明治開化期の日本と朝鮮(18)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

人力車に乗る朝鮮人  撮影年代不明  日本製の人力車もまた開化のシンボルと見えたろうか。

朝鮮紳士の日本遊覧

 先の明治14年(1881)3月22日に金宏集から信使派遣の話があった頃、釜山の近藤領事の所にも朝鮮人10数人が日本を遊覧したい旨の話が来ていた(実際の来日者は61人)。彼らは政府派遣の者ではなく、聞けば私的団体旅行ともいうもので、日本の国情を視察し文物と工業開発の度合い、軍の演習や施政の様子を見学することを目的とするとのことであった。しかし私的旅行とは言え、メンバーは政府内部の要人ばかりであったから、おそらく「私的」とは守旧派を憚っての名目で、実際は政府による日本近代化視察団ともいうものであったろう。
 以下、近藤領事が記したそれぞれの役割とメンバーは以下のようなものであった。

 陸軍・洪英植、大蔵・魚允中、内務・朴定陽、外務・沈相学、陸軍調練・李玄會、文部・趙準永、工部・姜文馨、司法・厳世永、海関・趙秉稷など、計61人であった。
 主だった者達は門閥家出身の開化派ばかりであったが、中でも洪英植、魚允中は、開化派の中の快論党(過激派)屈指の者であり他は早急な開化に逡巡する者の一部であると思われる、という意味のことを近藤は記している。(以上「近藤領事ヨリ朝鮮紳士十一名我国ヘ渡航ノ旨報告」、「韓人演習拝見の義申入」、6 大阪「対韓政策関係雑纂/明治十四年朝鮮国視察員朴正陽来航関係」より)

 もっとも魚允中は、後に清国に使節として派遣された後にころっと清国寄りになり、国王への奏上文で日本の天皇は平和を望んでいるわけではなく、朝鮮を侵略するつもりであるなどと誹謗している。ために、他の開化派の者達から攻撃的な非難を浴び、それを恐れ悔やんで酒を暴飲し、ほとんど発狂したような状態となったと言う。(朝鮮京城公館ヨリ朝鮮国ヨリ咨問ニ対シ清国礼部回咨謄書及魚允中秘密奏上筵説密書天津大概ヲ上呈ス并ニ続報)
 しかし朝鮮事変の後に政府の人間が頑固党(守旧派)、日本党(開化派)、支那党(開化派)と三つに分かれた時に、結局は支那党に属している。(天城艦報告朝鮮国ノ近況)

 一行は5月12日夜に神戸到着後、翌日には大阪城、練兵場、造幣局、砲兵工廠学校、監獄署、博物館などを見学後、住友・協同会社合同の饗応を受けた。後、各人は分かれて様々な施設を技術取得のために熟覧した。
 それらは、造幣局、各種学校、病院、図書館、裁判所、軍施設など多岐にわたっており、案内担当した政府部署・府県は、外務省、文部省、大蔵省、司法省、海軍省、陸軍省、内務省、工部省、農商務省、開拓使、警視庁、東京府、大坂府、神奈川県、兵庫県などであり、待遇は朝鮮政府派遣の修信使と同じ扱いであった。(対韓政策関係雑纂/明治十四年朝鮮国視察員朴正陽来航関係)

 皆、日本の近代化を学ばんと熱心なものであったが、中でも金繻ウという者は、蒸気船運転及び製造方、その他玻瓈製造(ガラス製造)、写真技芸を伝習し、また金銀分析技術を求めて鉱山の実際を見学したいとの事で、丹波、但馬の銀山、銅山に案内されている。(14 工部省「対韓政策関係雑纂/明治十四年朝鮮国視察員朴正陽来航関係」)彼はかつて釜山居留地でもガラス製造法を習っている。

 また、この時に後に日本でも有名になる兪吉濬と柳定秀が慶応義塾留学を申し出て福沢諭吉に会い、入塾を許されている。(13 東京府「対韓政策関係雑纂/明治十四年朝鮮国視察員朴正陽来航関係」)
 後に慶応義塾は多くの朝鮮人留学生を受け入れることになるが、その最初の人間であった。

 あるいはまた、金繻ウの属員が医学研究のために東京大学医学部に入学を願い出たが、大学側は、本人の日本語の語学の点で講義を理解することが出来ないだろうから、明治15年5月に新たに生徒募集をするので、それまでに語学を習得すれば、無試験で入学させると約束した。(5 文部省「同上」)

 視察団一行は5月から8月にかけて長崎、大阪、京都、琵琶湖、東京と、陸路航路まじえての旅であったが、日本政府は私的旅行とは言いながら朝鮮政府の人間であるところから適当な官庁を宿として用意していたが、朝鮮側がそれでは窮屈であると言って、銘々思い思いの旅館に宿泊している。日本側はそれも了としながらも間違いがないように警護だけは付けた。(同視察官一行来朝)

 朝鮮の風土に較べて日本のその自由な空気と治安の良さも感じることが出来たろうか。
 8月24日、長崎から千年丸で帰国。帰りは58人であった。(12 長崎県「対韓政策関係雑纂/明治十四年朝鮮国視察員朴正陽来航関係」)

 

第3回修信使と関税交渉

 9月になって朝鮮政府は釜山の近藤領事に第3回目になる修信使派遣の決定を伝えてきた。すでに4月頃には関税規則を協議するために金宏集が派遣されるはずであったが、守旧派の巻き返しや政府参謀李東仁の失踪などがあって頓挫していたものである。

 修信使は、護軍 趙秉鎬、従事官 李祖淵、堂上 玄昔運など、40人に満たない規模のものであった。

 10月28日に東京着。11月9日に天皇陛下に謁見して朝鮮国王の国書を捧呈したが、明治以降初めての朝鮮国王からの書であった。
 内容は、花房義質から国書を受け取ったことにふれながら、この度の修信使を商議交渉として派遣した旨の書であった。(朝鮮国信使国書捧呈ノ為メ謁見ノ件)

 修信使は関税規則案を持参してきており、日本側も関税交渉の必要性はかねてから朝鮮側に伝えてあったから、ただちに協議に移るつもりであった。(以下、「朝鮮国信使税則該判概略書ノ件」より)

修信使全権委任状を持参せず

 しかしここで問題が発生した。
 趙秉鎬が関税規則を定める協議調印の資格を持つ全権の委任状を持参していないことであった。
 国と国とで協議し、まして両国間の取り決めまでするのであるから当然政府を代弁する者としての全権の委任状は必須のものとなる。
 これはうっかりなのか知らなかったのか、しかしかつて黒田全権が江華島で修好条規締結に向けての協議時に、繰り返し全権の委任を朝鮮側に説明し、ために申・尹両大臣もその委任を政府から受けて条規締結調印の運びとなったのであるから、朝鮮政府には既にこの事は心得ていなければならないことであった。

 かつて明治4年(1871)に日米修好通商条約の改正を求めて岩倉具視達が渡米したが、米国側から全権委任状を持参していないことを指摘され、あわてて大久保利通と伊藤博文が一時帰国したことがあったが、その時と同じケースになる。


とりあえず協議だけでも

 しかし日本側は、修信使の経費と時間が無駄になることを気の毒に思い、調印のことは後から京城でするとして花房義質・宮本小一の両名を以って取りあえず具体的な協議を行うことに決めた。

 日本政府の姿勢は朝鮮に対しては常にこんな感じであ.る。人がよすぎるというか、なんと言うか。

 協議は11月17日、30日、12月6日、8日、12日、と5回にわたって行われた。

 朝鮮側の提示した関税額は10%から35%であった。一方日本側が提案したのは5%である。これは、西洋列強が日本との通商章程で定めていた額すなわち「一律五分」であるから当時の日本としては当然のことであろう。
 それでも日本側は、この物品は10%、これは5%とある程度譲歩融通して締結するつもりであった。ところが趙秉鎬は税額に対して具体的な交渉をすることを拒み、ひたすら「朝鮮政府で定めたものである」と言うばかりで他に弁明も理由も述べようとしなかった。

 だいたい交渉というものはお互いが歩み寄って妥結するものである。しかし、趙秉鎬は又もただの取次ぎ人であり、頑として政府が定めたものを動かすわけにはいかない、と言うだけであった。
 これでは全く交渉にならない。

 この時の協議記録の詳細は残念ながら筆者は見つけることが出来ない。しかし想像するに難くない。日本側の交渉人は花房義質とあの宮本小一である。相手の頑なさに呆れながらもタフマン宮本が何としてでも話し合いの突破口を作ろうと機関銃のように言葉を浴びせている姿が見えるようである。

交渉を拒否したのは朝鮮側

 そう、つまり話し合いを最初から拒否していたのは実は趙秉鎬であり朝鮮側なのである。
 税関規則を作ったのでそれを一方的に呑め、というほうが無理な話であろう。
 日朝交渉において、日本側は常に朝鮮の要求に応え、条約協議でも修正あるいは削除してきた。あの黒田全権派遣時でさえそうである。

 それをまだ約束の3開港も成らず、行商することも許さず、内地旅行も拒み、今また揺籃期の日朝貿易に不当の高額関税を設けて、それを日本側に一方的に受け入れろ、というのである。

 いやはや、今度は玄君の出番もなかったようだが、これが朝鮮の交渉術というものであろうか。

 やがて談判5回に及んだ後に井上馨外務卿自ら出席して交渉の終了を宣言した。そして礼曹判書宛に、協議の経緯といずれ(明治15年5月)京城で再び討論して関税のことは決定するべき旨を書面にしたためた。

 この時のことを、日本が関税交渉を拒否したなどと書く人があるが事実は以上のようなことであった。

 なお、修信使に同行していた者の中から3人が陸軍戸山学校修学を願い出て許されている。陸軍士官学術、歩兵喇叭術の習得のためであった。(朝鮮人張大#m40808#外二名外山学校教導団ニ於テ修学ス)
 

貿易ようやく盛んに

釜山港の桟橋 「朝鮮風俗風景寫真帖」明治44年(1911)4月5日発行版より

 日朝貿易は、明治11年に朝鮮が一方的に関税を設けてトラブルとなったり、自由往来できるはずの東莱府まで行けなかったりと、そのため伸び悩んでいたことは先に記した。当時の釜山の山ノ城管理官の報告ではその輸出入の貿易額は年間凡そ42、3万円とあったが、それらが解消されてからは順調に伸び始めたようである。
 明治13年度で釜山が150万円と大幅に伸び、元山津も月平均4万9500円であり、年間59万円あまりが見込めた。ちなみにロシアのウラジオストック港での貿易額はおよそ120万円である。
 また、明治14年1月時点での居留地日本人概数は釜山が2千人、元山津が2百人、ウラジオストックは百人であった。(朝鮮国釜山元山ヲ経テ露領浦塩港ヘ定期航海并汽船購入代ヲ三菱会社ヘ貸与・二条)

 

不逞日本人の跋扈も

  貿易が盛んになり、居留民も増えてくると何かと問題も起きて来るものである。とりわけ元山津は当初から治安が心配された場所であり、また居留地内でもトラブルがあったことから、明治14年12月には日本人警察官を増員した。(同釜山在勤警察官増員費用海外費定額金ヨリ流用)
 「朝鮮国に居留する本邦人中往々不良の徒あり。ともすれば結党不穏の挙動を企て、終には両国の和親貿易をも妨害するに至るべき勢なるにつき、この弊害を将来に洗除するが為めに在朝鮮我領事をして止むを得ずの場合に方ては右不良の輩を同国より退去せしむるの制御裁定相成度旨は前日既に上申致置候処、なお在釜山近藤領事より該地居留人民取締の為め更に警察官増員相成度旨申出候・・」とある。

 釜山においても日本人の中には強引な押し買いをする者がいたり、ひどいのになると朝鮮に属する蔚陵島に渡って勝手に木を切り倒して釜山や元山津に運び込む者もいたようである。(朝鮮国蔚陵島ニ於テ本邦人伐木ノ件)。釜山居留地ではすでに日本人の囚人もいたことからも、不逞の輩の跋扈が結構あったことが分かる(同国釜山港囚人給与割増ノ件)。なお、日本政府は蔚陵島に入ることを禁ずる令を出したり取り締まりの警官も派遣したりしたが(「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」、「朝鮮国蔚陵島ヘ出張警視庁巡査俸給ノ件」)、密かに来て数ヶ月滞在して伐採する日本人は後を絶たなかったようである(朝鮮国蔚陵島ヘ渡航ノ者召還方ノ件)。その尻拭いもあったろうか、明治16年に蔚陵島が飢饉になった時に日本政府は居住する朝鮮人に米を供出したりしている。(在蔚陵島朝鮮国人民ヘ米苞給与ノ件)

 政府が気を遣い心を使って施政しても、それを無視して問題を起こすのはたいてい民間人であった。 これは日朝両国に於いて同じであったろう。

元山津貿易の景況

 さて、開港なったばかりの元山津の貿易の概況が報告されている。

在朝鮮国元山港総領事前田獻吉からの報告
(「第一号元山津開市景況ノ件」より抜粋要約。)

 元山津には青空市場が2ヶ所あり、50日毎に交代で開かれている。雨雪の日でも必ず開くという。市日には遠近から種々の物品を持参して各自に店を開き空き地は小市街と化す。木綿、紙類、麻布、煙管、筆、墨、櫛、針、食器などなど、皆下等品である。小間物は支那産が多い。穀物、魚菜、果物、陶器、鋳物、生牛などは、路傍に羅列し、穀物は、米、粟、大豆、小豆、糯米、麦で、たいていは布袋入りで5、6升から2斗ぐらいである。一人で数袋を出している者はおよそ百人ぐらいである。ゆえに一石(180リツトル)を得るには数人から買い集めなければならない。
 市場の雑踏およそ千人を超えると思われる。ほとんど男ばかりで、婦人はいたって稀である。
 わが国の人間が出て物を買うのに少しも拒むことなく、かえって朝鮮人から勧めるぐらいである。婦人もまたそうである。
 以前は売るのを拒む者がいた。官吏たちから厳命があったとか達示があったとか言うので、その筋に問い合わせると、決してそのようなことはないという。中には、既に買い入れんとして相談中に横から「日本人にはその値段で売るな。いくらか高値にして売れ。」と妨害する者もいた。稀には、不意に来て日本人に暴力を振るう者もあり、昨年(明治13年)12月16日に矢野大軍医の従者が痛く眉上を殴られ、長さ一寸(およそ3センチ)余りで骨まで達した傷を受けたことがある。(妻と従者を伴って釜山に勤務していた矢野大軍医は元山津開港と共に移転の命を受けて来ていた。)
 それにより翌日に府使へ問合せ話し合いをした。本人はほどなく全快したが、当日に日本人の手によって3人の者を捕らえて府の弁察官に手渡して処分させた。
 以来、開市の日には日本側から巡査を出張させ、府においても小吏を見回らせたりし、その後は敢えて妨害する者は無い。今日に至っては我が国の居留地商人は自由に市場に至り物品を購求することができる。
 今度入港の郵便船には多少の穀物を日本に輸出するようである。

 穀物及び生牛の相場(以下略)

 糧米を求めるのに居留地に往来する韓人に頼んでも、官吏も認めているのに厳罰を受けるからと言って持ってくることはない。それで通事に頼むと米1枡あたり韓銭で8、9文高くなる。
 直接買えば安いのだが日本商人は直接では敢えて買おうとしない。なぜなら、もし朝鮮の官吏がその場を目撃すると、他に事寄せて売り手の韓人に罪をかぶせて居留地への出入りを禁止するなどの妨害があることを憂えてのことである。

 韓銭は日に月に乏しくなり、今ごろは居留地内紙幣と交換の比較は、1円に付き333文3分であるが、これは名目であり実際の交換は甚だ難しい。この地は朝鮮でも稀なぐらいの開市場であるが、品をもって品と交換することが多く、金銭の取り引きは少ない。そのために元山市中でも銭を多数に蓄える者は無いと言う。それに加えて、穀物が日本内地より廉価であるのでこれを買い入れようとして、まず売渡す品を損をしてまで買い取ってそれで穀物と交換する者があるので、韓銭が騰貴するに至ったのである。
 今試しに1円を250文の韓銭に交換しようとしても全額をその場で手に入れることは出来ないぐらいである。故に、商業に関わっていない者にとっては(買い物は)不便且つ困難であることは以って知るべし。

 明治13年5月開港以来、輸出入額は合計38万3千1百31円46銭2厘である。
 朝鮮が輸入する額は(約)24万7千円余りであり、そのうち日本国内産が(約)1万3千円足らず、外国産が(約)23万4千円余り。

輸出額は(約)13万6千円足らずである。
 
入港出港商船は9隻。(以下略)

居留地人口、209人(以下略)

 日本物産展覧所は(明治13年)11月3日の天長節に韓人の来観者が1300人あり、正式に開館した12月1日から28日までに1438人、1月に至ってたいてい毎日70人平均の来館者がある。
 しかし、まだその物品を購求しようとする者がほとんどいない。まれには鋏、小刀、あるいは箸、やかん、錐、扇、筆などを望む者もあるが、ここでは非売品なので、商人の名前を告げてその場所を教えるが、そこまで行ってこれを買う者が少ない。また日本商人も展覧品の注文を受けた者はいない。陶器花瓶を見てその値を聞いた者がいたが買い求めたいようではなく、また、物品よりも会場天井(二重屋根ガラス窓付き)を眺めるばかりの者が多いと言う。

11月7日に雨から雪に変わった。ここは厳寒の地である。(以下略)

明治十四年一月上旬

 貿易額は伸び始めたが日本からの輸出品の内、国産品は1割に過ぎず、そのほとんどが外国製品である胡椒や金巾(高級木綿)絹織物などであった。そのため、国産品の物産展などを開いてその販売促進策に取り組み、釜山は明治9年に実施していたが、この年の朝鮮は大飢饉もあって振るわず、物産会場に泥棒が入るぐらいのことであった。しかし元山津はより京城に近いことでもあり、京城の商人の往来も見込まれるとして開港早々から予算5千円で展覧会場建設に取り掛かった(朝鮮国元山津ヘ我物産陳列所ヲ開ク)が、オーブンしてもなかなか国産品の貿易振興は難しかったようである。

 一方、日本が輸入する物品の7、8割は米穀であった。当初、対馬のみが必要とする物として扱われ、味としては日本米に落ちるがその非常な廉価さによって輸入量は次第に増えていった。そのため朝鮮での価格がやがて2倍あるいは3倍と高騰し、且つ産出量そのものも向上し(やっと開墾する気になったらしい)、朝鮮内地での米価は釜山での輸出価格が標準となり、その額によって相場が高低するまでになっていた。
 これにより、農民と地主や商人たちは大いに潤ったであろうが、その他の平民達が困窮する事態となるなら日本側も考慮せねばならないこととして、花房義質は関税交渉に当って米穀輸出に対しては1割までは関税をかけることを認め、ある程度抑制できる案を立てた。

 一方朝鮮側は、米穀を居留地の糧米を除いて海外に輸出するのを禁止し、逆に米麦を朝鮮に輸入するのは無税でしたい、と先の趙秉鎬の関税規則案で伝えていた。もちろんこんな不平等な案を日本側が肯くはずもない。また、朝鮮からの輸出の大半を占める米穀の輸出が禁止となれば、日朝貿易全体の促進が妨げられかねない。花房は関税を設けることにより解決するつもりであった。

 また朝鮮は、紅参(高麗人参)の日本への輸出を禁止したいことも伝えていた。従来は専売品として清国へ4割の税金をかけて輸出していたからである。花房はこれも関税を課す方向で協議する予定であった。


関税を定めるために京城に向かう

 以上のことを踏まえ、関税は物品毎に5%〜15%の幅を持たせたものとし、且つ港税を支那・朝鮮間の取り決めを参考にして船のトン数による課税に改めるなどの貿易規則の改定案を作成し、明治15年(1882)4月25日、日本は天皇陛下の御名を以って花房義質弁理公使を全権大使に任じ、その国書を持たせて貿易規則の改定と税則創定の為に朝鮮に派遣することを決定した。(以上「朝鮮国海関税則創定花房公使ヘ全権御委任ノ件」、「朝鮮国信使税則該判概略書ノ件」)

 なお朝鮮国王世子(純宗)の冠婚の賀儀にあたり、天皇陛下の賀詞と共に小蒸気船1隻、山砲2門が贈られることも決定した。(朝鮮国王世子冠婚ノ賀儀トシテ御親書并物品御贈進ノ件)
 世子は当時9才、妃は11才で閔台鎬の娘であり閔永翊の実の妹である。すでに4月8日に婚礼の儀は行われていた。
 閔台鎬は政府内の守旧派の重鎮であり、一方閔永翊は国王内命を受けて墓参りと称し密かに日本に渡らんとして父の閔台鎬に発覚したが、その反対を押し切って来日したという開化派である。(「公信第二十五号世子結婚執行及米国軍艦来航等ノ件」、「花房弁理公使ヨリ閔永翊王命ヲ奉シ東行ノ旨報告」)

 花房弁理公使は5月11日に京城の日本公使館(清水館)に到着した。
 29日に国王に謁見、その時、別技軍教官である陸軍工兵中尉堀本禮造も共に謁見を許され、国王直々より労をねぎらう言葉を受けた。(朝鮮国世子冠婚ニ付弁理公使花房義質国書捧呈ノ件)

 堀本中尉生前最後の栄誉と、この時誰が思ったろうか。

 花房は、朝鮮側にも協議のための全権委任の大臣を選定するように申し入れ、それに対して朝鮮側は、京畿観察使兼通商司経理事の金輔鉉と同経理事の金宏集を全権委任の大臣として協議させることを伝えた。(公信第六号通商司経理事金輔鉉金宏集通商章程改定全権委任ノ件)
 朝鮮政府は、やっと取次ぎ人方式を改めたらしい。
 金輔鉉はどういう人物かよく分からない。この後の事変で殺害されているから開化派の人間ではあったろう。

 この時点で6月6日の報告であり事変が起こるのは7月23日であるから、協議はその間に何度かは行われたと思われる。しかしその記録の公文書は見ることが出来ない。
 おそらく事変の時に、公使館を乱軍乱民が包囲して攻撃する中、花房一行が決死の覚悟で脱出する際に書類などは燃やしたとあるから、それでないのかもしれない。

 

朝鮮の開国と混乱
(以下、残酷な描写の部分が出てきますのでご注意ください。)

 明治15年(1882)5月22日、朝鮮は米国と通商条約を締結した。事実上の開国である。
 これは清国の斡旋によると言われているが、実際は清国と米国とでほとんど取り決めたものを朝鮮が呑んだ形であったらしい。(「朝鮮国繋泊清輝艦交代トシテ磐城艦廻航ノ件」、「朝鮮仁川湾景況」、「朝鮮国釜山浦景況外一件」p8、「朝鮮問題ニ関スル新聞紙抜萃ノ件」も参照のこと。)
 
まさに宗主国と属国の関係ではあるが、この頃の朝鮮政府内では外交と内政をめぐって議論百出して意見まとまらず、各地の儒家や要人が徒党を組んでは繰り返し上疏したり乱を起こそうとしたりと混乱し、とかく国家の重大事は他国の強い力に頼らねば前に進めない状態であった。
 また国王にも絶対の権力というものはなかったようである。
 米国との条約をめぐって参判以上の各大臣が連名で上疏し、ために国王は「卿たちは時勢を知らない。」云々と度々説得し、大臣たちはそれにより自ら謹慎したが、国王は更にそれには及ばないと再三命じたという。この時には閔台鎬も謹慎したらしい。謹慎というと聞こえはいいが、ようするに公務放棄みたいなものではないか。国王にとっては実に困った連中ではあったろう。(公信第二十七号李最応以下上疏セシ者義禁府ニテ謹慎等ノ件)

 時に叛乱を企てる者もいたが、これらは処刑されている。叛乱は国家転覆をはかる大逆罪である。日本公使館の報告によれば京城では大衆の目に付く所に処刑された死体が何度も見られたという。
 その死体は、首手足を切断し、稲村のような物を作って下部に首を吊るし、手足は筵に包んで上に乗せ、胴体は全裸の姿でその横に積んであり、姓の無い名のみの名札を懸けていた、というものであった。この時は10人が処刑されており1人が流刑、もう1人は獄中で舌を噛んで自殺したとされるが実際は棍棒によって殴られて死んだという。(「昭義門外死尸暴肆ノ件外一件」、「叛党処刑ノ件外二件」)

朝鮮の梟首刑 撮影年代不明。 「大逆不道玉均」 金玉均は明治27年に暗殺後、切断されて大逆罪として晒されている。(金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日)

 日本でも明治になってもいわゆる晒し首と称する「梟首刑」はあったが、明治12年1月4日太政官布告第一号によって廃止されている。犯罪も兇残であるがその刑もまた残酷であり、人情においても文明国の法律中においても、あるまじき刑罰である、ということが理由であった。
 朝鮮もまた文明国を目指さねばならないはずであったが。

 

日本人僧侶ら強盗殺害に遭う

 元山津居留地は、日本人警察官などが巡回していたこともあって治安が保たれていたが、一歩外に出るとそこは未開野蛮の地であったようである。
 明治15年(1882)、日本人5人が居留地を出て散策中に多数の朝鮮人に襲撃され、逃げ遅れた3人が荷物を奪われた上に死傷するという事件が発生している。
(以下「朝鮮国元山港居留日本人同国人ニ殺害セラレタル件」より。)

 3月31日、元山津居留地の本願寺説教場の日本人僧侶2人と三菱支社社員2人、大倉組支店雇いの1人、計5人が居留地を出て遊歩に出た。途中で知り合いの朝鮮人に出会って雇い入れ、持参した西洋馬具などの荷物を持たせて共に居留地から35里(朝鮮里)位の安辺地方という付近まで来た。途中で再び僧侶を見知る朝鮮人1人と出会ったので乗馬を雇ってくるよう依頼した。
 日本人一行が乗馬を待っていると、朝鮮人が集まり始め2、3百人となり、やがて日本人が持つ銃(大倉組支店雇いの者は猟銃を持って来ていた。)を見せてくれなどと言う者があり、それで試し撃ちをしたりその者に持たせたりしていたが、その場では何事も無かった。しかし、どことなく不穏の空気を感じ、また雨天となり時も夕方となったので、引き返すことにした。それで土橋を渡って橋の中央付近まで来た時に、突然群集が投石しながら襲撃した。それにより携えていた猟銃を空に向かって威嚇射撃をすると、群集はひるんだが、雇い入れた朝鮮人はすでに殴られて馬具などを奪われていた。それで他の荷物もまとめて急いで立ち去ろうとすると忽ち10人ぐらいの朝鮮人が追ってきた。日本人は逃げながら追う者の中から銃声2発を発するを聞いた。2人は逃げおおせたが、僧侶(本願寺説教場留学生、19才)と三菱社員(25才)1人と大倉組雇いの者(18才)の3人が逃げ遅れ、その数5、60人に膨れ上がった群集に取り囲まれた。
 それにより抵抗せずに穏やかに話せばよいと決め、たまたま群衆の中に衣冠を正した者が1人いたので自分たちの窮状を訴えた。しかしその語が終わらないうちに群衆が一斉に殴りかかり、背中を向けて倒れたところを更に木の棒や石で散々に殴りあるいは小刀で刺し、ついに3人は動かなくなった。
 雇い入れた朝鮮人も15、6人から殴られて少し離れて倒れていた。
 4人の荷物は全て奪われていた。

 やがて、乗馬を探していた朝鮮人が馬を得られなかったので戻って来て、まず倒れている3人を発見した。僧侶は死亡しており、1人はかすかにしか動かず、もう1人(三菱社員)が息を吹き返して、歩けないので背負ってくれと頼み、途中からは自力で歩いて弁察所の通事に会い、事の次第を伝えた。その後2、3人を雇って倒れている者を運ぶように指示し、他の者に棒で釣台のような物を作らせてそれに乗って元山津に戻った。指示を受けた朝鮮人は背負い道具に、死亡した僧侶は筵をかぶせて運び、まだ息のあるもう1人は荒縄で括りつけて元山津に運び込んだ。
 もう1人の雇った朝鮮人も、先に通りかかった知己の者に背負われて帰宅していた。

 検死並びに診察の報告によれば、僧侶は全身を棒や石で打たれた痕があり、とりわけ背中がひどく、更に後頭部を小刀で刺されて脳まで達する傷を受けたのが致命傷となった。
 重体の大倉組雇いの若者は同じ状態の全身打撲で危篤。
 もう1人も同じ状態の全身打撲で脳に障害が残るであろう重傷であった。
 雇いの朝鮮人も腰と腕を殴られて負傷し日本の医官の治療を受けた。

 また、奪われた物は、猟銃、馬具、双眼鏡、毛布、靴、麻縄、その他であった。

 なお、日本人一行らは後に連名の上、雇いの朝鮮人も共に災難に遭ったのは気の毒と、慰労金韓銭1貫文(銅貨1千枚)を贈っている。

 以下、この事件に関する元山津領事館三等属奥義制と徳源府使鄭学黙の談判の要約である。

明治十五年四月六日、徳源府に於て対話
(「朝鮮国元山港居留日本人同国人ニ殺害セラレタル件」より抜粋して現代語に、括弧は筆者。)

「三月三十一日に、我が国の居留民五名が安辺近傍に遊歩し、貴国人のために打たれて一名は即死し、二名は重傷に付き、取り敢えず口上で伝えたが、そちらの官吏二名と我が医官と警部が会同して検死し、昨日に書簡で顛末詳細を伝えたので諒解されたと思う。負傷者は甚だ重体にして速やかに事実を問い合わせることが出来なかった。一名はなお危篤で言葉が出せない。今度の事は実に大変事で、総領事の権限外のことなれば、政府の処分を仰ぐはずである。また、申し入れるまでも無く、きっと悪漢の多少は捕縛されたと思うが、いかに。」

「承知せり。何とも申すべきもない次第で恥じ入りたり。変事は安辺府の管下で所轄違いではあるが、変報を聞いて早速に伝え、捕亡吏(捕り手)を出した。所轄違いは巡営(上の部門)の指図を待って取り計らうことであるが、非常の変に付き指図を待たずに取り計らった。その後巡営の指図もあって更に多数の捕亡を発し、安辺府に伝えもしたが未だにその悪漢を捕らえることは出来ていない。もっとも、その日は安辺の市場に於て諸方から無頼の徒が多く来集したということである。たとえ、今はまだでも数ヶ月内には必ず捕らえるべし。今度の事は両国間の大不幸であり既に我が政府に報上した。また、変事の起こったのは我らが不注意からであるとして、巡営から拙者と弁察官と安辺府使の罷職を検討中である。

「この度は尋常の闘争傷害と違い、一切抵抗せずに努めて温和に出たのに暴力甚だしく残酷を極めたり。故にその重傷はことごとく体の背中部分にある。もしこれまでのように市日には諸方から無頼の徒が集まるので犯人はどこの者かは分からないなどと言われるに至るなら、貴政府は大なる難儀を受けられるべし。この処分は両政府でどうするのかは量り難いが、片時も早く悪漢を捕縛することを希望する。」

「捕亡のことはもとより怠りなく、目下色々と吟味中である。」

「我が国においては例え重罪を犯す者であっても、病気または負傷する時は先ずその生命を助けて保護し、その後に取調べをするものである。それを当日に負傷した者を運んだ時に、犬や豚を扱うかのように棒に藁縄でくくって背負って来た。この人夫も重傷の日本人が辛うじて賃雇いしたものである。数時間夜雨に打たれたために重症さらに重い状態となり、治療が甚だ困難となっている。我が国ではいずれの地方を問わず、このような変事があれば住民から官府に知らせ、官府から相当の保護を加えるものである。貴国は実に無情の行いをするものだと思う。」

「我が国も同様なり。過日の変事は管轄違いでもあり、その知らせも遅くなった。弁察官も負傷者が来て始めて知ったのである。もし官において早く知っていたら決して取り扱わないことは無いはずである。」

「この事について我が人民は憤激し、以後は外出の時は護身の武器を携帯することを願い出ている。しかしながら、これは両国の大事を惹き起こす基であるから固くこれを制止している。しかし、貴国人は往々にして粗暴を我が国の者に加える者があれば、我が人民も安心するに至らない。貴国人に特別の厳命を加えて、以後は我が国の人に粗暴の挙動がないように取り計られたい。」

「承るまでもない。もとより別に命令するであろう。」

「しからば、その令辞の写しを下されたい。令辞は毎戸別に布達するのか、又は掲示するのみなのか。」

「戸別に布達した後は、往来の人の目に付きやすい場所の民家の壁に貼るのである。」

「我が国も戸々に布達して各地方に掲示所があってそこに張り出す。当港居留地内にも設置している。愚案であるが、たとえば元山里なども上下二箇所の市場に掲示所を設ければ貴国人はもとより我が国の人も一覧できて都合がよろしいと思うが。」

「新たに掲示所を設けることは我が国には無くて難しいであろうが、しかし必ず貴国の人の目に触れるべき場所に掲示すべし。その写しは必ず差し送る。この一件の返事は今は難しいので政府の指図を得てする。」

「承知した。しかしながら先に問い合わせた分は返答をまず頂きたい。」

「分かった。」

右のほか、変事の起こった前後の詳細を説明して一層府使に理解させた。

「この上は申し上げたい一事がある。遊歩規定は我が国の十里である。もし貴国の人が遠方に行く時は前もって通知されたい。そうすれば添え人を出して途中不都合が無いように取り計らう。徳源管内ならば追々貴国人を見知る人も多いのでこの度のような大変事は決してないと思う。敢えて規定外に出れば必ず粗暴の事があるという意味ではないが、諒解されたい。」

「委細承知した。遠方に行くことは出来ないとはかねてから達示していたが、なお改めて布達したい。」

「今一事ある。巡営から拙者に直接行って検死すべき旨達しがあった。どうすればよかろうか。」

「過日、そちらから官吏を派遣されて共に検死し、その後に埋葬したのであるから今はもう検死は出来ない。」

「しからばそのように巡営に報告しよう。」

明治十五年四月六日

 奥義制が「このような変事があれば住民から官府に知らせ、官府から相当の保護を加えるものである。貴国は実に無情の行いをするものだと思う。」と言ったのに対し、鄭学黙は「我が国も同様なり。・・・早く知っていたら決して取り扱わないことは無いはずである。」と言ったが・・・。
 しかしこれは「はず」であって実際は違うだろう。人民が餓死することすらあまり気にしないのが政府役人たちなのだから。

 この後この件に関して、日朝両政府でどのような話し合いが行われたかは分からない。
 しかし日本政府から取り立ててもの申すことはなかったようである。
 それは、まず僧侶たちは居留地から10里以内という遊歩規定に違反していた事、武器を携えていったこと、且つ民間人であったこと、によると思われる。(実は後に花房が処理していた。
 もしこれが日本政府の公人の行いであったなら逆に朝鮮政府から問いただされていたかもしれない。
 だからこそ、徳源府使との談判に元山津の日本総領事でなく、外務三等属の書記官が対応したのではなかろうか。
 そして日朝修好条規に基づいて、またも朝鮮人の日本人への犯罪は朝鮮側が処理するのであり、日本側はせいぜい抗議するしかないのである。(「不平等条約」というのは日本にとっての「不平等条約」なのだろう。)

 朝鮮政府は元山津開港時に於て管轄する徳源府の府使には、かつて日本に来た修信使であった金綺秀を着任させるという配慮を見せた。また、この談判に於ての府使鄭学黙も日本に対して友好的な態度がうかがわれる。特に遊歩規定に関しての弁は気を遣ったもの言いである。
 当時の日朝両政府の関係はそれなりに歩み寄っていたことが感じられるものである。

 しかしここでの問題は、朝鮮人民の粗暴野蛮さである。
 普通、無抵抗の人間を繰り返し打つということは出来難いことであろう。しかし、僧侶ら3人への仕打ちは、背中を見せて倒れている者を繰り返し石で打ち棒で殴るという、もし手に持つ物が石でなく棒でなく剣であったら身体は寸断されていたろう、という異常さである。

 実際、この後の朝鮮事変では日本人の何人かはそういう状態となっていた。
 筆者は、元寇の項で「拉致と残酷行為は、あちらの文化なのであろうか。」と述べた。今またそれを感じるものである。
 これを「反日行動だ」と言う人もあるが、何でも「行動」だの「運動」だの「闘争」だのの言葉を付ければ許されるものではない。犯罪は犯罪である。ましてこのケースは追剥ぎ強盗による惨たらしい事件であることは明らかであろう。

 この事件は日本の新聞でも伝えられた。おそらく「これを以ってしても朝鮮人は残酷野蛮の人情柄である」という印象を一般日本人に与えたのではなかろうか。

 


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