付仁川港ニ定メ渡航通商等差許方ノ件」))に伴う済物浦の居留地予定地の測量など取調べの為、陸軍中尉 松岡利治一行(他に、外務省御用掛杉村濬、同久水三郎、陸軍語学生徒武田甚太郎、公使館雇高尾謙三)が出張するため、陸軍歩兵大尉水野勝毅は午前5時に起床し、公使館の門まで見送った。
水野大尉は痔疾の持病があり、ここ2週間余りは歩行するのも苦しく門の外にも10日ほど出ていなかったが、この日になって久し振りに症状の軽快を覚えた。
その後、たまたま朝鮮人の子供が鯰を数匹持って売りに来たのでそれを買った。千原軍曹(陸軍歩兵軍曹千原秀三郎)が自らこれを調理した。それにより水野大尉は、花房公使、近藤書記官、佐川軍医(海軍中軍医佐川晃 於京城負傷軽)、浅山顕三(外務七等属、しばしば「顕三」また「顕蔵」と記述あり。)などを部屋に招いて、皆で午餐をとった。
午後1時になり、某(朝鮮人。原文でも名は伏せてある。)が堀本中尉を尋ねて来訪した。
某「今日、堀本中尉と会う約束があるが、堀本君は来るだろうか。」
水野「今日午前中に館員の中で下都監(別技軍営がある所。中尉の宅もここにあった。)に行った者があって堀本からの伝言があった。それによれば、『今日は止むを得ない事情があって清水館(日本公使館)に行くことが出来ない。水野大尉によろしく陳謝してくれ』と。」
某は甚だしく失望の色を顔に出して、
某「かつて堀本君に依頼していたことがある。今日来ないと自分は実に困ることになる。」
水野「君の困っている事はあらかた知っている。花房公使から金を借りたいということではないか。この事は以前に堀本が花房公使に依頼することを許可したところだ。今、君の為に直接公使に話すことも出来るが、それでは自分が堀本を出し抜いて斡旋するようで気が進まない。今、君が急いでいるというなら自分が一時ここで君を救おう。額が大きいなら自分の力も適わないが、とにかくその額を示せ。」
某「大兄の好意、何を以ってこれを感謝せん。深く恥ずべきことの至りといえども、止むを得ない必要性があってここに来た。願わくば察してほしい。その金額の如きは大兄が言われる額に従いたい。」
水野「今日の所は20両(20円)を持って帰るということではどうか。」
某「好意感謝する。元来60両を欲するが、しかし今日の所は20両で窮を逃れるのに足る。40両はなお近日に堀本君と共に大兄の周旋を煩わしたい。」
水野大尉は、60両を用立てることが出来なかったわけではないが、このような人物を使うには例えば鷹を養うようなものであり一時に望みどおりにしないものである、今日某は約束の朝鮮の詳細地図を持って来ていないから、と記している。
某は、3、4枚の紙を出して、
某「これは大院君が慶尚道江原の激党(守旧過激派)と密かに契約するところのものである。僕はひそかに持ってきた。決して他人に見せてはならない。大兄と公使とだけで見られたい。」
その書類の内容は、外国(日本と西洋国)を排斥することを主意としたもので、その策として5案が記されていた。『一、彼らに巨艦があるといっても我が国の沿海は水深が浅く、陸地に着けることは出来ない。我が水軍はこの点が有利である。一、我が国の兵器は小銃を以って第一とする。よろしく硝薬を作り鉛を掘り出し、弾薬を備蓄するべし。何の地には硝が多く有り、何の地には鉛が多い。一、勇壮なる者を募集することは今日の急務である。今、貴族・大臣の子息従者らは身体頑健で立派な兵士となれる。一朝これを募るならたちどころに数千の精鋭を得ることができる。』と。その他に2策あったが今は記憶しない。ただ最後に、『もしこの契約に背く者あらば天神も共にこれを罰する』云々とあった。
水野は、「その文簡潔にしてその意を尽くしその策また大いに取るべきものがあった。決して尋常の頑固党の手になるものではない。」と記している。
某はこの事を談じるのに通訳を通さずに筆談でした。たぶん漏れることを深く恐れるためであろう。
某の漢文は拙く、また水野も同じであったので意味が通じないところが少なくなかった。
水野大尉は、たぶんこの書は某が最近得たものであろう、と思った。
某「今日の所は辞したい。明後日は必ず地図を持って来る。その時に大兄に40両の金を周旋することを煩わすと思う。」
水野「分かった。」
某は20両の金を受け取って出て行った。
水野は、この他に種々の談があったが事変とは関係ないことなので略すと記している。また、明後日に元山へ陸便の発送があるので、この書類を参謀本部に送ろうと、千原軍曹に謄写を命じた。
午後3時のこの頃、公使館に下都監領官(尹雄烈)の使いが来た。使いは別技軍下士官であった。彼は一書を差し出した。近藤書記官が読むと、
『乱民が党をなして今兵隊と戦闘となっている。日本諸公を攻撃せんと欲する意があるようである。もし日本公館を侵撃する悪人があれば、銃を放ち剣を揮って自衛の策をされたい。』云々とあった。
続いて、公使館雇いの朝鮮人が外から帰って来て告げるのに、
「今、乱民数百が王宮に入り、閔台鎬、閔謙鎬の邸宅を襲い、家屋を破壊している。」と。
そこに朝鮮人の小吏(日本の語学生が率いている少年。)が走って来て、陸軍語学生岡内格(於京城戦死23才)、同池田平之進(於京城戦死21才)、私費語学生黒沢盛信(於京城戦死28才)の3人が、南大門のあたりで暴徒から殴打された、と報せた。
よって花房公使らは、語学生を護迎するために二等巡査川上堅輔(於京城戦死27才)、同池田為善(於京城戦死28才)、三等巡査本田親友(於京城戦死22才)を派した。
引き続いて差備官(公使館付けの官吏、官所は隣にある。)から、事変が起こった、公使たちは皆を連れて後の山中(公館後ろに面した小山)に避難されよ、と告げた。また、差備官李承謨は特にこれを促した。
花房はこれに答えて、
花房「もし乱民あって我が公館を犯さんとするなら、政府よろしく兵を派して護衛されるべし。速やかにこの意を京畿観察使(金輔鉉、この時殺害された。)に告げられたい。」
李承謨は承諾して帰った。
(外国公使館保護は現地国の責務である。もっとも、最近の中国政府はそれを放棄したが。)
その頃水野大尉は、近藤書記官と岡警部(外務二等警部岡兵一)等が公堂に集まって何事か話をしていることに気づいていた。それで千原軍曹に、
「巡査らが館内を奔走しているが、何か事があったようだ。」と言った。
まもなく、公使から使いが来て、来会してほしいとのことで、水野大尉は花房の所に行った。事の経緯を聞いて、
水野「やつらのやりそうなこと。公館に銃器の備えをするように望んでから久しいが、今は如何ともし難い。先ず、よろしく準備をするべし。」
大尉は部屋に戻って千原軍曹に告げ、服装を整え、軍刀を提げ、短銃を携えて公堂に行った。ちょうど午後6時であった。
(この時、軍人は他に海軍医と看病夫を含めて4人、警部・巡査が7人、他は公使はじめ外務属員や従者など17人である。)
花房公使、近藤書記官、水野大尉は共に会食をした。
花房「乱賊は王宮に入り、閔族の2家を囲んだという。城内の景況は果たしてどうなっているだろうか。」
水野「千原軍曹を後ろの山に登らせて展望させよう。」
ついで岡警部に、
水野「今、千原軍曹が後山に登って視察しようとしている。巡査1名を付けてほしい。」
これにより宮鋼太郎二等巡査(於仁川戦死18才)がこれに応じ、2人は山に向かった。
しばらくして帰って来て、
千原「京畿監営の近辺に塵埃が舞って空に満ち、城内の様子を判断することは出来ない。」
と報告した。
この頃には、公使館の前後に朝鮮人が来集し、前面の城壁の上下にも益々人数が加わり、いったい幾千人いるのか分からない状態となっていた。
門前に忽ち喊声が上がった。これに応じて後の山上から石を投げて来る者がいた。下からも石を投げ、たちまち霰のように数多く飛んできた。
水野大尉は岡警部に向かって、
「巡査を指揮して固く正門を守れ。決して門を閉じるなかれ。」と言った。
千原軍曹には、語学生徒と従者を付し、後門を守るよう命じた。
水野「必ずみだりに突撃するな。相手は多勢。こちらは少人数である。みだりに命を弄べば疲れてついに守ることが出来なくなる。」
この時、山上の暴徒が大声を上げて石を公堂に投げつけた。水野は自ら立って短銃を放ち、これを追った。5発で短銃の機関が壊れて使用できなくなった。
正門は開いたままだが敢えて入って来る者はいない。入って来る者を鏖殺せんと巡査たちは構えている。
その時、乱民中に「火を放て」と叫ぶ者があった。
それより火を公館前後の民家に放火し、次に伴接官出張所の門を焼き、また差備官の詰め所を焼く。火炎近くて公館官舎に及ばんとする。近藤書記官の部屋に火を投げ込む者がいた。
外務七等属浅山顕三と一等巡査小林志津三郎が短銃で放火者を狙い撃って数人を倒した。
これにより賊はやや躊躇した。
水野「今の内に飯を炊いて食料の備えをするべし。」
しかし、公使館雇いの朝鮮人は皆逃げ去って一人もいなかった。同じく雇いの鈴木金太郎(於仁川戦死31才)、同飯塚玉吉(於仁川戦死27才)が百方手を尽くして飯を炊き水と梅干を持って公堂に来る。
水野大尉は起って剣を抜き、舞い歌った。
「我有寶刀三尺 雖血痕難認 幾星霜京城 今夜一宵夢 紫電光中斃犬羊」
火勢は益々盛んになり随所に炎が上がり、医局もまた火となった。
乱民多数といえども恐るるに足らず。もし火を防ぐことができれば守りは明朝に至るのも難しくない。時が経てば必ず朝鮮政府が兵を出してこれを鎮圧するに違いない。それまではどうあっても防がねば。
これが皆の思いであった。
公堂の背後に藁屋の倉庫があった。延焼は極めて易い。水島義(公使館雇、於仁川戦死27才)がこの倉庫を倒せば公堂への延焼を防ぐことが出来る、と言ったので皆でこれを倒したが、すでに火がついていた。館内に水は無く消火する術はなかった。
周囲の民家も全て火となり、銃声が聞こえ始めた。矢も飛んでくる。石礫は益々激しい。銃弾矢石は唯一火が及んでいない公堂に集中した。
岡警部はしきりと正門から突撃せんとしている。門前の賊を薙ぎ払いたいようだ。水野大尉が声をかけた。
水野「突出して勇威を示すのもまた一計である。しかし館中の人数には限りがある。もし突撃して賊を掃えば必ず勢い止まらずに深入りするであろう。今は固く守って城内の援兵を待つ他はない。賊が入ってきたら駆逐して軽く館内に退くを第一とする。必ず門は閉じるべからず。門を閉じるは相手に弱さを示すようなものである。」
巡査らは門扉を盾として監視していた。突入して来る者はいない。
乱民の勢いは増し、角笛を吹き喊声相応しまさに門を奪って突入するかのような勢いを見せた。
この時急に門を閉じた。水野大尉は大声を発し、
「徳川公浜松城の事を知らざるか!門を開けよ!」
門はすぐに開いた。
実は、岡警部はわざと門を閉じて恐れているように見せ、突入してくる者を斬り捨てるという策を立てて花房公使の許可を得て試してみたのだった。しかし突入してくる者はいなかった。
火の勢いは益々盛んでほとんど公堂に及ぼうとしていた。石矢銃弾の飛んでくるのはいよいよ激しくなる。
水野大尉はもうこれ以上公使館を守り通すことは出来ないことを察した。軍の賞牌を取り出して胸に付け、重要書類を入れた革袋を火の中に投じた。
それぞれが唯一の拠点である公堂に集まり始めていた。
水野はしばし休息するため横になった。水島義が声を掛けてきた。
水島「大兄は僕とは戊辰の敵同士である。」
水島は会津の人であった。
水島「今夜はまさに衆とは異なる働きをなすべし。僕が先鋒となって血路を開こう。後山に突撃して間道から楊花津に出るのに難しくはない。幸いにして生還したなら陸軍で僕を使用せよ。」
水野「快男児とはこれ汝なり。公館中の樊噲(高祖劉邦の家臣)なり。僕は武班に列しよう。死は固よりその分である。」
水島は今度は佐川に向かって、
水島「貴下もまた戊辰の敵である。その名を落とすなかれ。」
佐川「もとよりである。」
小林「後山から間道に出て楊花津に出るのは容易である。僕は地理に詳しいから先導しよう。」
岡警部「山道は険しくて進むのは難しい。矢石のために徒死するばかりである。それよりも正門から突撃して死を潔くせん。」
水野「山上には賊が充満している。石塊を積んでいるはずである。策としては良くない。迎恩門から支那海道に出て山麓を過ぎて河に沿って楊花津に出る方が地の利を得ている。」
また、外務御用掛の大庭永成等は死を館に待つことを欲した。
色々と論が出たが、結局は花房公使の決断を待つしかなかった。
水野「事は迫れり。従容として死に就くか、あるいは突撃して運を天に任すか、二つしかない。公使、早くこれを決せられたい。」
花房「皆の諸説いまだ尽くさないところがある。正門から出て大路を出て京畿観察使の営に至り、その守護を乞うべし。もし観察使が守護することが出来ないなら、王宮に赴き国王と共に安危を共にすべし。辱めを山野に晒すことなかれ。」
(皆が個人の立場で判断する中で、花房義質は公人として取るべき道を選んだと言えよう。公法手順として現地国の機関の保護を求める。それが適わないなら同盟国の盟主と運命を共にせんと、それが日本の公使たる自分の本分であると。冒頭の錦絵を正解とした所以である。)
一同はこれに服した。
それにより、水野大尉が整列させて番号を付し、かつて剣を使い銃をとる者は僅かにして(28名中)10余名であったから、番号を付け直すこと3度に及んだ。岡と浅山と宮は先鋒を務めることを望んだ。
水野「これで先鋒は決まった。大事なのは後である。千原と水島は殿(しんがり)を務めてほしい。また、小林巡査は決して公使の側を離れることなかれ。皆は必ず自分勝手に逃げようとするな。もしそうすれば全員が死ぬだろう。公使のいるところ必ず旭日国旗あり。国旗だけを(目印として)見よ。」
ここにおいて全員は立ったままで飯を食い、麦酒数瓶を割ってこれを飲んだ。
その後、公堂に火を放つ。佐川軍医が石炭油を注ぎ簾をとってこれに投じた。火炎は屏風に移った。この時、夜12時であった。
門前に全員整列する。総勢28名ほとんど無傷である。先に語学生を護迎に遣った巡査3名はついに帰らない。
決死喊声門を出る。鈴木金太郎国旗を捧ぐ。賊は四散して奔逸する。
門前から大路に至る間の道は狭い。賊は柵を作って日本側の進撃に備えていた。しかし賊は不意を突かれて狼狽逃走する際にかえってその柵の為に転倒する者多し。且つ路が狭く人数が多すぎて急に退くことが出来ない。そこを突撃した日本勢が剣を揮ってこれを斬る。岡警部は自ら6、7人斬ったと言う。奥山錫(水野大尉従者)は2人、水野大尉は1人、全員ではおよそ20人余り。
ついに一条の血路を開いて大路に出る。
賊は萎縮して敢えて近づかずに遠くから瓦礫を投げるのみであった。
日本勢は整列して点呼する。1人佐川軍医が左腿に軽症を負うのみ。
千原と水島が「奴らは怯懦である。1人も追撃する者がいない。殿の者は刀を揮うことが出来ないのは極めて遺憾である。先鋒と代わることを望む。」と言う。
水野「先鋒は普通の者でも出来る。殿は古の昔から大剛の者でなければ勤まらない。前途はまだ遥かなり。2君はこれを勤めよ。」
2人はようやく納得した。
水野は大隊前進の号令を発した。皆が声を揃えて行進して京畿観察使の営に至る。小門が開いたので中に入って大門内に来ると、楼上に4、5人の賊がいて礫を投げてくる。小林、浅山が短銃を放ってこれを追い、また1人を斬る。館員は誰もいない。さらに進んで3門を過ぎ、観察使の正堂たる宣化堂に至るも寂として人なし。おそらく観察使も王宮に入っていると思われた。
ここに止まらず再び大路に出て南大門に至る。浅山が扉を叩いて門将を呼ぶが答えず。鉄の扉は厳重で外から開けることは出来ない。
花房「我が本分はここに至って尽きた。この地にあって再び襲撃を受けるよりも、楊花津に行って後事を図らん。」
これより路を転じて楊花津に向かう。
雨が降り始め帽子衣服全てが濡れた。道路は暗黒で岐路に迷う。後ろを振り向くと火光が天を焦がしている。我が日本公使館の炎上によるものである。小林巡査は公使の側を離れずその手を取り、また手拭を革帯に結んでこれを石幡翁(外務四等属石幡貞)に持たせて扶助している。
24日未明、楊花津に至る。皆は速やかに漢江を渡らねば追撃を受けるかもしれないと言った。しかし花房公使はしばらくここに止まって京城の消息を聞こうと欲した。これによりほとんど1時間を費やした。もし追撃を受けた場合に楊花鎮は小さすぎて頼むには足らない所である。よって再び出発して仁川府に向かうことに決した。それより一書を作って鎮将に託し、同文を司経理事並びに京畿観察使に宛てた。その大意は、前日来の形勢大略を述べて、
「政府の派兵保護するを待てども一兵も来ず。王宮に赴かんとすれども南大門開かず。やむを得ず仁川府に向かう。ただ望み置く、速やかに乱民を弾圧するの計をなすを。」
と。
これより川の渡し口に向かって舟を求めたが呼んでも来る者がいない。よって舟を奪い浅山が櫓を揺らして川を渡る。
前夜からの雨はいよいよ激しく雷鳴暴雨車軸を洗うが如し。崖路は滑りやすく足を止められずに脇に走り込む者もいる。全員の疲労が甚だしい。
たまたま一民家に入り小憩し焼酎を求めて渇きをいやす者もいた。浅山が公使のために輿を一つ雇った。しかし公使は岡警部に「君は足を痛めているからこれに乗れ。」と言う。岡は謝して辞退する。繰り返すこと再三にして水野大尉が強引に公使を輿に乗せた。
午前10時頃に富平の成谷里に至る。一民家に入って小憩し麦を求めて炊き飢えに充てる。再び雨を衝いて歩く。途中、水野大尉の痔疾が再発して歩行困難になる。佐川軍医も疲労して共に遅れる。
午後3時、一行は仁川府に到着した。水野たちは30分遅れで着いた。
府使鄭志鎔が出迎える。差備官高永喜も居留地取調べのために昨日この地に出張していて共に出迎えた。
府使は自ら政堂を開いて公使の休憩所とし、別に門外の一官舎を巡査らの休憩所に充て、そして自ら新衣を公使に呈した。
水野大尉はひそかに、仁川も安駐の場所ではないと言った。岡警部も同意見であった。
それにより水野は公使にそのことを話した。しかし府使の接待は極めて厚く、安心できる処もあった。何よりも皆の疲労甚だしく、ゆえに公使以下皆湿った衣服を脱いで干し休憩をした。
水野たちも1杯の焼酎と2個の鶏卵に聊か飢えを忘れた。
横になり暫くして眠る者もいた。
時すでに5時にならんとする頃、突然の銃声が外で轟いた。
瓦礫が窓を破って飛び込んできて水野大尉は飛び起きた。門外で大騒動があっている。遠矢荘八郎(二等巡査 於仁川負傷重のち長崎の病院で死亡27才)が身わずかに襦袢を着けて裸足で刀を提げて来る。全身は血に染まっている。続いて五十嵐萬吉(二等巡査 於仁川負傷重)もまたよろめきながら刀を杖にして来る。全身血をしたたらす。横山貞夫(三等巡査 於仁川負傷軽)も傷を負って来るが門を閉じてよくこれを守る。
賊徒は門外の巡査たちの休憩所を不意を窺い突然襲撃したのである。
一斉に矢を放ち石を投げ込み刀と槍で日本人巡査たちを乱刺し、ために一等巡査廣戸昌克(33才)、二等巡査宮鋼太郎は死亡した。また、近藤道堅(私費語学生 戦死19才)も門前に倒れていた。
水野は叫んだ。「きゃつらやっぱりそうか。今は悔いても及ばず。服装を整え屍の辱めを遺すなかれ!」
水野たちは急いで服を整えると剣を提げて公使の所に走る。忽ち、銃声が起こる。矢石が来る。見れば政堂の後ろ壁に賊が集まり、中に銃で狙撃する者が6、7人いる。銃弾が室内に徹る。浅山、小林が短銃で応戦する。
曽庸輔(外務御用掛 於仁川負傷軽)また負傷して来る。
水野「水島はどうしたか!」
曽「水島も傷を負っているのを見た。後は分からない。」
浅山が飛弾を受けて右股を負傷する。
賊と仁川府兵士が一体であることは明らかであった。
皆は口々に言った。
「坐して賊の狙撃を受けるより、むしろ門前に突出して奮戦し、以って死すほうが快い。」
花房「よし。」
公使を列の中央に擁し吶喊、門を出る。水野、浅山、千原が先鋒、近藤書記官がこれに続く。府兵3、40人が槍を構え眉尖刀を舞わして逆らう。浅山先ず短銃2発を放つ、水野と千原は刀を揮って斬り込み勇躍奮迅、賊は皆散って逃奔する。日本勢は右折して一大路に出る。
水野は千原に向かい、
「済物浦への路を知っているか!」
「知りません!」
後の近藤書記官が、
「これが済物浦への本道なり!」
ついに一条の血路を開き、済物浦に向かう。
しかし府兵は追撃してくる。「花房公使、花房公使」と呼びながら瓦礫を投げ眉尖刀を振り上げて追い来る。岡警部は殿をして追撃を防ぐ。甚だ危うし。小林一等巡査返戦してこれを救う。短銃を放つこと数発、追兵逡巡して躊躇する。
しかし皆は思っていた。もし済物浦に至る間の山に渓に道に賊が伏兵を設けていたら一人も命はないと。
その時忽ち前方に見る、久水三郎、高尾謙三。2人が馬を飛ばして来る。
一行が仁川に着いた時に岡警部が済物浦にいる久水等に書を飛ばして京城の事変を報せたので、急ぎ来たのである。
日本勢に援兵あるを見てついに府兵は追撃を止めた。また皆はこの先伏兵は無いと分かって少しく安堵した。
久水は馬を楓玄哲(私費語学生)に渡し、先に済物浦に行って船の準備をするように言った。
高尾は馬を花房公使に勧める。花房は浅山を顧みて、
「怪我をしている。先に馬に乗れ。」と。
浅山は「自分は鞍の後に乗って公使を護衛したい。」と言った。
花房は共に馬に跨った。松岡中尉、杉村濬、武田甚太郎、また馳せ来て会す。直ぐに公使に随って行く。この時、後の山中から銃声がした。しかし当たらず。
花房公使たちは済物浦に着くとそこの警吏を擁して小船を調達し、月尾島(済物浦から距離800m余り)に渡った。更にそこで航海に堪える大船を探すために松岡、杉村、浅山は、花房公使と行動を共にする。且つ(武田甚太郎、楓玄哲は)残る一行のために迎船を済物浦に向かわせた。
残る近藤書記官たち一行18人は、小林巡査と鈴木利作(海軍看病夫長介)が負傷者を扶助し朝鮮人を強雇して背負わせるなど百方力を尽くして、もって皆無事に済物浦に到着する。しかし既に公使たちが船で先に行っていることを知り、皆すこぶる物議をかもす。一行は船を雇わんとするが、村人に応じる者なし。水野と千原が砂浜を奔走して一船を見つけ、これを奪って死力を出して海に押し出した。
月尾島に渡らんとするが櫓も櫂も無く、手でかくが潮流矢の如く、旋回するばかりで進まず。
水野「昔ロシアのキャプテン『ゴロヲエモン(ゴローニン)』が函館の獄を脱して小船を奪い『堪察加(カムチャッカ)』に向かったその時の気力を想うべし。今、月尾島は目前にある。皆で力を合わせて波涛をかくならどうして渡られないことがあろうか。」
それより皆が力を合わせて波をかくが皆疲労していて思うように前に進まない。一人鈴木利作が気力頗る盛んにして皆を罵りながら波をかく。石幡らは帽子で浸水を汲む。
その頃迎船の武田たちは済物浦に至り、残る一行を見つけることが出来ずに深悩焦慮していた。やがて尋ね聞いて後を追う。
時あたかも満潮になり、近藤書記官たちの船はやっと島に着いた。
大船を雇わんと小林巡査ら5人が陸に上がった。水野大尉は、もし何かあったら短銃を放つように言った。そこにちょうど武田たちの迎船が来て小林たちと出会った。
一行27名はこうして一船に会することが出来た。
この日仁川に於いて戦死した者は4名、生死不明が2人(後に死亡を確認)負傷者は5人であった。
公使は仁川府に至るや暫くここに止まって京城の消息を聞き、朝鮮政府となお往復談判するつもりであったが、仁川府は掌を返すより速く再びこの奇変に遇うに至れり。
ここに於いて皆が言うのに、今般の暴挙は一部乱民の所為に出るのみにあらず、必ず政党の激発に起因するものであって、その根基するところは甚だ深い。政府の転覆、王位の安危もまた計り知れないものがある。情況ここに及んで、最早充分の護衛も無く、身を置き事を処する地もない。公使はついに帰国することを決した。
夜12時に月尾島で雇った船で出航し凡そ2マイルで錨を下ろす。
船は日本形で50石ばかりのもの。船夫(朝鮮人)は5人。緊急であったので白米4斗、水3石ばかりを積載するのみ。
仁川府に於いて、外国火輪船が南洋湾に碇泊していることを確かに聞いたので、まずこの船を捜し、もし見つからないなら豊島に寄って充分に食料薪水を積載し、航路に漂って外国船の通行を待つことに決めた。
25日、潮に乗って進み帆を上げるが風が逆向きであるため船は思うように進まない。済物浦から7マイルの所で錨を下ろす。
水野「外国船の所在が分かるのはいつの日になるか分からない。今米は僅かに1俵に過ぎない。食事を日に2度に減じて粥にして数日を保つべきである。」
花房「甚だ然り。君にその事を任せる。」
水野と岡は食事分配の責任者となった。1椀の粥を2人の食とする。不平を鳴らす者もいたが、公使も皆に混じって共に粥をすするを見て、これを忍んだ。
25日晩に再び船を出す。たまたま韓船が南陽湾から帰り来るのに会ったので火輪船の所在を問う。彼らが言うには、昨日に「プルチー島(勿淄島、かつて雲揚号が戦闘後に給水することが出来た島である。)」で見たと。皆はこれに頗る力を得た。
26日朝、この日は霧が甚だ深かった。午前11時ごろから霧が晴れるに従い、遥か前方に3本マストの船がいるのを見た。皆は拍手雀躍、喜色面に溢れる。
先ず京城から護り持ち来る国旗を竿頭に掲げて目印とする。午後3時、近付くに及んで艦長は日本国旗を認めて小蒸気船を出して来る。本船に移ればすなわち英国測量船飛魚号(Flying
Fish 砲艦 940t 砲4門)であり、艦長以下皆こちらがよく知るところの人たちである。
優遇懇切至れり尽くせりであった。
本艦が碇泊する所は「プルチー島(勿淄島)」と称し、済物浦から15海里である。艦長は今日ここを離れて移動しようと思っていたが、霧のために動くことが出来なかったので、我らの船と遭遇したとのことであった。
我が微運の尽きずここに至る。真に天幸と言うべし。
これにおいて花房公使は、朝鮮国王殿下に呈する一書『難を避けてこれに至る事由を略述し、近日に再渡する旨を告げる。』、同文司観察使に寄する一書『死者を格別に埋葬し及び生死不明の者を救護する等のことを述べる。』、及び堀本中尉に送る一書を作り、水野大尉もまた一書を堀本に添えて、これらを雇った船主の韓人に託して観察使に転送を頼んだ。
この日夜10時、フライングフイッシュ号は抜錨して長崎に向けて回航す。
(近藤書記官の報告はここで終了している。すなわち、「此夕第十時艦錨ヲ抜キ長崎ニ回航ス。記於是止ム。 明治十五年七月廿七日於英艦飛魚号 近藤書記官記」と。しかし水野大尉はこの後をいささか個人的なことも含めて続けている。以下少し時間を戻して、そのまま現代語にして記す。)
初め、公使が英国船に達するや、艦長以下は、その(公使の)垢面やくたびれた衣服を見て深く怪しんだようである。公使は先ず京城での事変の大略を話した。(これを聞いて、)
艦長「これは尋常の事にあらず。公使は日本に帰ることを望んでいるのではないか。長崎、釜山と命ずるままに応じる。まず話は後にして、抜錨号令をして準備をしよう。」
時まさに6時。2、3のボートを測量のために本艦を離れること3、4マイルの小島に派遣しているので信号の火を上げてこれを呼び戻す。夜8時その最も遠距離にいるボートに至るまで皆帰って来る。
夜10時に抜錨する。その(船の速度の)迅速なこと実に驚くものがある。
艦長以下が一行を待遇すること極めて懇篤にして、負傷者は艦の軍医が直ちに治療を施し、介抱の至らないところが無い。
公使、書記官は艦長室に、自分(水野大尉)及び外務属員若干名は士官室を以って休憩、飲食の所となす。
艦中の士官は自分の胸の勲章をもって特に優遇をする。大尉「ベイカ」なる者、衣服下着及び靴に至るまで出し、自分のくたびれた衣服を着替えることを言う。自分はあえて辞退せずに感謝してこれを着る。
別に臨み、通訳官久水三郎をもって感謝の言葉を述べる。
水野「貴下の懇遇は感謝に堪えない。僕、帯びるところの軍刀の他になお一刀あり。」
従者に持ってこさせる。
水野「十年の役(西南戦争)の時に得たものにして、今度の京城に於いて聊か血をそそいだものである。願わくば貴下に贈り自分の微衷を現したい。貴下は受けてくれるか。」
ベイカ「自分はもとより深く日本刀を好む。しかしこの刀は貴下の重宝である。願わくばこれを子孫に伝えられよ。自分が受けるのは忍びない。」
水野「そうではない。現在国威5州に冠たる大英国の士官がこれを宝として欧州に伝える、これ自分の名の刀と共に光を添えるなり。僕の栄誉もまた大なり。貴下辞することなくこれを受けられよ。貴下の貸与するところの衣服を持ち帰り永く記念となさん。」
ベイカは大いに喜んで、
ベイカ「厚意辞するに語なし。再拝してこれを受ける。」
刀身なお腥臭あり。けだし朝鮮人の鮮血なり。これを見れば凛然として思わず勇気勃々と湧く。今回の飛魚号の士官の懇篤なることは尋常の及ぶところにあらず。内に顧みれば思わず背に汗すること無きにあらざるなり。
29日夜11時半、長崎に着す。
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