明治開化期の日本と朝鮮(12)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

朝鮮の定期市場  撮影年代不明

索 引

釜山の港は開港して久し
貿易規則は異議無し
合意困難の対立点
沿海岸測量について
貨幣の流通に関して
貿易と関税
歪んだ歴史認識

釜山の港は開港して久し

 日朝修好条規によって新たな開港口が設けられることになったが、宮本外務大丞の京城での対談では、その場所を求めて測量することを確認しただけであった。
 釜山の港は対馬宗氏の時代から日本との貿易口である。条規付録の取り決めでは草梁公館の敷地の囲いと出入りを制限する門が廃されただけで、実質的には港としての機能は別に新しいものではなかった。

 新たな港口の開港に対しての日本側と朝鮮側双方の意向を以下に記述する。

(宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/1 明治9年8月5日から明治9年8月11日)より抜粋して現代語読みに。人称、括弧は筆者。

講修官との対話
8月7日

宮本「第一に、二ヶ所の港口を開く事に付き、お尋ねあり。
 右は元より二十ヶ月との期限もあれば、拙者はその事をご相談致すべき任は受けおらざるなり。もっとも、我が政府にて新開港を急がざるの趣意は、貴国地理も未だ分明ならず。ゆえに先ず大船を入るべき様の港を測量し、貿易便利の所を見立てたる上にあらでは確定し難ければ、これ測量を急ぐ所以なり。依りて大丘、西浦、珍島等各所へ行商することを御談に及びおけり。もし右にて便利なれば別に差し急いで港を開くにも及ばずか。しかし御約束は致しがたし。多く港口を開いて益無きよりはむしろ釜山一ヶ所にても繁盛なる方しかるべきなり。」

「御もっともなり。我が国にては二ヶ所の開港は第一の事かと存じおれり。依りてあらかじめ承りおかねばまたそれぞれの手当て方の都合もあればなり。我が国にては何処が宜しきかは知らず。このたび何の御話もこれ無きに付き、怪しく存じてお尋ねに及びたるなり。なるほど釜山一ヶ所にても両国人民貿易のため便利なれば当分足れりとの御言葉はごもっともの事なり。」

(略)

「新に開港の儀は我が国にて聊かも嫌うにあらず。しかし、陸地にて行商の事は甚だ厭うところなり。とくと御測量の上、御開港くだされたし。貴官の御見込みにては、すなわち今余計の港を開くより陸地の貿易便利なるべしとの事なれども、我が国にては開港は聊かも苦しからず。ゆえに第一に開港場の事をお尋ね申したるなり。」

宮本「しからば実地測量のため内地を通行する事は苦しからずや。」

「いよいよ御見立ての上、御上陸なられることは差支え無し。」

 

貿易規則は異議無し

 貿易規則の方は趙寅熙の言によれば、すでに9日の時点で朝鮮政府の異議が無い事が決定されている。付録の方が未決着なゆえにはっきりと表明されなかったものであるが、11日になってそのことが言明された。

(同 上)

8月11日

「先ず貿易規則の件より御返答申すべきや。」

宮本「承るべし。」

「貿易規則はすでに双方調議致したり。ゆえに先ず三件の要事(使臣駐留、遊歩規定、行商)を決着いたすべき様我が政府より命じられたれば、このことを御相談願いたし。」

宮本「貿易規則は三件決着の後承るべけれどもすでに貴政府においても御異存無しとの御返答ありたる上は御相談は相受け申すまじ。」

「貿易規則は我が朝廷にもすでに許諾を経て講本に依るべしと申し上げたれば別に異議あるにあらず。・・・」

 もっとも「米穀の輸出入」のように後から書き改めることを求めたものも数点ある。

合意困難の対立点

 さて、以上のものはスムーズに合意に至ったものであるが、もちろん協議では合意に至らなかったものもあった。第一款案の使臣の駐留とその館の設置は合意に至らず削除された。また、第二款案の使臣と眷属随員及朝鮮各港在留の日本管理官が朝鮮国内地を通過するのにも厳しく制限が設けられ、第四款案の遊歩規定では凡そ10分の1(朝鮮里で10里、日本里で1里2丁24間)の距離に縮められ、かろうじて東莱府(日本里で約四里)に往来する事だけは特例として認められた。これは各地での行商も制限された事を意味する。
 日朝対談で厳しく対立したのはこの3点である。

 この中で遊歩規定に対する対談の一部を抜書きして見る。対談と言うよりも激論である。

(宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/1 明治9年8月5日から明治9年8月11日、宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/2 明治9年8月13日から明治9年8月24日)より抜粋して現代語に。名称や括弧は筆者による。

宮本・・・遊歩規定の事に付き、各港湾内は未だ決せず、草梁和館界限とはどれほどの所をいうのか。

・・・貴国の十里は我が国何里か知らないが、草梁館の例もあればこれに準じるがよいかと。

宮本・・・それではとても話にならない。十里とは人の足で1日ほどである。我が国の人間は健康のために遠足をしたりする。草梁公館のような所に閉じこめられると鬱屈からかえって良くないことを考え出すものだ。十里を行くといっても大商売をするわけではない。歩きながらここで柿を買い瓜を買うぐらいのことで、あまり細かに論じるならかえって害となる。

・・・仁川から京城まで百里(日本十里)に当たる。そうすればその範囲は人民が住居するのは難しくなる。国王の命令があっても婦人を持つ者は住居しない。ついに男だけの地となる。人民が安心できないことは政府が強いることはできない。よって坂下ぐらいの遊歩でどうか。この談は甚だ難しいことである。

宮本・・・どうして婦人は嫌がるのか。

・・・我が国の婦人は同国人であっても知らない者からは逃避する。まして外国人が常に往来する道ならとても安堵しても住居はしまい。そうすればその地は繁盛しない。

宮本・・・甚だ了解できない。もし日本人が悪事をするなら我が管理官からすぐにこれを罰すべし。悪い事をしない者が通行するのを人民が嫌うというのは想像であろう。しかし拙者の論も想像である。しかし我が国の軍艦が測量のために沿海地方に到った時に婦人は男子のようには来なかったがずいぶん近寄りはした。かつて拙者が江華に到ったときに婦人が避けたことがあった。これを修信使に話したら、江華の時はまだ和戦が決していなかったから恐れて逃げたのであり、今度京城に行かれたら避けることはしないだろう、と言った。また、釜山は昔は家が一軒だけの所であったが、今は三百軒にもなる。五、六十年前から繁盛した所である由。しかもここは日本人が常に往来する所である。もし、我が十里が広すぎるので今少し減らして欲しいとの話なら分るが、先ほどの言葉では分らない。

・・・もし御話通りなら十里内は人家は無いものと見られたい。

宮本・・・もちろん我が国がそのように立ち退くのを座視できるわけがない。果たしてこのために港を閉じるほどのことと言うなら御相談申すべきであるが。一昨日言ったように付録の方は本条約ではなく実地旅行の時に差支えがあればまた書き改めるべきであるから。

・・・今日はとても落着に至り難い。次の条件をご覧下されたい。


  (その後朝鮮政府は朝鮮里で十里、日本里で1里と決議した。)


宮本・・遊歩規定の事は百里(朝鮮里)の所を七十里とか八十里にすると言うなら事情として分るが、十里とするのは話にならない。

・・・外国人を見て人民が何をするか分らない。これはあえて朝命で拒むのではなく人民の慣習である。十里のことは朝議で出ている事で自分の専断では答えられない。

宮本・・・清国はもちろん各国ともに旅行切手を所持すれば内地遊歩は勝手次第である。貴国には未だ旧習を脱していない。
 ここで、日本の旅行免状を出して見せ、
 これは我が国で外国人が旅行するときの免状でありこれを所持すれば自由に遊歩出来る。(十里内はそれが無くても自由である。)

・・・前も申すとおり、その範囲内は人民が離散する不安がある。

宮本・・・貴下の述べる事はみな想像説であり証拠は無い。拙官の言うところは実験説である。しかもこれを実施して果たして不可ならば両国で協議の上で改正するものである。

・・・我が政府の本意は、貴国とはすでに三百年来の交際ある国である。事が無いようにはかるために貴国人の遊歩する境界を定めるのである。遠方まで行きたいとの談はもっともなれど、我が国はなにぶん人智いまだ開けざるために、貴国人が常に往来されるならそこの人民はことごとく引き払って他方へ移転するしかなく、そうなれば多少の難渋も生まれるかと恐れるのである。・・・

   釜山の地図を出して見せて説明しながら、
宮本・・・貴官も最早我が国の人が住居している近傍の村家が別に衰微もせず、かえって富民洞などは盛大に到った事はご了解あるべし。貴政府の御論は想像である。拙者の言は証拠がある。いずれが道理あるかをお考えなされるや。貴官はただ中間にあって取り次ぎをされるばかりでは講修官とは言えない。・・・

・・・我が政府から申し付けられた事に付き、拙者がその言葉を疎漏にしては相済まず・・・。

(この後も何度か議題に上がったが議論はいずれも平行線であった。以下は最後の8月22日のものである。)

宮本・・・最初、行歩規定を百里(朝鮮里)と申したのはたいてい日本人の歩行の距離を計って申し進めたのに貴国からこれを御許しなきのみならず、あまつさえ拙者から申し出た変通法も聞かれず、ただ理も非も問わず一概にお断りとばかりにお答え申されども、右はもとより我が国のためのみを謀ってご請求いたすというものではないので、拙者は日本政府の委任を受けた使臣であれば、よんどころなく飽くまで御討論せざるを得ないものである。

・・・すでに一昨日もこの御論を承りおり、今日参上いたしたのも拙者に於いて別の考え方があるのではない、ただ主人の道をもってまかり出たまでである。

宮本・・・それなら貴官は規定十里で満足とお考えなされるか。

・・・拙者だけではない。我が政府においてしかるべきとの見込みである。すでに政府で決議した上は拙者の力でどのようにしようとも致し方なく、むなしき御論をしても却って失敬と思い、昨日は参上しなかったのである。

宮本・・・貴官にしてそのような御見込みではこれまで段々と弁論申し進めたことも皆無理な事とお考えなされるか。

・・・拙者の見込みはすなわち我が政府の見込みなり。拙者はただ御取次ぎ致すのみの事である。

宮本・・・貴政府のことを論ずるのではない。貴官は拙者の所論を無理とお考えなされるかどうか承りたい。

・・・我が政府にて不当と思われることは拙者の心でも同様と思われる。

宮本・・・貴意において何事を不相当といたされるか。

・・・十里四方で相当である。東莱府、馬山浦などに到ることは不相当と思われる。

宮本・・・我が国の人間が貴国の内を三、五十里のところを経過するのにおいて何の害があるのか。無害の者をお差しとめなられるべき道理はないであろう。

・・・差支えるというのは先日来申し上げた通りである。なにぶん外国と交際しない国であるから外国人の来ないところへ貴国の人が来れば我が人民が落ち着かないことを恐れるのである。この議は追々御相談も致すべし。

宮本・・・追々御相談とは今日初めて承った。人民が落ち着かないということは毎々申されるが、けっしてそうではない。その証拠はすでに種々申し出ている。ついては、先日も申し進めたように一度ご同道にて実地に就いて見てはどうか。(釜山草梁のこと)

・・・拙者が実際見てどのようにあっても、もとより我が政府が熟知しておることである。
 さてこのような御談判に渉っては互いに愛敬の道にあらず。よって他事を御相談いたすべし。

宮本・・・この御論のいまだすんでないのに他事を議すべからず。いや、拙者の諸説は不当なりや。

・・・不当と思われる。

宮本・・・何が不当なのか。

・・・我が政府に於いて許されざることゆえ、不当と思われる。

宮本・・・貴政府に関するだけにあらず。道理の上に於いて不当と認められるか。かつ、拙者の言が不当ならその訳を承りたい。

・・・先日来申し上げている通りのことである。そのような御談判では拙者を御待遇下されるべき道にはあらずと思われる。

宮本・・・貴官を御待遇しないと言うにあらず。しかしながら拙者の言を不当とお考えなされる時は、御弁論いたさずにはおれないのである。

・・・我が国に於いて風俗のため宜しからずと思われるゆえにそう申し上げるのである。

宮本・・・風俗に於いてよろしからずとは実に不可解のことである。自国の人は野蛮とお認めなされるのか。

・・・我が国の人といえども遠い僻地に参ればその地方の人々を見て驚くぐらいの勢いである。

宮本・・・しばしば申すように釜山草梁公館に来る貴国の人多数あり。それなのに風俗にこだわるとあればそのご弁解にお出でくだされよ。
 さて、このような談は追々と難しくなる。貴官においても別に言葉もないから、昨日もご来館ないくらいでは最早貴官とはほんど道が絶えたようである。拙者は我が政府から別段の委任もあれば明朝は貴政府へ参って諸大臣とご面談いたすべし。その時にこれらの件も御談判申すべきにつき、貴官からこの旨ご通達ありたい。

(この翌日23日に急転直下、東莱府だけは十里規定外ながら往来できるとの政府議決があったことを講修官が伝えた。宮本もそれをもって朝鮮提案を受け入れ協議は妥結した。おそらく、宮本の諸大臣に直談判に及ぶとの話を聞いた訓導玄昔運が釜山の実態をもって説得したとも考えられる。)

8月23日

・・・その後、我が政府もだんだん心配を繰り返して議論に及び、終におよそ貴意の如く決した。よって今日は嬉しく御談判を終わりたい。

宮本・・・承るべし。

・・・各所行商の事は、すでに開港する約束があるので御請求に応じ難いとの廟議につき、しばらく開港に寄せてお取り消し下されたい。また、釜山の遊歩規定の事は馬山浦に到ることはなにぶん調議いたし難いので相止め、東莱までは常に往来できるように決した。なにとぞこのへんで決定を乞う。

宮本・・・各地行商の事はぜひ御差支えあるとあれば強いては申さないが、開港場の測量の時に当たってただ海路のみで上陸を拒まれては不便利なことなので、その近傍の陸路からも来て測量出来ることが御承知あればよろしい。

・・・それは先日も申し上げた通り、いずれかの港のお心当たりの場所が出来た上で御上陸実見なられることは差し支えなく、もっともその節は前もって東莱府へ御報知下されたい。

宮本・・・馬山浦へ往来のことは強いてお断りならば致し方のない次第である。ついてはこの上は文章を確定し清書することに懸かるべし。

・・・訓導から御請求に及びたる東莱、釜山へ行歩のことについての対談記録は随員の内から御投与くだされるよう願いたい。

宮本・・・もとより承知いたしおり。

・・・しからば河上君(日本側記録係)の記録を御遣り下されば大幸なり。

宮本・・後刻、同人から訓導へ渡すべし。

 右にて談判相済み・・・。

 宮本小一の対談記録やその行動記録などを読むと、とても尋常の人間とは思えない働きぶりが見えてくる。時に寝食も無視し、酷暑の中、随行員たちが次々と病気になって倒れていく中にひとり気を吐き、強靭な精神力で協議を進めていった全くのタフマンである。
  森山茂が極めて鋭い弁論もつ外交官とするなら、宮本は拳骨で固めたような言論で、それも正論をもって推し進める人物である。それでいて相手を見下したり失礼な言葉遣いは決してしない。そして「人もよかれ」の思いが強い人間でもある。
 彼は後に釜山草梁公館の日本管理官に手紙を出し、従来のように朝鮮の官吏を公館に呼びつけるようなことがあってはならない、朝鮮は日本と対等の独立国であり、失礼があってはならない、と厳しく言い渡している。もっともこれは「呼びつけていた」わけではなく、公館から一歩も外に出る事を朝鮮政府が許さなかったので、来てもらわねば話し合いが出来なかったからだが。
 言わねばならない事はガンガンと言い、それでいて紳士然。より礼儀礼節を知り行う人物であった。

 

沿海岸測量について

 付録第九款にもあるように朝鮮沿海岸測量のことは、修好条規第七款の「朝鮮國ノ沿海島嶼岩礁、從前審撿ヲ經サレハ極メテ危險トナスニ因リ、日本國ノ航海者自由ニ海岸ヲ測量スルヲ准シ」がその意味する所である。
 これは日本だけでなく西洋国もそれを求めていた。英国船がしばしば朝鮮沿岸を測量していたのはそのためである。けっして朝鮮に敵対しその地を奪うなどの下心あっての事ではない(英国公使の弁)。宮本の朝鮮行きを聞いた英国公使は朝鮮政府にその意を伝えてくれるよう依頼していた。
 今や各国の船は黄海・日本海(東海ではない)を頻繁に往来し、清国の天津、牛荘、上海などから日本の長崎、函館、またロシアのウラジオストックなどに通行する際に朝鮮沿海を通らざるを得ないからであった。

 以下はその時の対談である。(宮本大丞朝鮮理事始末 十/4 慶応4年3月から明治9年9月 p34 英國公使附託ノ事ニ付趙寅熙ト談判ノ要旨)から抜粋、現代語、括弧は筆者。

宮本・・・(英国公使からの依頼を含めて上記のことを懇々と説き、)すでに外国では灯台を設けて暗礁を示す所すらある。

・・・貴諭の説は承知した。今我が国で英国船の来ることは別に異議はない。

宮本・・・それなら誠に幸いである。英国船の意向は前に述べた通りである。けっして貴国はこの船に対して粗暴のことをなし給うなかれ。もし粗暴のことあっては後に大なる害を引き起こさん。

・・・粗暴のことはなし。すでに地方官がその船に薪水や米を送った旨を届け出た。それをもって御推察あるべし。

宮本・・・誠に然りや。じつに大幸と言うべし。しかし貴国が外国船と見る時は惨酷の取り扱いをすることはすでに海外に聞こえている。今度の条約でそのことを廃止したことは明瞭であるが、英国船に対し暴挙などのことがあっては実に貴国の大事につき、くれぐれも御注意ありたい。

・・・承諾した。

宮本・・・これは朝鮮議政府に於いて申し立てようと算段していたのが長談判となってその話が出来なかったので止めたのである。今、貴下に告げる。よろしく政府諸官へも御告知たまわれたい。

・・・深く承諾した。


 かつて明治8年9月に釜山草梁に入港した英国船に対しての朝鮮側の対応(10月3日)からすれば大変な変わりようである。
 宮本は朝鮮政府に対して外国とトラブルを起こさないようにと、すでに2月の黒田全権派遣時に申大臣らとの対談で伝えていたが(日朝修好条規締結余話)、その効あってのことか又は開化派の意見が強くなったからかは分らない。
 あるいはまた、修信使が来日した時に英国船から助けられた朝鮮人漂流民を引渡したことも影響しているかもしれない。それは李元春という朝鮮人で、明治8年10月に日本海で漂流していたところを英国船オスカワイル号に助けられ、北海道の英国領事館で保護されて9年1月に東京の英国公使館に送られ、4月に公使が寺島外務卿に照会して日本側に渡して6月に修信使が連れて帰った者である。(「対韓政策関係雑纂/明治九年朝鮮国修信使金綺秀来朝一件 第二巻、英舩ニテ所救ノ朝鮮票流民李元春ヲ信使ニ附与スルニ付キ外務卿ヨリ該使往復書」B03030150000のp23)

 しかしこの後も朝鮮各地に建てられている「洋夷侵犯不戦則和主和者賣國賊(野蛮なる外国人が我が国を侵犯するのを戦わない、すなわち和主和者は売国賊である。)」の石碑が撤去されることはなかった。条規付録などの調印が成った後も、宮本はまだ懸念をぬぐいきれなかったが、案の定のちに暴力事件が起こる。それも日本人に対してであったが、そのことは後述したい。


貨幣の流通に関して

 日朝両貨幣の流通のことは、

第七款「日本國人民、日本國ノ諸貨幣ヲ以テ朝鮮國人民ノ所有物ト交換シ得ヘシ。又朝鮮國人民ハ交換シ買得タル日本國ノ諸貨幣ヲ以テ日本國ノ諸貨物ヲ買入ルヽ爲メ、朝鮮國指定ノ諸港ニテハ人民相互ニ通用スルヲ得ヘシ。日本國人民ハ朝鮮國銅貨幣ヲ使用運輸スルヲ得ヘシ。兩國人民、私ニ錢貨ヲ鑄造スル者アレハ各其國ノ法律ニ照シテ處断スヘシ。」

と取り決められたが、これは対談の結果、日本原案に貨幣私造の処罰のことを書き加えただけである。朝鮮側はほかに何ら異議を申し入れる事も無かった。

朝鮮の貨幣である当百銭(下)、上の貨幣の100倍の価値で流通させようとした。

 そもそも朝鮮では貨幣の信用度が低く、人々はほとんど物々交換で売買をしていたようである。

 とりわけ1866年に大院君が景福宮再建のために「当百銭」なるものを鋳造してそれまでの100倍の価値として流通させようとしたものだから、人民はもとより政府内部からも憤懣批判が続出し100倍で流通する事は無かったが、当時の商人がこの貨幣の交換を利用して暴利を得ようとするなど、いよいよ貨幣の信用が落ちただけであった。

  かつて宮本は、やはり黒田全権派遣時に申大臣らに対して、貨幣経済の重要性を説き、貨幣価値の事を説いた。
  また、朝鮮修信使の来日の時に日本政府は東京紙幣寮を見学させ、さらに大阪造幣局を見学させんと、わざわざ寺島宗則外務卿自らが書面でそのことを勧めたのである。貨幣の品位、その信用度はその国の独立国たると関わると。日本が貨幣を鋳造するのにどう注意しているかを、とくと造幣局見物で知られたい、と。
 念の入った勧告書面であったが、何と修信使金綺秀は病気を理由に断ったのである。それが仮病か本当かは知らないが、この後朝鮮が近代貨幣制度の事を理解し取り組む兆しはなかった。

 日本としては日本貨幣をもって貿易せざるを得ない。そして後に、朝鮮貨幣よりも日本貨幣を信用したのはほかならぬ朝鮮人自身であった。


貿易と関税

 黒田清隆と井上馨曰く。
「要するに上下貧困、いたるところに寂寞たる部落あるのみ」
「彼と強いて貿易せんと欲するも貨幣ある無く、産物、一の貴重すべきなければ、至急繁盛の市を開く時にあらず」

 申曰く。
「朝鮮は至って貧国にて物産とても僅かに綿および牛皮等なれば、処々に開港いたすも大抵の益あるまじ。しかしながら此れは私見なり」

 寺島宗則曰く、
「輸出入の表の如き微々たる貿易にこれあり、貧困無産の朝鮮國、向来貿易催進の目的、相立ち難し候」(明治九年六月十九日、太政大臣へ伺之通)
「輸出入税を収むる如き拘束法ありては、帆船風便を失うのみならず時日を空しく過ごし且つ税額を課せられるるを恐れ彼の地へ前往を好むもの増殖せざるべし。収税するの場所相立ち難しと存じ候。且つ輸出税は各国貿易品すら是を廃止して我が作業を催進せんと欲する時勢に付き、朝鮮輸出税は今より無論に是を徴せず彼の国より輸入し来る物品と雖も少数且つ多くは実用品にて國害となるべき物品これ無き候。この條また数年の後までは無税に差定められ・・・」(同上)

 三條實美太政大臣、訓條で曰く、
「朝鮮官員、貿易のため朝鮮人民より賄賂を求め又は専売を許し、或いは重税を課するなどの事ありと聞く。なお釜山に到り実際を審問し果たしてしからばこの弊害を救い、貿易の妨げとならざるための要領を約束しおくべし」

 日朝貿易に関する意見は多方面からあり、様々に検討された。

 そもそも、明治9年2月の修好条規第九款に「両国既に通交を経たり。彼此の人民各自の意見に任せ貿易せしむべし。両国官吏毫もこれに関係することなし。又貿易の制限を立て、或るは禁沮するを得す。・・・」とあるように、貿易は両国政府が関与しない完全自由貿易とすることですでに合意していた。
 なお当時この九款で朝鮮側が主張したのは、その後の文「もし両国の商民欺罔衒売又は貸借償わざることある時は、両国の官吏厳重に該逋商民を取糺し債欠を追弁せしむべし。但し両国の政府はこれを代償するの理なし。」を加筆するようにということであった。貿易上のトラブルで朝鮮政府自身が補償せねばならないことになることを嫌ってのことである。宮本は「だからこそ政府が関与せずに人民の自由にさせるなら政府に責任はない、貿易に干渉すれば責任が生じる。」と説いたが、それでもなお朝鮮側が不安を感じたので、わざわざ後の文を入れさせたのである。
 貿易に干渉しない。つまり関税をかけないことは当初からの確定事項であった。
 これには次の3点の目的があった。

・貿易物資が少ない上に当初から関税をかけていたのでは貿易の発展が阻害されるので、それを避けるため。貿易量の増大と共に関税の事は将来考慮する。

・朝鮮官吏の賄賂、不当な重税、また対馬側も輸出入品に重税をかけて不当な利益を得ていたことなどの弊害をなくすために、貿易に政府干渉をさせないこと。またこれによって、貿易量が少ないにも関わらず税関所の設置や税関員の派遣などの経費負担となるのを避ける事が出来る。

・歳遣船等の旧来の貿易に交際礼義が持ち込まれ、それがかえって朝鮮政府に大なる負担となっていたことも含めて、贈与礼と答礼などの儀礼行為が付随することを抑制し、純粋な商行為に向かわせて開化近代化を進めること。
 黒田全権派遣時、宮本京城行きの時、ともに朝鮮側からの儀礼贈与は極力排したが、それも両国交際の近代化と朝鮮国開化のためであった。

 これは米の輸出入に関わっての事であるが、宮本は、従来の対馬の不当な貿易税利益がかえって対馬の食糧自給の自助努力などを妨げ、自立的な経済の確立が出来なかったと考えていた。
 宮本は、米の輸出入に関して訓條にある「公貿易に似たる云々」のことを趙講修官との談判で提案していない。対馬は自助努力をすべきでありまたそれが出来る見通しがあるという判断であった。


 さて、以上のような観点から貿易規則は合意していったのであるが、日本側としては、それでももし朝鮮政府が関税をかけることを強いて要求する場合は五分(5%)までは肯諾するようにと、三條太政大臣は訓条で宮本に命じていた。
 しかし、朝鮮側は何も要求しなかった。貿易規則が旧来の歳遣船等のような貿易形態とならなかったことにより接待負担が解消されただけで満足したのであろう。
 儒教の国朝鮮は実は礼義に縛られて礼義に苦しめられていたのである。

 なお、条規付録・貿易規則の細則としてこの関税のことは別文によって取り交わした。
 すなわち、宮本小一は調印締結の8月24日付けで、(宮本大丞朝鮮理事始末 一 p24)
 「日本側からは朝鮮との輸出入品に一切課税しないと決議した。貿易に関して官吏の特権的利益や賄賂を排除するために、官吏が貿易通商に関与せず、売買自由とその報告も不要であり、貨物出入の把握は海関(貨物検査所)の記録をもってしてそれに替える。」

これに対し、講修官政府堂上 趙寅熙も同日に確認書を送り、(同上 p32)
「貿易は寛裕に務め官吏の私利益や専有などを一切革除し、人民売買に照会不要、貨物の出入りは数年免税を特に許す。」
と記し、別細則の漂流民の処遇とその諸経費償還に関しても同意を併記して、
「・・・右件一一照領、益歎貴意務在交便両國民人、繊悉具備、惟當依此施行、永尊章程、茲庸回覆、敬冀」と、
両国人民の交便として細則が整ったことを賞嘆し、施行するに永く尊ぶ貿易規則であると文を結んでいる。

 

 なお日本政府は、関税収入のない朝鮮政府のために、港税をもうけて日本艦船1隻ごとに船主から朝鮮政府に税金を納めさせ(三條の訓条による追加)、釜山草梁公館の施設の地租税を支払う(井上・黒田の建議による)などの便宜もはかった。当然これは将来開かれるであろう新たな港口での施設にも、相当なる地租税が支払われるという意味も含んでいた。

 以上のように、まことに充分なる配慮の行き届いた政策であったと言えよう。

 「関税を認めず」という表面上のことだけをあげつらい、「日本による収奪」などと非難する人がいるが、事の内情や経過の詳細を知らない無知から来ているとしか言いようが無い。

 

歪んだ歴史認識

 さて、筆者はここまでの歴史事跡をきままにではあるが篤と勉強してみて、歴史の事跡だけをたどるだけでは歴史認識として決して充分ではないと思うようになった。当時の人々の心をも読み解いてこそ、正否の判断が出来る歴史認識となると。

 例えば、政府の政策というのも要するに人が行うのである。そこにどのような意図があり、つまるところ人の気持ちがどう込められていたかも考慮してこそ歴史の事実が明らかになるのではなかろうかと。

 もちろん人間のすることであるから、当然誤りもあろう。
「うっかりしていた」「そこまでは考えていなかった」と。
 雲揚号事件で言うなら、「うっかりしていた朝鮮政府」「そこまでは考えていなかった日本政府」というのが筆者の結論である。

 それを最初から悪意をもってすなわちたくらみを持ってやったとするなら、逆に、「朝鮮政府内部の開化派が工作して日本と事件を起こすことによって日本の圧力を利用し、朝鮮の開化を進めようとした。」とした論までが成り立つ。

 歪んだ心で人を見れば、他人の善意すらが歪んで見えるものである。

 歪んだと言えば、次の文章、

韓国の高等学校用国定教科書「国史(上・下)」(1995年発行)の日本語訳「韓国の歴史」(明石書店 1997年発行)より抜粋。

Y-1-(2) 開港と近代社会の開幕

江華島条約と開港

 鎖国政策をとる大院君から閔氏一族へと政権が交代すると開放論が生まれてきた。

 他方、明治維新以後、近代国家の体制を整え資本主義を急速に推し進めながら海外侵略を企てていた日本は、雲揚号事件を起こし朝鮮に門戸開放をせまった。その結果、ついに朝鮮は日本と江華島条約を結び門戸を開放することになった。
 江華島条約はわが国が外国と結んだ始めての近代的条約であったが、不平等な条約であった。江華島条約において朝鮮は自主国として日本と同等の権利をもつと規定されたが、それは朝鮮に対する清国の宗主権を否定することによって、日本の朝鮮侵略の道を開こうとしたのであった。そしてこの条約では朝鮮の釜山のほかに二港の開港、日本人の自由な通商活動と朝鮮沿海の自由な測畳をとりきめていた。それは単純な通商交易の経済的目的とは、似て非なるものであって、政治的、軍事的拠点を狙った日本の侵略意図の現れにほかならなかった。
 さらに、開港場における日本人の犯罪は日本の領事が裁判するという領事裁判権、すなわち治外法権条項を設定することによって、朝鮮内に居住する日本人の不法行為に対する朝鮮の司法権を排除した。とくに、治外法権、海岸測量権は朝鮮の主権に対する侵害であった。このように日本はかつて日本みずからが開港を余儀なくされ、アメリカ、イギリスなどと結んだ不平等な関係をそのままわが国へ強要したのである。
 江華島条約に続いて、別途の措置がとられ、朝鮮国内における日本人外交官の旅行の自由、開港場での日本人居留民の居住地の設定と、日本貨幣の流通、そして日本の輸出入商品に対する非課税と穀物の無制限の輸出などが認められた。これによって朝鮮に対する日本の経済的侵略の足場が築かれた反面、朝鮮は国内産業に対する保護措置をほとんど講ずることができなくなった。

 筆者はかくも歪んで悪意に満ちた文言が教科書というものにあるのを他に知らない。歪んだ歴史認識による歪んだ日本観・日本人観を扇動する文章を書いた著者の歪んだ心の奥を見るようである。そして、なんとこれが韓国政府による唯一の教科書と言うのだから。
 いやはやこれに比べれば、当時の朝鮮政府の人間の方がよほど素直で美しさすら感じるほどである。

 帰国した宮本小一は、次のような報告書を日本政府に提出している。

(宮本大丞朝鮮理事始末 五/2 明治9年9月21日 朝鮮国修好条規附録貿易規則約成之義 p2)

下官義、彼地滞留中、同國政府ヨリノ接待方ハ、日本人自由ニ門外ヘ散行ヲ許サス或ハ公務アル者ノ外、他人ヘ接見セシメサル等未開ノ風習ヲ免レサルコト有リト雖モ、其他ハ総テ鄭重優渥ノ接遇ヲ極メタリ。同國ノ我ガ國ニ對シ友誼アルノ徴ヲ顕ハシタルハ厚ク御想像被降、後来同国トノ交際一層ノ懇遇ヲ与ヘラレ候様奉存候。依テ此段上申候 敬具

明治九年九月廿一日   外務大丞宮本小一 花押

  右大臣 岩倉具視殿
  外務卿 寺島宗則殿

「私が、彼の国に滞在中、同国政府の接待というものは、日本人が自由に門外を散歩することを許さなかったり、公務ある者以外は他の人々とは会わせないなど、未開の風習を出ないところもありましたけれども、その他は総て鄭重を極めたもてなしでありました。同国が我が国に対して友誼のしるしを顕したことは厚く御想像くだされて、この後の同国との交際にいっそうの厚遇を与えられますことを願い上げます。」

 宮本小一外務大丞の、朝鮮に対する素直な気持ちをあらわした文と言えよう。

 

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