明治開化期の日本と朝鮮(14)
明治11年(1878)11月20日、1隻の軍艦が横浜港から朝鮮に向けて出発した。
花房代理公使らを乗せた軍艦比叡である。 比叡は、排水量2250t、長67m、幅12.4m、兵装17cm砲 単装3基 3門、15cm砲 単装6基 6門、1ポンド砲 単装4基 4門、36cm魚雷発射管1門、乗員308名の、明治11年3月に竣工なったばかりの最新鋭のイギリス製装甲軍艦であり当時の日本海軍主力艦のひとつである。 わざわざ比叡を選んだことや花房義質への訓条などの詳細はよく分らないが、これは去る明治10年10月に開港交渉に赴いた時に、軍艦の都合がつかずに止むを得ず運送船高雄丸で向かい、為に測量もままならなかったことを補うためのものであろうか。 否、測量のための軍艦ではなく、明らかに威嚇のための大型軍艦派遣であったと思われる。 明治11年9月下旬から、朝鮮政府は一方的に税関を設けて貿易品から高額の税金を取り始め、ために日朝の商民が騒ぎ出し、釜山港管理官山ノ城祐長が東莱府使
尹致和に抗議をしたが受け入れられず、貿易も殆ど滞って深夜になってから日朝商民が税関の目をのがれて僅かに取引するまでの事態に至った。 度重なる条規条項の無視かつ開港時期は過ぎてなお応じず、自由貿易開始からまだ2年の新港も成っていない時期に、何の相談も無く一方的に高額の関税を課すという暴挙に、ついに日本側も切れたのであろうか。 二国間で締結した条約に明らかな条約違反があった場合、この時代に於いてどういう対処法があったろうか。まずは二国間で協議することであろう。それでも違反行為を止めなかった場合は? 11月29日に釜山に到着した花房公使はただちに山ノ城管理官に事の詳細を問い東莱府使の弁を聞いた。 それによれば、「これは政府の命令であり、収税は朝鮮人のみに限り、日本人から税金を取っているわけではないので、条約の本義に関する事ではない。」ということであった。 花房は呆れた。 花房は山ノ城をして尹府使に、明治9年8月24日の条規付録締結に違反する行為であるとして、ただちに収税を停止し、且つ両国政府で協議を行う事を書面で伝えさせた。 それに対して府使の返事は、「数年免税を約したのであるから、すでに数年経っているので違反ではない。」と言い、前と同様の弁を繰り返した。 日本側は再び書を送り、条規付録締結の談判詳細を伝え、関税の件は事前に協議が必要であること、貿易を振興するために年数を要する事、なにより日朝修好条規の精神である「寛裕弘通之法」に反する事であり、このまま違反行為を続ければ日朝の「誠信」の道も絶えてついに兵の禍に到る事にもなるであろう、まず収税を止めてただちに朝鮮政府に事情を伝えるのが貴殿の職責でないのか、と説いた。 すると、訓導玄昔運が草梁公館にやって来て、「自分が自ら上京して政府の答えを取ってくる」と言った。またまた玄君の登場である。 日本側は、先ず収税を停止する事、上京してから返事は15日以内にする事、もしそのことが出来なければ大事が生じる、と答えた。 その翌日の12月4日、花房は比叡艦長と相談して2小隊を上陸させて、税関のある豆毛鎮後ろの山野で散兵訓練をさせ、且つ比叡艦は発砲演習として絶影島(釜山沖の無人島)に的を設けて射的演習を行うなどして、その回答を促した。 12月5日、玄訓導はひそかに中野通訳官に面会し、とても15日間では無理であり3、40日はかかる。しかし政府の命令が無ければ停税することは最も難しい、それで一時市場を撤すると称して税金を徴しないことにして、その後に上京するのはどうであろうか、と持ちかけた。 玄君らしいごまかし方ではある。もちろん日本側はこれを斥けた。 花房公使は、東莱府使には職務上の立場もあり政府の命令が無ければどうしようもないであろう、これを許さないといって税関を占拠するわけにもいかず、これはこれで止むを得ないことであるかと思案した。そこに玄訓導がまた中野通訳官を訪れて「停税の方法として別の思慮があるからこちらに任せて状況を見てて欲しい。」と言ったとの知らせが来た。 これにより日本側はその言を受け入れ、政府の返事は何時になるかを問うと、「来月の15日から20日の間にあるべし」とあったのでその間、様子を見ることにして税関所を観察する事にした。 そうこうしている内に、12月23日に東莱府使から政府の回答があったことを伝えてきた。 「開港所での収税の事は我が政府の回答によれば、しばらく停税の処分をもってここに告知する、とあり了解されたし。」 これにより日本側は了承の返書を送り、願わくば両国の商民商業が常に復し、またこのような弊害がないことを要望する旨伝えた。 さらに花房公使は書を礼曹判書 尹滋承(例の酒を人に勧めるのが好きな人物である)に送った。 「書簡を以って啓上する。さきに我が政府の駐釜山管理官の報告により、貴国が約束に背き税を徴するの挙あり。しかして貿易がこれがために沮塞することになった。よって本公使、命を奉じて釜山に来航し、管理官をして東莱府使に問い、もってその停止を計らせる。今、府使が書を管理官に送って言うのに、貴政府はしばらく停税をすると。事はやや治まったに似る。しかれども、背約の責任はもとよりのがれるべからず。また貿易の害もまた償わざるべからず。これまさに如何。これを処すべきに至っては当然我が全権使臣を貴京に送る日にこれを論ずべし。願わくば諒解し併せて時の幸いを祈る。敬具」 花房は、貿易の景況も以前に戻って商民がようやく安堵したのを見届けてから釜山を発ち長崎を経て帰朝した。 なお花房は、「韓吏の狡猾、又々如何の弊害を相醸し候やも計り難きに付き、比叡艦は長崎より再び釜山に回航し、しばらく日後の形勢を監護致し候様、同艦長澤野海軍中佐へ申し談じ置き候なり」と報告を結んでいる。 修好条規付録が成ってから凡そ2年、以前の草梁公館の門は取り払われてある程度は周囲を自由に散策が出来るようになり、日本人は朝鮮の実情や人心などをつぶさに観察出来るようになった。後に山ノ城祐長管理官が貿易の概況と共に詳しく報告しているが、知れば知るほど何とかの国であることを、朝鮮に関わる日本人外交官達は誰もが痛感していくようである。かつて長年日朝交渉に当たった森山茂が漏らした感想と同じものを。
以下、明治6年から公館に在勤し今は釜山管理官でもある外務三等属山ノ城祐長が、関税の件が一段落した明治12年(1879)1月15日に外務省上申として提出した建白である。 永年に渡り公館に在勤した人物の建白である。事の内容は詳細にして具体的であり、その洞察は深い。 以下、少しく読みやすいように意訳したりまとめたりした。見出しタイトルと括弧は筆者。詳細全文を読みたい方はこちらをどうぞ。 ところで、山ノ城祐長は冒頭で「条約の改約以来」と言っているが、なるほどそうである。 筆者としては「根強い日本人蔑視感情とその原因」の一文に興味深いものを感じた。朝鮮には昔から日本人を蔑視する感情があり、それを歴史問題としてではなく文化的要因であると説いているのが興味深い。 これら一文には彼の国の文化に造詣の深い読者諸氏にも肯かれる方も少なくなかろう。 もしそうなら、正確には「反日」ではなくて侮蔑の情である「侮日」であり、その自尊心の甚だしさは、今日では「唯独り聖教賢伝の宗匠」などという自尊の根拠を喪失しているのであるから、よけい根拠無き意味無きものに見えるばかりである。もっとも、だからこそ建国5千年だの、文化文明の発祥の地だのと、日本人からすれば奇妙に見える妄想史観とも言うべき視点で、過去の歴史を創作しようとする情熱に走るのだろう。 山之城祐長は、 これはその後の日朝関係に対するまさに警告として聞こえるものである。そしてその警告はもう過去のものであろうか。
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