明治開化期の日本と朝鮮(8)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

朝鮮信使来朝の図 歌川芳虎筆  多賀甚五郎  明治9年

索 引

 朝鮮修信使来る
 「清道」「巡視」の旗について
 陛下への拝礼は朝鮮式で
 日本の文明開化を見る
 朝鮮国旗いまだ定まらず
 釜山における初めての近代医療

 

朝鮮修信使来る

 2月28日に黒田・井上両大臣一行が帰国してから1ヶ月後の3月28日、釜山草梁公館に朝鮮政府から修信使を日本に派遣する旨の決議があったことが伝えられた。
 4月10日には訓導 玄昔運(どうやら嘘はばれなくて命拾いしたらしい。)が来て修信使人員名簿と、自国の船では迅速な航海ができないので日本の蒸気船を借用したい、との申し込みを添えて提出した(朝鮮国修信使来朝ニ付東莱府使口陳書并訓導ヨリ贈ル条陳書)

修信使 金 綺秀 撮影 明治9年6月9日 内田九一写真館

 それによればメンバーは、
 修信使禮曹参議 金 綺秀 正三品
 別遣堂上嘉善大夫 玄 昔運 上々官(おおー、命拾いしたどころか晴れの修信使お供ではないか。)
 別遣漢学堂上嘉義大夫 李 容粛 上々官
 など上官以上13人、中官49人、下官18人の計80人である。(しかし実際に来日したのは76名。)

 草梁公館職員は直ちに帰国してそのことを上申した。
 日本政府は、驛逓寮(現在の郵政省のようなもの)所轄の「光龍丸(蒸気船 617トン 船主 三菱・岩崎彌太郎)」を派遣することにした。
 一行が総勢80人ということは、徳川時代の300〜500人の規模に比して大幅縮小と言えよう。おそらく、日本の蒸気船を使用することも含めて2月の宮本・野村らの話がそれなりに通じたと思われる。
 かつて、日本の外交官が洋船(汽船)で草梁公館に来ただけで、「昔の和船で来い。」と文句を言うほど西洋文明を頑なに拒絶していたのが嘘のような変わりようである。日本側は万事遺漏のないようにと、迎接官を編成し医者(軍医)まで船に乗せて釜山に送っている。

 5月7日大阪港→神戸で迎接官と医者たちを乗せて10日発→釜山着13日。
 22日に修信使を乗せて釜山を出発。23日午前8時に馬関(下関)着、上陸して一泊。
 24日午後4時発、25日夜12時神戸港着。26日朝上陸一泊。27日午前6時神戸港発、29日午前6時過ぎに横浜港着、上陸して横浜停車場へ。
 10時45分発の汽車に乗って東京新橋停車場に11時43分着、旅館に向かう。

 修信使一行を迎える日本側は、「旅館での接待の心得書」などと細かく規定しているが、その中で、
 「交際は親密を要するものなれば使員に対しなるべく温和にして懇篤を主とすべし。その意向を束縛するなかれ。」とあり、
 「遊覧同行を請求する時は劇場花街を問わず彼の求めに応ずるべきである、しかしこちらから教唆して散財させたり汚行醜態に至るようなことがないように、」となかなか行き届いている。
 しかし実際に使員の中に花街にまで行った者があったかどうかまでは分からない(笑)。また、
 「旅館の門は午前6時開門、午後9時閉門。ただし上官以上の出入りは刻限にかかわらず正門を開いてこれを通し、中官以下は小門を開いて出入りさせること。」とある。(ってこれ門限の意味ないだろ(笑)。)
 ようするに日本側はどこまでもオープンということである。これは後に宮本小一たちがソウルに行った時は、宿で缶詰状態だったのと対照的である。

「清道」「巡視」の旗について

 なお、「迎接官の心得書」なるものに気になるものがある。(「朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 一/2」p1)
「一 彼レ清道巡視之旗ヲ持来ルハ是ヲ拒ムヘシ・・」という項である。

 古来、朝鮮通信使が日本で行装して行進する時には「清道」「巡視」と大書した旗を先頭に立てるのが常であった。

朝鮮通信使 年代不詳
「海表異聞 巳 廿二 大尾  朝鮮人来聘記」より

 どうやらこの旗は日本の伝統行事にも取り込まれたようで、例えば「博多山笠」にはこの旗(「清道」のみ)を掲げる伝統があり、「せいどうばた」と呼んでいる。もっとも伝統といっても江戸時代末期頃からはじめたらしい。清道とは「天子の行幸の道を払い清める」「先払い役」などの意味があるとしているが、そのような説明が当初からなされていたのかもしれない。

 しかし、明治の外務省はもっと深い意味があることに気付いていたように思われる。すなわち「清道」「巡視」とは、「清国皇帝の行幸の先払い役」として日本を「巡視」するという意味であると。
 なぜ「迎接官の心得書」にその旗を拒む項がわざわざあるのか。それを説明した公文書は見つからないが、推測としては以下のようではなかろうか。
 朝鮮は清国の属国である。(その理由と根拠資料はリンク先を見られたい)
 いわば清国の手先として「巡視」の旗を掲げて中華思想・華夷秩序に従って、夷狄の国である日本に巡視に来るという意味でもあったろうか。

 或いは又一説には、幕府時代に江戸にまで招いていた朝鮮通信使を、文化8年(1811)の来日の時には対馬で国書交換と変ったが、それは接待費用の問題のみならず、「清道」「巡視」の旗の事が問題となり、つまりは、「巡視」は宗主国が属国を巡視するとの意味であり、「清道」とは通信使の通る道を清めよという意味であると、時の老中松平定信が指摘したことによるという。

 いずれにしろ、修好条規第一款にあるように「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ。」とした上は、あからさまに清国の属国として巡視役を勤めるかのごとき「清道・巡視の旗」を掲げることは、日本側としても拒まざるをえなかったであろう。
  もっとも、訓導 玄昔運は、日本の迎接官のそのことの問いに対して、あっさりと「全く携持いたさず。ほかに小旗のみを用いるだけで、『清道』『巡視』の旗は一切ない」と言っている(「朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 三」p42)
  前もって何らかの話し合いがあったのかもしれない。実際、冒頭の錦絵にも「令」という字の旗が描かれているだけである。


陛下への拝礼は朝鮮式で

 さて、6月1日には天皇陛下謁見があった。皇居昇殿をした者のうち謁見が許されたのは金 綺秀だけであった。この時の日本の作法は、立ったまま深く一礼するもの(粛礼)であったが、金 綺秀修信使は、拝礼の作法だけは自国で王へ拝謁する時の礼でしたいということで、膝を着いて頭を地に貼り付けて立ち上がるという拝礼を4回する方式で行った。(朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 四 六月五日別記 宮本大丞朝鮮理事始末 四/1 朝鮮理事日記/1)

 なお、陛下への献上品として次のものが贈られている。
 雪漢緞(つづれ)、虎皮、豹皮、青黍(キビ)皮、白苧(アサ)布、白綿紬(つむぎ)、白木綿、采花席(むしろ)、鏡光紙、黄蜜。

 後に日本の朝廷からは次のものが贈られた。
 刀、漆器、薩摩陶花瓶、筆、赤地錦、紅白錦、甲斐色絹、越後白縮布、越後生縮布、奈良白曝麻布

 

日本の文明開化を見る

 また、修信使らが見学したもの、出来事などは次の通りである。(各所での饗応は記述を省く。)

・神戸にて人民が祝賀として果物大籠一個を贈る。
・神戸では祝賀として市中に一般国旗を飾り、夜には街頭に紅燈を並べて歓迎の意を表す。修信使一行感激する。
・東京博物館見物(数回)。
・吹上禁園招待。
・演芸者を招いて演技を旅館で一覧。
・浜離宮見物。
・手品師を旅館に招いて演技、信使喜ぶ。
・紙幣寮見物。
・上野公園、浅草本願寺観音境内にて象の見物。
・花屋敷で電気器械などを見物。
・牛肉2百斤、鶏百羽、生魚百尾、葱2百把、大根2百把、菜2百把を差し入れ。
・日比谷歩兵、騎兵、砲兵の訓練を見物。その時たまたまイギリス・イタリア両公使と面接。
・兵学寮で大砲空砲、火矢、水雷、その他兵学教場を見る。
・修信使はじめ数名の写真撮影 内田九一写真館。
・宗氏別荘に招待。
・森山茂宅に招待。
・近衛兵営の砲兵本廠見物。
・工学寮製作所を見物。
・書籍館にて孔子木像を拝す。
・女子師範学校見物。
・開成高校教場見物。
・元老院にて議事堂一覧。
・舞楽の馬上打球を見物。
・旅館の前を通りかかった角兵衛獅子を招いて見せる。信使喜ぶ。
・信使属官が順天堂にて種痘法を学ぶ。(なぜ種痘法を学ぶことになったかは、後述するように日本の軍医の活躍があった。)
・大阪造幣局も予定にあったが、修信使急病のため中止になっている。

 これではまるで官製の修学旅行ではないか(笑)。日本側もなんとまあこれだけ見物させたものである。しかし、象を見せたり、手品師を招いたり、通りすがりの角兵衛獅子を呼んだりと、硬軟まじえての実に行き届いたもてなしぶりである。

 なお、修信使急病のために大阪造幣寮を見せられなかったのは日本側も残念であったろう。寺島宗則外務卿自らがわざわざ書面でそのことを勧めたのにである。その書面は、「・・貨幣は各国とも皆その種類が違いまた品位も同じではない。しかしその国の独立国たるは貨幣の品位いかんであり、今幸いにも我が国に来られたことにより、我が国が貨幣鋳造するのにどのように注意しているかを見て頂けば、自認されることにもなるだろうから、ぜひとも造幣寮へ・・・」という念のいった勧告であった(朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 六 明治九年六月十七日信使来別ノ節逓ス)

 後に朝鮮で日本の貨幣が流通し、ついには朝鮮貨幣を圧倒してしまうことになるのだが、それも朝鮮が「近代貨幣制度」を確立しなかったからではあるが、この時に寺島外務卿の真意を理解して造幣局を見学しておれば「貨幣」や「経済」というものの重要さが少しは自覚できたのではなかろうか。(まさか仮病ではないだろうな。大阪・・・・)

 6月18日、修信使一行は汽車にて帰国の途に着いた。横浜からも船で来た時と同じルートで向かう。19日に信使が病を発したので大阪造幣寮見物は取りやめになった。
22日、天候風浪のため神戸港に滞在。
23日に神戸在留米国領事から手紙が来たが、信史はこれを受けなかった。後で祝辞と分かった。
夜に出発、25日に馬関着。26日に出発して途中対馬に寄り、28日に釜山に帰着した。
 以上、他には(朝鮮国修信使来航并謁見、朝鮮国修信使渡来ニ付迎送船ノ儀伺、朝鮮国修信使来朝ニ付東莱府使口陳書并訓導ヨリ贈ル条陳書、小杉駅逓権大属朝鮮信使迎送船黄竜丸ヘ乗組被命度伺、朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年)を参照。

朝鮮国旗いまだ定まらず

 2月の条約調印後に宮本・野村らと申大臣との会談の際に出た、朝鮮国旗の問題すなわち、

野村「前日、照会せし貴国国旗の事は速やかに製造して一本を送逓せられたし。右は同盟国互いに慶弔のことあるときには必要の具なれば送逓すること速やかなるを期す。」

「了承す。これまた朝廷へ具陳し我が使節差遣のことある時に携帯せしむべし。」

と言っていたが、修信使来日の時にはまだ出来ていなかったようである。
 6月30日付けで宮本は、朝鮮国旗のことについて次のように言っている。
「朝鮮國旗ノ義御申越致承知候。右ハ既ニ先般彼國ヘ及、照會候處、未タ國旗ト申物ハ無之趣申出候。」(宮本大丞朝鮮理事始末 七/3 明治9年1月25日から明治9年7月1日 復第七十九號)

 なんだ、修信使は持って来ていなかったのである。筆者は修信使関連の公文書を何度も探したが、見つからなかったはずである。明治15年(1882)の時の修信使と後から知った。(はぁ)

釜山における初めての近代医療

 修信使一行を迎えに行った船に軍医が乗っていたが、彼は船が日本に向けて出発するまでの9日間に、朝鮮人への医療を行っている。以下は、明治9年6月8日付けで、寺島宗則外務卿宛ての、海軍中軍医 島田脩海からの報告である。(朝鮮国修信使来聘書 金綺秀 明治九年 三 p48〜p51「信使迎船乗組島田中軍医滞韓中該地人民ヲ治療セシ事等ヲ外務卿へ上報書」)より現代語訳、また一部省略した。


 修信使を迎える汽船黄龍丸に乗って5月13日に釜山草梁へ着き日本館へ入る。翌日に訓導 玄昔運と会談し、天然痘の病害の話をし、種痘による予防法のことを話した。

訓導「天賦の病気がどうして人の手で防ぐことが出来ようか。我が国にも一つの方法がある。痘のカサブタを薫じて嗅ぐのである。」

「それは極めて害がある方法である。」
 と言葉を尽くしてそれを止めることを説いた。

「我が国ではここ数十年間に数万の人民に種痘を施したが極めて有効であり、また害も無いので日本政府は貴国に伝えたいとの事である。先ほど人の手によるものが天賦に代わることが出来ようかと言ったが、カサブタを薫じて嗅ぐなどがそうではないのか。それに対して種痘の方法は万に一つの失敗も無いことを我が政府が保証するものである。よって速やかに人民にこのことを布告してはどうか。」

 訓導は反論する言葉をなくし、しばらくして、

訓導「疑念は氷解した。しかし布告するには、まず経験として私の子供に施してその効を見てから後しか布告することは出来ない。」

「では私自身が直接皆に説明して施行することはどうか。」

訓導「それならば差支えない」

 これにより翌日15日に坂下の村に行き、日本語が分かる朝鮮人(これを現地では「トグス(小通事)」と言う)をもって村の者に説明するが、愚民の常によって疑うばかりで誰も聞く者がいない。そこで目に見える形の治療をもって導くのが良いだろうと思い、群集を見ると兎唇(みつくち、口唇裂)の甚だしい状態の者がいた。その男を呼んで治療の方法を説明すると、男は驚愕して言った。

「自分の不具は母親の腹の中にいる時からこうなのであって、皆が言うには先天(前世)の仏罰があってこうなっているのであるから治す方法があるわけがない。貴国にもこの仏罰があろうか。」

「ある。しかし、その仏力よりも勝る医術をもってすぐに完全に治す。汝もまた完全に治す気はないか。」

「真に治す方法があるなら治してほしい。自分は哀れにも仏罰を受けた人間ということで26歳になるがまだ配偶者を持つことも許されない。」

「分かった。明日、日本館(草梁公館)に来なさい。必ず完全の人にするから。」

 これにおいて群衆に向かって言った。

「汝らよくこの者に注目して治療の後は必ず疑いあることなかれ。」

 はたして翌日男が来たので、直ちに手術を施し薬を与えて2時間ほど安眠させ、帰村させた。
 翌日になってその男が来て喜ぶこと限りがなかった。またその弟を伴って来て種痘を受けさせてくれというので施した。また翌日に至って縫い針を取り去ると拙い自分の技術であったが接合部分が甚だ整い、わずかに細い線が痕跡としてあるだけだった。

 これにより村人の疑いが解けて皆喜んで種痘を打つことを望んだ。16人の小児に種痘を施した。また1名の兎唇の者が来る。年齢は16才と言う。直ちに治療する。
 これにより「神医」来るとの話が四方に伝わり治療を乞わんとする者はなはだ多し。

 しかし、(草梁公館敷地の)西門の守衛(朝鮮政府からの派遣による者)が出入りする者を許可証をもって管理していたが、普通の者の出入りを頑として許さないという。それを聞いて通訳を伴って直ちに行き、患者の出入りは自由にするべきである、と言った。しかし彼は国禁によって許すことは出来ないと言う。それで自分は叱咤して、「自分は知っているぞ。先ほど1人の患者から銭を取って通行を許したであろうが。まして修信使を我が国に送ろうとする際にあたってそのような頑なな理屈は理解出来ない。もし許さないというなら自分が出る所へ出て話をつける。」と迫ると、「それならば自分が門番をしている時だけ自由に出入りすることを許す。」と言った。
 これより患者が陸続として来る。

 10年以上前に失明して両眼が煮えた貝のようになった者が来た。また、癩病となって20年と言う者も来た。しかしこれらは偽の神医である自分にはどうすることも出来なかった。

 眼病が甚だ多い。ついに失明に至る者も多い。
 寄生虫も多い。おそらく肉食によるものであろう。1患者に薬を与えると、サナダムシの3m60cm余りのものが駆除できた。
 癩病の者も多い。原因は分からない。
 間欠熱(マラリア類)も多い。

 (日本に向かった)修信使一行のうち5、6名が病気になったが軽かった。船酔いはひどかった。

 以上は、日本から来るに当たって宮本小一大丞や軍医寮から、朝鮮は衛生治療の方法が乏しいので哀れである、と聞いたことにより滞在中に拙術を施し候。

 この報告を読んで筆者は胸が熱くなった。
 迷信に縛られた朝鮮の人々に当時の最新の医療技術を施すことが出来るという、医者としての喜びと使命感と、同時に失明者や癩病の者には「偽の神医である自分にはどうすることも出来なかった」という島田脩海の深い思いがよく伝わってくる文章である。

 後に海軍中軍医 島田脩海たちの思いは生かされることになった。すなわち同年(明治9年)11月、「草梁公館ヘ医員差遣」が実施されることになったのである(草梁公館ヘ医員差遣 太政類典・第二編・明治四年〜明治十年・第九十一巻・外國交際三十四・諸官員差遣六)
 その趣旨は、「修好條規の第八款に基づき管理官を置くことになっているが、滞在する日本人も少なくなく、釜山では医療の施設がひとつもない。また、朝鮮人は治療といっても毉術(まじない)のごときに頼るなどの蒙昧の状態である。かつて、修信使を迎えるために軍医が滞在したときに、朝鮮人は西洋医学を拒むこともなくその効果の神速なのを嘆賞し、陸続として患者が参集したことがあった。このことからも、学術優れた医者を派遣して在勤させれば、日本人の官民はもとより、朝鮮人への治療も施すことが出来、もって彼の国の文明開化を促進することにもなろう」というものであった。

 医療は草梁公館の施設の一室を使ってされることになった。これは日本人朝鮮人を問わず、誰もが治療を受けることが出来る、おそらく朝鮮初の近代診療所と言うことが出来よう。

 さらに、明治12年(1879)5月には正式な医局として開設がされ、7月にはコレラが流行したことから(11月には撲滅。)9月にそれ相当の設備を整えた病院新築の願いが上申されている。(草梁館ヘ医局開設費用増額・在朝鮮国草梁公館内ヘ病院建築ノ件・朝鮮国釜山港避病院建築費其他請求ノ件)

 なお同病院は設立後年間経費5千円をもって運用されていたが、明治18年には官営としては廃止して民営化する意向が出され、以後3年間を官民共同運営としている。(朝鮮国釜山港領事館付属医院廃止ノ事)

 それにしても、どうしてこういう良い話は現代まで語り継がれないのであろうか。良いことも悪いことも包み隠さず残していくべきなのが「歴史」というものではないのか。

明治開化期の日本と朝鮮(7)      目 次       明治開化期の日本と朝鮮(9)

 

 

 since 2004/12/20