明治開化期の日本と朝鮮(16)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
日本、友好の品を贈る
相手が誠意ある態度を見せれば、こちらもまた誠意で応えたい。これが日本人の根底にある心情であるが、朝鮮が元山津開港を決断した事により、明治13年(1880)1月、花房義質は政府に建議を提出した。(花房代理公使建議朝鮮政府ヘ寄贈品ノ件)
要約すれば、
「朝鮮国との修交以来、日朝間の交渉はとかく硬直した議論が相次ぎ、友好平和の気運に欠けるところがあるところから、また、朝鮮国が新たな開港に応じたことからも、日本としても好意を表して朝鮮が歓ぶことを考え、今、特に武備に関心を寄せている事からも、日本から銃砲を贈り、また蒸気機関にもなにかと試みているところから、小蒸気船一隻を贈るなどすれば、交際上の懇親に足ることになり、また貿易を進める手立てともなると思います。」
ということであった。
かつて黒田全権大使が国王に回転砲(ガトリング砲)を贈ったが、朝鮮政府は大いにこれを気に入りなお数挺を日本人商人から購求せんとの意があり、(実は黒田が贈呈した直後は、その砲身に洋文字が刻まれていたために申 大臣が困惑してどうしようかと宮本小一たちに相談したぐらいだったが。)また、蒸気機関を試作して小艇に組み込んだが成功せずにそのままとなったとも言う。(本当ならちょっと見直したい。)
贈った兵器は、16連ヘンリー銃、騎兵ツンナー銃、砲兵ウリソン銃、雷管打スタール銃、騎兵レカルツ銃、シャッフル銃、小口径レミントン銃、一番形蟹目打ヒスドル銃、スナイトル銃、エンヒール銃、それぞれ5挺、計50挺であった。(花房公使ノ建議ニヨリ朝鮮政府ヘ寄贈品ヲ議定セシム附陸軍省所蔵ノ銃器ヲ寄贈ス)
それに対して朝鮮政府からの答礼として、朝鮮人参40斤、熊胆5部、虎皮5枚、蜂蜜100斤、正鉄1千斤が贈られた。(朝鮮国政府ヨリ回礼ノ意ヲ表シ物品寄贈)
また、小蒸気船は当初見合わせられたが、明治15年5月に朝鮮王高宗の世子(後継者としての息子)の冠婚式があり、その時に花房は謁見して日本政府からの祝賀として一艘を山砲2門と共に贈っている。(朝鮮国世子冠婚ニ付弁理公使花房義質国書捧呈ノ件)
しかし、京城の日本公使館が襲撃されて日本人が何人も殺されるという大事件はこの直後に起こるのであるが・・・。
総領事、領事、警察
明治13年2月、日本政府は釜山の「管理官」の名称を廃して職制上の等級を明確にするために、総領事、領事、副領事の名称を使用することとした。(朝鮮国管理官改称ノ件)2月21日付で前田獻吉を総領事に任じて元山津在勤に、近藤真鋤を領事と任じて釜山在勤とした。
また、3月には元山釜山両領事館に警部、巡査を設置して行政警察を開始した。(朝鮮国元山釜山両港ニ警部巡査ヲ置クノ布告問合セノ件)
元山津開港、人民凶暴の地
元山津は明治13年5月に開港した(修好条規ノ旨趣ニ遵ヒ朝鮮国元山津開港)。しかし朝鮮政府は、この地の人民は甚だ凶暴頑固であり凶器を持って強盗する者などがよく居ると言っていた。12年に花房義質や近藤真鋤らが視察をした時にも、府使の護衛兵は銃器を携えて厳重の警備をして同行し、途中で強盗2人を逮捕して即日処刑するなど、治安の悪さを目の当たりにしていた。
朝鮮国は北方になるほど人心不穏にして治安悪化の傾向があるという。
これにより開港草創期は火盗など不慮のことがあることも考慮して、居留民保護のために警部、警部試補、巡査など計30数人の警備体制をとることとなった。(同国元山港居留人保護ノ為メ警部等任用ノ件)
さて、それに比べて当時の日本国内の治安の様子を伝えるものと言えば、イザベラ・バードの「日本紀行」はあまりにも有名であろう。当時の日本人は、貧しいけれども静かで礼儀正しく親切で、外国人であってもしかも女の一人旅ですら安心して出来る国であったと。
筆者もよく耳にするのであるが、昭和30年代頃までは、田舎では戸締りする家が無く、夏に蛍狩りに行くと、農家では蚊帳を吊って人が寝ていて時折団扇が動く光景が外からも容易に見えたという。
花房公使や近藤領事らが朝鮮の実情を見たときにどのような思いがしたろうか。
おそらく、凶暴野蛮の未開の国と見えたことであろう。
米国政府、朝鮮との修好を求める
明治13年頃(3月以前)、アメリカ政府は合衆国海軍水師提督R.W.シェフェルトを派遣して朝鮮政府へ親睦の書を贈るため、軍艦「チュンヂラゴ号」を釜山港に入港させ、近藤領事に書を託して朝鮮政府に渡すよう依頼した。
しかし東莱府使は受け取りを拒否。
それにより在日米国公使「ビンハム(John A. Bingham)」は日本国政府にその斡旋を頼んだ。よって井上馨外務卿は米国軍艦には長崎に60日間滞在してその回答を待つように伝えた。
井上は花房と共に勧告の書を添えて米国の書簡ともども礼曹判書尹滋承に送った。
井上外務卿の勧告の書は要約すると次の通りである。(朝鮮国修信使金宏集来航并ニ謁見・十三年八月十日入京ノ旨外務省上申太政類典第四篇第十一巻ニ載ス)
米国が求めているのは修好通商以外に他意はなく、世界の大勢を見ても昔とは異なり、鎖国は出来ないことは日本においても同じ道を踏んでそれを知り、ひとり我が国だけでなくまた清国においてもそうである。
貴国にも遠謀をもって米国の要請を寛恕する公道を示して外国の侮りを排せば、固く自主独立国としての権利の在ることになる。もし外交を誤ればその害あって国家の幸福とはならない。
我が国は決して貴国に干渉するのではないが、敢えて勧めるのである。
明治十三年五月廿九日 大日本 外務卿井上馨
大朝鮮礼曹判書閣下
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その返事は7月21日釜山近藤領事に手渡された。
朝鮮いまだ開国せず
礼曹判書から井上馨外務卿宛ての返書を要約すると次の通りである。(同上)
交隣修好三百年の貴国を除くの外、我が国は海の向こうの各国とは隔絶しているだけでなく、初めから声気相通ずることがないのは天下万国の共に知る所である。
今、米国の書契の外封に書するに「大高麗」とある。「高麗」はすなわち勝国の国号である。国号はおのおの異なっており、たとえ大朝鮮の書があってもどうして至尊(国王)に呈示出来ようか。
臣や礼曹に於いてもまた納めるわけにいかないから、これを返還する。
庚辰年六月 礼曹判書尹滋承 |
「高麗はすなわち勝国の国号である。」の「勝国」とは朝鮮から言えば以前の王朝という意味らしい。つまり、朝鮮が戦いに勝った国という意味であろうか。
中も開けずに封書の宛名書きを見ると「大高麗」とあったのであろうが、推測するに清国人に翻訳させた手紙なのであろう。
さて、ここでも明らかにように、明治13年(1880)7月のこの段階で、実は朝鮮は開国していないのである。日本と清国とは元々数百年来の交際があり、維新始めの数年間のトラブルは新政府国書の受け取りを拒否したに過ぎず、貿易は依然として続いていたのであるから、この日朝間のことを「開国させて条約を結ばせた」としている今日の歴史認識は明らかに誤りである。
修信使来日、第2回目
明治13年6月朝鮮政府は修信使を派遣することを告げた。
12年の花房の京城行きに対する答礼を兼ねて日本の近代化を見学するためである。しかも経費は自弁と言う前代未聞の派遣であった。開国する気は無いが、日本を通じて近代化せんとの意思は伺われた。
これらは、明治10年12月に花房が当時の礼曹判書趙寧夏に近代化を促進するように進言し、日本に人を遣って新式医術、新式汽船および汽機製造、新式軍器製造および水陸測量などを学習するように提案していたことと関わっていると思われる。
また花房が、接待に関する無駄な出費としか言いようがない繁雑な習慣を廃止して日本の使節の来往にはその食事から館舎費用まで全て自弁とし、贈与なども止めるように言っていたことから、朝鮮側もそれを自分達に課したと思われる。
なお、修信使の来日を知らせる礼曹判書の書簡を見ると、釜山での徴税のことを貿易規則に入れることを協議したい旨の文もあるが、実際にどのような話し合いがあったかは分からない。(朝鮮国礼曹判書其他往復書翰一/2
丁丑〔明治10年〕正月から辛巳〔明治14年〕8月 p36 p37)
経費自弁、無利子借金
朝鮮側が修信使の諸経費一切を自弁するとなると朝鮮銅貨では大量すぎてその運搬すら莫大のこととなる。当然、紙幣などの日本通貨を使わざるを得ない。しかしそれを持たない朝鮮政府は玄訓導を通じて釜山居留地の「(大阪)協同商会支店」にその借用を申し込んだ。金額は9万7千円である。(大阪協同商会ヘ修信使渡来諸費依托ニ付貸下金)
大阪協同商会は士族達が前途の生活を思案し資金を寄せ合って明治10年に作ったばかりの小さな貿易会社であり、そのような大金を用立てできる見通しもないまま引き受けた。しかし案の定金策が出来ず日本政府に借用を嘆願した。
協同商会社長及び支店長の弁によれば、
「この未開頑固の国を開導せんとするは我が政府の方針であります。自分達も常々この国の人間と接してこれを開明に導き、貿易を盛んにして我が国の国益をはかることはすなわち商売の義務と心得ております。為に日夜尽力してついに弁察官(玄訓導)の信用を得て、すでに政府購入の大砲数門も扱い、なおこの後も続々と注文を受ける模様であります。つきましては、弁察官からこのたびの修信使一行の諸経費を、2万7千円は4ヶ月以内に返済する、7万円は利子年1歩(1パーセント)3年払い、もし2年以内に返済する場合は無利子で、との借用を申し込まれ、取りあえず引き受けましたが、なにぶん頗る巨額であり昨今金融不自由にして期日も迫っておりますところから、なにとぞ当商会へ御貸し下されますよう、もちろん朝鮮政府が約束を守らない時は当商会が負担致しますので、抵当として公債証書を差し出しますのでなにとぞご採用下されますよう・・・この金銭は我が国に於いて消費されるものであり、我が国の利益とも輸出の一助とも朝鮮国の開導ともなるは我が商会の栄誉であります。」 |
外務省もこの申し出に対し大蔵省に添え状をした。
「朝鮮の使節が自弁で来るなどとは古来未曾有の挙であり、この新例を阻むことなく、また消費も我が国内なので、期日も迫っていることであり、もし差し支えれば使節の当惑は最も気の毒なことなので、特別の訳をもって申し込みの通り金銭を御貸し下されるよう・・・」
これにより大蔵省は5万円を年7歩の2年返済の条件で協同商会に貸すことにした。
釜山の居留地には第一国立銀行支店があるのだが・・・、
なによりも国益を優先せんとの協同商会、これまた士族の商法と言うべきか。なおこの後の資料は見ない。
ところで朝鮮側の弁によれば、修信使諸経費9万7千円の内訳は次の通りである。
7千円・・・釜山横浜間往復蒸気船チャーター料金。
2万円・・・日本での滞在費。
7万円・・・日本で器械などの購入費。
再び日本の近代化を見学す
さて修信使は礼曹参議金宏集であった。(「宏集」は後に「弘集」と名が変わったが、当時は「宏集」である。)その他のメンバーは名簿が見つからないのでよく分からないが、随員あわせて約50名である。
8月4日神戸着、その後大阪で造幣局、砲兵支廠、中ノ島製紙場を見学。11日横浜、汽車で東京に。宿所は浅草東本願寺。以下、予定も含めた見学一覧である。(朝鮮国修信使金宏集来朝一件、明治13年7月5日から明治13年11月22日)
品川硝子製造所、大審院東京上等裁判所、東京裁判所、農学校、製繊所、監獄署、測量課、東京司薬場、牛痘種継所、博物館、浅草文庫、東京集治監、東京大学の法・理・医の各学部、陸軍士官学校、陸軍戸山学校、近衛歩兵営、東京砲兵工廠、小石川砲兵工廠で製造の軍器各種、製造の模様見学、板橋火薬製造所、物品陳列所、東京瓦斯(ガス)局、有馬小学校、江東女学校、商法講習所、東京府病院、東京府養育院、農業試験場、などなどである。
また、求めによって寄贈された書籍は、
百工新書、工業新書、製作新書、匠家雛形、大工雛形、雑工雛形、蒸気機関問答、船具運用試験問答、染工全書、日本兵器沿革史、工学必携、繊維工術、百工応用化学、百工倹約訓、煉金法、彫刻術及石板術、陶磁工篇。
修信使から寄贈されたものはいつものように、虎皮、豹皮、白綿紬、白苧布、木綿、色詩箋、色筆、真玄、圓扇、彩花席、などであった。
儀礼的な贈り物の風習は改められないらしい。
8月24日には三條太政大臣が答礼として修信使の宿を訪問し、
30日には国書持参の使節ではないが特例として天皇陛下謁見が許された。
東京を発って帰国の途についたのは9月8日であった。
さて、修信使がどのようなものを日本で購入したのかはよく分からない。ただ、小石川砲兵工廠で小銃は購入したようである。(外務より朝鮮修信使より小銃等払下の事)
それにしても、見学一覧と求めた書籍などを見ると、第1回目の修信使と違って積極的且つ精力的に日本の近代化を吸収せんとする意欲が伺われる。また提供した日本側も本格的である。なお耳目を楽しませる類の遊覧は一切無かった。それというのも国王が喪中であり臣下としてそのような遊覧は忍び難いという申し出を配慮してのことでもあった。
種痘と「池錫永」
韓国の国定歴史教科書には、「近代施設の受容」の項に、「池錫永は種痘法を研究、普及させ国民保健に貢献した。(『世界の教科書シリーズ@
新版韓国の歴史 − 国定韓国高等学校歴史教科書』 明石書店 2000年)」とある。
しかし、朝鮮で最初にその普及に努力したのは日本政府であった。
すなわち先述したように海軍中軍医
島田脩海による報告に、
明治9年(1876)5月14日「詳しく種痘の良法を示すに・・・我が国、数十年間数万の人民に施すに極めて良法にして一もその害を見ず。これ我が政府の貴国に伝法する所以なり。」(朝鮮国修信使来聘書
金綺秀 明治九年 三 p48〜p51「信使迎船乗組島田中軍医滞韓中該地人民ヲ治療セシ事等ヲ外務卿へ上報書」)
とある通りである。そして5月17日には釜山坂下村にて初めて朝鮮人に種痘を施している。
その後、来日した第1回修信使に同行した朴永善にはこれを伝習させている。
すなわち、
「書写官 朴永善、順天堂に到り種痘法を伝習して還る。書写官とあれども医員を兼ねる者ならん。その行李多く薬を蔵するを見る。」(朝鮮国修信使来聘書
金綺秀 明治九年 首巻 p24 6月16日)
とあり、その後に種痘の事は矢野義徹海軍大軍医が宮本小一に同行して京城に行った時に次のような会話の中で出てくる。
(「宮本大丞朝鮮理事始末 四/1
朝鮮理事日記/3 p4」より)
明治9年(1876)8月2日
(清水館に)御医兼龍仁県礼 洪顕普来る。矢野義徹海軍大軍医列席する。
宮本は東洋医学書「医方類聚」の存亡を問うた。洪が答えるのに、
洪「この書は我が国の貴珍の書であるが、今は無くなってしまって存在しない。甚だ遺憾である。」
宮本「先の壬辰の乱(豊臣秀吉朝鮮出兵)の時に我が国の将が貴国から持って来た書である。世間の医師の間では大いに有益であるを知るが、他に無いのを憂えて以前に喜多村某(喜多村直寛 江戸医学館の医官 『医方類聚』二六六巻の復刊をした。その弟である栗本鋤雲が年老いて病床に伏す兄の願いを受けて直接外務省に寄贈。「宮本大丞朝鮮理事始末
七/3 外務卿及丞ヨリ諸省ト往復」p49 )が財をなげうって活版印刷をしたものである。今携帯してここにある。幸いに貴政府に進呈する。」
洪は喜悦すること甚だしかった。
続いて、矢野大軍医が医学談義を行った。医療技術、種痘などから「婦嬰新説」の書に及ぶ。洪は耳を傾けて感動した。惜しむらくは王宮に待する時間が来て途中で辞したことで話を尽くすことが出来なかったことであった。
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その後、釜山に医局が開設されるに伴い矢野大軍医が赴任したのであるが、どうにも「池錫永」の名が日本側の史料には出てこない。
いろいろ調べているうちに、当時朝鮮国の修信使記録史料「光緒六年庚辰六月 日 修信使行書契謄録」に、「伴倘前即応(役名) 池錫永」とあって、金宏集修信使に同行して日本に来ていたのが確認できた。
また、韓国の文書として次のようなものがある。
(1994年度 大韓医史学会春季学術大会 1994.5. 6 講演論文のp4より、機械翻訳。)
「医学教育の現代化過程」
奇昌コ(カトリック大学医科大学外来教授, ギチァングドック歯科医院長)
1876年5月の第1次日本派遣修信使キム・ギス(金綺秀)に随行した朴永善が「種痘亀鑑」を持って来た。その本を読んだ弟子の池錫永は釜山駐屯日本海軍の済生医院で牛痘法を学んで、1880年8月には修信使キム・ホンジッブ(金弘集)に随行して日本へ行って右二つの宗廟の製作法を学んで来た。この種痘法の導入が我が国の人による最初の西洋医学導入で、それは時代の移り変わりと伝染病の蔓延による必要によることだったが、西洋医学の優秀性を認めるようになるきっかけでも作用した。
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また後に知ったことだが、三木栄著「補訂 朝鮮医学史及疾病史 (思文閣 平成3年6月出版)」には、その事に付いての記述がある。
「(P260〜265から抜粋要旨)池錫永は朴永善を師とした。朴は修信使に同行して日本に来た時に種痘法を求め、順天堂の大滝富三医師から牛痘法を学んで医学書「種痘亀鑑」を購入、やがて門下生の池錫永にその書を与えて種痘のことを伝えた。その後池は種痘法を学ぶことを求め、それは浦瀬裕の知るところなり、その斡旋によって釜山の日本海軍の病院済生院の院長松前護及と海軍少軍医戸塚積斎に師事し、そこに2ヶ月滞在して種痘法を学んだ。池のそこでの滞在費や帰途の旅費は日本海軍が負担した。また、京城に帰るに当っては痘苗と種痘針が贈られた。
しかし種痘法を習得したが牛痘苗の作り方までは済生院で学ぶことが出来なかったので、後に国王の命により日本に向う修信使に同行して留学することになり、井上馨の斡旋により内務省衛生局牛痘種継所に入り、所長菊地康安の指導の元に牛痘苗の作成方法を学んだ」 |
とある。上記「大韓医史学会春季学術大会」での奇昌コ氏の講演内容とほぼ合致するものである。
さて、後の明治27年10月末、特命全権公使として京城に赴任した井上馨は、国王に謁見した時に次のように述べている。
「我政府は去る明治九年已来、貴国に対する主義は終始一貫にして決して変ずる所あらず。即ち今日と雖も矢張初発の目的を引続けつゝあること是なり。約言すれば、我政府は貴国に対して無限の好意を表するものなり」(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/8
第六号 〔韓国王ニ謁見顛末〕」p9) |
と。
確かに「無限の好意」を以って日本は朝鮮に応接し、池錫永のような朝鮮の文明開化に資する人材にも手厚く援助の手を差し伸べた事が窺われる。
だからこれを詳しく韓国の教科書に書け、とまでは言わない。しかし教科書にある「池錫永は種痘法を研究」とは奇妙な文章である。韓国では学習も研究と言うのか。正確には「池錫永は日本政府の援助によって種痘法を習得」であろう。
韓国の教科書は、釜山の病院のことも合わせて日本の貢献に関しては徹底的に無視のようだ。
弁理公使花房義質として
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江華、通津、仁川、南陽。・・・明治9年日本紙幣寮作成「朝鮮江華島地図」中の「京畿忠清両道南部図」より1部。(朝鮮江華島地図石版ヲ以摺立ニ付上呈) |
明治13年11月、花房は再び京城に向けて発つことになった。仁川開港問題と在京公使館設置問題、犯罪者引渡し条項の新設に関しての協議のためである。
なお花房義質はこの年の4月に代理公使から弁理公使に任じられていた。天皇からの国書を持参して朝鮮国王に呈し、尚且つ京城に公使館を設けた後にそのまま滞在するためである。(大書記官兼代理公使花房義質弁理公使ニ転任ノ件)
かつて明治9年に宮本小一が付録・規則の協議に赴いたときに、朝鮮政府は「大日本国皇帝」と記された日本の書を嫌い、日本との書のやり取りは外務卿レベルの書簡に止めて、署名も「大日本国 外務卿」と「大朝鮮国 礼曹判書」として欲しい旨を要望しており、それを受け入れた日本政府は、外交使節の階級としても代理公使に止めていたのである。その上位となる弁理公使は特命全権公使の次位であり駐在公使でもあり、国の首長の国書を相手国の首長に渡す資格を持つものである。
いまだ書契問題は解決せず
実は明治13年のこの時点で、「書契問題」は依然として存在し、修好条規の批准の時も天皇の名は記さずに「大日本國皇帝 御璽」という例外の形式のものであった。
しかし、日朝間だけいつまでもこの異常と言える状態をそのままにしておくわけに行かず、ついに花房を弁理公使として派遣し明治天皇署名押印の国書を朝鮮国王に贈ることにしたのである。この問題が解決してやっと「書契問題」は終わるのであるが、何と言うめんどくさい国であろうか。
当時の日本はすでに世界各国と活発に外交を展開し、この年だけでもブラジルと通商条約を英国で協議し(ブラジル国ト和親締約各国条約重修ノノチ交換スヘキ旨ヲ同国公使ニ通知附暹羅国同上)、またベルギー国皇女結婚には祝賀の使節を派遣するなどしている(白耳義国皇女結婚ニ付鮫島全権公使同国ヘ出張ノ件)。もちろん清国との往来も頻繁である。
隣国とはいえ未開の小国に、しかも貿易盛んというわけでもない相手にそうそうつきあってもいられない、というのが正直なところではなかったろうか。
それだからなのか、当初海軍は花房弁理大臣一行に、国書持参の公使としてふさわしい体面もあり、また武威を張るということからも最新鋭の大型軍艦金剛(比叡と同型)を出す予定であった。しかし、会計部からその経費6千9百余円を認められず、それで朝鮮を廻航中の軍艦天城(砲艦
911t 長さ62.17m 全幅 10.89m 兵装 17cm砲1門 12cm砲4門 12ポンド砲3門 4連装機関銃3挺 乗員 159名)を呼び戻してそれを使用する事を検討したが、天城艦も既に航海数ヶ月に及び艦員の休暇と艦の修理も必要なところから、4千5百円の予算をもって適当に軽便の船を回すことになった。(同金剛艦航行費海軍省経費ヲ以支弁セシム、朝鮮国ヘ派出公使乗用船)
釜山と元山津の居留民保護のために軍艦を廻航させていることでもあり、領事館の建築もあり、朝鮮についてはなにかと経費がかさんでいたのである。
初めて天皇陛下の国書を持参して朝鮮国王に呈する弁理大臣として向かうに「軽便の船」。もっともこれは、修信使一行の姿から朝鮮政府が意欲的に近代化に取り組まんとしているのが伺えたことにより、ことさら武威を張らずともよいのではとの思惑もあったのであろう。
しかしそもそも京城に公使館を設置することを朝鮮国が認めれば、このような経費と時間の無駄を大きく省くことが出来るのである。
先述したように、かつて条規付録の日本原案の第一条に「嗣後両国都府ニ設置スル使臣館舎ハ随所人民ノ房屋ヲ賃借スルモ或ハ地基ヲ賃借シ館舎建築スルモ時宜ニ従フヘシ。」と公使館の設置を謳っていたのであるが、朝鮮政府がこれを頑なに拒んだ為にやむを得ず削除したのであった。
しかし花房は自ら訓条原案を作成して公使館の設置問題の復活を提案し、そのための協議をすることを決意した。公使館設置が認められればそのまま数年間滞在して、仁川開港、大丘行商、内地旅行の許諾などを必ず得るよう求めるつもりであった。
花房義質の寛厳
なお、この年の花房の京城行きは3月の時点ですでに立案されていたが、答礼の修信使が来るということで延期となり11月となったものである。
3月時点での花房作成の訓条案と10月作成の訓条案では、朝鮮との協議項目に関しては大して違いは無い(「花房義質ヘノ訓条并発期談判大意及犯罪交付約等ノ件」、「同国ヘ公使派遣ノ件」)。
ただ10月のには、開港地として朝鮮政府の提案に「南陽」ではどうかとあったことが記されている。おそらく金宏集修信使が伝えたのであろう。
大いに違うところは、3月の訓条案では、その心得として花房義質が朝鮮政府に対する極めて厳しい考え方を露にしたことである。
すでに3月には米国が朝鮮に軍艦を派遣して条約を結ばんとしている情報も得ていた。それに対して日本が米国を助力するなどは海難事故などの難民救助に関わることに止め、通商貿易のことには関与しないという方針であった。朝鮮の頑なまでの西洋諸国との交際拒否の姿勢は相変わらずであったから、米国側に立つような関与の仕方はしないほうが良いという判断でもあったろうか。
そして拒否どころか攘夷を唱える主戦論者が政府内部に居ることにも触れて、それらに対しては厳しい態度で臨むべきことを提案している。
以下、その抜粋要約である。
(「同派遣ニ付訓条并発期談判大意及犯罪交付互約」より抜粋要約現代語、括弧は筆者。)
今度我が政府から艦船や銃器を朝鮮政府に贈った意味は、専ら武備を等閑にするべきではないことを告げて朝鮮政府の注意を促し、共に文明改進の道を行かんと欲するからである。
故に我が国政府は好意厚きことを示して朝鮮の改進論者の心を揺さぶり、かりにも主戦論者が(西洋諸国と)戦うことを口にするならば、艦船、銃器はこのように精巧でなければならないことを示してその頑陋を破り、またこのことが如何に大事なことかを示して、朝鮮軍の改革を始めさせることをはかるべし。
(略)
もし答礼の修信使派遣を遅らせ、我が国の使節の到来を待つぐらいの態度なら、これは遷延の策に違いなく、「公使に対して(開港)拒絶の弁を試してみてそれから修信使を派遣しても遅くはないだろう」と考えている意味であり、これではただ懇親の情だけを表しても仁川開港のことは到底望むべくもないのである。
このような遷延の策を避けるには一時の権道ではあるが、強迫の策を用いる他はない。なぜならば彼の国の口実とする「仁川は京城接近の重要地で、人心はこれを開くのを欲しない。強いて開いたなら忽ち内乱が起こる。」と言うことにあるので、これを強いて開かせるには、その内乱よりも一層恐るべき憚るべきものを以って強迫する外に策はないからである。
そもそも、朝鮮が最も恐れ最も憚るものは、日本との和平を失することよりも甚だしいものはない。
故にその威力を備えて決意を明らかにし、まず空論主戦家を挫き、同時に艦船銃器を贈って懇親を望んでいることを示し、朝鮮の老成政治家(守旧派?)に利害得失を熟考する機会を得させ、この後に弁論理を尽くすをもってすれば、いわゆる威恩並行の意にて我が言をはじめて聴きいれるであろう。このような備えと共に真の和平を得るに一時の乱も辞さない決心が必要である。
(略)
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「遷延の策」とは明治初年からの日朝交渉で日本側が一番苦しんだ策である。交渉に応じたり応じなかったりしながらもこちらに期待をもたせ、しかし決して解決することなくただダラダラと時間ばかりが過ぎていく、これが朝鮮の外交「遷延の策」である。
森山茂たちがこれを何とか打開せんと懸命に努力をしたことは既に書いた。黒田全権の江華島派遣に対して三条太政大臣が内諭で説いたのもこの「遷延の計」である。
今まであまり触れてこなかったが、明治の外交官達がその文書中にしばしば記しているのが「遷延の策」のことであり、もしそうだと分かったときは断固たる態度に出るように説いている。たとえば黒田全権の江華島派遣の時には、その対応として、
「・・・我兵隊を京城に屯駐せしめ而して彼の餉給を要し又江華城を佔有して公法のいわゆる強償の方法を行うべしとの難題を発すべし。」
とあり、訓上・内諭の中でここだけが極めて厳しい文章となっている。
永年中国の属国でありながら、領土を占有されることは巧みに回避してきた朝鮮の外交術というものはある意味非常に長けているのかもしれない。なにしろ近代の激動期も朝鮮はほとんど他人任せにして近代化の果実を得たのであるから。
それにしても、朝鮮に小蒸気船と銃器を贈るという1月の建議と、この3月の訓条の落差にはちょっと驚く。この間に何かがあったのだろうか。それとも当初からそういう「寛厳」併せもってのことだったのだろうか。それを知る資料は見ない。
しかしこの頃はロシアと清国がイリ地方の領土を巡って国際的に緊張をもたらしていた頃である。
詳細は省くが、在米国公使館から送付されたヘラルド紙の記事1880年3月16日付けには、
「実に事は切迫の状況であり、支那人は断然開戦の気を起こし、各所に兵端を開かんとする徴候を顕し、この国に於いてこれまで例のない一大戦争を開こうとする勢いあり。全く西洋式に訓練し、施條銃と英国騎兵式の正剣を帯びることとなれり。今この国は惰眠を覚破し直ちに先鞭を着けんとする勢いにあり。」
とあり、
3月18日付には、
「ロシア国はまさにタシケントと同盟し清国と交戦せんとする状況なり。」
「モーニングポストはその社説で、英国は露国の勢力を弱めんとする為に清国の肩を持ち、また露国は清国の来侵を防がんために日本に力を添えている。そして英露2国の対立を清国と日本との交戦に向けて煽っているという説がある。」
とある。(以上「支那政府崇厚ヲ死刑ニ処セシ風説ノ件外九件」より抜粋。)
世界の動向を見れば、悠長に懇親の情だけで贈り物をしている余裕はないはずである。
幸い、修信使は来日して日本側が嬉しくなるような態度を見せた。「共に文明改進の道を行かん」とするかのような希望も持たせた。だから花房義質は10月に作成した訓条ではこの自分の厳しい文章をばっさり削除し、「軽便の船」で行くも構わなかったのであろう。
もっとも、結局は軍艦天城の都合がついたのだが。(第五号仁川開港ノ件外二件)
オマーンで一服
ちょっと横道にそれて朝鮮に関することではないが、読んでいてなんとなく和んだので次の公文書を記しておきたい。
報告者は後の日清戦争で連合艦隊司令長官となった伊東祐亨である。当時は海軍中佐、比叡の艦長である。
明治13年4月、軍艦比叡が単艦でインド洋航海に出かけた(海軍より軍艦比叡艦云々の事)。
以下はインドのボンベイを出航してペルシア国フヅシェル港まで向かう途中でマスカット港(現オマーン国)に寄港した際の報告である。
(「比叡艦新嘉坡ヘ航海中ノ景況ノ件」より抜粋現代語に、括弧は筆者。)
本月(明治13年7月)3日、マスカットへ入港したときに同国から礼砲を撃ってほしいとの依頼が繰り返しあり、それで答砲のことを問い合わせると、それは行うからと回答があった。それにより同4日午前8時に同国王陛下に対し21発の祝砲を発した。直ちに陸地の砲台から同数の答砲があった。
その後、国王陛下から次の通り物品の贈賜があった。
マスカット国王からの贈賜品
一 ブドウ 2籠
一 マンゴー 20籠
一 菓子 30缶
一 野牛 10頭
一 牛 2頭
一 棗 2籠
一 桃 4籠 |
返礼に値するような物も無かったが、比叡艦に下付されていた品の中から次の品物を献上した。
同国王へ献上品
一 伊万里焼花瓶 1封
一 蒔絵椅子 2脚 |
同日、私、服部少佐、本宿大尉、村世大軍医、永田、福島、澤の3中尉、江口中主計副、島中尉、矢島少尉補は、大礼服を着用してマスカット宮殿に到り国王陛下に謁見した。
その日の内に国王陛下は返礼として自ら御来艦されるということを承ったので、満艦に飾りをした。
午後5時に御来艦。
すなわち天皇礼式を執り行った。
御在艦の時間およそ40分ぐらいで御帰りになられたが、この時に21発の礼砲を施行した。
すると国王陛下からこの後も私に交誼を厚くしたいことを希望され、将来の為に私と懇親なる一書を交換したい旨を望まれた。
それにより次の通りを進呈した。
外臣祐亨より謹んでマスカットスルタン陛下に申し上げます。
外臣祐亨は、我が国天皇陛下の命を奉じインド海に航し、陛下の宮殿の下なる当港に来泊し、陛下の優渥なる恩過を辱うしました。外臣祐亨の光栄これに過ぎることはありません。
仰ぎ願わくば、将来我が国の艦船が来泊することがある時に、陛下の恩恵を蒙ることなお外臣祐亨の如く為されることを賜りましたら、両国の人々はついに数千里の国外であることを忘れ、互いに相親睦し無限の幸福を増進するの基が開かれます。そのことを外臣祐亨は希望してやみません。
頓首再拝
千八百八十年
明治十三年七月六日
日本国比叡艦長
海軍中佐正六位勲4等伊東祐亨 印 |
それに対し、次のように御返翰相成られましたので落手しました。
本日付で貴殿の書簡を受け取り、その望みあるところを了解し、その好意を嘉納する。予は貴艦の来着を祝し、将来に日本帝国艦船が当地に来泊することを希望する。予はこれを待遇するのに相当の礼をもってしたい。
千二百九十七年リジェット月二十七日
西暦千八百八十年七月六日。 マスカット港に於いて。
マスカットスルタン王 トルキー・ビン・サイード
日本帝国軍艦比叡号
艦長 中佐 祐亨貴下
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(以下略)
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スルタンとはイスラムの王様のこと。現オマーンの首都がマスカットである。16世紀から17世紀にかけてポルトガルの支配を受けたが、1650年にイマーム・ヤールビ王朝によってポルトガル人を追放し全国統一を成し独立国となった。その後サイード王朝と続いて今日に至っている。
しかし、プライドばかり高いどこかの国と違ってこの国のフランクな姿には好感が持てよう。贈り物も実に微笑ましい品ばかりである。
対する伊藤祐亨は、天皇陛下に接するのと同等の礼をもって接遇している。
どのような小国であっても決して礼を失することなく接する当時の日本人が偲ばれ、この頃すでに中東国との友好もあったことが伺われて興味深い。
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