明治開化期の日本と朝鮮(15)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
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東莱獨鎮大衙門 東莱府官庁の一つ 撮影年代不明
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度重なる条約の無視
明治9年8月24日締結の日朝修好条規付録の第四款には、
「・・・東莱府中に至らば里程外に在りといえども特に往來を爲す。この里程内に於て日本国人民、隨意行歩し・・・」
とあるが、明治12年に至っても実は日本人は公館旧範囲外に、まして東莱府には自由に行けなかったようである。
まず、日本人のために休憩所を設けるからと言ってしばらく通行を断り、その後も自由とは言えず、官吏は往来の妨害をし人民は日本人を蔑視して「(犬のように)よく吠える」であり、結局日本人商人たちは「人家離れて和館内で固まっていた昔の時と異ることがない(山ノ城の建白)」状態で、物品を持ち込んでくる朝鮮人商人たちを相手に細々と通商をしていたというのが実情であったらしい。
いったい、朝鮮側の遊歩規定についての条約履行はどうなっていたのだろうか。
朝鮮議政府から東莱府使まではその通達は来ていたようだが、府使自身が乗り気でなかったようである。東莱府中の人々にそのことを公示もしていなかったし、元々する気もなかったようである。
一方的に関税を設けるなどの重大な実害を伴う違反行為と違って、条規無視の行為には日本政府も話し合いはしていたが強い姿勢を見せずになかば放置の状態であった。
それは、相手の実情を見て「それも無理からぬことか」と理解を示す、いかにも日本人的発想も影響していたと思われる。
あの、強い態度で江華島に向かった黒田清隆ですら、朝鮮の実際に触れて「朝鮮の地の事情をよく考慮し、細部まで決めても実際の用をなさないだろうから貿易の景況にしたがって貿易規則は双方よく協議して、追加したり是正したりすればよい。」という建議を提出しているし、まして宮本小一などは「朝鮮は対等の国である。失敬なことがないように。」と紳士の態度で接するようにと言うぐらいであるから。
しかし、いったん決まった規則は規則であり、それを遵守しないなら必ずトラブルが生じるものである。政府間で取り決めは出来たが、まさに事件は現場で起こるのである。
日本人、暴行を受ける
明治12年(1879)4月、条規付録には東莱府までは往来自由とあるからと、のこのこ散歩に出かけた日本人がいた。
結果は、通行を妨害され石を雨霰のように投げつけられて怪我をして、すごすごと公館に帰ってきた。
それを聞いた山ノ城祐長釜山管理官は激怒した・・・のではなかろうか。1月にあのような建白を提出したばかりであったから。
しかも被害を受けたのは民間の一日本人ではなく、なんと大日本帝国海軍軍艦鳳翔艦長山崎景則海軍少佐はじめ士官・水夫40名だったものだから・・・。
怒った日本側はただちに陸戦隊を上陸させ大砲を繰り出し片っ端から東莱府朝鮮人を拘束し・・・としたなら、それは日朝修好条規違反である。
すなわち第十款「・・・もし朝鮮国人民罪科を犯し日本国人民に交渉する事件は均しく朝鮮国官員の査弁に帰すべし」とある如くである。
せいぜい日本側が出来ることは抗議するぐらいであった。
以下、「軍艦鳳翔号乗組ノ者朝鮮東莱府遊歩ノ際暴挙ニ遇フヲ以テ釡山浦管理官山之城祐長同道東莱府伯ヘ談判ノ始末」から、抜粋して要点をまとめた。なお「山ノ城」は「山之城」だったりするが、公文書の記述に従った。
投石を受けざる者無し
明治12年3月、またも花房義質は命を受けて代理公使として京城に向かうことになった。昨年の一方的関税によって生じた損害の弁償と開港の件についてであった。花房は高雄丸に乗り軍艦鳳翔が測量船として同行した。釜山には鳳翔が先に着いた。4月14日であった(高雄丸は23日着)。(同差遣ニ付鳳翔高雄両艦発航附帰朝)
翌日の4月15日、鳳翔艦長山崎景則海軍少佐はじめ士官・水夫40名は散歩がてらに東莱府に行った。およそ15キロの行程である。
もちろん、非武装であり身に寸鉄すら帯びていない。
山ノ城管理官も、一行が朝鮮人と意思疎通が出来るようにと通訳や韓語生(日本人の朝鮮語学習生)など数人の公館職員を同行させた。
東莱府に着くと朝鮮人が集まり始めついに千人を越す群集となり、日本人一行の通行を塞いだ。
それにより韓語生が話し合いに向かったが突然投石を受け、ついに日本人全員が前後左右から投石を受けて石が当たらない者はない事態に至った。防ぐすべもないまま日本人一行は仕方なく公館に戻ったが、韓語生数人は頭部などに重傷を負った(「・・・談判ノ始末」中の「矢野大軍医の負傷者診察報告」)。
投石は一種の朝鮮文化なのであろうか。戦闘の時などもよくこれに頼ったようである(朝鮮理事誌(正本)4 9月13日の項)。
また、相手が日本人に限らず朝鮮の官憲などに対しても投石が行われることもあった。もっともその時はたいてい官憲が捕らえてその場で警杖でひどく打ったようであるが(花房代理公使朝鮮日記)。人民が政府官憲を憎んでいたことは先述した通りである。
しかし朝鮮国内にはなお外国との交際を反対する勢力もおり、なにより「外国人と戦わない者は売国賊である」という石碑は依然として各地に建ったままであった。
この時の日本人への投石事件には首謀者が居たようである。後に東莱府使の弁によれば捕らえて留置したという。(真偽は不明)
東莱府使に抗議する
翌日16日、鳳翔艦長は武装した海軍士官兵士40名を引き連れて東莱府使に面会し、厳重に抗議するつもりであった。それにより山ノ城管理官その他職員数名も同道した。
途中で東莱府に向かう朝鮮側官吏に出会い、山ノ城は事情を話して府使に先に伝えるように話した。
まもなく朝鮮の軍官が来て、
軍官「今日、府使に面会する件は承知したが、いつになく兵器を携帯しているのはどういうわけか。」
山ノ城「艦長が兵士を率いて不慮のことがないように警戒しているのである。それはすなわち昨日府中で非常の暴動があったからであり、詳しくは府使に会ってからのことである。」
東莱府衙門に到着すると、その庭にはおよそ百人の罪人体の者が土下座して平伏していた。
府使 尹致和が出迎え、日本側一行が階段を上らんとする時に府使は土下座している朝鮮人たちに何事か叱責の声を発した。すると朝鮮人たちは一度大きく頭で地を叩いて立ち上がり皆その場を去った。これらは昨日投石した者らの中の重だった者たちという。
府使が応対した所は、応接所ではなく建物の入り口の一室であった。
山ノ城「昨日鳳翔艦長一行がここに来て散策せんとするも貴所属の官吏が来て拒絶し、その上人民群集して遮り、しかも散々に投石し、それにより日本人は石に当たらない者なく、中でも2名は頭部に重症を負った。貴殿はおのずからはっきりとさせねばならない。なぜ条約を守らず、その上にこのような暴挙があるのか。府中散策のことは貴殿にもすでに了解されたのではなかったか。」
尹「昨日は折悪しくも他所に行っていたが、そのことはよく問いただして知っている。自分がもし在府していたらどうして粗暴の振る舞いをさせたろうか。何しろ軍官らも多くは自分の随行をしていたので、わずかに2、3人の官吏が暴挙を制止したようであるが力及ばなかったようである。もともとは子供のしたことで、実に今更一言の謝罪も述べるべき弁もない。できるならそこを汲み取られんことを希望する。」
山ノ城「子供の仕業とはなんのことぞや。既に昨日現場で投石を受けた艦長はじめ浅山顕蔵(府使も知る通訳官)らも今ここに居る。子供の仕業でないことは明白である。」
尹「なるほどそうであるか。しかし自分は軍官たちがそう言っているのでやはり子供と思う。」
ここで「子供」と記したが原文では「幼稚者」と記されている。漢語としては「幼稚者」とは「未熟な者」の意味もあろうが、江戸時代からの日本語としては「子供」という意味でもあるようだ。ここでは文章の前後から考慮して、府使が言い逃れをしているのは明らかであるところから「子供」の仕業として済ませたい言として解釈した。
しかしあるいは両者の間で言葉の意味が違っていたのかもしれない。
尹「もっとも、その首謀者という者だけは召し捕らえて入獄の処置をした。なお取調べ中で、ただ今もご覧の通り目前に召集して調べている。それぞれ厳重に処置に及ぶべし。よってなにぶん許されんことを希望する。」
山ノ城「貴殿は、昨日は不在だったからこのようになったとあれば、在府なら散策は自由にさせるはず、という意味であろう。よって本日は自分もはじめ一同の者、条約の通りに散策するべし。」
尹「まず暫く待てよ。やがて公使(花房義質のこと)も来着されるであろう。今そのように迫られても迷惑である。」
この間、弁察官(訓導玄昔運)が、
「昨日の暴動は実に穏やかなことでないと府伯も思っている。今日に至って何とも断りを言う弁もないのでなにぶん斟酌を願う。」と言い、次に通訳官の浅山に向かって、
玄「どうか都合よく言われたい。そもそも通訳とは斟酌するものである。深く考えられよ。」
浅山「貴殿の言うことは甚だ訝しいことである。通訳たる者は双方の意思を相通じるために居るのである。どうしてそれを斟酌して曖昧の通訳をしようか。自分が言葉を返して府伯に尋問するのも、管理官の問いに対してはっきりとした答えがないから何度でもその明白な弁を求めるのである。貴殿はもう関与するなかれ。」
玄訓導はうなだれて赤面して黙ってしまった。(玄君は要するに事なかれ主義なのである。昔から。)
朝鮮側は談判の始めから数10人の属官らが府使に種々の助言をしたり、あるいは管理官に直接答弁するなど、混乱と越権行為が相次いだ。
山ノ城はそれらを無視し、また府使も時々属官を黙らせようと叱ったりしたが属官たちは黙らなかった。
山ノ城は、これら多くの者達のために尹府伯もその良心から出る答弁を妨げられているのであろう、もしこのような者達がいなかったらまともに会談も出来るであろうに、と思った。(彼もまた日本人的発想から抜け出ることはない。)
山ノ城「かつてから自由散策のことは説明もして了解もあるのに、またも言を曖昧にして両国の条約をいいかげんなものにせんとされるのか。そして傲慢自尊の振る舞いは昨今に始まったことではない。まして昨日は我が国の人間に大怪我を負わせて、いまだ使者を以って謝罪することもなく、ただ一人の属官を我が部下の居宅にやって殆ど平凡の挨拶をしたと聞くだけである。また、投石の者を問えば、童幼の戯にしようとしている。どうしてそのように愚弄し交際を重んじないことが甚だしいのか。自分は今までここには度々来ている。今度は貴殿が我が公館に来て謝罪を述べられるべし。今、共に行こう。そして負傷者を見て談判を行うべし。これすなわち対等の礼儀である。今日は日も遅くなったが訓導らの役所もあるから遅くなってもそこに宿泊すれば差し支えなかろう。早々に同行されたい。」
釜山の日本管理官と東莱府使の地位は対等である。意思の疎通は訓導などを介さずに直接するように規定されている。(「宮本大丞朝鮮理事始末
八」中「管理官心得」)
尹「今日というのはとても行きかねる。いずれ明日か明後日にお知らせ申すべし。」
その後も何度か問答が繰り返されたが、府使の弁は変わらなかった。
山ノ城は「結局は自分を欺こうとするのか」と思った。
山ノ城「今日のことは普通の談判と思われるのか。さあ共に行かん。」
そう言って府使の手を取り椅子から立ち上がらせようとした。すると数10人の朝鮮側属官が山ノ城の背後に迫った。一人が彼の服の後ろ襟を掴んだ。山ノ城は短刀を抜いてこれをはらった。浅山通訳官も助勢したが刀までは抜かなかった。ほかの日本人も抜いてはいない。
この時、府使は狼狽して誤って山ノ城の短刀の刃を握り、ために薬指の端を傷つけた。すぐに山ノ城は同行の海軍医官を呼んで止血させた。
尹「来いとあれば行くべきであるが、徒歩で行くわけにはいかない。乗る輿の用意をせねばならない。しばらく猶予せよ。」と言って軍官に命じて行装をさせ、山ノ城には手を放すように言った。
しかし手を放すと官吏の一人が府使の袖を引き、府使を助けて共に室外に逃げ出した。
山ノ城と浅山はそれを追いかけて2、3の部屋を過ぎて屋外の石垣のある家の小門に逃れて入ろうとしているのを見つけた。府使自ら門を閉じようとしていたのを押しとどめて再び元の場所に来させた。
府使に、とにかく騒動を静めて静かに談判するべしと、椅子に座るやいなや銃声が聞こえた。日本海軍兵士が発砲したものである。
府使は呆然として立ち、頭を左右に振ってしきりとため息をついた。
山ノ城は艦長に告げて発砲を止めるように言う。しばらくして止んだので、府使と二人して門外に出て皆に静まるように言った。
尹「なにとぞ貴国の兵士を門内に纏められることを乞う。そして事実を調べるべきである。」
艦長にその意を告げて兵士をまとめさせ、発砲の理由を問うと、朝鮮人が槍を構えて兵士に迫り且つ投石がすでに兵士を傷つけ、また門を閉じて帰路を絶たんとしたので銃を発砲したのである、ということであった。
明治12年4月16日、東海鎮守府司令長官海軍中将伊東祐麿へ鳳翔艦長海軍少佐山崎景則からの報告(「・・・談判ノ始末」中の「東莱府遊行之際彼ノ人民暴行ニ付再ヒ管理官同行及談判候顛末御届」より抜粋、カタカナを平仮名へ)
「談判中、彼の領民、我が番兵へ投石、夫卒を傷つけ或いは槍を以って手向かい、且つ城門を閉じて我が帰路を擁せんとする勢いすでに敵対の挙動に及ぶに付き、止むを得ず直に銃発せしめたり。いかにも気概なき者共にて五、六発にして彼たちまち散乱致し其の機に乗じ我れ直ぐに数所の城門を取り楼櫓に寄り開闔を我に占め、其の他要所に配布し、すでに放火に及ぶばかりの手配に及ぶ。しかるところ、右の勢いに依りて府使を始め彼ことごとく真に恐怖を成し、にわかに談判の模様に替わり実意を表する都合に依りて、ひとまず右銃発等をおよそ止めくれの様、山之城より示談これあり候に付き、即刻右を取り止め申し候。」
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尹「どうして銃を撃ったのか。」
山ノ城「貴国の兵士が槍を持って迫り且つ投石し城門を閉じんとするなど、我等を敵視するゆえに、我が国の軍法に於いて止むを得ず発砲したのである。」
尹「我が官吏の告げるところでは、貴国の兵士はゆえなく発砲したと聞こえる。」
山ノ城「そうではない。自分が聞いたのは今陳述したごとくである。我が軍法は敵視して迫る者あれば兵器をもってこれに応ずるなり。ゆえなく銃を放つ者は軍法をもって厳重に処断するがゆえに、けっして徒にこちらから発砲したとのいわれはない。」
尹「弾丸に当たって童子が一人傷ついたという。どう思われるか。」
山ノ城「そのことは今も言ったように軍法であるから、たとえ幾人の負傷者があるとも自分の関わり知るところにあらず。貴殿は今日、我が公館に来るか、又は今日からは貴属の官吏を付けて自由に散策させるか、そうでないなら自分達は随意に散策するべし。この3件に対して回答あれ。」
尹「今日、貴館に就いて談ずるも今この席でするも同じである。何事も即座に回答するので、公館に行くことは容赦願いたい。」
山ノ城「それならば先刻から談じているように散策の一件は条約どおりに今日から施行せん。」
尹「今日から施行するというのは甚だ難しい。なぜなら我が国の人民は凶悪で昨日のような乱暴をするのである。このため懇々と説諭して後に施行の期日を定めるべし。今日から数日間の猶予を乞う。」
山ノ城「今日から何日経てば全ての人民を諭されるのか。あらかじめその期日を定めた貴殿の書をもらいたい。」
尹「当府の人民の多くは百姓にして多数且つ執拗な者達なので毎戸口ごとに説諭させるのであるから、今日より20日間待つことを乞う。」
これにより、尹致和東莱府使は以下の書を提出した。
面晤即府中一處随意閑行一欵更為曉論於民人等處後自來月十五日施行矣須諒焉
己卯三月二十五日 東莱府伯 尹致和
管理官山之城祐長 貴下 |
「(東莱)府中を自由に散策することの(条規)一款のことは、人民等を諭した暁に来月十五日から施行する。」
条規付録締結から既に3年が経とうとしている。政府間で取り決めた条約のことで、なぜ履行をめぐって現場ではこのような交渉をせねばならないのだろうか。全く国家としての体を成していない朝鮮国の実情にはあきれるばかりであるが、当時の日本の外交官達の苦労がいかに大変なものであったかを象徴する出来事ではなかろうか。
しかし筆者はこのパターンを見るのはもう飽きた。
何か問題が起こる。
日本:問いただす。
朝鮮:虚言、詭弁を弄す。
日本:ハァ?
朝鮮:さらに言い訳をする。
日本:怒る。
朝鮮:本当のことを言う。嘘を交えて。
日本:怒りながらさらに追及する。
朝鮮:全て認めるが言い訳が付く。
日本:怒りながら誠意を求める。
朝鮮:礼義は大切であると言いながら謝罪はしない。
日本:激怒しながらも粘り強く説得する。
朝鮮:さらに言い訳をする。時に怒ったり憐れを誘ったり話題をそらそうとする。
日本:激怒しながらも粘り強く・・・
以下ループ
そしてやがて、日本側は打開せんと強行に出るのである。
だいたい日朝間の問題はこのパターンを踏んでいるようだ。やれやれである。さらに思うのに、世間ではここの「強行に出る日本」という部分のみを取り上げて書いたり話したりする者が多いのではなかろうか。
根本原因を作り日本の強行を自ら招いているのは朝鮮側であった、との思いを筆者いよいよ増すばかりなのだが。
なお結局、投石事件については東莱府使は謝罪はしていない。ただ投石した者を厳に処分するという約束をしただけである。日本とは違ってそう簡単に謝罪などはしないのが大陸文化の特徴なのであろう。
日本軍部も朝鮮の実情にはほとほと呆れたようである。鳳翔艦長から報告を受けた東海鎮守府司令長官伊東中将も川村純義海軍卿に宛てて次のように述べている。
朝鮮国の交際はとても尋常の道をもってはならず、一種野蛮交際とでも称するものでせねばならないだろうか。実に交際の何たるかを知らないかのように、国土の風俗一つとっても実意というものがない。その(人の)状態たるや犬をもって譬えるのでは足らない。猫のごとき根性にして、そのわるがしこさは言うべきもない(猫に謝れ!)。到底、兵威をもって圧倒し、そしてこれを誘導しないなら数百年を経るとも開明には到らないかと思う。当艦(鳳翔)も近々仁川あたりに廻航の後は、もう一隻を当港あたりに派遣することなどが緊要かと思い、このことを愚考申し候なり。 五月六日(「・・・談判ノ始末」中の「伊東の川村海軍卿への届」から抜粋して現代語に、括弧は筆者。) |
なお、この一連の報告は三條をはじめ各大臣や参議も目を通している。
ところで、三條太政大臣と岩倉右大臣がこれらを読んで署名押印したのが5月16日なのだが、その翌日の17日には次のような辞令が出ている。(前田管理官釜山港在勤)
外務省五等出仕前田献吉ヘ達
管理官トシテ朝鮮国釜山港在勤被仰付候事 辞 |
これ以後、山ノ城(山之城)祐長の名は見つけることが出来ない。
彼は更迭されたのであろうか。それとも単に在任を辞退して帰国を許されたのだろうか。
どちらにしろ、彼はほっとしたに違いない。何しろ朝鮮滞在期間が長すぎた。大院君が実権を握っていた頃から公館に在勤していた一番の古参であり、その働きはもう充分であったろう。なにより修好条規の精神である日朝友好の気概もついに喪失してしまったように思われる。「なおこれ唇歯の国というべきや(建白)」と日朝が交際する事自体に疑問すら呈するまでに至ったのであるから。
筆者思うに、どうもこの頃からである。何とは無しに日本政府の朝鮮に対する態度が変化し始めたように感ずる。つまり、朝鮮の実情が細かに分かるようになったこの時期頃からである。
推察するに、日本人が昔から漠然と抱く、三韓時代から続く文化文明の国、礼義礼節の国と言うイメージが日本政府内で崩壊し始めたのではなかろうか。もっとも現場の外交官達のところでは、たとえばかつての森山茂などはとうに幻滅していたが。 この年の3月の花房の京城行きに対しての訓条でも、以前と違って少しく強圧的なのである。すでに三条太政大臣達は朝鮮の国情を詳述した山ノ城建白も読んでいる。またそれだけでなく他からもさまざまな情報を得ていたろう。花房の「韓吏の狡猾」という表現も強烈である。
なにより、大飢饉時の朝鮮政府の非情さと愚かさは日本人としては耐えられないことだったと思われるし、その上に人民の膏血を絞る事に汲々としている官吏達には許しがたい憤りを覚えたことも想像に難くない。そしてその無教養な人民達は外国人達に牙をむくように仕向けられている(今日で言う反日教育か?)有様であるから、道理も条理も通じない、慈悲心も何も届かないこの国の内情と言うものに、もはや「威力」を芯にして交際する他はない、といったものではなかったろうか。無論、どこまでも万国公法上合法的にではあろうが。
長引く開港交渉
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運送船高雄丸と小型砲艦鳳翔
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上記投石事件後に、花房の乗る高雄丸と鳳翔号が京城に向けて釜山を発ったのは4月29日であった。測量をしながらの航行である。途中各所を念入りに調べたがやはり港に適しているのは「仁川」しかなく、しかもその湾の済物浦という所に水路最適の地を見出した。
もう一箇所を予定している咸鏡道永興府湾一帯は、覇権路線を進むロシアを牽制する上においても、どうしても開港地を設けてその進出を防がねばならない場所であった。
「・・いわんやこの港、単に貿易に肝要なるのみならず、接壌隣邦の兵備に関し将来(日朝)両国利害の係わる所なれば・・(「明治十二年代理公使朝鮮事務始末抜粋
1」中の「花房義質への訓條」より)」
国際情勢に対してはあたかも耳を掩い目を閉じたかのような朝鮮政府は、祖先の陵廟があるからという一点だけで断り続け、なおその陵廟も海岸から20キロばかり奥地にあることから開港しても差し支えはないではないかと説いてもこれまで決して肯かなかった。先の開港交渉では「文川」を提案して朝鮮側が応じず、それで今度は隣の「元山津」を指定することにしたが、陵廟の地であることに変わりはなかった。
しかし、このたびの花房への訓条では、
「(元山津のことは)必ず其の承諾を取るべし(同上)」であった。
では、どうやって朝鮮政府を肯かせるのか。もはや武力で威嚇するしかないのか。
「・・かかる緊要の地に、開港を拒むは自護の方略において最も取らざるところにして、又、我が(日本の)防御を害するものたるを説き、我が防御を害するの方略は之を等閑(いいかげん)に付するあたわざるの理を示し(同上)」
と、やはり条理を尽くしての説得工作である。花房は朝鮮政府が応じなかった場合はそのまま京城に居座ることも辞さない覚悟であった(代理公使花房義質訓状之義二付伺書上申)。
花房が京城に入ったのは6月13日であり、東京に戻って復命したのは11月2日である。途中、船員数10人が病気(殆ど脚気)となったため一旦長崎に戻って人員を入れ替えたりもした。
元山津は開港、仁川は不可
この長期に渡る協議で朝鮮側が応じたものは次の通りである。
・元山津は開港する。仁川は不可。
元山津は当初朝鮮側が何度も拒否したが、陵廟ある地区を一線で画すからなどと条理を尽くしての談判数度に及び、ついに朝鮮議政府も開港を決断した。しかし、仁川は人民不安の地であり首都防衛の拠点でもあるからと頑なに拒否した。
なお元山津の遊歩規定は釜山と同じく10里(朝鮮里)四方以内である。朝鮮政府は元山津のある府の府使に、かつて日本に来た修信使であった金綺秀を着任させる事を伝えるなど、それなりの配慮も見せた。
関税に関する損害弁償は「金額をもってするは我が政府の好むところにあらず」と、これに代えるに次の要求をもって行い了承させ、尚且つその布告を見届けた。
・東莱府中での売買と宿泊の自由
・日本貨幣の通用
・朝鮮人が日本船を雇って諸物品を運搬するなどの自由
・朝鮮人の日本への渡航の自由とそのための身分保証書
・遊歩規定範囲内で開かれる市場に日本人参加の自由
しかしこれらは、いずれも修好条規、付録、貿易規則にすでに規定されていたものである。
つまりその履行を求めたに過ぎない。(はぁと)
他には、
・学術研究の日本人による植物、鉱山、地質などの調査
・慶尚道大丘における春秋2度の大市場への日本人参加の自由
も要求したが、これらは断固拒否された。
理由は、山をうがつのは山脈(「気」の流れ?)の衰えを招き、砂土を掘るは水源を汚す、大丘市場のことは人民凶悪であり説諭してからでないと難しい、であった。
協議では上記以外にも様々な事が議題となった。
関税のことも話し合われたが、朝鮮国が関税のことについて商議をすることがあるなら次のように応答する事が訓条では言われていた。
「関税のことは其の政府の権利であって我が政府もあえてこれに干渉することを望まず。しかし朝鮮は世界各国において行われる関税の法に慣れず、且つ任意貿易の意味も悟らず、故に収税の際に自ら過度の制限や阻碍となる弊害を生じやすきをもって、数年免税を約束したのである。これは弊害を一時防ぐためのものであって永久の制度ではない。今朝鮮政府が任意貿易の主意を理解し、弊害無き方法を設けて相当の税額を徴収するなら、我が政府は決してこのことを商議しないことはない。ただし事は両国の貿易の盛衰に関わることであるから、必ず討論熟議するべきである。故に、まず朝鮮政府に於いてはその関税規則及び相当とする税額目録素案を作り、もって我が政府と協議するを要する。外務卿寺島宗則(「同訓条」から抜粋現代語に。)」
至極まともな訓条である。
そもそも日本は宮本小一による付録・貿易規則の協議時に関税案を用意していたのだが、朝鮮側は関税無しを承諾していたのである。すなわち趙寅熙講修官の提出した文書に「人民売買不要毎回照数貨物出入特許数年免税・・惟當依此施行、永尊章程。(宮本大丞朝鮮理事始末
一 p32)」とある如しである。
一方、朝鮮側が日本政府に要求したことは次のものであった。
・関税の設立のための協議。
・日本人居留民のための糧米が海を渡って輸出されることを禁じる。
・両国間に相手国に逃亡した自国の犯罪者を引き渡す協定を結ぶ。
・日本船に外国人が乗ってくることがあるがこれを禁じる。
それに対して花房は次のように答えた。
・今まだ新港を開かない前から収税するは時期尚早である。しかし、後年は必ず行うべきものである。
(朝鮮政府は民間貿易が関税によって国家収入を生むことを初めて理解したのだろうか。その事は朝鮮国初の近代化への一歩であろうか。それとも両班たちが新たに私服を肥やすルートを発見しただけに過ぎなかったろうか。)
・穀物の貿易は両国にとって必ず有益である。なお凶年に禁ずることを止むを得ないのは理解する。しかしその時も事前に布告して商人の損害を防ぐべきである。
(朝鮮側は、明治9年から10年の大飢饉の際に日本米を輸入して飢えをしのいだ釜山周辺の事は忘れているようだ。どうも、輸入するのはいいが輸出はしたくない、ということだったらしい。人民が飢えるのを気にしない政府や官吏達であるから、自分達が食える米だけを確保したかったのだろう。)
・犯罪者の事は、その詳細科目を立ててからでないと今は協議が成り立たない。
(早い時期から朝鮮人の日本への密航があったことを伺わせる史料が散見する。いわゆる政治犯などが日本に逃亡することもすでにあっていたらしい。)
・外国人の事はもとより日本は禁じている。
(明治10年末にフランス人宣教師が捕縛されているから、密入国などがあっていたのかもしれない。)
以上のように花房はそれぞれに論駁しながらも、日本政府にそのことを伝えることを約束した。
さて、長期間に渡る朝鮮滞在であったが、この間の花房代理公使一連の報告を読むと、まさに花房渾身の協議である。弁論、論駁、説破、そして朝鮮議政府全員を相手にしても説き伏せんとするその気概。今の日本にこのような外交官が在ればと思うぐらいであるが、それでも実質上の成果は「元山津」開港の約束を取ったことぐらいであったから、いかにこの国との対話による交渉というものが困難なものであったかを思う。
朝鮮軍、軍艦鳳翔を見学す
花房義質は京城滞在中、訓練大将趙寧夏(元左将軍、元礼曹判書)に軍艦鳳翔(小型砲艦 英国製 1869年竣工
316t 長43.9m 幅6.7m 17.8cm前装砲1門,14cm前装砲1門 乗員 65)の見学を勧めたことがあった。朝鮮軍が持つ大砲が無施条の先込め式という旧式であるところから、鳳翔が装備するアームストロング砲(正確且つ速射が出来る後装施条砲)を見学させて、軍の近代化を促さんとしたものである。
趙寧夏は他に用事があるということで、部下の将官たちを仁川に停泊する鳳翔の見学に赴かせたが、同道した仁川の樞府事2人を含め将官や兵隊職工達21人は熱心に見学した。以下そのときの様子を伝える明治12年10月1日付け鳳翔艦長の海軍省上申である。
(「朝鮮国訓練大将趙寧夏等鳳翔艦来観」より抜粋して現代語に。)
7月31日午前9時、来艦により艦長室に通して茶菓を進め、分隊を整列させて一行を艦内くまなく案内して大砲及び計器、機械類を詳しく見せ、移動式の器械・ポンプなども実際に移動して熟視させた。
また、大砲を船の中央に前舳に向けて置いていたので、それをどうやって撃つのかと問い、実際の使用を望んだので戦争調練を施行することにした。用意準備の後に砲座の移動その他諸行動をし、大小砲の運動から医官の器械などに至るまで彼らはそれを熱心に見て大いに感激した。それから空砲発射を始めると彼らはこれは大いに好かないようで、止めるように申し出たので数発にして止めた。この後ロケット弾を発射して見せた。
正午となり、洋食洋酒などで饗応し兵卒たちには日本食で饗した。
午後から、機関室に案内した。彼らはかつて蒸気機関製造を試みたことがあるということで、その研究をする者があって大いに覚えるところがあったと言う。
また、彼らは自製の火薬を一包み取り出して紙の上で発火させたが、ずいぶんかなりの物であった。よって、これらの製造は大いにするのかと問えば、そうではなくてただ硝化学を志す者があって軍営門でこれを試製するところであると言う。
彼らは大砲には格別に意を持たないようで又その発射も恐れるところがあるが、小銃には興味があるようだった。よほど詮議していたようで「マーチニー銃(Martini-Henry Mark I 1871-1876)」を見て喜んだので銃を分解して見せると大いに喜び、しばらくここで貸してくれとのことで貸したが、随行の兵隊職工のうち3人が随分と注視して一度で誤り無く組み立てた。
また蒸汽船をひたすら求めていると見え、その代価などをしきりに尋ねたがこれはただ聞くだけであった。
また測量器なども観察して感嘆且つ驚き、すでに日没に至ったがなおも帰るのを忘れたかのようであった。それで、よければまた他日に来て熟覧されればよいと伝えると、ようやくにして退艦していった。
将官の内でも3人はやや器械に注目していたが、中でも修信使に従って来日した者は最も機械と化学を心がけて研究しているようで、物理も随分と分かっているようであった。
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朝鮮人の中で一番近代化を望んでいたのは実は彼ら軍人だったのかもしれない。
漢江洪水、釜山コレラ
花房が京城に滞在中の6月7月8月と雨が続き、ついに漢江が溢れ出し、15年来の洪水となった。周囲10キロほどのおよそ500戸の家屋が流され、人畜にも多少の被害が出た。
作物への被害も考えられ、この分では米麦の輸出もできないだろうと思われた。もっとも、半島南部には水害はなかったとのことであった。(元山津其他開港談判景況)
コレラは日本での流行が止まずに長崎、対馬と伝染し、釜山の居留地に至るは時間の問題であった。
日本政府は、港に出入りするものを対象に消毒所を設け隔離病院を絶影島に建設することに決定した。
このことを聞いた居留地に滞在する日本人達は、寄付金を募って献納することを願い出た。(「朝鮮国釜山港在留我人民賞与ノ件」より抜粋。)
願書
この頃、御国においてはコレラが流行して各地に蔓延し、すでに長崎・対馬にも波及しているところから、予防についての御諭しあって衛生のことは各自片時もおろそかには出来ないことと心得ておりますが、もしこちらにも伝染するならば居留人民は申すに及ばず、韓国人民に伝染するならば未開の国柄につき実に救済の道も無く人間の情誼として共に忍び難きことと思っております折柄、厚生をもって入港船舶乗り組み員の消毒所ならびに隔離病院を絶影島へ御建設の予定と承り、実に愛民御仁恤御保護の厚きことを私ども末々に至るまで感激に堪えず、よってささやかではありますが、衷心を表しまして些少の額を右の目録の通り献納致したく・・・・・・明治12年7月19日 |
寄付者52名。ほとんどが個人であるが、中に協同商会支店(大阪)、住友支店、郵便汽船三菱会社出張所、第一国立銀行支店(明治11年1月21日出店許可「韓地釜山浦ヘ第一国立銀行支店設置上申」)、大倉組商会の肩書きの者もある。1人の士族を除いて皆平民である。石川、東京、神戸、山口、福岡、鹿児島が各1人、あとは全て長崎・対馬の人間である。
金額は1人で1円、3円、5円などと様々であるが、金銭に替わるものとして酒1樽(代金7円50銭)や消毒用アルコール(代金およそ1円30銭)を寄付する者もいた。
また「自分は金銭には微力なので、コレラが流行すれば韓人の出入りが出来なくなるから、居留地の食品などを他の港に求めざるを得なくなるので、その時に船の水先案内人となるつもりである」という者があった。その代価は賃銭として3円としている。おそらく通訳が出来るということであろう。
また力役(運搬などの肉体労働の意であろうか)も金銭の替わりとして何人か申し出ている。その中の一人がただ1人の士族であった。その代価は50銭である。
合計金額は233円50銭となり、これに対して政府は木杯などを贈って賞した。
この後、コレラはついに上陸して流行し、ようやく10月には撲滅した。しかし11月に入って再び患者8人死亡2人と再流行の兆しが現れ、それにより常設の隔離病院を建築することになった。なおこの頃すでに京城においても大流行したが、朝鮮政府はこれも天命として放置し、なんら予防措置をしていないらしい。(朝鮮国釜山港避病院建築費其他請求ノ件)
なおコレラの隔離病院とは別に、公館内にある医局では日朝両国人への治療が続いていたが、患者も多く治療設備も不十分なことから、入院も出来る正式の病院建設の願いが外務卿から8月29日付けで上申され、9月16日には建築指令が出ている。(在朝鮮国草梁公館内ヘ病院建築ノ件)
居留地にも軽犯罪法を
釜山港の日本人居留地にはすでに1千人前後の者が居住していた(明治12年12月)。それで、コレラなどの衛生上の問題もあったからであろうか、日本国内ですでに(明治6年)施行されていた今日の軽犯罪法に当たる「違式・詿違(かいい)条例」をここに於いても実施する布達が明治12年11月11日に指示された。
(「朝鮮釜山港居留地於テ違式詿違条例施行」より、現代語に。)
違式の罪を犯す者は、75銭〜1円50銭または8日〜15日の懲役。
詿違の罪を犯す者は、5銭〜70銭または半日〜7日の拘留。但し、拘留の罪でも適宜に懲役と換えることがある。
人に損失をこうむらせた場合は賠償した後に罰金を命じる。
情状によって軽重がある。軽いのは叱責説教して放免する。
違式の罪目
・往来や下水外に家の庇などを張り出す者。また家を建てたりする者。
・病死した動物を販売する者。贋物の飲食物ならびに腐敗の食物と知って販売する者。
・裸体または肩脱ぎ半裸の者。
・乗馬して町の中を走り通行人に迷惑をかける者。
・夜中に無燈で乗馬通行する者。
・溝、河、下水へ土や瓦礫を投棄して流れを妨げた者。
・男女粧飾を乱れる者。
・諸汚穢物を定めた場所以外に投棄する者。
・埠頭の桟橋に筏をつなぐ者。
・埠頭で船の通行を妨げる場所に船を止めたり綱縄を張る者。
・神仏祭礼のときに世話人が強いて他人に出費を促す者。
詿違の罪目
・荷物や荷車を往来に置き、あるいは牛馬を横たわらせて、通行人の妨げをした者。
・居宅前の掃除を怠り、あるいは下水を浚わない者。
・往来において乱酔、放歌する者。喧嘩口論をする者、及び午後12時過ぎて楽器を弾き歌を歌うなどの喧響を発して他人の睡眠の妨害を妨げる者。
・軽率により人に汚穢物および石瓦礫などを投げかけ、或いはそそぎかける者。
・便所でない場所で大小便をする者。
・犬を闘わせ、および戯れに他人にけしかける者。
・遊園および路傍の植物を害する者。
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しかしこの条例をもし朝鮮人に課すなら、ほとんどの人間が罰金か検挙であろう。はたして併合時代はどうであったろうか。
また本土では、以下のような解説本も出回っていたらしいが、居留地ではどうだったのだろうか。
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(「高知県教育委員会>>人権教育課のページ>>学校教育>>人権教育資料集T(同和問題) 「つながり」>>2 水平社の創立に立ち上がった人々」から抜粋。赤線は筆者。) |
今日ではこの中の「男女粧飾を乱れる者」「裸体・半裸の者」が面白半分でよく話題に取り上げられるが、全体をよく読むと、要するに人に迷惑をかけたり不衛生であることを諌めることを趣旨とした、実にまともな法令であると筆者には思えるのであるが。
また、それが「差別」につながったというのなら、人に迷惑をかけるような行為があっても、問題視してはいけないということなのか。おかしな話ではある。
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