明治開化期の日本と朝鮮(13)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

 京城の米穀商。毎月に日を決めて開く市場店である。李氏朝鮮時代と思われるが撮影年代は不明。
 宮本一行が京城を訪れた年は雨が降らずに旱魃であった。それで穀物の売り惜しみなどがあったらしく、釜山では庶民が飢えがちとなり、草梁公館に盗みに入る朝鮮人が少なくなかったと、公館の外務五等出仕 山ノ城祐長は宮本に報告している。

 

釜山に管理官を置く

 明治9年10月31日、日本は修好条規第八款に基いて釜山に管理官を置き、11月13日に外務省七等出仕近藤真鋤をこれに任じ、同時に朝鮮側にも伝えた。

 任命に当たり、寺島宗則外務卿は「管理官心得」に相当する1文を与えている。(宮本大丞朝鮮理事始末 八 p17)
 そこでは、「管理官とは、貿易事務と日本人民船舶貨財など全ての保護を任務とし、彼らの権利を全うして壅滞沮塞(ふさぎはばむこと)の患いのないようにすることである。」
として箇条書きに心得を記しているが、その内から気になるものをいくつか記す。
 
 「一、管理官は東莱府伯と対等の者と心得るべし。瑣末のことや距離的に実際上に不便な時は訓導等と協議してもよいが、取り決めなど一切は東莱府伯に対して処置すること。」
 これはかつて草梁公館の森山茂理事官が訓導までにしか面接できず、ために朝鮮政府との意思疎通すらほとんど出来なかったことを排するためであろう。
 思えば、日朝の齟齬を煽り立てた安訓導(日本との交渉を誤ったとして朝鮮政府によって明治7年4月に死罪に処せられている)や、日本側の信義を損ねた嘘つき玄訓導(お咎め無し)の責任は重い。

 「一、朝鮮政府は既に条約を結んだといえども、聞くところによれば、これを好まずあるいは守旧を顕し、また官吏はひそかに賄賂を貪り貿易を妨害し物品輸出入の故障を生ずるなどの類少なからずと。
 今急にこれらの弊害をなくすことは出来ないだろうが、よくよく注意し条約の趣旨に反する事がある時にはこれを阻止して、朝鮮の積習汚俗を改革する地位に進むを要すべし。」

 このことはかなり難題であろう。何しろ改革や新例を嫌い、且つ官僚官憲の腐敗が深刻であったから。
 そもそも朝鮮は、申大臣らが、
「精神と旧憲とを維持確守して、毫もいまだ変乱しないことを以って立国の本体としている。」
と言っているのであるが、これは要するに、今ある利権を固守し、不利となるを排するということを言い換えているだけと思われる。
 しかし、伝統として歳遣船の日本人を朝鮮側が接待していたのが、その費用負担を嫌悪して改革を求め、さらには日本が草梁公館の地租税を払うことを提案したのは遠慮する事はしない。
 共に旧例を破るものであるにもかかわらずである。
 飢饉の時に日本から米を借りるということも前例に無かった。
 旧憲を維持確守し旧約を尊ぶとは、実は利権の欲望に纏う虚飾の衣に過ぎず、自分たちの都合によって、その装いをどのようにでも替えるものではなかったろうか。
  まだ明治9年のこの時点では、日本人は朝鮮社会の実情というものをほとんど知ってはいなかったと思われる。外交官たちも朝鮮の世俗や庶民生活の実態に触れる機会は全く無かったし、釜山草梁公館の日本人たちも、公館から外に出る事は許されず、また出入りする朝鮮人も、日本人と接する者が朝鮮国内事情を漏洩した場合は厳罰と定められていた(順治癸巳定式)。

 

釜山へ医員を派遣する

 明治9年11月、釜山草梁公館に医員が派遣されることになった。これは先述したように「学術優れた医者を派遣して在勤させれば、日本人の官民はもとより朝鮮人への治療も施すことが出来、もって彼の国の文明開化を促進することにもなろう」という趣旨に沿ったものであった。
 医員は、かつて宮本外務大丞に同行した海軍大軍医矢野義徹である。彼はこの時すでに釜山草梁で朝鮮人に医療を施し東莱府使も診察している。また、京城で日本人随行員が次々と病気になるのを受けて孤軍奮闘し且つ病死した金子鉄蔵を必死に治療した人物である。病死者を出したのはさぞ残念であったろうと思う。矢野は朝鮮の病魔との闘いにどうしても勝利したいという思いでもあったろうか、12月に妻と従者を伴って朝鮮に赴きたいと願い出て許され、10年1月9日に出発している。

 

郵便船の中止と復旧

 明治10年2月の西南戦争勃発と共に、長崎から五島対馬と経由して釜山を往来していた郵便船(三菱会社所有)も戦役に回され朝鮮への郵便業務は中断した。やがて釜山在住の日本人達が不便を訴えた結果8月になって寺島外務卿から復活が上申され戦局の見通しが立ったことにより9月20日に郵便船復旧の決議がされた。(釜山港郵船復旧ノ儀伺)
 このこと一つとっても西南戦争が政府総力挙げての戦いであったことが伺われる。
 佐賀の乱、西南戦争と、朝鮮との関係浅からぬ大事件であったが、開化近代化に伴う苦しみはかくまでのことであったろうかと思うばかりである(涙)。
 はたして朝鮮には、一国の体制を根底から変革することに伴うこのような非常の苦しみを乗り越える決意があったろうか。実はその苦しみをこの後に日本が肩代わりしていくことになったのではなかろうか。

 

花房義質代理公使、京城に行く

 修好条規を締結した明治9年2月から20ヶ月後は明治10年10月である。それは修好条規第五款の新開港約束の期日であった。
 また、かつて宮本と趙講修官との対談で、当面は既存の釜山一港として後の2港は測量して適地を定めると合意していた。
 すなわち、
「新に開港の儀は我が国にて聊かも嫌うにあらず。しかし、陸地にて行商の事は甚だ厭うところなり。とくと御測量の上、御開港くだされたし。貴官の御見込みにては、すなわち今余計の港を開くより陸地の貿易便利なるべしとの事なれども、我が国にては開港は聊かも苦しからず。・・・」
 とある通りである。

 港に適した地形とは、風波を避けられる入り江であること、障害となる暗礁が湾内にないこと、海岸近くまで海底が深いこと、海岸につながる広い平地があること、陸地に良質の淡水が大量に確保できる泉や川があること、近くに人民の繁盛する地区があること、などなどであるが、それらの条件を満たした場所はなかなか見つかるものではない。その上、明治10年に入ると西南戦争が起きたため、外務省は測量船を海軍から全く調達出来なくなってしまった。(高雄丸韓国沿岸測量一件 朝鮮國へ測量船發出之儀上申)
 郵便船まで戦役に駆り出されたのだから測量船(当時技術上、海軍員搭乗の軍艦が測量をしていた)など調達出来ようはずも無い。
 しかし新たな港の候補地は見つからないまま期日は迫って来る。

8月になって寺島外務卿は次のように上申した。

(高雄丸韓国沿岸測量一件 朝鮮國ヘ測量船發出之儀ニ付再上申)より要旨現代語に。

 本年四月中に上申した測量のための艦船の繰り合わせがつかないまま、来る十月二十七日は修好条規第五款で定める所の新港を開く[去年二月二十七日より二十ヶ月]の期となります。期限の前に使臣を京城に派遣し、港口を指定し談判を遂げ、期を違えずに開港させるは、すなわち我が国に於いて条約実践の信をあらわし、朝鮮をして永く条約に異論のないようにする要点であります。
 今後、朝鮮との交際が通じるのか塞がるのかどうかは闇と言ってもよいぐらいではありますが、しかしこのまま延ばしてなお期間を経る時には、ついに条約に掲げる件を、我が国より等閑(いいかげん)にしてしまうに等しく、他日に朝鮮が信義を失う挙を起こすことがあっても、これを責める言葉もないことになります。
 ついては今、西南の役はおよそ平定に向かうを機として、海軍省に於いて艦船を繰り合わせ速やかに派遣がなりますように。
 もっとも、月日が既に切迫しているので充分の手数は施し難いのですが、船に使臣を乗せて先ず全羅道の南に出て木浦・沃溝の二湾を測量し、そのいずれかを開港に適しているかを調べて、その適した方を開くとして直に京城に向かい、咸鏡道の方は今更測量することも出来ないので、かつて龍驤・雲揚の二艦が測量をし、また英国船、ロシア船の所見に於いても、豊津湾[すなわち永興府湾・ラザレフ]を開くとし、もって使臣が京城で談判するに資し、期限を違えず開港せしむるなら、条約の体面を欠くこともなく、また朝鮮をして異論ないようにすることになると思います。よって至急艦船を繰り合わせるなどの本省と海軍省が協議出来ますよう御指令下されたく再度上申いたします。

明治十年八月十八日    外務卿寺島宗則
 太政大臣三條實美殿

 以上の上申を受けて日本政府は海軍省に指示し、また外務大書記官兼代理公使花房義質を京城に派遣することに決定した。
 艦船は当初軍艦筑波が指定されたが、都合により運送船高雄丸(486トン)となった。


コレラ発生

 かくて明治10年(1877)10月2日長崎を出航、3日に対馬着、4日に釜山に向けて発したが、船内でコレラ患者が発生(この年は、長崎と横浜でコレラが大流行している。いずれも清国の船が入港してからの流行であった)
  石炭酸で船内を悉く消毒する。朝鮮本土に感染が及ぶのを恐れて釜山港外に停泊し、公使一行のみが厳重に消毒した上で上陸。釜山の近藤管理官、矢野大軍医などと対応を協議し、病人を治療し搭乗員は禁足にする。病死者2名。しかしなお病人発生が止まないことから、矢野大軍医は、いったん日本に戻して病人の入院処置と高雄丸の洗濯を提案。高雄丸は長崎に帰った。
  東莱府使に来意と入京の期日を知らせる。

 10月30日、高雄丸が戻る。11月3日にかつての宮本一行と同じコースで通津府に向かう。
 途中、適当な開港口を探すことも兼ねて沿海を調査するために、上陸案内人として東莱府使が派遣した陪通辞ら朝鮮人3人を乗せて行く。


恐るべき飢餓大国

 沿海の大小の村落をいくつか尋ねるうちに、大変なことが分ってきた。昨年の明治9年は朝鮮は大飢饉であったのである。各地で餓死者続出、海南では人口6千人中3千人が餓死して半分に減じ、ある村に至っては餓死者132名、生存者わずかに34名で、60戸が12戸に減じた所もあった。この時釜山では日本米を輸入しており、その周辺地区でも日本米を購入することが出来て飢饉をしのいで麦が収穫できる時期に達した所もあった。しかし、その日本米も釜山から離れた地方ほど入手困難となり、また価格も高くなり、ある地方官はもはや購入も諦めて、村民の飢えるに任せる所などもあった。またある湾岸の漁村には船が殆ど見当たらないので、その理由を村民に問うと、食料に替えるために皆売ったと言う。
 日本人は行商を禁じられているので、日本米の売買は朝鮮人に限られている。おそらく価格高騰を狙っての売り惜しみもあっただろう。
 花房義質公使たちは、釜山を離れるに連れて深刻になっていく実情を知り、上陸するたびに地方官が盛大な酒食をもって接待するのが心苦しくなり、辞退すること数度に及べど地方官は聞かず、小さな村で村長が一瓶の濁り酒と一匹の干し魚をもって接待したことにかえって好感を持ったほどであった。

 かつて宮本小一が京城周辺の農作物を見た時点で、やや旱魃であると報告していたが、結局大旱魃となり、明治7年から明治8年にかけても飢饉があったが、明治9年は更にそれを上回る大飢饉となったらしい。以上、(代理公使朝鮮日記/2 明治10年9月9日から明治10年11月30日)

 地方官に今年(明治10年)はどうかと尋ねると、米は大丈夫だが雑穀が不作とのこと。
 海南県監 金演奎が言うのに、「昨年の如きは実に未曾有の大飢饉にして、今年は尋常の飢饉なり。」と言う。(「高雄丸韓国沿岸測量一件/2 明治十年 朝鮮紀事」p13)

 どうやら朝鮮では飢饉は慢性的なものだったらしい。
 宮本は、土地は痩せていないと言い、随行した陸軍士官らは、朝鮮人は新たに田畑を開墾することをしない、井戸を掘る努力をしない、などと述べていたが、両班官憲の苛斂誅求も影響していよう。

 11月25日、京城に着いた花房義質が政府側要人にまず話したのも飢饉のことであった。

代理公使花房義質と伴接官 礼曹参判 洪祐昌との対話

(「代理公使朝鮮日記/2 明治10年9月9日から明治10年11月30日」p34)より抜粋、現代語に、括弧は筆者。

11月26日、月曜日 晴、9時に伴接官 礼曹参判洪祐昌が来る。公使及び属員が迎えて茶菓をもって接待する。話が昨年の飢饉のことに及ぶ。

「昨年来、国民が餓死すること殆ど半分に及び、わずかが麦の熟するのにありつけた。今年は幸いに大いに実りやや肩を緩めるを得る。」

花房「自分が経過する郡村に累々たる餓死の惨状を聞き、深くこれを痛む。しかしなお信じられなかったが、貴殿の言葉を聞いて確と信じられた。去る冬に自分は貴殿と面会し(花房は外務大丞として9年11月にも朝鮮に行っている。)、幸いに本年は我が国に於いては国内諸穀物豊穣なので余米も少なからず、もし貴国に於いて救援を要するならば、自分は我が政府に言って周旋尽力すべきにより、貴殿には貴政府へ具申し人民の活路を開かんことを勧め、その後近藤管理官もまたその事を再三貴殿に切言す。しかるに数百万の人民飢え且つ死するを座視し、貴政府は一言もその件に触れなかったのは、貴殿から政府に言わなかったのか。また具申しても政府はこれを用いなかったのか。ああ、なんと数百万の民餓死し政府はそれを座視してこれを救う道を求めずとは。もしこの時に隣国は米穀を出して救援する国であると知るなら国民はどちらに服しようか。朝鮮に来てから貴政府が各地で自分を接待するに毎食数十品を下らず。その厚遇感謝に堪えずといえども、食膳に向かうごとに飢餓民の事を思い味もなく喉も下らず、これによって毎回接待を辞退せり。しかるに地方官は上の命令であるからとこれを強いて、撤しなかった。以後は改めて固くこれを辞退する。願わくは接待されるな。」

「貴殿が、民の命を重んずる言の切なるを聞いて実に慙愧の汗に堪えず。自分は昨年に貴殿からまた管理官の言を聞いてこれを具申するのを欲しなかったのではない。いかんせん、我が政府には情実あり。これは言うに言われないことである。それで出来なかった。今日は膳部すでに整い、後日は貴殿の命に従うべし。」

花房「情実とはいかなるものか。」

洪祐昌はしばらく呻吟して、やがて口を開いて、

「我が国が凶年で食を貴国に仰ぐなら、もし貴国が凶年にあらば、我が国がこれを給しないわけにいかない。我が国土は小さく物少なし。おそらくはその責任は負えない。」

花房「もしそのような情実のみならばどうしてそれを早く協議しないのか。我が国は既に各国と交わり、たとえ凶年となっても必ずしも貴国に食を仰がず。自分をしてこれを見れば、この情実は数百万人を殺す理由とはならない。」

洪祐昌は返事に窮して答えなかった。

 明治7年の時の飢饉に対し、草梁公館の森山理事官が救援を申し出た時に朝鮮側官吏(おそらく訓導玄昔運であろう)が答えたのと同じ返事である。
 それでも釜山を中心に日本米がいくらか出回っていたから日本商人から購入したか借りるかはしたのだろう。

修好条規貿易規則第六則「嗣後朝鮮國諸港口ニ於テ粮米及雜穀トモ輸出入スルヲ得ヘシ。」は、その為にこそ定まったものであった。すなわちこの則をめぐっての宮本と講修官の対話に、

宮本「貴国に旱魃の患いあり凶歳にあう時は、我が国商民より五穀を貸し進むべし。もっとも利息を出されば2年3年にても差支えなし。」
「是は実に御厚意の事なり。」

 とある通りである。

 してみると、この規則をめぐって朝鮮側が積極的だったのは、実はすでに凶作の見込みが立っていたからかもしれない。
 かつて黒田全権派遣時には申大臣が「米穀を貿易するを禁ずる事」と言っていたのに、こうも態度が変わったことの理由として見出せるのであるが、まあこれは推測である。

 いずれにしろ朝鮮政府は素直に条約国である日本に救援を求めるべきであった。

 人間、貧すれば鈍すると言う。
 1392年の建国以来486年、朝鮮はもはや努力工夫する気力もなくし、改革もしないことを「旧憲を維持確守することを国体とする」という言葉に替えて、ただ貝のように蓋を閉じたまま死んで行く国となり果てていたとしか思えない。
 いずれは清かロシアに吸収されていたであろう。なによりロシアは冬でも氷結しない南の港を求めて朝鮮を睨んでいたのであるから。

 

朝鮮、開港に応じず

 時あたかもロシアがトルコに戦争を仕掛けている真っ最中である。開港交渉に当たって花房義質代理公使は洪祐昌伴接官に戦争の動向を詳しく話した。またウラジオストックには日本の貿易事務官がいてそこからも情報が来ること、覇権路線を進むロシアが要地と見なしているのは咸鏡道永興府湾であることなどを告げた。
 洪祐昌は、「貴国は各国の事情の詳細を知るので我が国は安心である。外国の事は日本政府の助力を仰ぎたい。このことは貴殿も貴政府にお取り成し下されたい。」と言うのであるが、いざ開港の事となると話は進まなかった。

 まず、またも礼曹判書は自ら談判はせずに伴接官を以って当たらせ(修好条規第二款の無視)、開港の話どころか花房義質を迎えるに当たって朝鮮政府内で大論争となっていたことを伝えた。

 つまり、なぜに日本の使節はこうも度々やって来るのか、接待の経費が大変ではないかという議論が起こり、受け入れるべきではない、いや受け入れるべきである、と議論紛糾し、ついに受け入れなければ条約違反となって日本との交際を断つことになるとの声が勝って、已む無く受けることになったと言うのである。
 その事を聞いた花房公使は、飢饉に悩む貧国朝鮮に配慮して、これからも使節は来るがその経費は相談に応じる、と答えた。

 開港の事は「京畿道仁川」と「咸鏡道文川」を提案したが朝鮮政府は「仁川」は首都に近すぎると言う事で拒絶し、「文川」のある永興府は祖先の陵廟があり外国人が来ることを拒むと言った。

 この12月1日から16日までの6回に渡る会談では、花房があらゆる角度から開港の必要性とその地を選んだ理由を説くと、洪伴接官も「なるほど」と一旦納得するのであるが、朝鮮政府に報告すると拒絶を指示されてそれを花房に伝えるというパターンを何度か繰り返している。

 これは宮本小一の会談の時でもそうだったが、直接日本側と話をした者は「なるほど正論である、道理である」という感じで一旦は納得するのであるが、会談の経緯や詳細を聞くことがない朝鮮議政府の者達は報告を受けてその可否を言うだけで、その上会談する者は全権も委任されていない只の取り次ぎ人であるから、日本側としてはなかなか話が通じず時間もかかって骨が折れること甚だしかった。
 かつて宮本が遊歩規定をめぐって、ついに趙講修官と話すことの無駄を感じて直接に議政府大臣たちと会談すると言い出したのも、この朝鮮側の持って回った会談の仕組みに業を煮やしたからでもあった。

 このような国と交渉する場合は、互いに心通じ合う者同士の働きが重要な時がある。この時期は浦瀬裕通訳官と訓導玄昔運がそれに相当する。
 結局、開港の事は合意に至らなかった。  もっともこれは、花房義質としても適当な港口の選定のための測量が不十分であることも正直に朝鮮側に話したからではあったが、それで測量を効率よく進めるために艦船の便宜として石炭を朝鮮の地に貯蔵する個所を置く事を提案したのであるが、これもまた朝鮮政府から拒否された。
 しかし次の経緯を経て「石炭貯蔵」のことは合意調印する事が出来た。

(代理公使朝鮮日記/3 明治10年12月1日から明治11年1月21日)より抜粋、現代語に。

12月16日
花房「それなら松田村に限らず湾内としてはどうか。石炭が要ることは水が要るのと同じである。」

「それ以外の所にも広い地域であるから石炭を置く所は有ると思う。」

 議論往復の末に、
「すでに政府で重要な地には石炭を置くのみといえども、同意し難いことに決したので御弁論があっても仕方ない。」

花房「これほど弁じても御同意ない上は、帰国してから朝鮮国は固く拒否したということを奏上する外はない。」

 その後、洪伴接官に明日は海軍士官が先に帰るので人馬を用意してほしいと言った。伴接官は、海軍士官が製紙場と東廟を観てから帰ることを願った。しかしそれを断った。

 夜になって玄昔運が浦瀬裕通訳官を尋ねてきて、石炭を置くには守衛を置きその為の家を建てるなどのことがあるかを問うた。
 浦瀬は、朝鮮政府には日本が開港を望んでいる地に石炭を置き家を立て守衛を置いてついには開港同様の形勢にするつもりではないかと疑っている者がいることに気付き、そのようなことではないことを明言した。

12月17日
 伴接官が人をして言うのに、帰国する事を今少し待ってもらいたいと。
 それに答えて、20日にはとにかく帰るつもりであるが、なお決定は貴殿の答え如何であると。

12月18日
20日に帰国する事を礼曹判書に書をもって告げる。

12月19日
 伴接官が来る。石炭貯蔵の件は貴国が家を建て守衛を置かずに長期間でない約束の時は相談に応じる、と言う。それにより、朝鮮政府が守衛を置きまたそのための家を建てその管理をし、なおかつその経費は日本側が持つとの書を出す。
 また、明日に全大臣が会うつもりなので帰国を1日延ばすことにした。

12月20日
 石炭貯蔵の事で合意調印する。

 これは、宮本小一の時にやはり訓導玄昔運が奔走して妥協案を探し、東莱府までは遊歩できるようにした事情と似ている。
 ただし、宮本は大臣達との直接会談を迫ったのであるが、花房の場合は黒田全権時のように、断然帰国を宣言したことにより再び玄昔運が動いて信頼する浦瀬裕通訳を尋ねたというかたちである。

 浦瀬も玄も自国の国益を第一とする立場はいささかも揺らいではいないが、それでいて心通じる間柄であった事が種々の史料から伺うことが出来る。もっともこれは、浦瀬が朝鮮語に堪能であった事があげられよう。対馬出身のこの人物は政府意向を良く把握しつつ朝鮮人のことも極めて良く知る外交の裏方であったと言えよう。

 なお、花房義質代理公使は京城滞在中に開港交渉以外にも何点かの諸問題に取り組んでいる。

日本公使の京城駐留問題。これは修好条規付録日本案にあったものが、宮本の時に朝鮮政府の拒絶にあって付録から削除されたものであるが、花房は公使駐留の必要性を正論をもって熱心に説き、ついに朝鮮政府は拒絶する理由をなくしたようであった。
日本使節往来の道を一つとする取り決めを改めさせる。控海門から通津府経由で入京していたのを、これではまだ陸路に距離がありすぎるとして、例えば仁川からの路を取りたいことを求めたことに対し朝鮮政府は拒絶しなかった。
飢饉の事につき進言する。これは洪伴接官だけでなく、趙寧夏礼曹判書にも手紙を送り、飢饉を哀痛し日本に救援を求めるように切々と説く。
趙寧夏礼曹判書に近代化を促進するように進言する。そのための提案として、日本に人を遣って次の事を習得するように勧めた。1、新式医術  2、新式汽船および汽機製造  3、新式軍器製造および水陸測量。とりわけ2と3は国を護る大切な道具であると説いた。また、大臣達の子弟を欧米諸国に留学させて学ばせることなどを提案。
接待儀礼廃止の提案。これも礼曹判書への手紙で、接待に関する無駄な出費としか言いようがない繁雑な習慣を廃止し、日本の使臣の来往にはその食事から館舎まで全て自弁として、贈与なども止めるように提案する。

以上(花房代理公使渡韓一件/2 明治10年10月8日から明治11年2月14日)から。


 さて、開港の件は合意に至らなかった。修好条規第五款の開港期日は無視されたわけであるが、日本が条約違反であると朝鮮を非難するわけでもなかった。それぐらい「約束」というものを疎かにするのが朝鮮の文化であるから、ぐらいにでも思っていたわけでもなかろうが、しかし花房は礼曹判書への手紙の中で、修好条規は万国公法に基づく両国金石の約であると強調し、趙寧夏へ「万国公法」2冊を贈っている。

 日本はどこまでも条約に基づき法に依って動く。朝鮮も法に基づきながらもしばしば気分によってそれを左右してはばからない。文化の違いとは言え実に厄介な隣国である。なおそれは今日に至るもまた同じか。

 

国のプライドと属国根性

 法には法の基本精神がある。条約にも条約の根本精神がある。日朝修好条規の場合、それは第一款に集約されている。すなわち、
「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ。嗣後兩國和親ノ實ヲ表セント欲スルニハ、彼此互ニ同等ノ禮義ヲ以テ相接待シ、毫モ侵越猜嫌スル事アルへカラス。先ツ從前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ、務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開擴シ、以テ雙方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ。」と。

 「朝鮮は自主独立の国であり、日本と朝鮮は対等の国である。この後、両国が平和と友好の実を表すことを望むなら、互いに礼義と信頼をもって接し合い、いささかも侵したり疑い嫌ったりすることがあってはならない。まず、今までの交際の障害となっていた例規をすべて改め除いて、出来るだけ寛裕に通じ合う方法を開き広め、それによって双方永遠の平安をはかるべきである。」

 これこそが日朝修好条規の根本精神である。
 まあ現代では、条文を自分で読みもせず、当時の日朝間の法律や経済の仕組みの違いも考慮せず、実際は対等条約であるのに「不平等条約」という造語でレッテルを貼り、ただ誹謗中傷するだけの人の何と多いことであろうか。(笑)

 この第一款は、先述したように朝鮮側も異議なく了承したものであり、朝鮮側の文書では、
「朝鮮國自主之邦保有與日本國平等之權嗣後兩國欲表和親之實須以彼此同等之禮相待不可毫有侵越猜嫌先将従前為交情阻塞之患諸例規一切革除務開擴寛裕弘通之法以期永遠相安」(黒田弁理大臣使鮮始末 副本/1−4)と日本文に一致している。

 筆者が先ず日朝両国の多くの公文書に接して驚いたことは、朝鮮国側の公文書はすべて漢文であり朝鮮文字(ハングル)は一文字も使われていないということである。これは日朝双方が理解できる形式として漢文にしてあるのだろうかと思ったが、アメリカとの通商条約(1882年)でも朝鮮側のは漢文である。

 自国の文字を一字も使わずに漢字のみを正式な文字とし、その上年号すら清国の年号を使っている。しかも年号のことは日本には秘しており、日本への書簡や公文書には年号を省いて「干支」を使う。これは明暦1年(1655)に朝鮮通信使が来日した時から朝鮮国王の国書には明国の年号を記載するのを止め、干支のみを用いるようになったものであるが、当時の朝鮮はすでに清国に降っており、属国として朝鮮内部の公文書には清国の年号を使用して、干支のみを使うのは日本向けであった。寺島宗則外務卿は「清が韃靼(モンゴル族)から出ているので朝鮮がそのことを忌避し、日本には秘するためである。」と言っており(朝鮮交際録上呈山県陸軍卿ヘ送達ノ儀上申)、日朝修好条規締結後もその姿勢は何ら変わる事は無かったようである。

 いったい朝鮮国にとって「自主独立」とは何であったのであろうか。

 条規付録の交渉に当たった宮本小一に対し、朝鮮政府は日本からの文書に「日本国皇帝」とあったことに再び文句を言ったこととを考え合わせると、「自主独立」などどうでもよく、ただひたすら「日本と朝鮮は対等の国」ということにこそ拘ったのではなかろうか。

 つまり朝鮮のプライドは日本にのみ向けられていて、清国に対してはプライドどころか属国根性とも言うものがあったのではなかろうか。
 そのことを伺わせるちょっとしたトラブルが明治11年に起こっている。


日本、朝鮮の文書を斥ける

 かつて朝鮮はさんざん日本からの文書を拒絶してきたのであるが、日本が朝鮮からの文書を拒否したなどと言うことは幕末・明治と聞かない話であるが、事の次第は次のようなものであった。

 明治10年の末に、朝鮮政府が再びフランス人宣教師を捕縛してこれを監禁するという事件が持ち上がった。
 日本政府は11年5月にそのことを知り、直ちに書簡を礼曹判書に送って、一つには、フランスという日本と友好関係にある人民を救わんがため、また一つには朝鮮が再びフランス国と事を構えて大事に到る事を憂慮して、惨酷な刑などを課せずに直ちに釈放するように忠告した。すると、礼曹判書はそのことへの回答として、既に清国政府の手を経てフランス人宣教師を追放したことを述べてきた。
 ところがその文中に、清国の事を指して「上國禮部、上國指揮」などと記述する文言があり、しかもそれを普通の行よりも高く上に出して書く、いわゆる台頭の書法で書いていたのである。
 それにより寺島宗則外務卿は花房義質公使に命じて、「日朝修好条規の本旨に背き、(朝鮮の)自主国の体面を失うものである。」としてこの文書を朝鮮政府に突き返すということがあった。

 清国のことを「上国」と言い、しかも清国による「指揮」と表現し、なおかつ台頭の書法で日本に送る、これはうっかりだろうか、それとも「旧憲を維持確守」したからであろうか。
 いずれにしても朝鮮は「自主独立」などということにあまり価値を感じていないことを伺わせるエピソードではある。
(「対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史 松本記録」の「日韓交渉略史」p15の「帝国政府花房公使ヲシテ禮曹判書ノ書ヲ斥ケシメタル事」)より。

 かつて、黒田清隆全権大使が朝鮮に向かっている最中(明治9年1月10日)に、朝鮮属国問題を森有礼全権公使が清国の「大清欽命総理各国事務和碽恭親大臣(肩書き長すぎ)」王九と会談を持ち、文書をもって議論したことがあった。

 それは、「日本国政府が朝鮮と修好条規を結ばんとするに当たって、日本政府の行動を隠すことなく共に隣国となる大清政府に告げてその誠意を表し、なおかつ、朝鮮は清国の属管たるが如き名があることから(参考 「(清国)沈大臣答 『朝鮮国ハ我国ノ属管礼部衙門ニ隷スル所ニシテ』」(明治8年 在北京森全権公使ヨリ達スル機密報告書))、その名実を尋ねる。(訓条)」ためであった。

 王大臣は「朝鮮は清国の属邦であるといえども、その土地は清国の所領ではない。ゆえに内治外交共にその自主に任せる。」と答えたので、森公使は「内治外交を自主に任せるということは、即ちひとつの独立国ということであり、それを属国と言うのは空名であり、隣国であるとは言え、朝鮮と日本間の事は清国と日本との条約上に関係することではない。」と談じた。
 しかし王大臣は「朝鮮は中国に属する邦の一つであり、それを知らない者はない。属国には属国の分際があり、古今において朝鮮が属国であることを中国は任ずるのである。けっして空名ではない」と反論した。
 それで森公使が「それでは、このたびの朝鮮との交渉に於いて、日本に対して朝鮮側が何らかの挙を起こした場合に、清国は自らその責任を負うのか。」と問うと、王大臣はそれに対しては確たる返答をすることがなかった。

 これにより森公使は「朝鮮が内政外交とも自主であり、その内外の政令は全て自主であれば、実に独立国の体をなす。よって我が国としても又自主をもってこれに対する。」と断じた。

 この時点で2月14日であり、黒田全権らと朝鮮政府との談判はすでに始まっており(2月11日に談判開始)条約締結の方向にはもう定まっていたのであり、朝鮮属国問題は要領を得ずにそのままとなったのであった。(対韓政策関係雑纂/日韓交渉略史 松本記録、)より。

 自分のものに属するがその責任は持たないとは、まるで現代に通ずる中国人的発想であるが、問題は朝鮮自身が長年の属国根性によって自主とか独立とかの意味を理解していなかったことではなかろうか。

 

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