明治開化期の日本と朝鮮(11)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

米朝通商条約 明治15年(1882)5月22日条約締結 その締結記念宴会を描いた作品とされるが、米国公使たる人物の服装や帽子などから想像で描いたと思われる。想像は想像に過ぎず、現実ではない。 安中植(1861-1919)の作

索 引

条規付録と貿易章程の締結に向けて
協議の次第概略
「米の輸出入」をどう見るか
朝鮮米は対馬の死活問題
変通の方法を試むべし
飢餓を放置する朝鮮
宮本小一の方針
米穀についての協議
朝鮮の方が積極的だった

条規付録と貿易章程の締結に向けて

 以下は条規付録と貿易章程すなわち貿易規則の、日本案文調印締結文である。

 付録・貿易規則とも、案文と締結文が意味としてはほぼ同じの場合は案文を略し、明らかに変更なったものだけを併記し、また相違する部分を強調文字とした。また、()内に解説などをいれた。
 青色は案文、黒色は締結文、強調文字は変更あるいは追記の部分である。

以下、案文は(公文録・明治九年・第二十二巻・明治九年六月〜七月・外務省伺、朝鮮国修好条規附録并貿易規則)より。締結文は(公文録・明治九年・第二十四巻・明治九年九月〜十月・外務省伺、朝鮮国条約布告ノ儀伺)より。句読点、( )は筆者。

修 好 條 規 附 録

(案文略)
日本國政府、曩ニ特命全權辨理大臣陸軍中將兼參議開拓長官黒田清隆、特命副全權辨理大臣議官井上馨ヲシテ、朝鮮國江華府ニ詣ラシメ、同國政府ハ大官判中樞府事申、副官都捴府副捴管尹滋承ニ委任シ、日本暦明治九年二月二十六日、朝鮮暦丙子年二月初二日、雙方互ニ調印シタル修好條規第十一款ノ旨趣ニ從ヒ、日本國政府ハ理事官外務大丞宮本小一ニ委任シ、朝鮮國京城ニ詣リ、朝鮮國政府ハ講修官議政府堂上趙寅熙ニ委任シ、相會同シテ議立スル條款左ニ開列ス。

  第一款
嗣後両国都府ニ設置スル使臣館舎ハ随所人民ノ房屋ヲ賃借スルモ或ハ地基ヲ賃借シ館舎建築スルモ時宜ニ従フヘシ。

(この案は協議の結果削除された。)

  第二款
使臣並ニ眷属随員及朝鮮各港在留ノ日本管理官ハ、朝鮮国内地ヲ経過スルヲ得ヘシ。

  第一款
嗣後各港口駐留日本國人民管理官、朝鮮國沿海地方ニ於テ日本國ノ諸船困難ニ遭ヒ緊急ナリト聞クトキハ、地方官ニ告ケ該地ニ到ル道路ヲ經過スルヲ得ヘシ。

(案では第三款、文は略)
  第二款
嗣後使臣及管理官ヨリ各所ヘ通スル送文ハ、自費ヲ以テ郵送スルモ或ハ該國人民ヲ雇ヒ專差スルモ、各其便ニ從フヘシ。

  第四款
議定シタル朝鮮通商各口ニ在リテ日本人民、地基ヲ租賃スルハ、各其地主ト相議シテ價ヲ定ムヘシ。朝鮮政府ニ屬スル地ハ、朝鮮人民、官ニ納ルト同一ノ租ヲ致シテ住居スヘシ。而シテ釜山草梁項ニハ、從前日本公館ノ周囲ニ関門アリテ日本人ノ自由ナラシメサリシカ、今是レヲ廢撤スルヲ朝鮮政府許諾セリ。ソノ他ノ二口モ此ノ如キ関門ヲ設ケテ出入リヲ妨クルコトナシ。

  第三款
議定シタル朝鮮國通商各港ニ在リテ日本國人民、地基ヲ租賃シ住居スルハ、各其地主ト相議シテ價ヲ定ムヘシ。朝鮮國政府ニ屬スル地ハ、朝鮮國人民ヨリ官ニ納ルト同一ノ租額ヲ出シテ住居スヘシ。釜山草梁項日本公館ニハ、從前同國政府ヨリ守門設門ヲ設ケシカ、今後之ヲ廢撤シ、一ニ新定ノ程限ニ依リ標ヲ界上ニ立ツヘシ。他ノ二港モ亦此例ヲ照ス。

  第五款
議定シタル朝鮮各港ニ在ル日本人民附近地方ヲ間行シ得ヘキ道路ノ里程ハ、其地ノ埠頭ヨリ算シテ直径十里日本里程トス。此里程ニ満ル所ノ地名ハ予メ其地方官ト管理官ト議定スベシ。此里程内ハ日本人民隨意ニ行歩シ、或イ旅亭ニ宿泊シ土<樗辯スルヲ得ヘシ。

  第四款
嗣後釜山港ニ於テ日本國人民行歩ヲ得ヘキ道路ノ里程ハ、波戸場ヨリ起算シテ東西南北各直徑十里朝鮮里法ニ依ルト定ム。東莱府中ニ至ラハ里程外ニ在リト雖モ、特ニ往來ヲ爲ス。此里程内ニ於テ日本國人民隨意行歩シ、其地ノ物産及日本國物産ヲ賣買スルヲ得ヘシ。
 (朝鮮里法の10里は日本の1里つまり約4キロメートルにあたる。)

  第六款
議定シタル朝鮮各港ニ於テ、日本人民ハ朝鮮人民ヲ賃雇スルヲ得ヘシ。朝鮮人民日本ヘ往カント欲スル時罪犯等ノ故障無キ者ハ朝鮮政府之ヲ抑留セサルヘシ。

  第五款
議定シタル朝鮮國各港ニ於テ、日本國人民ハ朝鮮國人民ヲ賃雇スルヲ得ヘシ。朝鮮國人民其政府ノ許可ヲ得ハ、日本國ニ來ルモ妨無シ。

(案では第七款、文は略)
  第六款
議定シタル朝鮮國各港ニ於テ、日本國人民若シ死去シタル時ハ、適宜ノ地處ヲ選ミ埋葬スルヲ得ヘシ。但他ノ二港ノ埋葬地ハ、釜山埋葬地ノ遠近ノ例ニ依ル。
(強調文字文は協議の結果追記されたもの)

(案では第八款、文は略)
  第七款
日本國人民、日本國ノ諸貨幣ヲ以テ朝鮮國人民ノ所有物ト交換シ得ヘシ。又朝鮮國人民ハ交換シ買得タル日本國ノ諸貨幣ヲ以テ日本國ノ諸貨物ヲ買入ルヽ爲メ、朝鮮國指定ノ諸港ニテハ人民相互ニ通用スルヲ得ヘシ。
日本國人民ハ朝鮮國銅貨幣ヲ使用運輸スルヲ得ヘシ。兩國人民、私ニ錢貨ヲ鑄造スル者アレハ各其國ノ法律ニ照シテ處断スヘシ。
(強調文字文は協議の結果追記されたもの)

(案では第九款、文は略)
  第八款
朝鮮國人民、日本國人民ヨリ買得タル貨物或ハ贈與ヲ受タル諸物品ハ隨意使用シテ妨無シ。

  第十款
議定シタル朝鮮各港ヘ、他ノ外国人、日本人ノ籍ヲ借リ居留商買スルハ朝鮮政府堅ク是ヲ禁止ス。
(この案は協議の結果削除された。)

  第十一款
修好條規第七款載スル所ノ日本測量船、朝鮮沿海ヲ測量スルニ臨時<j隋朝鮮人民ノ家ニ宿泊シ或ハ船中當用ノ物品ヲ其地ニ就キ買辨スルヲ得ヘシ。

  第九款
修好條規第七款ニ載スル旨趣ニ從ヒ、日本國測量船小船ヲ放チ朝鮮國沿海ヲ測量スル時、或ハ風雨ニ逢ヒ、或ハ干潮ノ爲メ本船ニ歸ル能ハサル時ハ、該處里正ヨリ其近傍ノ人家ニ安著セシムヘシ。若シ需用ノ物品アラハ官ヨリ辨給シ、後日其入費ヲ完清スヘシ。

(案では第十二款、文は略)
  第十款
朝鮮國ハ未タ海外諸國ト通信セス。日本國ハ年來諸國ト締盟友誼アルノ故ヲ以テ、今後朝鮮國ノ沿海ヘ諸國ノ船舶風波ノ爲メ困難シ漂著スルアラハ、朝鮮國人民、理ニ於テ之ヲ愛恤セサル無シ。該漂民、本國ニ送還セラレンヲ望マハ、朝鮮國政府ヨリ各港口駐留ノ日本國管理官ニ遞付シ本國ニ送還セシム。該官員之ヲ領諾セサル無シ。

(案では第十三款、文は略)
  第十一款
十款ノ章程、及之ニ添ヘタル通商規則共、修好條規ト同一ノ權ヲ有ス。兩國政府遵行シテ違フ莫カル可シ。然レトモ、此各款中若シ兩國人民交際貿易上實地ノ障碍ヲ生シ、改革セサル可カラサル事柄ヲ認ムル時ハ、兩國政府其議案ヲ作リ一箇年前報知シテ協議決定スヘシ。

大日本紀元二千五百三十六年明治九年八月廿四日
理事官外務大丞 宮本小一 印

大朝鮮開國四百八十五年丙子七月初六日
講修官議政府堂上 趙寅熙 印

 

朝 鮮 國 議 定 諸 港 ニ 於 テ 日 本 國 人 民 貿 易 規 則

(案文略)
  第一則
日本國商船日本政府所管ノ軍艦及専ラ通信ニ用フル諸船ヲ除ク朝鮮國ニテ許可セシ諸港ニ入津ノ時船主或ハ船長日本國人民管理官ヨリ渡シタル證書ヲ三日ノ内ニ朝鮮國官廳ヘ差出スヘシ。

所謂證書ナル者ハ船主所持ノ日本國船籍航海公證ノ類ヲ入港ノ日ヨリ出港ノ日マテ管理官ニ差出シ置キ管理官ヨリ此證書類ヲ預リタル證票ヲ與フ。是ヲ日本國現時施行ノ商船成規ト爲ス。船主本港碇泊中此證票ヲ朝鮮國官廳ヘ差出シ日本國ノ商船タルコトヲ驗明ス。

此時船主又其記録簿ヲ差出スヘシ。

所謂記録ナル者ハ船名并ニ本船ヲ發スルノ地名積荷ノ噸數石數共ニ船舶ノ容積ヲ算定スルノ名ヲ船長ノ姓名乗組水夫ノ人員船客ノ姓名ヲ詳記シ船主調印シタル者ナリ。

此時船主又本船積荷ノ報單并船内所用雜物ノ簿記ヲ差出スヘシ。

所謂報單ナル者ハ荷物ノ名或ハ其物質ノ實名并荷主ノ姓名記號番號ヲ詳記シテ記號番號ナキ荷物ハ此ノ例ニアラス報知スルナリ。此報單及其他書類共何レモ日本國文ヲ用ヒテ漢譯文ヲ副ルコト無シ。

(案文略)
  第二則
日本國商船進港ノ積荷ヲ陸揚ケセント欲スル時ハ船主或ハ荷主ヨリ更ニ積荷ノ物名并元價斤量個數ヲ書記シ朝鮮國官廳届書ヲ得ハ速ニ荷卸シ免状ヲ渡スヘシ。

(案文略)
  第三則
船主或ハ荷主第二則ノ免状ヲ得タルノ後其荷物ヲ陸揚ケスヘシ。朝鮮國官吏若シ之ヲ驗査セント要スレハ荷主敢テ之ヲ拒ムコト無シ。官吏亦注意驗査シテ之カ爲メ毀損ヲ致スコト無カレ。
(強調文字文は協議の結果追記されたもの)

(案文略)
  第四則
出港セントスル荷物ハ荷主第二則入港積荷届書ノ式ニ照シ船名并荷物ノ品書個數ヲ書記シ朝鮮國官廳ニ届出ヘシ。官廳ハ速ニ之ヲ許可シ出港荷物ノ免状ヲ渡スヘシ。荷主免状ヲ得ハ本船ニ積込ムコトヲ得ヘシ。官廳若シ其荷物ヲ驗査セント要スレハ荷主敢テ之ヲ拒ムコト無シ。

(案では第六則、文は略)
  第五則
日本國商船出港ヲ要スル時ハ前日正午前ニ朝鮮國官廳ヘ報知スヘシ。官廳報ヲ得ハ嘗テ預リ置キタル證書ヲ還附シ出港免状ヲ渡スヘシ。日本國郵便船ハ成規ノ時限ニ拘ハラスシテ出港スルトモ必ス官廳ニ報知スヘシ。

  第五則
船上所用ノ雜物米粮ノ類ハ輸出違禁ニ係ル物品アリト雖、數目ヲ約計シ備儲スルヲ得ヘシ。

  第六則
嗣後朝鮮國諸港口ニ於テ粮米及雜穀トモ輸出入スルヲ得ヘシ。

  第七則
港税
 連桅檣ノ商船及蒸氣商船税金五圓
 單桅檣ノ商船税金貳圓荷物五百石以上積
 單桅檣ノ商船税金壹圓五十錢荷物五百石以下積  倶ニ附屬脚艇ヲ除ク
(この則は当初日本案には無かったが、三條太政大臣の訓條により急遽追加されたものである。朝鮮側は無論異議無しであった。)

(案文略)
  第八則
朝鮮國政府或ハ人民諸物品ヲ不開港場ノ口岸ニ運輸セント欲スル時ハ日本國商船ヲ雇入ルヽコトヲ得ヘシ。雇主若シ人民ナレハ朝鮮國政府ノ免状ニ照シテ雇役スヘシ。
(強調文字文は協議の結果追記されたもの)

(案文略)
  第九則
日本國船隻若シ通商ヲ許サヽル朝鮮國ノ港口ニ到リ私ニ賣買ヲ爲スヲ該地方官見届ケタル時ハ最寄管理官ニ引渡スヘシ。管理官ハ其所得ノ錢物一切ヲ取上ケテ朝鮮國官廳ニ交付スヘシ。

(案文略)
  第十則
鴉片煙販賣ヲ嚴禁ス。

(案文略)
  第十一則
兩國現ニ定ムル規則ハ今後兩國商民貿易形況ニ依リ各委員時ニ隨テ事情ヲ酌量シ商議改正スルヲ得ヘシ。此カ爲メ兩國委員各調印シテ即日ヨリ遵行セシム。
(強調文字文は協議の結果追記されたもの)

大日本國紀元二千五百三十六年明治九年八月廿四日
理事官外務大丞 宮本小一 印

大朝鮮國開國四百八十五年丙子七月初六日
講修官議政府堂上 趙寅熙 印

 

協議の次第概略

 談判は8月5日から8月24日の調印までを含めて13回に及んだ。そのあらましを宮本小一理事官日記から日順を追って記述する。

 
(宮本大丞朝鮮理事始末 四/1 朝鮮理事日記 2)より、抜粋、概略。

午後3時(8月5日)、講修官議政府堂上 趙寅熙が来る。
 一礼終わって、先ず条規付録と貿易章程の原案を示す。趙寅熙は一覧して「即答できる条もあるが今大臣議政府が集議中であるから、何れ明後日に回答すべし。」と言って帰る。午後5時50分であった。

8月6日、昨夜始めて雨が降る。しかし小雨であった。迎恩門先の名勝地薬水に案内される。良い景観はない。すみやかに館に帰る。

8月7日、昨夜より暴雨。
 午後1時50分に講修官来て協議する。
 京城に日本公使駐留の件は条約(修好条規)にないのでその館舎を築くことは聴従できない、釜山での遊歩は日本10里では深入り過ぎる、清国への陸路往来も国法にて不可、その他はおよそ異議は無い、とのこと。
 よって談判整わず。6時20分講修官帰る。

8月9日、大院君より自画自賛の書画などを贈り来る。
1時30分、講修官来る。
 公使などが京城に駐留するのはこちらが不便である、妻子などを引き連れてくるのも条規外のこと、各所行商は今定める事ではない、遊歩規定は朝鮮里法で指定することと。
 よって談判決せず。午後6時講修官帰る。

8月10日、浅間艦に氷1箱を送る。
午後6時20分、講修官来る。その議論は昨日と同じ。

8月11日、講修官来る。午後6時50分より協議。
 問題は3点。在留使臣のこと。遊歩規定のこと。各所行商のこと。
 明日は在留使臣に関わって修好条規第二款の委曲を知る判中樞府事 申、工曹判事 尹滋承、呉慶錫らを同伴して協議することを求める。

8月13日、午後2時15分、判中樞府事 申、工曹判事 尹滋承来る。呉慶錫は病欠。
「軽薄ながらいささか酒菓を持参せり。差し進めたし。」
宮本「厚意感謝。しかれども用談の終わるまで暫くお見合わせ下されたし。」
(尹滋承は人に酒を勧めるのが好きだが、よく断られるようだ。(笑))
 講修官も入館する。
 申大臣らは、使臣駐京が条約にあるは承知、しかし長期滞在は認められないとの政府の決意である、その他のことは政府稟議の上で議定する、と言って去る。
 講修官も、明日議定案を持って来る、と言って去る。
 午後6時40分終わる。

8月14日、午後に手紙を出して講修官に督促する。
 講修官の返事は、いまだ議政府決定せず夜までかかれば明日早朝に来る、と。

8月15日、午前中に講修官より手紙。会議が延びるかもしれないと言う。

8月16日午後12時5分に講修官来る。協議了結せず。午後4時中食のため講修官退出。午後5時45分再開。
  開港は釜山以外は、全羅道の珍島、咸鏡道の北青に開いてはどうかというのが政府の意向。8時半終わる。
 小遣金子鉄蔵病死。

8月17日、午後金子鉄蔵埋葬、江華永宗城後の墓地。(黒田全権派遣時に事故死した日本兵士の墓所である。)
 午後5時40分講修官来る。日本管理官の通行について。整わず。8時15分帰る。

8月18日午後6時40分、講修官来る。
  宮本、朝鮮政府案の不備を指摘。8時30分終わる。

8月19日午後5時50分、講修官来る。
  宮本は、遊歩規定は東莱府は別であり、もはや政府大臣と直談判をしたいと言う。午後8時50分終わる。

8月21日午後4時40分、講修官来る。
  遊歩規定をめぐって。未だ決せず。
6時30分終わる。
 申大臣に手紙を出して、議政府の諸大臣と直接談判したい旨を請う。

8月22日、訓導玄昔運が早朝から奔走して浦瀬らに語るのに、25日までには必ず協議調印にしたいと言う。

8月23日午後6時30分、講修官来る。馬山測量の事、釜山から東莱府に遊歩することは認めると約束して帰る。

8月24日午後9時、講修官来る。
 修好條規附録と貿易規則を浄書し校合して互いにツ印して事成る。祝して我より酒食を饗応して彼政府よりも一同に配膳して饗応する。
12時に講修官帰る。

8月25日午前10時、議政府に別辞のあいさつ。領議政、右議政、講修官に地球儀をもって世界の形勢について説く。後に、大臣申と修信使金綺秀が来館する。互いに別離を惜しむ。(この時開国論を述べる。)

8月26日京城を発す。(以下略)

 


「米の輸出入」をどう見るか

 さて、これらの中で気になるものは貿易規則の第六則として、
「嗣後、朝鮮國諸港口ニ於テ粮米及雜穀トモ輸出入スルヲ得ヘシ。」
が締結されたことであろう。

 韓国でいわゆる「日帝による収奪」という表現でよく扱われるが、この米などの穀物の輸出入のことをどう見るかということである。
 しかし当時の日本は近代化を進めているといっても、ようするに農業主体の国家であった。その農業国がなぜ朝鮮と米の輸出入が出来るという条約を結んだのか。

 いろんな声が聞こえてきそうだ。搾取、収奪、経済侵略、海外侵略の野望、などなど。
 だが空想で歴史を語るなら、ロマンあふるる叙事詩に限りたいものだ。

 まず条規の貿易規則の日本原案と締結案とを比較して見られたい。
 すなわち日本原案には、
「船上所用ノ雜物米粮ノ類ハ輸出違禁ニ係ル物品アリト雖、數目ヲ約計シ備儲スルヲ得ヘシ。」とある。
 現代語にすると
「船上所用の雑物米などの穀物類は、朝鮮国が輸出禁止とする物品にかかわるものがあるとしても、いくらかを算定して蓄える事が出来る。」ということであろう。

 どこにも米穀物類の輸出入の事は言っていないのである。むしろ、「輸出違禁ニ係ル物品」と言う認識である。

 ではどうしてそれが「輸出入スルヲ得ヘシ」と変わったのか。
 条約談判の経緯を見る前に、そもそも朝鮮の米穀物とは日本にとって何だったのか、という歴史事実をはっきりさせねばならない。

 既に言ったように日本は農業主体の国である。時に地域的飢饉もあったろうが当時の日本本土が朝鮮米を輸入した事は無い。
 それでは、日本人にとってうまい米でもない「粘質が乏しく日本の下等品よりも劣る(陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦介の言)」朝鮮米をなぜ輸入しなければならなかったのか。
 実は朝鮮米を必要とする日本の地方が一ヶ所あったからである。
 すなわち対馬である。

朝鮮米は対馬の死活問題

 従来、対馬と朝鮮は私貿易(明治開化期の日本と朝鮮(1)の冒頭部分)以外に公貿易の章程を結び、宗氏からは銅、錫、胡椒、丹木(赤系の染料原料)を、朝鮮からは木綿、米、その他雑品をもって交易していた。朝鮮は貨幣鋳造や金属器具製造などのために銅錫を必要とし、宗氏は対馬の農地の狭さによる米の絶対量の不足から朝鮮の米をもって住民に拠出していた。
 そのための貿易船は年度内の船数を定めており歳遣船と称した。
 
 しかし江華府で新たに結んだ日朝修好条規第四款には「今ヨリ從前ノ慣例及歳遣船等ノ事ヲ改革シ」とあり、対馬の公貿易を改革せねばならなくなった。これは先述したように条規締結の日朝協議の際に、朝鮮側がこの歳遣船のことを改革対象に入れるように要求したからである。

 朝鮮側の弁によれば、歳遣船が釜山に滞在中は、宗氏の家臣から水夫に至るまで朝鮮側が接待をせねばならず、その費用が頗る多かったので朝鮮政府はこれを厭悪していた、というものであった。
 またこのことと関わって、先述したように(「日朝両国による条約の検討の詳細」の、条約の款に加えるか付録としたい箇条)朝鮮側は「米穀を貿易するを禁ずる事」の検討も要求していたから、これをどう処理するかが問題でもあった。

 後の貿易規則締結の経緯から推測すると、おそらく歳遣船の改革すなわち廃止に持ち込むための朝鮮側の方便の弁であったのであろうが、その時の日本政府としては対応に苦慮した問題であった。
 対馬が内地米だけに頼ることになれば、地理的距離、船の都合、価格、中間業者の介入、そのどれをとっても対馬にとっては不利なものばかりであり、それはそのまま住民の死活にも関わる重大事であったからである。

 朝鮮に向かう途中で対馬に寄港した宮本に対しても、在対馬の長崎県支庁からは対馬の農地状況や経済状況を細かに記した要望書が提出されている。そこには遠くの本土米よりも近くの朝鮮米に頼らざるを得ない状況が次のように書かれていた。

(宮本大丞朝鮮理事始末 十/3 丙子〔明治9年〕6月13日から1877〔明治10〕年1月29日 p18)より、現代読みに。句読点、段落なども筆者による。

・・・藩治の日(幕藩時代の事)は朝鮮米穀の輸入も宗氏の交誼上毎年一万石の額を得るも、素より米穀は彼に於いて輸出の吝なる状あるよりして、尚宗氏の例規を廃せし以来は、交通する所の物品自然と減却し、米穀等最も希少に到る折柄、肥筑防長各地方より輸入するも、絶海人民の不幸と言わん。
  一時不融通の際に当たり奸商等に利を射られ、貧民共生を保つあたわざるの患あるのみならず、通常にありても内地に比すれば一石一円以上の高価となる。これ実に保護上の闕典に出て憫視の余りこれが法を按じ、本県より汽船運転の議を昨年中内務省へ具状の末、本年二月より航海の三菱汽船あり。これにおいてこの諸船すこぶる便宜に渉り、米穀の融通最もその便を得たり。
  しかれども米穀の輸入凡そ一ヵ年二万石に下らずして、多くは現金を以って買収し、その交換する産物はただ海利の二三種に出でず。もし一たび海産不漁に到らば人民たちまち衣食住の窮乏を醸生する徴候を知るへき・・・
  今全島の所産とする米穀僅かに四千石の収額にして三万人の口を糊するには二万石余りの不足となる。ただ麦収の二万余石に到るを以ってこれその外輸を仰がざるのみにて凡そ歳出の歳入を償わざる殆ど十万円に下らず、幸いに士族石代金八万円は自ら輸入に属するを以って目下十万円の不足を補いたる姿に成り行きしも、一旦家禄処分の期に臨まば即ち十万円の不足を来たるは必然なり。
  これ我が県の常に焦慮する一大要点にして、不肖等責任実地負荷し日夜憂い措くべからざるものとす。
  然るを如何せん、歳出入の不足すでに期の如く、民力の疲薄すでに斯くの如く、人智の未開ますます甚だしく、保護これに到りてその策なきものの如し。
  然りといえども該島また皇国の一部分なり。
  これに加え外国と近接したる場所人智開けず物産起こらずして可ならんや。故にその尽くすべきを尽くし、成蹟を前途に期しややその実況の所見を本県に具せんと欲するものは実に該島は全国中の厄介境とも言う程なれば・・・

 事態は深刻でありその窮状を訴える声は切である。対馬もまた皇国の内として早急に解決せねばならない懸案であった。

変通の方法を試むべし

 しかし問題は朝鮮側の意向である。
  寺島宗則外務卿は「朝鮮は人民貿易を許すとも必ず米麦の輸出を禁ずるなるべし。彼すでに先般この事を論及せり。」という認識のもとに、朝鮮との公貿易の復活を三条太政大臣に陳情書をもって訴えている。

 これらのことを考慮した三条太政大臣は、宮本小一にその訓条として「朝鮮国が米麦を輸出スルヲ禁止することを言うならば、輸出を許し対馬人民の年来朝鮮米を食用とする便利を失わせないために、朝鮮国が承諾するなら、公貿易に似た別の方式を考えて試みるように。」と説いている。

 それで寺島宗則卿が作成した貿易章程案の第五則で、苦心して編み出したのがこの日本側原案「船上所用ノ雜物米粮ノ類ハ・・・」なのである。

 もっとも、宮本はかつて黒田全権時の自分の答弁すなわち「米穀の事は、たとえ朝鮮より輸出を禁じるとも、輸入を禁じるには及ぶまい。もし朝鮮が飢饉の時は日本から輸入自由なら朝鮮の人民は飢えから免れる道理である。」との論法をそのまま使った。

 これは単なる言い訳ではない。実際の事としてこの頃の朝鮮は幾度か飢饉に見舞われている。

飢餓を放置する朝鮮

 例えば、明治7年8月に朝鮮は冷夏と暴雨と台風のために飢饉になったことが記録されている。(対韓政策関係雑纂/日韓尋交ノ為森山茂、広津弘信一行渡韓一件 第三巻 近況雜聞 p51 )
  それによると、森山茂たちは釜山草梁公館で雇い入れている朝鮮人たちまでが腐敗したものを食べているのを見咎めて、これを問うたところ、米麦共に欠乏し自分よりも下の者は麦の煎じ湯で枯腹を癒していると実に困難の極みであることを訴えた。それで森山たちが朝鮮側官吏に、我が国から今数万石の米を運搬してこれを貧民たちに与え或いは朝鮮政府に貸し与えたらこの窮状を脱する事が出来ると言うと、朝鮮側は、今貴国の救助を得るなら一時の痛苦を逃れることが出来るが、もし今度貴国が飢饉の災いになったときに我が国が同じことをして救い酬いることは出来ない。だからそれは受けられない、これは天災なのだから、と答えた。森山茂たちは、なんと頑愚甚だしいことか、と嘆いている。
 また、他の年の飢饉の時の日本側の申し出に対し、朝鮮側官吏はそしらぬ顔で全羅道の方は豊作だったので心配ない、と答えている。しかし、国の実情を外部の者に知られるのを極度に厭う民族であるからして虚言の疑いがある。
 フランス人宣教師シャルル・ダレが「朝鮮事情(高文研出版)p64」で次のように言っている。

 1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
 しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。

 これはだからと言って朝鮮政府の人間が無血非道の人非人ばかりであると言うわけでもなかろう。まず大院君の京城王宮再建による国家財政の窮乏こそが原因であったろう。また、儒教の礼節として、受けた恩は必ず返さねばならない義務が生じるという儒教礼義的な観念も影響していたろう。
 しかし何と言っても朝鮮は貧しすぎた。朝鮮の主要産物は米などの穀物類である。それが凶作によって収穫できなくなったら何をもって外国から米を買えば良いのであろうか。ましてや朝鮮は貨幣あって無きが如き物々交換の国である。虎の皮や豹の皮でいったいどれほどの米と交換できたろうか。
 もちろん森山茂たちからすれば、何と頑固で愚かな者たちか、と見えたのは当然の事である。

宮本小一の方針

 とにもかくにも、国交回復なった同盟国の緊急時に手を差し伸べるのを当然のこととし、同時に平時は船の備蓄米ぐらいのことは朝鮮米を購入する事は許されてもよかろう、ぐらいの論理で米穀問題の談判にのぞむのが宮本小一の方針だったようである。
 実際、対馬ぐらいの人口なら行き来する船の備蓄米を廻すぐらいで、ある程度は賄えたと思われる。

 以上の事を踏まえて、この貿易規則案の第五則をめぐっての協議経緯を次に記述したい。

米穀についての協議

(宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/1 明治9年8月5日から明治9年8月11日、宮本大丞朝鮮理事始末 三/2 理事官講習官対話書/2 明治9年8月13日から明治9年8月24日)より抜粋して現代読みに。名称、句読点、括弧は筆者による。

第一号
明治9年8月5日午後3時25分、日本國理事官宮本小一、朝鮮國講修官趙寅熙との対話。
(略)
宮本「このたび御談判いたすべき事は、修好条規付録と貿易章程との二件なり。貿易章程の方、御分かりやすかるへしと存ずるにつき、先ずこれをお話いたすべし。」
(略)
 第五則に到りし時。
宮本「貴国に旱魃の患いあり凶歳にあう時は、我が国商民より五穀を貸し進むべし。もっとも利息を出されば2年3年にても差支えなし。」

「是は実に御厚意の事なり。」
(略)


第七号
明治9年8月16日午後12時5分、講修官来たり、理事官との対話。
(略)

「(略)当春すでに江華にて通商章程の細目を議すべきとの御談判もありたる事ゆえ、我が政府にて御同意いたされ、拙者検印をツしたり。但し第六則(案では五則)は付箋の通り改正いたしたし。米及び雑穀の輸出入を得るは唯凶年のみの事なりや。」

宮本「既に申大官と御相談いたしたるもあり。是は平年といえども輸出入を得べきとの趣意なり。」

趙「しからば港口粮米絶乏の時、輸出入を得るべし、と書き改めたし。また米粮を貴政府より借り入るるべし、との文を書き加えたし。」

宮本「港口粮米絶乏の時と限ることは相成らず、また政府より借り入るる時は借主の為め大いに損害あり。ゆえに商人より借り入るの文意に書きたるは貴国の利をはかりたるものなり。貴官には外国の事情ご存知なきゆえ此れの如き御論を発っせられるなり。」

「しからば凶年のことは御省きくだされたし。」

宮本「拙者はなるだけ御談判の取り纏まることを希望いたすにつき此の分は御同意申すべし。」

「通商章程の一冊はこれにて決定なり。」
(略)

朝鮮の方が積極的だった

 これだけである。13回にわたる長期の談判の中で、貿易規則 第六則(案では五則)のことは実にあっさりと決定したものである。

趙「是は実に御厚意の事なり。」
趙「・・・但し第六則(案では五則)は付箋の通り改正いたしたし。米及び雑穀の輸出入を得るは唯凶年のみの事なりや。」
趙「しからば港口粮米絶乏の時、輸出入を得るべし、と書き改めたし。また米粮を貴政府より借り入るるべし、との文を書き加えたし。」
趙「しからば凶年のことは御省きくだされたし。」
趙「通商章程の一冊はこれにて決定なり。」

 こうして趙寅熙の言葉を並べて見ると、文案を積極的に変更しているのは朝鮮側のように思われる。

 「凶年不作の時には日本から穀物を借り入れたい。」
というのが、やはり本音ではなかったろうか。

 なお、調印締結したこの第六則の漢文は、
「嗣後於朝鮮國港口住留日本人民粮米及雜穀得輸出入」
である。
 日本文と違って、微妙に解釈が振れる文であるようだ。もっともそれが漢文の特徴でもあろうが。

 いずれにしろ日本政府は、かつて江華府で条約調印ぎりぎりになって申大臣が出した「米穀を貿易するを禁ずる事」の検討も考慮しつつ、それでも対馬のために苦心して日本原案を作ったのであるが、いざ対談に及ぶとそれは全くの杞憂であったのである。

 よってこの時点での米の輸出入をめぐっての日朝両政府の認識は、
日本・・・対馬のための朝鮮の米。
朝鮮・・・凶作のための日本の米。
 ということだけだったと言えよう。

 つまり、穀物の輸出入のことは日本側は遠慮がちの事であり、逆に朝鮮側こそ積極的だった(ただし借り入れを)と推測され、すなわち「日本の海外侵略の野望の布石」などと言う者があれば、それは想像の域を越えてもはや妄想でしかないと結論。

 

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