明治開化期の日本と朝鮮(10)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

漢城の地図(1部) 朝鮮政府が所有しているものを、宮本が借用して随行の日本陸軍士官が複写したもの。
(宮本大丞朝鮮理事始末 四/3 朝鮮都府略図)

 

索 引

日本による朝鮮近代化への働きかけ---社会、科学、地理、医学、法律、軍事、外交
耳目を覆う国に新聞を寄贈する
旧憲(古い掟)を守ることが国体
近代化には程遠く
人もよかれ 我もよかれ 人より我がなおよかれ
あっさりと修好条規文を無視
朝鮮国王に謁見
文化の国?
礼儀礼節の国?

 

日本からの朝鮮近代化への働きかけ

 いかに朝鮮国を近代化させて安定地域とするかということは、明治開化期からの日本政府の意向であったようである。それは黒田全権派遣時からはいよいよ明確となり、日朝修好条規締結後はもはや同盟国と見做してその働きかけに力を入れるようになった。それは、直接の対話、また贈呈品、あるいは来日した修信使に日本の近代化への取り組みを見せる、また医療を直接現地で実施してみせる、などの様々な形をとった。
  以下、黒田全権派遣から宮本小一の京城派遣まで、わずか半年の間にも日本政府がどのように働きかけていたかを整理して記述したい。

・政治・経済、科学など
 野村・宮本による富国強兵論、貨幣経済論、西洋列強の戦略論。国旗の必要性について。蒸気船使用の勧告。
 黒田・井上による「新聞の見方」(笑)
   以上黒田全権ら江華島派遣時。
 東京博物館見物、紙幣寮見物、写真撮影、工学寮製作所見物、女子師範学校見物、開成高校教場見物、元老院にて議事堂一覧、花屋敷で電気器械などを見物、大阪造幣局見物(未見)、修信使に石炭を見せる。
   以上修信使の来日時
 東洋新報、瀛環史略、博物新編、地球興地全図、興地誌略などを贈る。
 石炭採掘法の書簡。
   以上宮本小一、京城で。


・地理
 亜細亜東部図並びに朝鮮国図を贈る。
   以上黒田全権ら江華島派遣時。
 橋爪地球儀、地球図、亜細亜東部図、朝鮮全図、朝鮮全図付録記聞共、高麗西岸塩川、高麗小陵川之図、朝鮮東海岸図を贈る。これら朝鮮の図の内、海岸図などはフランスが測量したものと日本側の測量によるものであろう。
   以上宮本小一、京城で。
 かつて雲揚号が水を求めて江華島に接近したのは、このフランス製の海図には江華島海岸だけの水深が記載されていたからであった。


・医学
 日本政府による種痘公布の勧め。釜山における近代医療の実施、種痘の実施、東京順天堂において種痘を教習。
  「書写官 朴永善、順天堂に到り種痘法を伝習して還る。書写官とあれども、医員を兼ねる者ならん。その行李多く薬を蔵するを見る。」(朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 首巻 p24 6月16日)
 
なお韓国教科書では種痘法を日本で習得したことは書かれていない。
   以上修信使の来日時。
 西医略説、全體新編、内科新話、婦嬰新説(2冊目)などの書籍を贈る。
   以上宮本小一、京城で。


・法律
 「万国公法」を贈る。
   以上宮本小一、京城で。


・軍事
 回転砲(当時最新兵器)、最新式短銃・小銃(当時朝鮮の銃は火縄銃である。)を贈る。
   以上黒田全権ら江華島派遣時。
 歩兵、騎兵、砲兵の訓練を見せる。兵学寮で大砲空砲、火矢、水雷、その他兵学教場を見せる。近衛兵営の砲兵本廠を見せる。
   以上修信使の来日時。
 砲術全書、砲術新編、砲術訓蒙、砲術小学、砲術陣中必携、砲術提要、砲熕使用野砲之部、砲兵操典全、砲兵山砲之部を贈る。
   以上宮本小一、京城で。
 黒田全権の江華島派遣時に士官からの報告として、江華島近辺の要塞にある砲や砲台の構造が極めて旧式であることを述べている。故にそれらのことを考慮して「砲」に関する書を贈ったのであろうか。


・外交
 修信使をイギリス・イタリア両公使と面接させる。
   以上修信使の来日時。
 西洋国との外交を勧告。西洋人難船などの漂流民保護を勧告。在ロシア朝鮮人からの手紙を渡してロシアの事情を説明。
   以上宮本小一、京城で。

 上記のうち宮本外務大丞が京城に行った時の贈答品は朝鮮政府に向けてのものである。国王や大院君、領議政たち、世話になった官吏たちにも種々贈り物があった。
 その内で目立ったものでは、
 医官 洪顕普へ「全体新論」2冊が贈られている。また仁川府使に地球儀が。なぜか禮曹画員には石炭油(石油)と荷車2輌が、そして東莱府史にカステラ、訓導 玄昔運へは胡椒30斤や和酒(清酒)を半樽というのがおもしろい。

 

耳目を覆う国に新聞を寄贈する

 なお上記の「政治・経済・科学など」の項の宮本外務大丞の時に寄贈した「東洋新報」とは日本の月刊新聞(漢文 岡本監輔編 明治9年7月1日初刊)である。
 新聞の寄贈はこの後も続けられることになり、同年10月に朝鮮の外交官ヘ漢文新聞紙を贈与するために、次のような上申がなされている。

 「朝鮮國ニハ従来新聞紙ナク、時々清國ヘ使スル者、聊葉携帰スルノミニテ、外國近事ノ形況知ルモノナク恰モ掩耳閉目ノ姿ニテ人智開發遠キト云フヘシ。故ニ交際上迂遠ナル事ノミニ付、釜山港ニテ彼交際官ヘ我『東洋新報』及ヒ清國ノ『萬國公報』『申報』等、幸便毎ニ差送リ候ヘハ、自然彼國人ヲ提醒誘導スルノ裨益ト存候間、夲省経費ノ内ヨリ右三種ノ新聞紙各壱部ツツ購入差送リ候様致度、曽テ新聞紙購入ノ儀ニ付テハ御達ノ趣有之候ニ付、右ノ趣大蔵省ヘ御達置有之度此段上申候也。 十月十八日 外務卿寺島宗則」(「朝鮮國外交官ヘ漢文新聞紙贈与ノ儀上申」 句読点、と『 』は筆者による。)

この上申は、11月に聞き届けられている。
 なお、「万国広報」はキリスト教宣教師が上海で発刊して西洋の科学や新知識を広く紹介した。また「申報」は上海で最大手の新聞である。

 しかし、「あたかも耳を掩い目を閉じた姿」とは、言い得て妙である。
 宮本外務大丞が京城にあるときも朝鮮側に西洋国との交際を強く勧めたのであるが、まるで聞く耳は持たなかった。

 以下、その時の対談の様子を宮本小一の報告から現代語に直して記述する。

旧憲(古い掟)を守ることが国体

英国公使及び各国公使の問いに応じ説話
(宮本大丞朝鮮理事始末 十/4 慶応4年3月から明治9年9月 p37)

 調印が終わり条約が成ってその挨拶として議政府に赴いた。(8月25日)
 領議政の李最應(太政大臣に相当する。国王の伯父にして大院君の兄にあたる人で老人である。)、右議政の金炳國(右大臣に相当する。左大臣は欠員とのこと)、講修官の趙寅熙(条約談判の相手)の3名の列席の所で世界の形勢について熱心に説いた。
 この時も地球儀を持ち出し、世界図、アジア東部図などを示して説いた。

一、蒸気船、電信機、鉄道があってからは天下の形勢一変し、たとえ万里の距離があってももう隣であること。

一、現今は世界に強大国が6、7国がある。春秋の末の戦国七雄と異ならない。しかしながら相互に交通往来し交際を重んじ礼節を尊び、戦争とならない間は総て和親を重んじる。

一、朝鮮は清国、韃靼(モンゴル)、日本の中間に立ち、アジア海に突出し、四方に通じて到達する重要な地勢位置であること。

一、朝鮮国太祖の遺誡として「懲録」に「西は礼を支那に失うなく、東は信を日本に失うなかれ。然れば朝鮮保つべし」とある。これは隣好を重んじる意味の誡である。今、欧米各国の船舶はアジア海に輻湊し、その属地は各所に散在する。いずれも隣邦でないことはない。故に各国に対し交際しない道理はない。

一、我が国の言を疑惑し、かつ外国の形勢を熟考し、後に交際を開こうと願うならば、まず貴国の人の内で信用すべき者2、3名を世界各国に遍歴させるべきである。日本政府から通訳案内人を出す。欧米州の形勢を一覧されたら我が国の言うことが妄言でないことを信じられるであろう。
 この時、彼らはひそかに話し合い「なるほど、よき考えなり」と言っていたことを、後に通訳の浦瀬が述べた。

一、支那は近来国政が衰乱し頼むに足らず。且つ又々英国と一難件を起こした。この結末がどうなるかは未だ予想できない。


 これらの各説を取り交えて懇々と反復して説いた。
 しかし議政府は人の耳目を憚るゆえか、更にその可否の応答なく唯々として聞き流すのみであった。質問といえば、地球について二、三のことを問うのみ。

 

 その日の夕方になって、大臣申と修信使金綺秀が来た。
 今朝、議政府で懇説あったことを謝し、ただお互いの理解が尽くせなかったことを惜しんだ。

 よって更に弁論し、ぜひとも各国と交際しないなら朝鮮国は存続することが出来ないこと。朝鮮の軍備は観るに足らないので、ただ交際を開いて国の楯とするだけであるとの道理を説く。

 「我が国は精神と旧憲とを維持確守して毫もいまだ変乱しないことを以って立国の本体としている。今、一度この本体を崩せば万事瓦解して政憲は確立しない。ゆえにどうしてもこの旧憲は破り難い。願わくば、現今貴国と更に和親を厚くして信約を重ねたのであるから、貴国は各国と交際すれば我が国体の在り方も各国に説明し、ほどよく庇護して我が国の憂慮とならないように処してもらいたい。このことは我が政府の真意にして深く望むところである。」

「洋夷侵犯不戦則和主和者賣國賊(野蛮なる外国人が我が国を侵犯するのを戦わない、すなわち和主和者は売国賊である。米軍艦との戦闘後に、大院君が建立したと言われている)」

 ちなみに、近来朝鮮政府は各道に命じて左図のような碑文を建てさせている。今、王宮の門外の横路にも歴然として建ててあるを現に見た。

 このような堂々たる号令を石に刻み国民と誓ったからは今さら改変撤廃することは出来ず、ゆえに政府から外国との交際を開き難い意味を含み、本文のように述べたのであろう。つまるところ、下民が外国人に対して粗暴のことがあるのも、この厳令に基づくのである。

宮本「日本政府は貴国の依頼を受けなくとも庇護すべきことは周旋するものである。早く我が国に留学生を送るべきである。これは外国と交通するのではないから差支えは無いであろう。この学生が我が国にあれば自然と外国の形勢をも熟知し、開国論も起こる端となるであろう。その他は今度の条約に外国漂流民を受け取るべき旨を記したような事柄は、いずれも日本が貴国を庇護する一端である。しかし自分が論ずるように、各国と交際を開かない間は貴国の存続を見ることは難しく他に良策の考えはない。」

「しかしながら何分ともこの行く末を依頼したい。」

対談の大要は以上のようなものであった。

9年9月  宮本小一

 

近代化には程遠く

 この会談からも明らかなように、朝鮮は日本と修好条規を結んだからと言って、政府挙げて近代化に取り組もうとしているわけではない。また、開国をしたわけでもない。もともと交際が三百年にわたって続いていた日本との間に生じた齟齬を解消して関係改善をしただけであって、日本以外の、まして西洋国と交際するつもりはさらさら無く、むしろ外交的には日本を楯として利用しようとする意図があるのみである。

 当時の朝鮮の国体は「旧憲」すなわち古い掟を守ることにあった。
  かつて明治8年9月に森山茂理事官が帰国せんとする時に、朝鮮朝廷は別遣堂上知事 金継運を派遣して説得に当たらせようとしたが、その時にこの正一品という大臣クラスの高位の老人は、「(旧例を破って)新例を始めれば我が国の『福』が逃げていくのである。」と言った。
 朝鮮という国は、王族、両班、常民、下民という身分の上下の秩序体制を柱とする儒教倫理的掟を守ることで国を保ってきたのであるが、それは殆ど信仰に近いものではなかったろうか。
 ゆえにこの体制に何らかの変化をもたらす要因は断然排除すべきものであり、一切の改変・改革はせずに只管現状を維持するということであった。

 これは華夷秩序的考え方についても何ら変化は無く、宮本が京城に着いて禮曹に赴いた際に、朝鮮側が持ち出した問題はまたも「皇」の字問題であった。来日した修信使に託した日本の書簡に「日本国皇帝陛下」とあったのを、これは約束違反であり「日本国政府」とするはずではなかったか、というものであった。宮本は、なんらそのような約束はしたことは無く、それに修信使が受け取っているのになぜ今になってそのようなことを問題にするのか、と答えたことがあった。

 耳目を塞ぐ国にどうやって世界情勢を知らせるか、近代化に向かわせるか、日本側の実に苦心した所であったろう。

 

人もよかれ 我もよかれ 人より我がなおよかれ

 ところで、日本が朝鮮を近代化させたのは日本のためであり、別に朝鮮のためにした国策ではない、という意見をよく聞く。
  自尊心強き韓国の人などから見れば、それはそうであろう。また、日本人でもそう言う人がいるが、そのような割り切った見方しか出来ない人に日本の昔からの言葉を紹介したい。

 「人もよかれ 我もよかれ 人より我がなおよかれ」

 今日に通ずる日本人の一貫した心情であると思う。
 国策も結局は人が建てるのであるから、そのような心情が反映していたと思うのが自然である。
 ここまで記述した数々の史料はそのことを如実に語るものでもあると筆者には思われる。

 

 さて話は前後するが、宮本小一外務大丞たち一行が京城に滞在したのは7月30日から8月26日までである。その間の日朝修好条規付録ならびに貿易章程締結に向けての協議内容も含めて、筆者が印象に残ったものを記述していきたい。

あっさりと修好条規文を無視

 明治9年(1876)7月30日午後2時半、宮本一行は京城の清水館に到着した。
 宮本小一は1日たりとも時間を無駄にしてはならないと、条規付録ならびに貿易章程を協議するための準備にかかった。

 修好条規の第二款に、「日本國政府ハ・・・使臣ヲ派出シ、朝鮮國京城ニ到リ禮曹判書ニ親接シ、交際ノ事務ヲ商議スルヲ得ヘシ」とあるように、まず協議相手である礼曹判書に会わねばならない。朝鮮側官吏にその日時を問うた。

 7月31日、午前中に官吏より、午後2時に清水館を出発するようにとの返事が来る。宮本は大礼服で随行員は小礼服で、城中光化門右にある禮曹衙門に赴いた。しかし待たされて空しく1時間余りを過ごす。

 この礼節を重んずると自認する国の人々の、時間に対してのルーズさは甚だしいものがあった。翌日1日には国王謁見があったが、この時も朝6時に館を出発するようにと言う。しかしその時になると官吏がやって来て、朝廷のほうの都合があるのでしばらく待ってくれという。そのまま待つこと数時間。伴接官が迎えに来た時はもう9時であった。また謁見後に司訳院という所で宴饗があるとのことで、謁見が終わって後に案内されるまま司訳院に。しかし朝鮮側の人間が誰も来ていない。それでまた待たされること数時間。会場にようやく朝鮮側の者が集まりだした時はもう午後の1時になっていた、という具合にである。

 31日に禮曹判書 金尚鉉らに面会した時のやり取りも、筆者には気になることがあったので以下に記述したい。

(宮本大丞朝鮮理事始末 三/1 理事官礼曹判書対話書)より。抜粋して現代語に、()は筆者。

理事官(宮本小一大丞)、天皇陛下の日朝修好条規批准の書を渡す。

判書「拝見した。早速我が朝廷に献納する。」

宮本は委任状を判書に示した。
理事官「外務卿の書簡をもって私が誰であるかを知られたい。また、委任状をもって理事官の権限を知られたい。閣下にもさだめて貴朝廷より委任されたと思う。その書を拝見いたしたい。」

判書「委任状は拝見した。しかし礼典の事は礼曹に関するが、新規の事柄に関する所のものではない。そのことは既に朝廷より人選をして講修官となして同官より万事協議に及ぶものである。」

理事官「修好条規文面(第二款)に依れば、判書に万事御談判いたすべき筋であるが、ご多事につき貴朝廷が別に人選することがあるのはもとより止むを得ない。しかしながら、その講修官の任とはどのような権限を授けられているかは分からないが、一事が万事に貴政府の裁可を仰ぐというような類のものなら協議は大変難しい。」

判書「刑曹の参判(次官クラス)である趙氏をもって講修官とする旨すでに朝廷の教令がある。何れ趙氏より面晤いたされるべし。」(後略)

 実にあっさりと日朝修好条規文を無視するものである。
 しかもこの第二款、当初の日本側文案では「秉権大臣ニ親接シ」と、権能を掌握した大臣であることを記していたのを、朝鮮側が「それではその指すところが判然としないから、以前より日本との交際は『禮曹判書』なのでそう改めたい。」と申し出たので日本側も承諾して「禮曹判書ニ親接シ・・・」と変更したものなのである。

 自分の都合によってどのようにも変更する。
 国と国との重大なる約束である条約ですら簡単に左右する。時間にもルーズ。つまり「いいかげん」なのである。
 これが朝鮮クオリティかと、まずこの段階で宮本小一はそこまで感じ取ったろうか。簡単にそれを受け入れた宮本は少し人が良すぎるのではなかろうか。もしこれが朝鮮人の性癖や交渉術を知り尽くした森山茂であったらどう対応したろうか。

 しかも後に明らかになるが、講修官である趙は全くのメッセンジャーも同然の男だったのである。一々朝鮮政府の裁可を仰ぐために王城と清水館を行き来するだけと言ってよいほどの。

 

朝鮮国王に謁見

8月1日、宮本は朝鮮国王高宗に謁見。
 事前に朝鮮側から国王への拝礼作法をどうするかを尋ねられたので、修信使が天皇陛下謁見の際に「自国の作法で拝礼したい」というのでそれを許したので、宮本も自国の作法すなわち粛礼(立ったまま深く一礼するもの)でしたいと答えると、朝鮮側も了承した。

文化の国?

8月2日、講修官との協議を書面で催促する。また、学校、救護院(貧者病人の福祉施設)、書画店舗、植木店舗などを見学したい、書画骨董品を見たいと文書で要望する。

8月4日午後、訓導 玄昔運が来る。今朝京城に着いたと言う。「講修官は明日の昼12時に来る。また学校は見るべきもの無し。書画店舗、植木店舗というものも無い。書画は非売品なので求めたいのなら他日集めて一覧させる。また救護院も無し。しかし従来は『活人署』と言うものがあって貧民のうち病になった者を集めて治療していたが、今は有名無実であって見るべきものは無い」と言う。

 書画については、統治時代に出版された「李王家博物館所蔵品写真帖 1912年 李王植蔵版」の改訂版絵画之部(昭和8年出版)の序文に李王職事務官 末松熊彦が次のような文を寄せている。現代仮名、強調、( )は筆者。

「本書は・・・今回又これが改版に際し、挿図の過半を差し替え、もって大いにその面目を改めんことを期したりしが、いかんせん朝鮮絵画には名画と称せらるべきもの、現存せるもの殆ど無く、ために吾人の計画を満足せしめ得ざるに至れり。もっとも三百年以上遡れば相当名筆多かりしが如きも、その以下にありては概して言うに足らざるもの多し。且つ李朝に至り朋党相競い、政権の争奪と苛斂誅求は生活の不安定を来し、美術の尚好心を喪失せしめ、又儒教主義の徹底は美術の根本たる絵画の描出者すなわち丹青家(画家)を蔑視し、古美術の保存の如きは時人考慮の外にして之を捨つる事、弊履(破れ靴)の如かりし。したがって朝鮮には古名画の現存するの甚だ寥々たるの現況に陥りしは、また止むを得ざることに属す。今仮に本館に収蔵せるものと総督府博物館に所蔵のものとを除けば、朝鮮には朝鮮画の絵画らしき絵画なしと言うも過言にあらず。しかも本館所蔵のものといえども名画甚だ少なく、ために本書に於いても優良なる朝鮮画の多数を紹介するを得ざるは甚だ遺憾とするところなり。しかれども凡そ世界各民族特有の美術的価値なるものは、畢竟その郷土色にありと言うべし。されば一般的には朝鮮絵画は貧弱、鑑るに足らずとして排斥せらるるの風あるも、朝鮮画には又他民族の想到し得ざりし幾多独特の長所あるを看過すべからず。特に近代に於ける朝鮮画は枯萎凋落の極みにあるをもって之を昔日の芸術と比較する時は遺憾極まりなきもあるも、奪う可らざるその郷土色に到りては他山の石をもって我が玉を磨くに足るべきものあり。依りて本書は朝鮮独特のその郷土色を味わい、その趣致を究ける上において相当有力なる参考資料として必ずや負う所多かるべきを信じて疑わざるなり。」

 

礼義礼節の国?

8月5日、館内にいる朝鮮側官吏(差備官)たちの人数が多くて騒がしい。部屋の小窓から覗き込んだり、あるいは集まって歌ったり、賭博をして言い争いをしたり、甚だしく厭うべき者たちである。よって、人数を減らすように申し入れた。

 まったく大した礼義礼節の国である。しかもこの官吏たちは協議の陪席傍聴を許される程の位の文官なのである。

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