明治開化期の日本と朝鮮(17)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

京城南大門と藁屋の床店 撮影年代 日清戦争時(1894年か1895年)

藁屋の床店  『街路は市中に一二の大道あるのみ。そのほかは悉く狭小なり。道路幅は二間内外(4メートルほど)に過ぎず、糞穢が路傍に流れて溢れ、不潔なること名状し難い。また泥濘が多くて歩くのが困難である。・・・大門の幅十二三間の路傍に各種商人の藁屋の床店が並んで道幅を狭める。本屋、穀物商、魚菜店、布売り、骨董店、陶器店などあり。本屋では見るに足りない支那の古書や自国史のみでひとつも参観に供するものはない。法律書、地誌、近世歴史などのようなものの発売は国禁にかかわると言う。』(高雄丸韓国沿岸測量一件/2 明治十年 朝鮮紀事 p39)

 どうやらここは商店街だったらしい。明治9年に宮本小一が書画骨董品を見たいと要望したのに対し、玄訓導はそのような店は無い、と言っていたが・・・。ここに案内するわけにもいかなかったのだろう。

 

天皇陛下の国書を手渡す

 花房弁理公使は明治13年11月24日に東京を出発し、12月17日に京城に到着した。
 22日に礼曹判書に面会し、公使駐在の件と国書奉呈のことを話した。

 「皇帝陛下」と記した国書については、朝鮮政府にもそれなりの事情があるだろうが、宮本小一との対談に於いてこれを贈らないと約束したわけではなく、もとより朝鮮国と交誼を厚くするのは我が国皇帝陛下の叡旨であり、速やかに奏聞すべきであると説いた。
 それにより朝鮮政府では翌日にそれを受ける事を議決し、まず新たに謁見捧書の儀式を定め(もちろん新例である)、煩雑な手間を省き、進退六揖(「拝」よりも浅いお辞儀を進退3回ずつ計6回する)して国書は花房自らが国王に奉呈することになった。
 27日にはついにこれを行った。朝鮮国王が外国の使臣を引見して国書を受け取るのはこれが始めてであり、ここに「書契問題」は決着した。国書一通を渡すのに実に13年の月日を要したのである。

国 書
(「同国ヘ公使派遣ノ件」の「朝鮮國ヘ國書案」から抜粋。句読点は筆者。)

大日本國大皇帝敬テ
大朝鮮國大王ニ白ス。曩ニ兩國交誼ヲ敦クシ當行事務ヲ商ル為メ、代理公使花房義質ヲ簡派セリ。義質貴國ニ往来スル已ニ年所アリ。能ク両國ノ好ヲ賛ス。朕之ヲ器重シ乃チ辯理公使ニ陞任シ貴國京城ニ駐箚シ以テ交渉事宜ヲ辯スルヲ掌ラシム。義質人ト為リ忠篤精敏ニシテ黽勉事ニ従フ。朕克ク其任ニ堪ルヲ知レリ。冀クハ、
大王幸ニ寵眷ヲ垂レ、時ニ謁見ヲ賜ヒ朕ノ命シテ陳述セシムル所善ク聴納ヲ為シ以テ其軄ヲ盡サシメンコトヲ。茲ニ、
大王ノ多福ヲ祈ル。
神武天皇即位紀元二千五百四十年明治十三年十一月八日
東京宮中ニ於イテ親ラ名ヲ署シ璽ヲツセシム。

 

議論沸騰、国内騒然

 その後花房はただちに仁川開港の議題を提出した。しかし、朝廷内では国書を受け取ったことに対して議論が紛糾し3日間で礼曹判書が3回変わるという事態に至った。
 さらに議論は沸騰し、大院君は陰で煽り或いは外交をそしり或いは開港を拒み、投石する者も現れて騒然とした雰囲気になった。
 これにより朝鮮政府は乱民が蜂起せんことを恐れて開港延期を繰り返し要請し、 公使が京城に駐在することも延期するよう請うた。

 しかし花房は、東洋の置かれている状勢を懇々と諭し、両国利害の関係を説いてこの要請を容れなかったため、ついに朝鮮政府はその決意が動かないことを知り、翌年14年の1月28日に至って仁川開港を議決した。

 なお花房は、開港の時期については朝鮮の事情を汲んでこの年から起算して20ヶ月を期限とし、すなわち明治15年9月から開港する事で妥結した。

 更に内地旅行、大丘行商のことも協定するつもりであったが、朝鮮政府内外でますます物議沸騰し、花房との協議役である講修官金宏集も退職してしまった。

 これにより花房はしばらく時節を待つことを決め、幸いに今回日本に派遣されることになった朝鮮の視察官(いわゆる朝鮮紳士)を導いて改進に方向を定めるのがよいだろうと判断し、一旦帰国することにした。すでに明治14年6月30日であった。(以上、「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史 松本記録」、「朝鮮国々情并弁理公使花房義質帰国」、「第五号仁川開港ノ件外二件」「花房弁理公使将来ノ方略等稟議ノ為メ一時帰朝」より)

 

仁川開港談判

 今回の京城行きで朝鮮政府との交渉に関する記録資料は少ない(アジ歴でまだ未公開なのかも)。以下は仁川開港についての対談記録である。
 花房義質は明治14年の正月を京城の清水館で迎えたが、ここは明治9年に宮本理事官の宿として朝鮮政府が用意して以来日本使節の居館となり、後に日本公使館となった所である。

 1月4日、講修官として礼曹参判金宏集が来館した。第2回修信使でもある彼が対談相手である。またも礼曹判書が直接対談することも、全権を委任された者が来ることも無く、金宏集もまた取次ぎ人でしかなかった。

(「第五号仁川開港ノ件外二件」中の「明治十四年一月四日講修官禮曹参判金宏集来館花房義質對話」より部分省略、現代語に、括弧は筆者)

仁川開港一件談判 第一回

花房  仁川開港のことは昨年に貴政府からの議論の趣は委細我が政府へ申し立てて評議を遂げたが、我が海軍の所見からも拙者が見たところでも南陽、喬桐ともに適していない。そのほかにも適当の港がない。もし南陽に於いていまだ知らない海湾があって朝鮮政府から指示する所があるなら更に調査検討するが、そうでないなら仁川を除いて他に開くべき所はない。
 ただ、仁川を開くにおいては障害がないように熟議せよとの命を受けている。仁川に開港するのに利あって害のないことは昨年に論を尽くしており今また重ねて言うこともない。この上は貴政府にあっては熟考されて御同意の返答を得て局を結びたい。
 丙子年(明治9年)に条約締結以来すでに6年(数え年計算)に及ぶのにまだこのことが決定しないのは嘆くべきことではないのか。

  仁川開港のことは先年から貴政府が御望みなれども、我が国の人心が折り合わぬより政府商議の上すでに閣下に断り且つ拙者は先に東京に於いてもそのことを答弁したのである。我が政府の望んでいるように三南、南陽、喬桐の内から開港の地を定めるべしと思っていたのに今また仁川の事を再び言われるのは困却の至りである。
 しかしながら、これは両国の大事であるから自分の一所見をもって答弁すべきことではない。難易利害のことは昨年に既に議論を尽くしたので、今回はただ貴国政府はやはり仁川を開く事を望まれる旨をもって篤く朝議を尽くし、その上でご返答いたしたい。

 

 この後、金宏集は他に議題とする懸案があるかを問い、花房は他事は後日にして今日はこの事に止めると答えた。
 すると講修官は、公事は公事しかし両人は私交もある、と言って語りだし暗に密談を匂わせた。側にいた玄訓導がそれを察して席を立って部屋を出ていった。他聞をはばかる話のようなので、花房も側の石幡を部屋から去らせた。
 講修官は長々と前口上を述べた後、

  国書の事は我が政府には従来には異議があったが前日の議定(国書を受ける儀式の新例のこと。)によって既に定まった。両国の慶と言うべし。国書を受け取った以上そこにある通り公使駐在のことは既に異議ある理はない。
 しかし、我が国議論が囂々と起こり投石までする暴人があり制止しようとするが難しい。
 顧みて貴国開港の始めを思えば江戸に駐在した各国公使が暴力を避けて横浜に移ったこともある。今から閣下が直ぐに駐在されるならどうにも制止出来ないことになるを恐れる。また日本公使が駐京にあるを名として各国が入京を望むなら事はいよいよ困難になる。あえて日本公使を拒むわけではないが駐在の時期を遅らせる事を望む。

花房  貴政府の御心配も一理ないわけではないが、朝野の議論囂々たるもそうであろう。我が政府も貴国にははたしてそうであることは察して余りあることである。しかし、駐箚が肝要であることは数年来から詳論したことで、今日のように禍乱焼眉(露清対立などのアジア情勢全般のこと)の迫っている時に最も肝要な事であるからこそ朝鮮政府の議決を待たずに国書を送り駐箚を命じられたのである。
 米国は去年に我が政府に由って使いを貴国に通さんとしたが貴国はそれを斥けた。我が政府も米国使節が直に京城に来ないように釜山で取り扱おうとしたのであるが貴政府は我が好意も併せて斥けられたので、もはや今年は彼らも我が政府に由らずして直に京城に来るような勢いである。これまた止むを得ないことである。
 ロシアのごときも去年中には来るであろうと各国は見ていたが、今日までもそのことがないのは、日本政府の意にそまないことを憚ってのことであるとロシア公使が我が外務卿に語ったことがある。また、ロシアの水師提督も私に同じことを言ったので明らかである。
 我が国が今は貴国の内情を斟酌して京城に駐在せずにただ東京に座しているなら、各国は日本に遠慮することもなく直に京城に来て欲するところを遂げようとするだろう。ロシアも日本を憚ることもなくなろう。
 日本公使が駐京すれば各国の使船が来て京城に来ることがあってもこちらから多少の周旋もできる。これは貴国が用意出来ていないことを知りながら駐箚を命じられた所以である。
 これらのことは領議政閣下(李最應)に特に面会を乞うて話をせよと命じられたのであるが、今日互いに胸襟を開いて談ずるのにこの事だけを隠すべきでないので敢えて閣下に告げるのである。領議政閣下に告げる時期は自ずからあるであろう。
 ただし、このような密談が世間に漏れて誤り伝えられる事はもっとも忌むべき恐るべきことである。極めて慎重を要する。

  貴政府の用意がここまで周到で各国の形勢もそのように切迫していることを聞けば我が政府にても篤と議論を尽くさないわけにはいかない。なお政府に申議の都合もあれば他の事は後日にしたい。

 講修官との対話応答は十数回に及んだがその要旨をまとめると以上であった。
    花房議質 記す。

 なお第2回以降の対談記録は見ない。この後対談を重ねないまま朝鮮政府は仁川開港を議決したのだろうか。

 

重層の開化派

 花房が公使として京城に駐在するうちにいろいろな人物の接近があり政府内外の動静に関する情報が様々にもたらされたようである。花房は明治14年6月30日に一時帰国するまでの間にそのことを井上外務卿に報告しており、これらを読むと朝鮮国の行方を巡って混乱する人々の姿が見えてくる。
 (「金宏集信使トシテ再航ノ内報并ニ雑報」、「韓人ヨリ岩倉井上両氏ニ贈リシ仁川開港談判ニ付軍艦要迫論ノ出所探索書進達」、「花房弁理公使李献愚徐光範ト面晤ノ旨報告」、「近藤領事ヨリ朝鮮僧無不探問書ヲ進達」、「花房弁理公使ヨリ閔永翊王命ヲ奉シ東行ノ旨報告」)

 守旧派に関しては簡単であり、要するに大院君を要とした一枚岩であり、政府要人、儒家たちである。

 問題は開化を進めんとする人たちの動向であり、その方針の違いであった。

 

 明治14年(1881)1月、慶尚道安東の儒者である某首魁が2千人ばかりを鳥嶺で集め、内政に関する議と仁川開港を拒む等を朝廷に進言すると檄を四方に飛ばして入京する勢いとなった。しかし朝廷が大臣を遣わせて鎮撫し事なきを得た。

 3月22日、金宏集から関税規則を定めるために朝鮮から使節を派遣して東京で協議したい旨の政府内義があることを申し出た。
 これにより花房は、もちろん今年に遣使されるのは両国の状況としても益あることであり、今度は朝鮮国王から国書を送られるなら頗る体裁を得ることになる、と答えた。
 その後、玄昔運訓導が荒川通訳官に内報するのに、金宏集は、この頃から李萬孫等が劾奏したために城外に蟄居してその裁可を待っていたが、27日夜に特命があって再び信使として日本に派遣されることに決定した、と伝えてきた。

 李萬孫の劾奏とその経緯は次のようなものであった。

 3月中旬(22日以降)、安東の李萬孫という70余の老人が首魁として8百名入京と唱えて直ちに城中に入った。実質は3百人と言う。また或る人の説によれば7百名ばかりであり、それが交代で毎日3百名余りが宮中の門前に来ると言う。
 李萬孫は宮中の下で跪き上疏に及んだと言う。
 その大略は、
1、閔氏一族宮中党の勢いを削ぐ事。
2、仁川開港を許さず。
3、外国との交際を許さず。
4、金宏集が日本から帰って以来、国家の政治の変更が多いことを責める。
5、部衛(近衛のこと)の改革に関すること。
であった。
 彼は辰の時刻(午前8時頃)から申の時刻(午後4時頃)まで1週間座り続け、為に京城の人心も騒然となった。
 しかし国王はこれを閲覧して激怒し、
「内政の是非を論ずるは臣下の常道であるが、他国に交渉する大事をみだりに議するは不届き至極に付き、以後にこれらのことを献言する者は、首謀者は斬刑に処し、他も厳重に処分するべし。」
との命令を下した。
 一方で、閔氏から内密に首謀者へ財貨を遣わせて鎮静させたとの由にて、25、6日から徐々に退散したと言う。

 儒者にも金がもの言うのがいかにも朝鮮式であろうか。

 また、咸鏡道にも2千人の党があり、その内の2百人程が入京して上疏せんとしたが先の安東の党が挫折した事から、そのまま帰ったので何事も無かったという。 
 あるいはまた仁川開港のことがまだ協議されない頃、宮中下に伏して開港に反対した者があった。もし聞き届けられないなら自分を斧鉞(まさかり)で処刑されたい、という意味を込め、喪服を着て背中に斧鉞の絵を画いた紙を貼っていたと言う。

 今日でも韓国での抗議行動と言えば様々なパフォーマンスが繰り広げられて見る者をして飽きさせないが、これらは朝鮮時代から続く伝統文化なのであろう。

 とにかくこれによって金宏集は謹慎してその裁可を待っていたが、27日夜に特命があって再び信使として日本に派遣されることに決定した。
 国書を捧持しての日本視察と関税談判のための派遣らしかった。

 ところが、その後その話は一向に進まずに朝議も変動し、金宏集を再度信使として派遣する件も取りやめになり、すでに出発した人間共々(釜山から)呼び戻すことになった。

 花房はどういうことか訳が分からずにいたが、やがて接触してくる開化派の者たちの話によって詳細が明らかになった。

 当時政府事案の決定は朝鮮議政府がする以外にも国王に直接提言することによる内命の場合があった。当然、提言する者は国王の信任を得ている者に限られたが、開化派の中にもそれが出来る李東仁という僧侶がおり、政府参謀として任じられていた。彼は、日本に来たこともあり(明治12年に密航?)、かつて金玉均が心を尽くして財的にも支援していた人物であったが、この頃は閔泳翊の家に住み閔氏の勢いを借りていた
 閔泳翊は国王閔妃の甥である。花房は閔泳翊のことを次のように言っている。
「・・・開進に切にして、年弱く僅かに二十三才なれども当時より国王の信任を得、国家の事内外大小となく其の意を決すること多く、威権宰相の上にあり。此れの如き人を勢道と言う。勢道とは朝鮮語にて、全権また当権の意なり。」(花房弁理公使ヨリ閔永翊王命ヲ奉シ東行ノ旨報告)

 李東仁は開化派の中でも力があり、この後の「朝鮮紳士遊覧(日本などへの海外視察旅行)」も彼の提案によるものであったが、その日頃の軽々しい行動から大臣たちも信用せず、金宏集も困っていたらしい。また、開国をめぐってその論も対立していた。金宏集、李祖淵らは、日本政府及び清国の意見もあれば先ずアメリカ或いはドイツの内を選んで結ぶことを考えていたが、李東仁はひとりイギリスに親しむことを主張し、しばしば国王にも内奏していた。
 故に金宏集等は、李東仁が日本で英国人と最も親交した点を挙げて、英国人と通じているのではないかと疑うまでになっていた。

 それが3月の李萬孫の訴えがあった後に李東仁は忽然として姿を消したのである。
 彼は3月初旬より10日前後には、数回日本公使館に来て頻りに懸念したように、
「公使の身が危険である。護衛を増やすべきである。」等の忠告をした。そのことは他にも同様の忠告をした者があったが、公使館としては別に仕方も無いことであるからそのままにしていた。(それ相当の理由もなしに警備の者を増強するのは朝鮮側の不審を招きかねないことであった。)

 しかし李東仁は先の上疏があるとその身が危ういと思ったのか、3月中旬頃より閔泳翊の家を出て失踪した。
 その後、国王が本人を召喚したが遁走して所在不明のために国王は憤怒して、
「碌々たる小人、今情勢の難しきを見ていたずらにその身を隠し保身の計をした。もしかして(東仁は)日本人が我が国の言葉に通じ、偽て朝鮮人と称したにあらずや。」と罵った。
(それはないだろう。その反対なのは後によく知られることになるが(笑))

 朝廷の官僚達も日頃からその軽躁を咎めていることもあって彼の所行は測りがたいと言う者が多く、国王は益々怒って、
「彼、山に隠遁するにあらず。必ず元山津に身を潜めて日本に遁走せんと謀っているに違いない。速やかに捕らえるべし。」と命じ、それにより捜索があったらしい。
 これにより、東仁を同伴して日本に行くはずだから既に釜山に赴いている数人も呼び戻す、との朝議があり、修信使派遣も取りやめとなったと言う。

 しかし彼が再び姿をあらわすことは無かった。

 その同志である僧侶「無不」は釜山の近藤領事の尋ねに対し、おそらく殺されているだろうと語り、大院君の所為とも言い、または金宏集、李祖淵の両人がこれを謀殺したとの説もあると言った。それを聞いた近藤領事は、要するに東仁は自尊心が甚だしく、どうかすれば金宏集等を冷遇しがちであり、俄かに絆を脱して自らを顕し専ら功名を貪るに急で終に禍を取るに至ったのだろう、と報告している。

徐光範(1859〜1896)(昭和7年1月1日発行 別乾坤附録 近代朝鮮人物画報)より

 開化派には過激派もいた。徐光範たちである。花房に対して彼らが言うのに、「開港のことなども、日本がもっと激烈に迫らねば朝廷を動かすに足りない。すでに港を開くと約束したのであるから、どうして去年一年を待つ必要があったろう。よろしく軍艦を呼び寄せてその威力を示すべし」と平然と言い放つ者たちであった。(韓人ヨリ岩倉井上両氏ニ贈リシ仁川開港談判ニ付軍艦要迫論ノ出所探索書進達)

 花房は徐光範のことを、
「徐は当年二十三歳と言う。言論動作客気を免れざる所多く候得共文筆はもとよりその長ずるところにて風采神韻また尋常書生の類とは之無く、且つその宇内の形勢に注意し、日本の結ばざるべからざるを思うのは数年胸間に貯うるところにして近頃其の情益々切迫なるを思うて日本に結ぶの意また益々切迫せるものと相見え候。」
と評している。

 彼らのことを「快論派」とも言うらしい。なるほど耳に快き論であるが、それによって日本がどのような立場に立たされるかまでは考えないのは若さのせいか、または・・・。

 彼ら自身は開化派とは言わず、自分たち全体のことを「主和者」と称していたようである。
 しかし、主和者でもいろいろと意見が対立していたようで、徐が語るのに、
「しかして主和者中忌むべき者また極めて多し。金宏集、李祖淵のごときすなわち是なり。金宏集、李祖淵などは昨春まで万国の変わるべきを知らず。したがって日本の結べきにも疑いを抱けり。その今日あるは日本に往きたるをもって末のことなり。志いまだ専らならず、我輩心事の深く知らしめざる所以なり。」と。

 もともとは、金玉均、李東仁も含めて彼らには中心となる人物がいたらしい。それは国王の従弟で領議政(大院君の兄、李最應)の子である李載競(兢とも)であるという。国王からの信頼も極めて厚く、主和者の支柱としても皆から信頼されていた人物であったらしい。ところがこの頃死去したことにより主和者の中に大きな動揺が走り、勢力も分散して銘々が勝手な行動に出るようになったようである。
 釜山の近藤領事は「李載兢の死は全く毒殺に係る」と結論付けている。

 徐が語るのに、自分たちの真の同志は李献愚、尹雄烈、尹英烈、田錫斗、金魯莞であり、彼らが身はすなわち我が身であると思われたい、と花房に語っている。

 尹雄烈は年長であり第2回修信使にも随行し、朝鮮最初の新式軍隊である別技軍運営の中心的存在であった。花房は彼を評して、
「この人曾て清国にも遊び又日本にも来たり。日本の方が学者多きを見て今後其の子を日本に留学として残し、其の身も煙管を短くし人力車に乗り金花堂の文筒(日本橋通りの雁皮紙「金花堂」の文筒)に小印を捺して用いる連中にて即ち日本と結ばんことを欲する党に是あり。」と。

 要するに一口に開化派と言っても、決して一枚岩ではなかったし、まして「親日派」などという言葉で括れるものでもなかった。ただ海外に対して「主和」であろうとする人々であったのである。そしてその方針もそれぞれ違っていた。

 一方守旧派は、海外との外交を拒む、という一点でまさに一枚岩であった。しかもその中心はかの大院君である。

 徐も「毀和者(主和を壊す者の意)中最も畏れる者一人あり。即ち大院君なり。この人かつて江華の約束を成さるに刺客十数人を派し弁理大臣を謀らしめんとし事覧して客は縛せられたれども、院君精神なお旧の如し。今日甚だしき責論なしといえども異論なきところ我輩の最も畏るるところなり。」と言っている。開化開国に向かう政府に対して沈黙しているのがかえって不気味であると言うのである。
 江華島での修好条規締結の時にそういう動きがあったことは当時の黒田清輝弁理大臣も耳にしていた。当時、申大臣からの注意であるとして玄訓導がそのことを伝えて来て、もしそういう人物が来たら斬って捨ててもわが国は異議が無いからと進言した時に、黒田は意にもかけなかった。(黒田弁理大臣使鮮日記 正本/2 〔明治9年〕1月30日から〔明治9年〕3月4日)

 花房の報告の中で開化派の者たちは様々なことを言っているが、そもそも彼らは日本に何を求めていたのか。日本とどう関係したかったのか。
 それを代表するかのような言葉は次のようなものであった。

 すなわち、李献愚こと本名李伯玉が言うのに、
「日本いまだ軽々しく献愚を信ぜずとは雖も献愚は益々厚く日本に依頼せざるべからず。これをものに例えば朝鮮はなお癩病者(精神病者)の如く、日本はなお医の如し。しかして献愚は病者の子の如し。人、子たる者誰が好んで父の狂いを人に語らんや。但治るを乞うに急なり。医に向かいて毫も隠すところあるべからず。これ我輩の頼んで国の性命を託せんとする日本に向かいて国の病を認めるを憚らざる所以なり。今日一二改革ありと雖もこれなお手足の灸鍼の如し。何ぞ臓髄の病に益あらん。今臓腑病あり。棄てて治めずいたずらに手足の灸鍼を以って足れりとせば、心また将に病を受けんとす。君は心の如く臣は臓腑四肢の如し。臓腑四肢の病先ず除かざれば心疾防ぐあたわらざらん。もしそれ機務府の設、視察官の派出の如き皆これ手足の灸鍼なり。あによく臓腑の病を去り心の病を防ぎ健全望むべしとせんや。我輩の日本に望むところあに唯かくのごときのみならんや。」(花房弁理公使李献愚徐光範ト面晤ノ旨報告)

 朝鮮を精神病者と断言する朝鮮人。
 花房は「献愚は容貌神気、徐に比すれば一層過激に見ゆれども質撲(朴)にして確乎たる所ある者の如し。」
と評している。

 彼らは親日家というよりは、病人を治す医者としてたまたま日本が目の前に居たことに気づいたのであり、ある意味医者は西洋医学なら誰でもよかったのではなかろうか。

 ・・・ところで医療費はどうするつもりだったろうか。

 他にも徐は、
「主和者はまだ盛んではなく毀和主義を打破しなければ真正和親成就の日はない。これを打破する策は他には無く、ただ日本の威迫を待つのみである。」
「日本が朝鮮を開かせるのに遅々としているなら、成功の日を見ることが難しくなるのを恐れる。また、日本が多年力を費やして終にかえって功を他国に譲ることになることを恐れる。」
「(我輩は)時を得たら日本に到り、上海、香港などに到りついに欧州、アメリカに巡遊することを願いとしている。」
とも語った。

 また献愚は花房公使に対して、夜間に服装を変えて徐の所に来ることを乞うた。
 花房はそれに対し、まだ政府の者たちとの懇親の会も持っていないうちに衣服を変えて潜行するのは日本使節としての体面に於いても出来ない。それよりもむしろ軍艦が仁川に来たらその艦中で共に忌憚なく語り尽くすことができる、と答えた。

 筆者よく耳にするのに、開化派の朝鮮人は日本人に甘えていた、というのがある。しかし・・・甘えというよりは、自己中という言葉のほうが浮かんでくるのであるが・・・。

もうひとつの顛末

 さて、以上の報告は4月中のものであるが、6月17日に釜山の近藤真鋤領事から李萬孫の劾奏の顛末を次のように報告している。

(「近藤領事ヨリ朝鮮国安東ノ儒士李万孫建白ノ伝聞書ヲ呈ス」より現代語に、一部省略、括弧は筆者。)

 かつて花房公使から安東の儒士李萬孫なる者が当政府へ建議したことに付いて、その始末具報として、私が本港にて伝え聞く所は以下の通りです。
 もっとも、多分実説と思われますが京城の我が(花房)公使から御報告がない間は確信を置き難いものであります。

 安東は元来朝鮮国では多く学者の産する所と称し、古人の李退渓(1501年〜1570年)と言う者の学風最もこの地に残ると言い、李退渓は数百年以前の人で朝鮮にては聖人とも申すほどの人であると言う。この地の人は皆古風を慕い随って頑固守株の癖がある。
 最初、李萬孫は建議に及んだが用いられず、京城に来て二回建白したが更に用いられず、四回目にして同志を募り数百名と共に死を誓って安東を出発した。京城に来ると大院君党の頑固家たちが陰ながら応援するのを国王は憂慮して、萬孫の甥の李萬枝が政府に在職するので密かにこれを呼び、
「萬孫の志は良しとするが何度も来るのは上を蔑っすることになり却って厳罰を招くものである。この意を諭し退散させよ」云々と。
 これにより萬枝は萬孫に対し百方説諭に及んだが、萬孫は言うことを聞かず。内廷からは早く帰らせよと催促が来るので萬枝は進退極まり、そこで一策を案じて萬孫の建白書を受け取り、これをひそかに開封して文章を改竄して国王に献じ、この書をご覧にならなければ退散しないと言っています、と復命した。
 国王がこれを読むと、文意も穏やかで別に過激な語もなく何ら問題ないものであったので、この書を留めるから速やかに帰るべし、と命じられたり。
 萬孫は自分の意が通ったと喜び皆安東へ帰った。
 しかし政府の一人が建白の原文を入手しており、且つその起草者は萬孫ではなく、安東の一門閥の趙なにがしで前工曹判書の子であったことを探し出し、共に告発した。
 もって国王の逆鱗甚だしく、李萬枝は直ちに召し捕らえられ、李萬孫と趙なにがしは安東で捕らえられて鉄の網に掩われて京城に送られた。
 朝鮮の国法では、大罪人の護送には金網を全身にかぶせると言う。
 いずれ三人は死を免れられないであろうと言う。

 以上、李萬孫の結果の伝聞であります。(略)
明治十四年六月十七日 在釜山 領事近藤真鋤
 外務卿井上馨殿

 この件について花房のは玄訓導からの情報であろうか。近藤の方は「伝聞である」と前置きしているが。
 嘘、ごまかし、の豊富な国柄であるから情報収集は難しかったろうと推察する。

 花房義質は少しく朝鮮人を容易に信じる傾向があるように見える。
 しかしこれは外交官の中でも相手国の人間と協議する立場にある者として頭から疑ってかかるなら対談そのものが成り立たないのであるから、相手の弁を尊重するということにおいて信じやすくなるのも無理からぬことなのかもしれない。
 もっとも、後の朝鮮事変(韓国では「壬午軍乱」と言う)では花房が朝鮮政府を信じたことや仁川府を信じたことが結果として犠牲者を増やすことになったのだが。

 

開化派の朝鮮別技軍

別技軍兵士 撮影年代不明。明治14年中に朝鮮政府が日本から兵器類を購入した中に「二号定式胴乱帯革共・・百組、スナイトル銃負革・・百條(朝鮮政府ヘ送付兵器代払捨ノ件)」などとあるから、装備する銃はスナイドル銃であり、腰には二号定式胴乱(革製の入れ物、銃弾などを入れる)をしていることになる。
 なお、この軍服装は通常軍も同様となり、後の日清戦争開戦翌年の明治28年(1895)に新官制服となるまで続く。

 朝鮮に新式軍隊である「別技軍」が創設されて、日本陸軍の指導による西洋式軍事教練が始まったのは明治14年(1881)4月初旬の頃と言われているが、はっきりしない。
 はっきりしているのは、その教官となった日本帝国陸軍工兵少尉堀本禮造(愛媛県士族、享年31才(朝鮮事変弁理始末/9 戦死墓表))に朝鮮派遣命令が出たのは明治13年10月23日だったということである。(少尉堀本礼造朝鮮国ヘ差遣ノ件)

 花房を弁理公使として朝鮮に派遣することを井上外務卿が上申したのは10月14日でその認可が出たのは11月11日であるから花房と同行したことは間違いないだろう。

 朝鮮政府が「別技軍」創設をしたのは花房のアドバイスによると言われているが、金宏集の修信使派遣時に日本の軍事に関する見学をしているからその時でもあったろうか。

 ところで、朝鮮が西洋式の軍事教練に取り組み始めたのはこれが最初ではないようである。すでに明治13年3月頃には清国に於いて西洋式教練を受けていたらしいことが記録されている。(朝鮮人清人ニ就テ西式ノ繰練伝習ノ件外四件)
 それによれば在牛荘米国領事の情報で、朝鮮人150人が西洋式鎗隊ならびに小銃の教習を受け、また5百人が牛荘湾で錬兵教習を受けているという。米国領事は、日朝間に紛擾があることに備えてのものであろうと語っている。
 その後、これらがどう朝鮮軍に反映されたかは分からない。

 別技軍は朝鮮五軍営の志願者から100人を厳選し、武衛営所属として発足したと言われている。武衛とは日本で言う近衛に相当する。国王の警護兵・儀仗兵として発足したことになる。教官は堀本少尉、通訳としては陸軍韓語学生が当り、教錬所堂上には閔泳翊、正領官に韓聖根、左副領官に尹雄烈、右副領官に金魯莞、参領官に禹範善が任命された。

 メンバーを見れば分かるように、開化派の人間ばかりである。
 閔泳翊は兵器調達に関わって日本に行くことを国王から内命を受けて花房と会談をしている(花房弁理公使ヨリ閔永翊王命ヲ奉シ東行ノ旨報告)。また、尹雄烈・金魯莞は徐光範が「彼らが身はすなわち我が身であると思われたい」と語った過激なグループの人物である。韓聖根は1866年にフランス軍を撃退した軍の実力者である(朝鮮交際録上呈山県陸軍卿ヘ送達ノ儀上申 p47)。なお禹範善は、後に国王妃である閔妃を殺害したのは自分であると人に漏らしたために暗殺されると言う人物である(web 「dreamtale日記」指摘による「1 明治36年9月16日から明治36年12月2日」p4)

 何ともはや守旧派にとっては驚愕のメンバーばかりであるが、大院君たちが青くなったのも想像に難くない。

 後の朝鮮事変(壬午軍乱)の本質は、大院君ら守旧派による別技軍潰しと開化派の一掃を目的としたものであろう。旧軍への給料が滞っていたの給米がお粗末だったのは瑣末のことであり、またそれが本当かどうかもよく分からない(これは後に詳述したい)。何よりかつての、山ノ城管理官の報告によれば、軍も堕落しており私営に走り、つまり人民の膏血を搾り取っていたのであるから、そうやすやすと飢えるはずもないのではなかろうか。

 それにしても、日本がこの頃「最終的に朝鮮を自分達の物にしてしまおうとする意図を持っていた」などと妄想する人がいるが、もしそうなら朝鮮の近代化へのこれほどの肩入れようは永遠に謎であろう。

 筆者としては、先述した日朝修好条規締結後の宮本小一外務大丞、野村靖外務権大丞による申大臣達との会談の言葉こそ当時の日本政府の明確な方針であったと思うのである。
 すなわち、
元来両国の間、対等の権を相有しその盟を永遠に伝えんと欲せばすなわち互いに富国強兵をもって国本を固くせざるべからず。しかして富国強兵の道はその国の人民繁殖して有無相通ずるに在るべし。有無相通じて人民繁殖するにあらざれば以って富国強兵に由なし。富国強兵にあらざればすなわち永遠の親盟を期し難し。いわんや方今世勢一変し、欧州各国互いにその富強を競い、万里の波涛も時日を刻して来往するの活動世界に際し、いたずらに無形の精神を説き、空しく定数の天険を頼んで万国を拒絶し、自ら孤立せんとするは実に思わざるの甚だしき志なり。

「そもそも日朝両国が対等の権利を有してその同盟関係を永遠に後世に伝えることを望むなら、それはすなわち互いに富国強兵をもって国力の根本を強固にせねばならない。そして富国強兵の道は、その国の人民が繁栄して互いに融通補い合いをすることにある。融通し合って国が繁栄するのではない。国が繁栄しないなら富国強兵の手立てはない。富国強兵が出来ないなら永遠の同盟は結び難い。まして今日の世界情勢一変し、欧州各国は互いに富国強兵を競い、万里の波涛も日時を定めて来往するという活動の時代であり、それをいたずらに無形の精神(儒教のしきたりだの非合理な伝統など)を説き、むなしく限られた天然の要害(京城に向かうルートとなる江華島周辺は岩礁が多く確かに天然の要害ではある。)を頼んで万国を拒絶し、自ら孤立せんとするのは、じつに心外な志である。」

 これこそが、日本が朝鮮に求めた関係なのである。
 だからこそ朝鮮の富国強兵を日本は懸命に応援したのである。いったい日本はこの明治14年までに日朝関係のためにすでにどれほどの経費を費やしていたろうか。
 わずかばかりの貿易利益ではとても引き合わないであろう。

 また、独立ということに関しても、日本は朝鮮を奪うために中国から独立させたのである、と馬鹿を言う者がある。
 当時独立国とみなされない国(地域)は、占領して植民地としてもよい、という欧米の論理がまかり通っていた時代である。
 独立国たるにふさわしい内政と外交を有し、また他国がそれを認めた時こそ真の独立国と言えるのである。だからこそ、日本は朝鮮を真っ先に独立国と認め、また井上外務卿は、アメリカが朝鮮との交際を求めて日本に斡旋を依頼したときにも、
「貴国にも遠謀をもって米国の要請を寛恕する公道を示して外国の侮りを排せば、固く自主独立国としての権利の在ることになる。もし外交を誤ればその害あって国家の幸福とはならない。」
と勧告書を添えたのである。
 ところがこれが当時の朝鮮政府に通じない。その意味がよく分かっていないのである。ひいては、現代人でもその当時の現実が理解できず、今日の価値観で過去をとやかく言うのである。
 もし日本が朝鮮を植民地にしたいと思っていたなら、最初から朝鮮の主権も認めず独立した国であることも認めなかったろう。
 あそこはただ未開人が住むひとつの地域であると主張したであろう。

 ところで、別技軍の教官としての堀本禮造以外にも通訳として陸軍韓語学生が留学と言う名目で派遣されている(岡内恪 愛媛県士族 享年23才、池田平之進 鹿児島県士族 享年21才・・・いずれも朝鮮事変で死亡)が、日本は日朝修好条規締結以前から釜山草梁公館で通訳の養成をし、また京城日本公使館設置とともに公使館でも語学生を養成した。また、明治13年には東京外語学校中に朝鮮語の一科が設けられており(朝鮮語学科設置ノ件)、官民ともに朝鮮語を学習する者が増えてきていた。
 かたや朝鮮側には日本語通訳がほとんどおらず、居ても釜山の小売商などで日本語をある程度話せる者がかろうじて通訳をするぐらいで、漢字も読むことが出来ない者達であるからまともな翻訳も出来ず、まして公務などには使えなかった。しかし朝鮮政府は日本語学習者を養成することもなかったようである。

 明治時代の日朝関係において、朝鮮は当初から日本に「おんぶに抱っこ」の状態であった。条約条文ひとつとっても日本が案を作り、日本が提案し、協議の結果を日本が修正文として作成して朝鮮側に渡す。談判筆記録すら朝鮮は日本側に頼る時があった。(宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/2 明治9年8月13日から明治9年8月24日)

 そもそも朝鮮は日本と較べて物事に取り組むことの熱心さに欠けており、近代化への取り組みと言っても開化派の人間ほど日本人に強く依存する体質であったから、日本がこの国と交際することは実に骨の折れることであったろうと思う。この不熱心さと依存性の強さを考慮すれば、朝鮮が自力で近代化するなど夢のまた夢であり、まして日本は獅子奮迅ともいえる勢いで近代化に取り組んでいる真っ最中である。そういうあまりにも違う両国が同盟であるということが土台無理な話であり、後の併合に至るプロセスも含めて、朝鮮は結局は国を挙げて日本に依存し、日本は熱心さのあまりに朝鮮をまるごと面倒見てしまう、そういう図式ではなかったろうかと思えるのである。もちろんそればかりとは言えまいが、総体として大体として、筆者にはどうもそう思えて来た。

 そして、あまりにも文化の違う両国が距離的に隣国であったことがもたらした運命のようなものすら感じる。
 しかしながら、ここで山ノ城祐長の言葉を今一度噛みしめたくなった。

「その万事の我とあい背馳するの情実勝って言うべからず。然るをなおこれ唇歯の国というべきや。」

 

 

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