明治開化期の日本と朝鮮(14)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

写真は、推定であるが日清戦争頃の朝鮮における日本人居留地での日本陸軍砲兵隊と思われる。

日本、朝鮮の条約違反に怒る

 明治11年(1878)11月20日、1隻の軍艦が横浜港から朝鮮に向けて出発した。

比叡と同型の軍艦金剛

 花房代理公使らを乗せた軍艦比叡である。

 比叡は、排水量2250t、長67m、幅12.4m、兵装17cm砲 単装3基 3門、15cm砲 単装6基 6門、1ポンド砲 単装4基 4門、36cm魚雷発射管1門、乗員308名の、明治11年3月に竣工なったばかりの最新鋭のイギリス製装甲軍艦であり当時の日本海軍主力艦のひとつである。

 わざわざ比叡を選んだことや花房義質への訓条などの詳細はよく分らないが、これは去る明治10年10月に開港交渉に赴いた時に、軍艦の都合がつかずに止むを得ず運送船高雄丸で向かい、為に測量もままならなかったことを補うためのものであろうか。

 否、測量のための軍艦ではなく、明らかに威嚇のための大型軍艦派遣であったと思われる。

朝鮮、一方的に関税を取る

 明治11年9月下旬から、朝鮮政府は一方的に税関を設けて貿易品から高額の税金を取り始め、ために日朝の商民が騒ぎ出し、釜山港管理官山ノ城祐長が東莱府使 尹致和に抗議をしたが受け入れられず、貿易も殆ど滞って深夜になってから日朝商民が税関の目をのがれて僅かに取引するまでの事態に至った。
 このことの報告を受けた日本政府は朝鮮政府の重大な条規違反であるとして動き出した。

 度重なる条規条項の無視かつ開港時期は過ぎてなお応じず、自由貿易開始からまだ2年の新港も成っていない時期に、何の相談も無く一方的に高額の関税を課すという暴挙に、ついに日本側も切れたのであろうか。

 二国間で締結した条約に明らかな条約違反があった場合、この時代に於いてどういう対処法があったろうか。まずは二国間で協議することであろう。それでも違反行為を止めなかった場合は?
 当時に国際法廷があるわけでなし、他国を頼んでの協議もできるはずもなし、なにより宗主国の清は朝鮮の内政外交に関与せず、と明言しているのであるから。
 それでは経済制裁か。しかし貿易を自ら塞いでいるのは朝鮮の方であり、いわば「制裁」同然の行為をされているのは日本の方である。
 もはや方法はひとつしかなかろう。それは武力による威嚇である。

交渉と威嚇

 11月29日に釜山に到着した花房公使はただちに山ノ城管理官に事の詳細を問い東莱府使の弁を聞いた。

 それによれば、「これは政府の命令であり、収税は朝鮮人のみに限り、日本人から税金を取っているわけではないので、条約の本義に関する事ではない。」ということであった。

 花房は呆れた。
 人間に税金をかけているわけではない。貿易品にかけているのであるから日本人商民は不当に高額の商品を買わされ、売れるものも売れなくなって大損害を蒙っているのである。これは朝鮮人商民も同じであった。おそらくのがれる為の賄賂なども横行し始めたろう。

 花房は山ノ城をして尹府使に、明治9年8月24日の条規付録締結に違反する行為であるとして、ただちに収税を停止し、且つ両国政府で協議を行う事を書面で伝えさせた。

 それに対して府使の返事は、「数年免税を約したのであるから、すでに数年経っているので違反ではない。」と言い、前と同様の弁を繰り返した。

 日本側は再び書を送り、条規付録締結の談判詳細を伝え、関税の件は事前に協議が必要であること、貿易を振興するために年数を要する事、なにより日朝修好条規の精神である「寛裕弘通之法」に反する事であり、このまま違反行為を続ければ日朝の「誠信」の道も絶えてついに兵の禍に到る事にもなるであろう、まず収税を止めてただちに朝鮮政府に事情を伝えるのが貴殿の職責でないのか、と説いた。

 すると、訓導玄昔運が草梁公館にやって来て、「自分が自ら上京して政府の答えを取ってくる」と言った。またまた玄君の登場である。

 日本側は、先ず収税を停止する事、上京してから返事は15日以内にする事、もしそのことが出来なければ大事が生じる、と答えた。

 その翌日の12月4日、花房は比叡艦長と相談して2小隊を上陸させて、税関のある豆毛鎮後ろの山野で散兵訓練をさせ、且つ比叡艦は発砲演習として絶影島(釜山沖の無人島)に的を設けて射的演習を行うなどして、その回答を促した。
 もともと対馬藩宗氏の和館時代から日本側は銃砲を備える権利を有し、筒払いと称して時々それを発砲するのは昔からの慣習であった。それで朝鮮側も怪しむことは全くなくいわば日常風景だったようである。(明治七年ノ五/巻之二十九 自九月至十二月/3 明治7年11月11日から明治7年12月8日 p7)かつての雲揚や春日などの軍艦も釜山滞留中には通常訓練として空砲演習をしていたが、この度の大型軍艦比叡による演習は標的を設けての実弾発射である。発砲音と共に着弾爆裂音を伴う釜山で始めての音と光景であり、人々はただ事ではないと感じたであろう。またその凄まじい轟音は東莱府まで鳴り響いたはずである。

 12月5日、玄訓導はひそかに中野通訳官に面会し、とても15日間では無理であり3、40日はかかる。しかし政府の命令が無ければ停税することは最も難しい、それで一時市場を撤すると称して税金を徴しないことにして、その後に上京するのはどうであろうか、と持ちかけた。

 玄君らしいごまかし方ではある。もちろん日本側はこれを斥けた。
 その後に府使から、「停税のことは政府からの返事を待つよりどうしようもない。」との書面が来た。

 花房公使は、東莱府使には職務上の立場もあり政府の命令が無ければどうしようもないであろう、これを許さないといって税関を占拠するわけにもいかず、これはこれで止むを得ないことであるかと思案した。そこに玄訓導がまた中野通訳官を訪れて「停税の方法として別の思慮があるからこちらに任せて状況を見てて欲しい。」と言ったとの知らせが来た。

 これにより日本側はその言を受け入れ、政府の返事は何時になるかを問うと、「来月の15日から20日の間にあるべし」とあったのでその間、様子を見ることにして税関所を観察する事にした。
 税関から収税の役人が逐次引き払ったが、なお隠れて収税することがあり、それを制止するために日本側通訳を派遣して対処させた。

 そうこうしている内に、12月23日に東莱府使から政府の回答があったことを伝えてきた。

 「開港所での収税の事は我が政府の回答によれば、しばらく停税の処分をもってここに告知する、とあり了解されたし。」
  戌寅十二月初二日 東莱府伯 尹致和
          管理官 山ノ城祐長貴下

 これにより日本側は了承の返書を送り、願わくば両国の商民商業が常に復し、またこのような弊害がないことを要望する旨伝えた。

 さらに花房公使は書を礼曹判書 尹滋承(例の酒を人に勧めるのが好きな人物である)に送った。

「書簡を以って啓上する。さきに我が政府の駐釜山管理官の報告により、貴国が約束に背き税を徴するの挙あり。しかして貿易がこれがために沮塞することになった。よって本公使、命を奉じて釜山に来航し、管理官をして東莱府使に問い、もってその停止を計らせる。今、府使が書を管理官に送って言うのに、貴政府はしばらく停税をすると。事はやや治まったに似る。しかれども、背約の責任はもとよりのがれるべからず。また貿易の害もまた償わざるべからず。これまさに如何。これを処すべきに至っては当然我が全権使臣を貴京に送る日にこれを論ずべし。願わくば諒解し併せて時の幸いを祈る。敬具」
 明治十一年十二月二十七日 日本国代理公使花房義質
                  朝鮮国礼曹判書尹滋承閣下

 花房は、貿易の景況も以前に戻って商民がようやく安堵したのを見届けてから釜山を発ち長崎を経て帰朝した。

外交官の朝鮮人観

 なお花房は、「韓吏の狡猾、又々如何の弊害を相醸し候やも計り難きに付き、比叡艦は長崎より再び釜山に回航し、しばらく日後の形勢を監護致し候様、同艦長澤野海軍中佐へ申し談じ置き候なり」と報告を結んでいる。
 これにより、比叡艦は日本人保護も兼ねてしばらく釜山に逗留することになったが、花房の朝鮮人を見る眼は以前にも増して厳しくなっているようだ。
  以上(対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史 松本記録、朝鮮国政府専断課税ノ件、帰朝并比叡艦長崎ニ碇泊)より抜粋、要約。

 修好条規付録が成ってから凡そ2年、以前の草梁公館の門は取り払われてある程度は周囲を自由に散策が出来るようになり、日本人は朝鮮の実情や人心などをつぶさに観察出来るようになった。後に山ノ城祐長管理官が貿易の概況と共に詳しく報告しているが、知れば知るほど何とかの国であることを、朝鮮に関わる日本人外交官達は誰もが痛感していくようである。かつて長年日朝交渉に当たった森山茂が漏らした感想と同じものを。

 

朝鮮の国情を報告する

 以下、明治6年から公館に在勤し今は釜山管理官でもある外務三等属山ノ城祐長が、関税の件が一段落した明治12年(1879)1月15日に外務省上申として提出した建白である。
 この建白は、寺島宗則外務卿から三條太政大臣に上申され、且つ参議や大臣達が閲覧したことを印しており、日本政府一同の者が朝鮮の国情をつぶさに知ることになったことに於いて重要と思われる。

 永年に渡り公館に在勤した人物の建白である。事の内容は詳細にして具体的であり、その洞察は深い。

以下、少しく読みやすいように意訳したりまとめたりした。見出しタイトルと括弧は筆者。詳細全文を読みたい方はこちらをどうぞ。

 釜山港貿易景勢及び朝鮮国情に付き建白 明治12年(1879)1月15日

 

貿易の景況やや増進

 本港貿易の景況を見るに、条約の改約以来、やや輸出入の増進に向かっているとは言え、これまでの輸出入の貿易高は年間凡そ42、3万円ぐらいである。(明治8年の黒田全権派遣時には約30万円ぐらいであった。)

韓銭、金銀、穀物について

 韓銭の流通量が少ない。韓銭は官庫に貯蓄され官吏や富裕民が秘蔵しているようだ。なお、富裕民は官吏の収斂を恐れて努めて貧民の体を装う。

 貨幣交換相場が高く取引も少ないので韓銭の入手は難しく、朝鮮米を小買いするのにも足りないぐらいである(いわゆる駐留日本人の糧米のことである)。
 韓銭の発行総数は分らない。国中の韓銭総数は8百万貫と言う者があるが、それは朝鮮人の説から出たのであろう。官吏達ですら朝鮮の人口を知らないぐらいであるから、まして韓銭の総数を知るはずも無い。

 金銀と穀物は韓銭のみで購入できる。しかし、買えたとしても相場として高いので引き合わない。
 金銀は金巾(上質織木綿布)と交換することがあるが値段的に利益が出ない。

 朝鮮の貨幣は金銀貨なく銅貨だけである。であるから量的に運搬だけでも容易ではない。物の運搬はたまに牛馬がするがほとんどは人が負う。

左、松葉売り  右、食膳売り  「朝鮮風俗風景寫真帖」明治44年(1911)4月5日発行版より

貿易不振の要因

 為替が無い事は無いが手数料が不当に高く、これに頼るのは難しく且つ恐るべき(たぶん詐欺などの)実状があるに違いない。

 地方から日本人との貿易を求める者も多いが、日本人と慣れ親しんでないところから東莱府の人に仲買を託することがある。しかし仲買人の中には、不正をしても日本人には遊歩規定があって追求出来ないことをいいことに、詐欺行為をする者があり、為に日本人は安心して存分に取引が出来ない。
 また人民は皆貧しさに落ち着いて強く求めない実状がある。目の前に商品を見せて購買意欲を計らんとして、朝鮮人の小商人に貸し売りをするも悪弊(おそらく踏み倒しなど)があって、我が国の商人が倒れるに至る者がある

 朝鮮では綿花の産が少なく、木綿の質は粗悪である。たまに上品もあるが極めて高価である。
 需要はあるので日本からの輸出品としては上質木綿が適当であり、年間8、90万円分の需要が見込まれるだろう。

 しかし以下の理由で貿易は進展していない。
 朝鮮には国産品が少ない。運搬手段が不便である。金銀貨の通用が無い。政府は日本人が多く入国するのを嫌う。新しい物、珍しい物を嫌う風がある(賄賂に使う物としては求められている)。日朝人民同士の交際が妨げられている。

 今後、東莱府中などを自由に往き来して行商が出来、貸し売りなどの方途が開け、韓銭相場が自然と下がり、難しいだろうが官吏の妨害を排除出来たら、今日よりも貿易振興するのではないだろうか。

 緊急を要する事は、官吏に貿易に関する条約条項を遵守させること。東莱府および遊歩範囲内の日朝人民往来を日常化させること、である。

 しかしその事は、国情として朝鮮人は官民ともに日本人を忌み嫌い蔑視する傾向があるので困難であろう。

根強い日本人蔑視感情とその原因

 その原因を察するのに、初めは、古昔の三韓時代の時から我が国はしばしばこの国に事を起こし、中古には倭寇の患い、豊臣氏の激討下り、或いは宗氏の家臣らの亡状の弊害があってここに至ったか、と思ったが、よく観察すると真の原因は必ずしもこれらの為に生じたものではないようである。
 もっとも、豊臣氏の討伐は今に怨み言のないわけではないが、これらはもはや数百年の久しきことにより自然と消失したと言ってもよい感がある。
 また、宗氏との交際上に横目(監視人)と称する者が跋扈しなかったわけではないが、これらは結局は和館の中に閉じ込められて、朝鮮人がそれに会うのも僅かの雇い役人、あるいは朝夕の魚菜販売の賊奴にとどまり、館司をはじめ代官方の者は、ひたすら米穀などを朝鮮側に仰ぐの事情により、実はかえって朝鮮側から苦しめられた者多く、ただ訓導なる者は交際を担当しながら私的に取引をして時々違約などが多いので、代官方に呼んで強く脅したまでに過ぎない。
 また、渡海船が「脇乗り」と唱えて他の港に行き朝鮮側から糧米を受けた上に取って故意に碇泊を永くするなどの弊があり、もっぱら朝鮮側の支給を貪る事は常であったそうだが、この糧米は朝鮮の官庫から支給したものであり、その時には官吏が中間に入って私有し、かえって(官吏が)その役得を喜ぶぐらいで、これらの数件は未だ朝鮮の国人が挙げて日本人を忌み嫌い卑視する根本原因とするには不足のものであるだろう。

 私が、この地に滞在することすでに年久しく、今一々証拠を挙げるを得ないが、これまで朝鮮の官民に接する上に於いてこの原因を観察するに、この国はもっぱら支那(明国・・漢族)の傲慢自尊に倣い、且つ清国の主はかえって北の狄種(野蛮の異国人すなわちモンゴル部族)をもって立てたれば、今はもはや宇宙間において唯独り聖教賢伝(儒教)の宗匠と自負し、日本に対してはなお支那を頼みとしているようだが、四方を夷狄視するの情、およびその内腹の微弱なるを見透かされることを恐れ、つとめて人民が日本人を忌避するように仕向けることに起こり、我が国の人間が自尊に居ることを心よしとしない情があるのを自然と感ずる。

 それのみならず、朝鮮は我が国の国力が上にあるのを嫉むの情に成るものであり、古来我が国の人間の(朝鮮での)跋扈は、その忌嫌心を幾分か増させたと言うことも可能性としてはあるぐらいのことである。

国は腐敗し搾取と収奪は横行し人民は塗炭の苦しみにあり

 今や、よくよく探偵して朝鮮一帯を観察すると、政府が人民を虐げること甚だしく、人民塗炭の苦しみは真に見聞するにも堪えない惨状である。

 目下、見聞するものを一二あげると、その監使と称し、府使、僉使と称する者よりその下の小吏に至るまで、もっぱら土民の膏血を絞る事に汲々として、また商人も少しくの有力者は、品位、五衛将などの官位を買い、且つ官吏にへつらい、その威勢をかりて土民を圧迫して押し買いなどをする者ばかりであり、そしてそれらは皆また官吏に掠め取られる。
 また、暗行御史(官吏を監視する役人)ですらまた多くそうである。
 その上、種々に事寄せて罪なき者を入牢させ謝宥銭(免罪金)を出させるなどは常務のようで、どうかすると棍棒で打って酷く責めることがあるのも皆その収斂私貪の手段であることは述べ尽くすことが出来ない。

 府使の如き官吏が着任すれば、まずその地の人民は債主が責めに来たような思いをすると言う。
 地方官はその地の者に高利の、およそ10ヶ月で倍となる、あるいは1斗に付き6、7升もあり、また4、5升なるものもあると言う貸し付け米をする。これには官米を以って貸し、還納米と称する。それは公然たる地方官の務めのように聞く。この事は元は善根から生じたものであろう。最近聞くところによれば、もっぱら官吏の私営であって貧窮の者には決して貸さない。また、これを貸し付けるときは籾米の至極悪しきものを以ってあらかじめすり替えて置き、この悪品を貸し付けて上品を納めさせるなどのある上に、一体に圧迫甚だしく人民の至って迷惑するものであると聞く。
 これを収めさせる時期に至れば、自ら行列を厳装して催促に巡回し、官庫が諸所にあってこれに宿泊しながら取り立てると言う。その責迫は実に厳重なものと聞く。
 このような情勢により、人民は間々蓄財の者があるも、皆その床下の土中などに隠匿して真に赤貧の姿を装ってその禍を避けると言う。その実状は目下現に観るものが多い。

 (かつて宮本小一らが京城で「救護院」などの見学を求めたが、玄訓導はそれに対し「救護院も無し。しかし従来は『活人署』と言うものがあって貧民のうち病になった者を集めて治療していたが、今は有名無実であって見るべきものは無い」と言ったことがあるが、そのような善根に根ざした時代もかつてはあったのであろう。しかして形だけは残って官吏の私腹を肥やす手段と堕したのであろう。)

 賄賂が横行し、官吏が職位に就くにも賄賂を以ってする。
 朝鮮軍部の者も私営のために忙しく、武備を心掛ける暇も無いようである。新規に武器を求める事も稀である。常備の艦船なども朽ちて崩れて使えなくなってから久しいようである。しかし、軍の儀式を伴う招集があると、図面上では一応整頓したように見えるが、実際の姿は違うものである。この国ではきちんとした制典は紙の上にのみある。
 (かつて花房義質随行の日本海軍士官たちが、京城で警備する10数人の朝鮮兵を見たが、その手に持つ火縄銃は皆朽ちて錆びていたことを報告している。)

 官位職位などの試験に合格するのも金銭の力による。成年男子の習いとして、書を習い文を読み弓を稽古するのも皆ゆくゆくは随意に土民達を絞るための投資である。

 租税は、田畑、船舶、芦田、塩田などに課せられている。その他に収米と称する地方税のようなものから、臨時に収める種々のものまで新規の課税が多い。

 故に人民の苦しみ惨憺たる様は憐れなもので、一昨年の飢饉の時にも餓死者の路に横たわるに至っても政府は、こちらから勧めた買米にも着手せず、ただ天命なりと言って救済をせずに放置した。
 (この時には政府自ら日本商民から米を借りたり買ったりしていないようである。当時釜山から周辺地区まである程度日本米は出回っていたから、おそらく朝鮮商人か官吏が私的に売買したのであろう。この時もまた不当な値段で売って私腹を肥やしたのであろうか。)

人民誰か国家のために死を軽する

 今や百姓達は、「早く日本から兵を向けてこの政府を倒してくれ。」また「日本の軍艦は来てもなぜ何もしないのか」と言う。
 平民達も日本を慕うわけではないが、「日本が戦争を仕掛けるなら仕掛けよ。誰か謀反を起こすなら起こせ。もしそうなっても、人民は誰が国家のために命を懸けようか。」という情が国民の内、官吏を除いて8、9割はあるだろう。
 近頃は、我が国の制度が人民を愛護するのを知って羨む者があると聞く。

 しかし、全くの無気力の民情であるから、官吏に駆使される姿はまるで犬の子のようであり、そしてそのように我が国の人に対してはよく吠える。

真の教育は行き渡らず

 この国には我が国のように仮名字(朝鮮文字ハングルのこと)があるが、それで書いたものは「諺文(俗字の意)」と言って小説本などに使われるが、卑しいものとされてほとんど見ない。漢文を正式とする。(もっとも官吏たちも公文書などは漢文で書くが、私信などではこの朝鮮文字を使う時がある。玄訓導と浦瀬通訳官などの手紙のやり取りに見ることができる。)

 学問と言えば漢文学であり、それを習うのには資産が潤沢にある者でなければ学ぶことはできない。全く馬鹿げたことであるが、そのために国中に教育が行き渡らないから、下民はたいていが野蛮で、その上に圧制に押しひしがれてその無気力ぶりは言う言葉がない。

 しかし、官吏から下民に至るまで、ずるがしこい才知には長けている。
 それで、少し学問のある者は意味もなく「先王の道」と称して、いかなる論を聞いても自説を変えずに頑なであり、且つ文は巧みである。

 以上のことは実地に伝聞観察するところのおおよそである。

交わらざるを得ない国なのか

 この国は万事に我が国とは反対の国である。それなのに日本にとって結びつきの強い隣国と、言わねばならないのであろうか。

 いずれこの国は崩壊するであろう。そうであるならいかなる条約を結んでも、貿易が盛んになることもないだろう。

 ここに今までのことを熟考すれば、日本は穏当に条理をもって説き覚醒を待って誘導せんとするも、残念ながら朝鮮は日に月に破滅の闇に疾駆して、先年からは我が国の維新の報せを受け入れず、森山、広津らが寛大さと厳しさを交えての術を尽くしてこの地に従事すること6年間。なお朝鮮の曖昧模糊たる策に弄されて事は遂に成らず。

 そして、江華島の1件があっても、なおその古い体質を改革せず、修好条規の寛裕弘通の精神に悖り、約束した遊歩規定のことも誤魔化し制限し、こちらがいかに弁論しようとも糠に釘であり、その彼らの挙動を何と言おうか。

 まともな通訳も居ず育てることもせず、後7年経てば約束の時期となって日本側から漢訳する文を添えたりする事はなくなるのに、一向に意に介さないようである。
(日本側は早い時期から語学生を募って釜山公館で朝鮮語や漢文を学習させるなどして年々養成していた。)

 これらはもとより日本人を卑視し条約を見下げているからである。

この醜悪物の断然破解を

 これをどのように誘導する道があろうか。
 ただ、肘を引き鞭を打ち厳しく監督して、文明に向かわせる一路あるのみである。
 願わくは我が政府には、このような醜悪物は隣国にあるべきではないという正義を持たれて断然これを破解されんことを。

 まさかの時には以上の国情なので、人々の内実は怯懦にして真に刀剣が頭上に迫らんとする状況になれば、必ず驚愕狼狽し迎合して従順となろうが、再び事の治まって元の状態に戻るに違いない。故に最初から明らかに戦意を見せて非常の要請をし、元に戻らないようにして、ようやく文明開化させる計画を図らなければならない。
 そして廟堂の宏謨(朝廷の大きなはかりごと)は格別猶この上にあらんことを。

 これらの事はいまだ尽くし得ない所があって、すなわち事を好むに属し、またこのように弱く未開で人知未発達の国を処するには厳しく迫れとの世論があるに至っては、私が如きがまた言うべき言葉を知らず。
 しかし、誠に身分を越えた出過ぎたことであるということを恐れるといえども、いやしくも職を海外に奉ずる者が殊更に敢えて実況の観想を併せて献じないわけにはいかないのである。

 以上、謹んで建白する。

                在釜山港管理官
明治十二年一月十五日   外務三等属山ノ城祐長
       外務卿寺島宗則殿

 ところで、山ノ城祐長は冒頭で「条約の改約以来」と言っているが、なるほどそうである。
 朝鮮との条約は嘉吉3年(1443)に結んだ「正統癸亥約條」以来度々改約され、明治になっての「日朝修好条規」は当時の国際法に基づいて近代条約として「改約」されたものである。日朝間の取り決めは時代と共に進歩改革されていったことを改めて実感する。

 筆者としては「根強い日本人蔑視感情とその原因」の一文に興味深いものを感じた。朝鮮には昔から日本人を蔑視する感情があり、それを歴史問題としてではなく文化的要因であると説いているのが興味深い。

 これら一文には彼の国の文化に造詣の深い読者諸氏にも肯かれる方も少なくなかろう。
 そして「現在の韓国もそうではないか」と。
 日韓問題である反日の感情などは、いわゆる「日帝36年(足掛け年数)」などの歴史問題が真の原因ではなく、実はもっと深い所にある根の部分、すなわち国民性などの文化的要因から発生しているのではないだろうかと。
 だからこそ謝罪しても賠償しても、反日感情が消えることは無いのであると。

 もしそうなら、正確には「反日」ではなくて侮蔑の情である「侮日」であり、その自尊心の甚だしさは、今日では「唯独り聖教賢伝の宗匠」などという自尊の根拠を喪失しているのであるから、よけい根拠無き意味無きものに見えるばかりである。もっとも、だからこそ建国5千年だの、文化文明の発祥の地だのと、日本人からすれば奇妙に見える妄想史観とも言うべき視点で、過去の歴史を創作しようとする情熱に走るのだろう。
 なにか病的なまでの、異常な自尊心がそこにあるのを感じる。

 山之城祐長は、
其万事ノ我ト相背馳スルノ情実勝テ言フへカラス。然ルヲ猶是唇歯ノ国ト謂フヘキ耶。(原文)」
「万事に我が国とは反対の国柄であることは言うまでもない。それなのになおこの国を唇歯の国(結びつきの強い隣国の意)と言うべきや。」
と断じた。

 これはその後の日朝関係に対するまさに警告として聞こえるものである。そしてその警告はもう過去のものであろうか。

 

 

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