明治開化期の日本と朝鮮(12)
日朝修好条規によって新たな開港口が設けられることになったが、宮本外務大丞の京城での対談では、その場所を求めて測量することを確認しただけであった。 新たな港口の開港に対しての日本側と朝鮮側双方の意向を以下に記述する。
貿易規則の方は趙寅熙の言によれば、すでに9日の時点で朝鮮政府の異議が無い事が決定されている。付録の方が未決着なゆえにはっきりと表明されなかったものであるが、11日になってそのことが言明された。
もっとも「米穀の輸出入」のように後から書き改めることを求めたものも数点ある。 さて、以上のものはスムーズに合意に至ったものであるが、もちろん協議では合意に至らなかったものもあった。第一款案の使臣の駐留とその館の設置は合意に至らず削除された。また、第二款案の使臣と眷属随員及朝鮮各港在留の日本管理官が朝鮮国内地を通過するのにも厳しく制限が設けられ、第四款案の遊歩規定では凡そ10分の1(朝鮮里で10里、日本里で1里2丁24間)の距離に縮められ、かろうじて東莱府(日本里で約四里)に往来する事だけは特例として認められた。これは各地での行商も制限された事を意味する。 この中で遊歩規定に対する対談の一部を抜書きして見る。対談と言うよりも激論である。
宮本小一の対談記録やその行動記録などを読むと、とても尋常の人間とは思えない働きぶりが見えてくる。時に寝食も無視し、酷暑の中、随行員たちが次々と病気になって倒れていく中にひとり気を吐き、強靭な精神力で協議を進めていった全くのタフマンである。
付録第九款にもあるように朝鮮沿海岸測量のことは、修好条規第七款の「朝鮮國ノ沿海島嶼岩礁、從前審撿ヲ經サレハ極メテ危險トナスニ因リ、日本國ノ航海者自由ニ海岸ヲ測量スルヲ准シ」がその意味する所である。 以下はその時の対談である。(宮本大丞朝鮮理事始末 十/4 慶応4年3月から明治9年9月 p34 英國公使附託ノ事ニ付趙寅熙ト談判ノ要旨)から抜粋、現代語、括弧は筆者。
しかしこの後も朝鮮各地に建てられている「洋夷侵犯不戦則和主和者賣國賊(野蛮なる外国人が我が国を侵犯するのを戦わない、すなわち和主和者は売国賊である。)」の石碑が撤去されることはなかった。条規付録などの調印が成った後も、宮本はまだ懸念をぬぐいきれなかったが、案の定のちに暴力事件が起こる。それも日本人に対してであったが、そのことは後述したい。 日朝両貨幣の流通のことは、 第七款「日本國人民、日本國ノ諸貨幣ヲ以テ朝鮮國人民ノ所有物ト交換シ得ヘシ。又朝鮮國人民ハ交換シ買得タル日本國ノ諸貨幣ヲ以テ日本國ノ諸貨物ヲ買入ルヽ爲メ、朝鮮國指定ノ諸港ニテハ人民相互ニ通用スルヲ得ヘシ。日本國人民ハ朝鮮國銅貨幣ヲ使用運輸スルヲ得ヘシ。兩國人民、私ニ錢貨ヲ鑄造スル者アレハ各其國ノ法律ニ照シテ處断スヘシ。」 と取り決められたが、これは対談の結果、日本原案に貨幣私造の処罰のことを書き加えただけである。朝鮮側はほかに何ら異議を申し入れる事も無かった。
そもそも朝鮮では貨幣の信用度が低く、人々はほとんど物々交換で売買をしていたようである。 とりわけ1866年に大院君が景福宮再建のために「当百銭」なるものを鋳造してそれまでの100倍の価値として流通させようとしたものだから、人民はもとより政府内部からも憤懣批判が続出し100倍で流通する事は無かったが、当時の商人がこの貨幣の交換を利用して暴利を得ようとするなど、いよいよ貨幣の信用が落ちただけであった。 かつて宮本は、やはり黒田全権派遣時に申大臣らに対して、貨幣経済の重要性を説き、貨幣価値の事を説いた。 日本としては日本貨幣をもって貿易せざるを得ない。そして後に、朝鮮貨幣よりも日本貨幣を信用したのはほかならぬ朝鮮人自身であった。
日朝貿易に関する意見は多方面からあり、様々に検討された。 そもそも、明治9年2月の修好条規第九款に「両国既に通交を経たり。彼此の人民各自の意見に任せ貿易せしむべし。両国官吏毫もこれに関係することなし。又貿易の制限を立て、或るは禁沮するを得す。・・・」とあるように、貿易は両国政府が関与しない完全自由貿易とすることですでに合意していた。 ・貿易物資が少ない上に当初から関税をかけていたのでは貿易の発展が阻害されるので、それを避けるため。貿易量の増大と共に関税の事は将来考慮する。 ・朝鮮官吏の賄賂、不当な重税、また対馬側も輸出入品に重税をかけて不当な利益を得ていたことなどの弊害をなくすために、貿易に政府干渉をさせないこと。またこれによって、貿易量が少ないにも関わらず税関所の設置や税関員の派遣などの経費負担となるのを避ける事が出来る。 ・歳遣船等の旧来の貿易に交際礼義が持ち込まれ、それがかえって朝鮮政府に大なる負担となっていたことも含めて、贈与礼と答礼などの儀礼行為が付随することを抑制し、純粋な商行為に向かわせて開化近代化を進めること。 これは米の輸出入に関わっての事であるが、宮本は、従来の対馬の不当な貿易税利益がかえって対馬の食糧自給の自助努力などを妨げ、自立的な経済の確立が出来なかったと考えていた。
なお、条規付録・貿易規則の細則としてこの関税のことは別文によって取り交わした。 これに対し、講修官政府堂上 趙寅熙も同日に確認書を送り、(同上 p32)
なお日本政府は、関税収入のない朝鮮政府のために、港税をもうけて日本艦船1隻ごとに船主から朝鮮政府に税金を納めさせ(三條の訓条による追加)、釜山草梁公館の施設の地租税を支払う(井上・黒田の建議による)などの便宜もはかった。当然これは将来開かれるであろう新たな港口での施設にも、相当なる地租税が支払われるという意味も含んでいた。 以上のように、まことに充分なる配慮の行き届いた政策であったと言えよう。 「関税を認めず」という表面上のことだけをあげつらい、「日本による収奪」などと非難する人がいるが、事の内情や経過の詳細を知らない無知から来ているとしか言いようが無い。
さて、筆者はここまでの歴史事跡をきままにではあるが篤と勉強してみて、歴史の事跡だけをたどるだけでは歴史認識として決して充分ではないと思うようになった。当時の人々の心をも読み解いてこそ、正否の判断が出来る歴史認識となると。 例えば、政府の政策というのも要するに人が行うのである。そこにどのような意図があり、つまるところ人の気持ちがどう込められていたかも考慮してこそ歴史の事実が明らかになるのではなかろうかと。 もちろん人間のすることであるから、当然誤りもあろう。 それを最初から悪意をもってすなわちたくらみを持ってやったとするなら、逆に、「朝鮮政府内部の開化派が工作して日本と事件を起こすことによって日本の圧力を利用し、朝鮮の開化を進めようとした。」とした論までが成り立つ。 歪んだ心で人を見れば、他人の善意すらが歪んで見えるものである。 歪んだと言えば、次の文章、
筆者はかくも歪んで悪意に満ちた文言が教科書というものにあるのを他に知らない。歪んだ歴史認識による歪んだ日本観・日本人観を扇動する文章を書いた著者の歪んだ心の奥を見るようである。そして、なんとこれが韓国政府による唯一の教科書と言うのだから。 帰国した宮本小一は、次のような報告書を日本政府に提出している。
「私が、彼の国に滞在中、同国政府の接待というものは、日本人が自由に門外を散歩することを許さなかったり、公務ある者以外は他の人々とは会わせないなど、未開の風習を出ないところもありましたけれども、その他は総て鄭重を極めたもてなしでありました。同国が我が国に対して友誼のしるしを顕したことは厚く御想像くだされて、この後の同国との交際にいっそうの厚遇を与えられますことを願い上げます。」 宮本小一外務大丞の、朝鮮に対する素直な気持ちをあらわした文と言えよう。
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