明治開化期の日本と朝鮮(7)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
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江華府の遠景。明治9年2月 撮影 河田紀一。山に樹木が無いことが目立つ。伐採はしても植林をすることがなかったという。 |
江華島事件とは、「日本が朝鮮を軍艦で挑発して戦闘を惹き起こし、それによって無理やり朝鮮を開国させて不平等条約を結ばせることになった事件」と。
これが歴史にあまり興味などなかった頃の筆者が、漠然と記憶していた明治初期の日朝関係である。まあ正直なところこの程度だった。
ところが、これまで述べてきたように自分で当時の記録を、それも一次資料と言えるものを調べていくと、いろいろと詳しいことが分かって大体以下のようなものになった。なお、根拠となった資料はこれまでの頁に記載しているので参照されたい。
江華島事件とは、
日朝両国は互いに交際300年の国どうしであるという認識をもちながらも、日本は開国して西洋化を進め、一方、朝鮮は西洋国に対する攘夷策を堅持しているところから、日本政府の親書すら受け取りを拒否するようになった。それでも互いの船舶には薪水の給与や難破船を救助するなどのことはこれまでどおりであった。また、釜山にある日本居留地において日本外交官は朝鮮官吏に、日本の船舶が掲げる日本国旗見本を進呈し、また蒸気船の模型を見せるなどして、日本と西洋の船舶を区別するよう求めた。
明治8年、日本の測量船雲揚号(270トンの小型砲艦)は釜山に停泊し、朝鮮官吏を招待して船を見せ、また咸鏡道永興湾では三日間停泊して測量をし、あるいは海岸の1民家の火事を発見し上陸して消火活動をしたり、また慶尚道迎日湾では、兵士数百人を率いて来た慶州県令から訊問を受けたが退去要請はなく、そのまま半日とどまることもあった。
同年9月、雲揚号は対馬周辺を測量した後、朝鮮の西側を航海して清国牛荘あたりまでの航路研究のために航行していたが、給水のため、また測量などのことで、朝鮮官吏との面会を求めて江華島付近でボートを降ろし、艦長自らが乗って海岸に近づいた。その時、何の警告もなく朝鮮砲台陣地から突然大小砲の銃撃を受けた。すでに日本国旗を掲げていた雲揚号は、国旗を足して3旗を掲げたが、それでも攻撃は止まず、ついに反撃して砲台を破壊。また、なぜ攻撃したかを問うために上陸して陣地に迫ったが、朝鮮兵は逃亡し、その理由も明らかとならなかった。よって雲揚号は帰国してそのことを政府に報告した。
それより日本政府は政府大臣2人を艦隊と共に江華島に派遣し、日本船攻撃の真意を問い、またこれまで通り国交を結ぶのかどうかを尋ね、また国交を結ぶのなら江戸時代からの条約を改めて新条約を締結せんと、談判に及んだ。
朝鮮政府も大臣を派遣して談判をさせ、まず日本との交際は厚くしたいと表明。また、清国の新聞に、日本は朝鮮征討を目論んでいるなどの記事があったので日本を疑ったこと、また、軍艦が日本の船であると知っていたらどうして無礼をしたろうか、受け取った日本国旗はまだ地方に交付しておらず、まったく西洋の船と誤認して攻撃した、今はすまないことをしたと思う、と述べた。
これより誤解は解けたとして日朝間で条約を結ぶこととなった。
条約内容は、両国の貿易状況や法制度も違うことから、協議の結果、両国の実情を考慮した内容となった。その第一か条には、『朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり』とあり、この条約が対等条約であることを示している。(日朝修好条規)
なお、朝鮮はこの後も旧交ある日本と清国以外の国に対しては鎖国政策をとり続けた。
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普通に資料を追っていくとこうなります、ということであって、別に独断も偏見もないつもりである。しかしなんとまあ筆者がこれまで漠然と思っていたことと違っていたことか。
以下、事件一連の経緯の要点をまとめてみた。
索 引
・ 江華島事件を理解するには
・ 【事件背景の要点】
1. 条約締結以前の日朝交際関係
2. 日本居留地である釜山草梁公館の権益
3. 日本船舶の扱いについて
4. 日朝政府間交際の障害
5. 日本政府の方針
・ 【江華島事件経緯の要点】
1. 軍艦(測量船)派遣から事件まで
2. 事件後の日本政府方針
・ ここまでの簡単なまとめ
・ 条 約 締 結 余 話
・ 日本が朝鮮に求めるもの
・ 上下貧困、至急繁盛の市を開く時にあらず
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江華島事件について
【江華島事件を理解するには】
江華島事件一連を理解する上で、重要なポイントが5点ある。
1. 日朝両政府は、両国の関係を三百年の交際国と見ており、まして敵対関係にはなかった。
2. 朝鮮政府は、西洋諸国の船だけを攘夷対象としており、日本の船に対しては薪水の供給や遭難救助を行っている。
3. 日本政府は西洋国の船と誤認されないように、あらかじめ2度にわたって日本国旗を朝鮮政府に提出し、蒸気船の模型を見せて説明している。
4. 雲揚号が朝鮮側と接触したのは江華島における時が初めてではない。5月に釜山に入港し、朝鮮官吏を迎えての歓迎式を行い、6月には慶尚道迎日湾に入港して慶州県令と談話している。江華島においては、艦長自らボートに乗って朝鮮官吏に面会に向かっている。
5. 朝鮮は明治9年に日本と新条約を結んだが、それで開国したという事実はない。交際3百年の日本と旧交を修めただけであり、鎖国政策はその後も続けている。
(鎖国政策を改めて各国に対して国を開くのは、6年後の明治15年(1882)5月からである)
この5点を知らずに、また考慮せずに、江華島事件関連を語る人が多い。落ち着いて資料をじっくりと読もう(筆者自戒)。
さて、幕末から明治にかけての日朝関係の詳細を主に公文書資料から見てきたのであるが、その資料の殆どは当時に於て記録された一次資料と称するものに属する。そこには日本側の資料のみならず朝鮮側の資料も多数記録されており、まさに日朝間の出来事の詳細を知るには貴重なものばかりである。そしてそれは筆者の漠然たる近代史の一端の認識を、根底から引っ繰り返すに足るものであった。
ここでは、既述したことの重複になるが、それらを読み進めていくうちに筆者なりに徐々に見えてきたものを要点にして以下に記したい
【事件背景の要点】
1. 条約締結以前の日朝交際関係
・ 「両国交際三百年」という言葉が両国政府間で交わされる書簡に常套句としてあったように、明治新政府となっても朝鮮側の認識は、日本は交際ある国であるとの認識を持っていた。釜山には日本の施設が設けられ、日本からの貿易船が行き交い、多くの日本人民間人、また外交官も駐在して朝鮮官吏との接触も行われていた。
・ 当時明治新政府と朝鮮国政府との間の齟齬は、開国か攘夷かという国政の方針の違いという点に尽きる。これが旧来からあった日朝政府間の公式の国交を阻んでいた。
・ 書契受け取り拒否の問題は、朝鮮政府攘夷派が西洋文明化する日本に反発して起こしたものであるが、大院君失脚に伴う開明派台頭により解消の方向に向きを変えた。
・ 更に、黒田艦隊派遣直前の頃、朝鮮政府は日本側と約束していた事前協議を開くことを決議し、書契も受け取る方向で進めていた。
2. 日本居留地である釜山草梁公館の権益
・ その歴史は古く15世紀半ばに遡る。日本国対馬州守宗氏に朝鮮が国書を贈って公貿易を求めたことに始まる。
・ 宗氏時代、釜山居留地には対馬藩武士・商人が常駐していた。その地は当時から治外法権の区域であった。廃藩置県に伴い明治政府による管理となっても、それは継続している。
・ 宗氏時代、対馬は公貿易によって米穀を輸入することにより、対馬の地での米の絶対量の不足を補っていた。また、民間では年間30万円ほど(明治8年当時)の交易が行われていた。
・ 朝鮮側はこの日本居留地のことを「倭館」と称した。朝鮮側は薪などの燃料を支給しており、また朝鮮人の商民や魚菜売りなどが居留地内に出入りしていた。日本人は居留地外に出ることは通常は許されなかったが、一度、談判のために外交官らが釜山の統轄府である東莱府に向かったことがあった。しかし朝鮮官吏らに妨害されて果たせていない。
・ 宗氏時代から、釜山居留地では「筒払い」と称し、銃・大砲を発して軍事演習に相当することが慣例として行われていた。朝鮮側もそれを承知しており驚く者はいなかったという。ただし、日本側からの何らかの圧力・脅しとして実行された場合も可能性としてはある。
・ 宗氏は明治新政府に対して、釜山居留地は朝鮮国から譲り受けたものであると主張している。よって地租税などはなかった。しかし明治新政府はそれを確証なしとして認めず、後の条約締結に伴い朝鮮政府の経済事情を考慮し、不要の施設は朝鮮政府に返還し、また租借地との認識を示して地租税を支払い、朝鮮の国庫を潤す便宜を図っている。
3. 日本船舶の扱いについて
・ 日朝間では船舶に対しては薪水の供給、また難破の時には相互に救助することとしていた。実際に日本人が救助されたことが記録されており、無事に釜山草梁公館まで送り届けられて、その間の待遇が極めて丁寧且つ親切なものであったことが伺える。(除く、明治5年に難民を釜山海岸に置き去りにした事件)
・ 対馬から釜山に行き交う日本船舶は和船・帆船であった。朝鮮側が蒸気船を嫌うからである。しかし一度、日本政府は外交官を派遣するのに蒸気船の軍艦を使用したことがあった。その時も朝鮮官吏はそれを嫌い、よって日本政府は、万国公法上に於ては軍艦使用の権利があるが、朝鮮側の感情を考慮して以後は帆船を以って入港した。
・ 明治8年5月と6月に、日本政府が測量のために派遣した軍艦、雲揚と第二丁卯が釜山草梁公館の港に停泊した時に、朝鮮官吏らはこの頃はもう蒸気船を嫌う傾向はなくなっていたが、軍艦が来たことを怪しんでいる。しかし日本外交官の説明を受けて容認し、艦内を見学こそすれ退去要請はしていない。もっとも、朝鮮官吏が入港の艦船を調べるのは通例であった。
・ 軍艦の入港に対し朝鮮官吏は、「我が国においても、何ぞ1、2隻の軍艦を恐れるものではない」また「案ずるにもあらず、案ぜざるにもあらず」と述べている。
・ 明治8年6月に、軍艦雲揚が咸鏡道永興湾を測量した。その後、慶尚道迎日湾に入港。兵数百を率いた慶州県令の尋問を受けたが、退去要請は無く、逆に賄賂を要求した部下の非礼を雲揚艦長に謝罪している。
・ 日本の軍艦に対して朝鮮側は、「侵犯された」という認識をしていない。当然、入港許可問題も発生していない。それは、釜山港に於ける、慶尚道迎日湾に於ける、朝鮮官吏や慶州県令の態度のみならず、朝鮮大臣が江華島での雲揚号への砲撃について述べた、「日本の軍艦と分かっていたら決して砲撃することはなかった」との意味の弁においてもそれを証明している。
・ 一方、日清以外の艦船、すなわち西洋諸国の艦船に対しては「外夷外敵」の船と見做して攘夷の対象としていた。かつて仏米の艦隊と戦闘したことも理由として挙げられよう。
4. 日朝政府間交際の障害
・ 当初、日朝間の齟齬は、日本政府の皇政維新の通知の受け取り拒否、いわゆる書契問題となって表面化した。朝鮮側の理由としては、書契にある「皇」「天朝」などの文字が不当である、ということであった。しかし、朝鮮通信使時代にも「天朝・皇朝・朝臣」などの文字を使った国書が交わされていたのであるから、その拒否理由は不当なものであり、ようするに西洋化する明治新政府を拒否するための言い訳に過ぎなかったと言える。しかしまた、清国の新聞の記事となった日本人「八戸順叔」の日本幕府による朝鮮征討説のことも、朝鮮政府が日本を疑う材料とはなった。
・ 大院君政権下にあって書契問題交渉拒否の態度は頑なであり長期に及んだ。
・ 日本国民の間に朝鮮のその態度に憤懣の声が高まる中、明治6年秋、朝鮮官吏は釜山草梁公館の門に以下の掲示を行った。
「無法の国、恥知らず、衣服容貌とも日本人にあらず、(明治維新など)天下の笑うところなるを平然としている恥知らずである」と。
朝鮮官吏から門番兵宛ての達示であったが、門に張られたことにより事実上の日本政府への誹謗中傷と受け取られるものであった。これが日本に伝えられると、日本政府国民共に激昂し遂に轟々たる「征韓論」となった。
・ しかし大院君が失脚して閔氏政権になると、国王は日本との交際を重視。詐偽の報告を以って日本との交際を阻んでいた攘夷派の朝鮮外交官吏を梟首刑にし、一族を笞刑とするなどの厳罰を示し、新たな官吏を以って日朝会談のための事前協議を開くことを日本側に約束した。(ちなみに、朝鮮古来から言われていたことに、朝鮮国太祖の遺誡として「懲録」に「西は礼を支那に失うなく、東は信を日本に失うなかれ。然れば朝鮮保つべし」という言葉があった)
ところがその後、閔氏政権の宰相が爆弾テロで暗殺され、それにより朝鮮の政局は混迷し、事前協議の約束が守られることはなかった。
・ 日本側は事前協議の約束を守るよう繰り返し要求。しかし朝鮮官吏は言を左右にするのみで埒は明かず。(その後の日本外交官による「軍艦派遣の建議」のことは下の「5. 日本政府の方針」で記す)
・ 朝鮮側は、事前協議は旧式つまりは着物の武士姿も含めた旧例の儀式でなければ出来ないと主張。日本側は、服制のことまで指定するのは内政干渉であると反論したが、結局物別れに終わり、事実上の事前協議拒否という形となった。(この後に朝鮮政府では、旧式にこだわらずに事前協議を開くことを決議している。しかしそれを日本側が知ったのは黒田全権艦隊が江華島に向かう船の中であった)
5. 日本政府の方針
・ 幕府時代からの懸案として、大院君政権が仏国宣教師はじめキリスト教徒8千人を虐殺し、ために仏国極東艦隊が朝鮮を2度にわたって襲撃したという問題があった。また朝鮮は通商を求めて来た米商船をも焼き討ちしたことにより、仏米が連合艦隊を以って朝鮮を問責せんとしていることを知った幕府は、ただちに仏米に仲介を申し出て和平を説き、朝鮮国に勧告するための使節派遣を通告した。(朝鮮政府は、日本からの使節派遣は前例がないとして固辞)
・ 明治新政府となり、王政一新し天皇親裁の政府となったことを朝鮮国に通達。しかし朝鮮はその書契の受け取りを拒否。
・ いかにすれば書契を受け取るか、朝鮮側の意見を取り入れながら語句を修正するなどして粘り強く交渉を続ける。
・ 明治4年当時、政府内諭としてその方針は以下のものであった。
「朝鮮は旧交ある隣国であり、今は新たな交際を求めているところである。もしこの国に事があるようならば、方途方策を尽くして危急を知らせ、害を避けるよう進言し、もって天皇の政府による隣接の親しみを朝鮮国に顕さねばならない。しかし米国は条約国であり朝鮮は条約国ではない。もし米国が事を起こした時は米国の行動を支持せざるを得ない。それは公然たる交誼あるのが米国であり、一方、朝鮮国には交誼の私情があるということからである。今は国際情勢を熟慮して、他国の責任を我が国に招かないようにせねばならない。もし朝鮮がはっきりと攘夷を掲げるならば、米国と交際する我が国もその対象となる疑いをかけられかねないし、終には危機を招くことにもなろう。そのようなことがないように友好の意を表し禍を招かないようにせねばならない。現在の状況というものは、たとえ朝鮮が開国を拒んでも長くそれを守ることはできず、やがては開国せざるを得ない時機に至るだろう」
・ 明治5年、日本政府、国旗などを含む船章旗を朝鮮官吏に渡す。
・ 征韓論の高まりに伴い日本政府内では、西郷を派遣して京城で直談判して一挙に解決したい旨の案も上奏されたが、明治天皇はこれを却下。よって従来どおり外交官による折衝を粘り強く続けることに。(これにより日本政府内の改変、また佐賀の乱起る。政府内の征韓論も消滅)
・ 明治7年9月、再度朝鮮官吏に日本国旗を含む船章旗を渡し、また蒸気船の模型を見せ、難破遭難船があった際には識別して救助対象とするよう要請。
・ 大院君の失脚によって事態は一時前進したかに見えたが、閔宰相暗殺によって政局は混迷。それによって事前協議の約束が守られないことから、打開策として明治8年4月に担当外交官は軍艦派遣を建議。それは、測量を理由に軍艦1、2隻を派遣して朝鮮政府内攘夷派に圧力をかけ、開明の気勢を応援し、事前協議の約束を守らせんとする策であった。しかし、三条太政大臣はこれを批判して斥け、寺島外務卿も「なおも協議などの延期もありえる。また朝鮮側が修交の使節を出すのが難しいというなら、維新祝賀ぐらいの使節でも派遣するよう誘導するように」と、譲歩を含む柔軟且つ平和的に折衝するよう指令を下した。
・ 前の軍艦派遣の建議とは別に、海軍大輔から測量のための軍艦派遣が上申される。
・ 軍艦雲揚・第二丁卯を派遣して対馬周辺、朝鮮周辺を測量。(当時、測量は技術的に軍艦でしか行えなかった)
以上が、筆者が資料の中から見出した「江華島事件」更には「日朝修好条規」締結に関わる背景である。 次に「江華島事件」経緯の要点を以下に記す。
【江華島事件経緯の要点】
1. 軍艦(測量船)派遣から事件まで
・ 明治8年5月、日本政府は測量船として軍艦雲揚と第二丁卯を派遣。理由は河村海軍大輔の「軍艦発遣北海西海測量伺」によると思われる。他に資料見当たらず。(以下は雲揚号のみに関する経緯を記す)
・ 5月25日、雲揚は釜山草梁に入港。日本居留地の港であるからそもそも入港許可問題はない。駐在日本外交官は朝鮮官吏に、日本から自分に対して協議進展の督促に来たのであると入港理由を説明。
・ 雲揚艦長は朝鮮側に事前通知をして空砲演習(日本側は対馬宗氏時代から、釜山居留地では「筒払い」と称し、銃・大砲を発して軍事演習に相当することを慣例として行う権利を持っていた)。その後、朝鮮官吏の要請により見学を許す。その際に歓迎式として再び空砲を撃つが、求めにより途中で中止する。
・ 駐在日本外交官は、雲揚などの入港が朝鮮側への圧力となって交渉が進むと見たが、朝鮮官吏は日本の軍艦には容認の態度を見せ、何の抗議も反発も示さず。よって圧力にもならなかった。
・ 6月、雲揚は、釜山草梁を出港して咸鏡道永興湾を測量し、3日間停泊する。その後、艦長は岸の朝鮮民家で火事が起きているのを発見し、水兵を派して消火に努める。火災主に見舞金を呈す。
・ その後、慶尚道迎日湾に入港。兵数百を率いた慶州県令の尋問を受ける。県令は、その時に艦長に贈物を要求した部下の非礼を艦長に謝罪。雲揚はそのまま半日止まって釜山に向けて出港。
・ 6月30日に釜山草梁を出港して長崎に帰港。
・ 9月、海軍命令として「初めに対馬海湾を測量し、それより朝鮮東南西海岸を航海して清国牛荘までの航路を研究し、帰路に琉球諸島を測量するよう」命じられる。
・ 9月19日、咸鏡道に於いて英国軍艦と朝鮮軍が戦闘したとの話が釜山に伝わる。また、全羅道に外夷(西洋国)の軍艦が来ているとの話があり、朝鮮水軍は、釜山草梁公館の北側浜から石礫を運んで蓄え攻撃に備えるという。普段になく朝鮮軍の警戒が高まる
・ 9月20日、それらのことを知らない雲揚号は江華島付近に達する。飲み水を求め、また測量などのことで、朝鮮官吏に面会するためボートを出して艦長以下計20人ほどが乗り込み海岸に向かう。
・ 砲台のある朝鮮陣営の近くを通過しようとすると、朝鮮側から何の尋問も無く、いきなり大小砲銃の攻撃を受ける。進退窮まり止むを得ず小銃で応戦するが不利。
・ 雲揚に戻り、砲撃の罪を問うて雲揚から砲台に砲撃し朝鮮側も応じて砲撃、戦闘となる。或いは、信号を上げて雲揚を呼んで乗船するが、その雲揚にも朝鮮砲台から砲撃し戦闘になる。ふだん掲げている日本国旗とは別にマストにも国旗を掲げた。(後に朝鮮側は、「日本から受け取った国旗は地方に交付していなかった。地方からの報告に依れば、船は黄色い旗を立てていたと言っている。見誤ったのだろうか。日本の船と知らずに砲撃した」と述べる)
・ 砲撃の罪を問うため雲揚から陸戦隊を上陸させ、砲台に突入。しばし戦闘。やがて朝鮮兵は逃亡。朝鮮兵の戦死者およそ35名。負傷者数不明。日本側は負傷2名、後に1人死亡。捕虜とした朝鮮兵に筆談を試みるが通じず。よって尋問をあきらめ、捕虜や負傷者、婦人に、食料を与え、また保護し、安全な場所で放つ。
・ 砲台を破壊し、放火し、武器などの戦利品を獲て、勝利の祝と戦死の者の霊魂を慰めるため酒宴を開く。
・ 小島(勿淄島)にて給水をする。
・ 報告のために長崎に戻る。9月28日着。
・ 9月29日、雲揚艦長、取り敢えずの報告書を届出。10月8日、正式の報告書を上申。
2. 事件後の日本政府方針
・ 10月3日、釜山居留地の日本人保護のため、軍艦春日が長崎で修理中であったが取り敢えずの処置としてこれを釜山に派遣。しかし釜山は平穏で普段と変わらず。
・ 釜山草梁では去る9月25日に突然英国軍艦が入港し数日間停泊。現地朝鮮軍は断然これを排除することに決議したが、その日に英国軍艦は去った。その後朝鮮軍は武威を示すかのように釜山城周辺で練兵と砲撃演習を3日間行った。しかし、日本居留民や日本外交官に対する朝鮮側の対応は普段と全く変わりなかった。よって日本政府としては、日本の軍艦に砲撃を加えたにもかかわらず、朝鮮はまだ日本と断然絶交する意思が無いように思われると判断。
・ 10月5日、外務卿寺島宗則はかつて江華島に行った経験のある海軍省雇いのイギリス人・ゼームスから江華島の地理などの詳細を事情聴取。
・ 10月5日、木戸孝允が三條太政大臣に意見書を提出。「国内与論の軽薄な報復議論に乗ってはならない。朝鮮が絶交したものとして直ちに派兵してはならない、朝鮮の宗主国である支那に仲介と代弁の労をとらせるべきである、もし支那がそれを断って我が国に一任するなら初めて我が国から問責するべきである」と。
・ しかし日本政府は内政のことで紛糾しており、江華島事件の処理はこの後一ヶ月ほど放置状態となる。
・ 11月、担当外交官らは、「特に大使を朝鮮国江華島に派し、彼国隣誼に悖りたる罪を問うの議」を外務卿に献じた。この中で、「砲撃事件だけが重大なことではなく、それは朝鮮が謝罪すればすむことになり、それよりも、そもそも朝鮮が事前協議を開くという約束を破っていることが問題であって、雲楊号のことと同じ重大さである。朝鮮には、事件を謝罪し約束を守り、親睦を図って条約を結べばこのような事件が再び起こるのを防ぐことが出来ることを説くべき」とした。また、そのための特命大使を朝鮮の首都の入り口である江華府に直接派遣する事を提案。
・ 11月20日、木戸の意見を元に森有礼を清国に派遣。江華島での事件の事を報せる。また、朝鮮と清国との関係を尋ねる。清国政府は、「朝鮮は属国であるが、その内政と外交は自主である」と返答。
・ 12月9日、日本政府は、黒田清隆を特命全権弁理大臣として、井上馨を副大臣として、朝鮮江華府に派遣することを発令。
・ その訓條および内諭は、「朝鮮政府は絶交するとはまだ言って来ない。釜山居留地の日本人に対する態度もいつもと変わらない。また雲揚への砲撃が政府の命令なのか、または地方官の乱暴から出たことなのか、まだ分からないことである。よって、我が政府はまだ親交が全く絶えたとは見做さない。我が使節の目的は和約の条約を結ぶことを主とし、朝鮮がそれを受け入れて条約を結び貿易を広げることを承諾するなら、これで砲撃事件の賠償と見做すこととする。もし攻撃を受けた場合は適当に防御しながら対馬まで戻り、後の政府指令を待つこと」などであった。
・ 釜山草梁駐在外交官に、砲撃事件の概要と協議のために江華島に全権大臣を派遣することを朝鮮政府に説明させる。朝鮮政府は江華島の軍艦が日本の軍艦であったことを、これによって初めて知る。
・ 明治9年1月、黒田全権大臣らの護衛艦として軍艦2隻、随行員、陸軍護衛兵などを乗せた運送船4隻で江華島に向かう。
・ 朝鮮政府から接待使として迎えに来た釜山の担当朝鮮官吏は、「かつて自分は、朝鮮政府は書契の文字をこのように変えれば受け取るとか、書契を書き換えて東莱府に差し出したらよいとか言っていたが、それは実は政府の命令ではなく、適当に自分が個人の判断で言っていた(それにより、日本政府は書契の文章を変更するなどし、その後、駐在外交官はこれを持って東莱府使に面会に向かったが、朝鮮官吏の妨害によって果たせず)。それで、このことをもし今度の談判の席で公然と話されたら自分の命はないので何とぞ助けてほしい。また、書契のことは『皇上』を『聖上』と書き換え、『勅』の字を省略されたら、大日本国と『大』の字があっても、それで書契を受け取ることは勿論、事前協議で洋服の新服制で臨むことも総て異議なく承諾すると政府で議決していた」と打ち明けた。
要点としては大体以上のようなものであると思う。これ以降は本文と重複するだけなのでここでは省略したい。
ここまでの「明治開化期の日本と朝鮮」の簡単なまとめ
以上のような要点を考慮して短文でまとめると次のようになるだろう。
明治維新と日朝関係
鎖国をしていた朝鮮が宗主国である清国を除いて唯一交際していた国が日本であったが、攘夷政策をとる朝鮮と、攘夷から開国に転換した日本との間に、国の在り方をめぐって齟齬が生じるようになった。
朝鮮は日本が西洋諸国と手を結んで朝鮮を属国化しようとしているのではないかと疑い、明治日本の新政府からの親書(皇政維新を告げる書)も拒否し、その使節にも応対しない態度を取り続け、両国三百年来の交易も制限するようになった。
一方日本では、旧来から交際のあった朝鮮がそのような態度をとり続ける事に非難の声があがり始め、また朝鮮政府の外交担当の役人が、日本の明治維新を嘲笑し誹謗する文書を、朝鮮釜山の日本居留地である草梁公館の門に貼り付けるなどしたことから、ついに「征韓論」が起るまでに至った。
その後、朝鮮政府内で政権の変動があり、それにより日本の文明開化に理解を示す方向に変わり、正式の日朝会談のための事前協議を開くことを約束した。しかしその後、朝鮮の宰相が暗殺されたために政局は混迷し、事前協議の約束が守られることはなかった。
明治8年、日本の軍艦「雲揚号」は朝鮮の港に停泊するなどしながら海洋を測量していた。同年9月、清国に向かう航路の途中で給水を求めるなどの理由で、朝鮮の首都に近い江華島付近で、ボートを派して接近したところ、突然朝鮮軍から銃砲撃を受け、それにより戦闘状態となる事件が発生した。
日本側はあらかじめ日本国旗を朝鮮側に渡し、国旗を掲げる日本の艦船に対しての保護と便宜を求めていたが、朝鮮政府は地方官にこれらの通達を行っていなかったのである。
日本政府はこの事件を機に全権大使を艦隊と共に朝鮮江華島に派遣して、両国の齟齬を完全に解消するために日朝間の新たな条約として、修好条約を締結することを提案した。
日朝両大臣の会談の結果、朝鮮政府も日本政府を誤解していたことや、日本の船とは知らずに外夷(西洋国)の船と思い誤って砲撃したことを陳謝し、条約を結ぶことを受け入れた。
明治9年2月26日に日朝修好条規を締結。これにより一時途絶えていた日朝間の公的国交は完全に復活し、交易などを含めてより発展的な交際となった。しかし朝鮮はこの後も、旧来からの交際国である日本と清とは交際しても、それ以外の国に対しては鎖国政策をとり続け、頑なに開国することを拒み続けた。
また、積極的に西洋文明を取り入れて富国強兵に驀進する日本と、朝鮮政府内のなおも西洋文明を拒んで儒教文化を守ろうとする守旧派と日本のように文明開化しようとする開化派との対立で国内が揺れる朝鮮との間に、条約の実行を巡って問題や事件が絶えないこととなる。
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これでもまだ長すぎるだろうか(笑)
さて、この江華島事件と日朝修好条規とその締結に至るまでのことであるが、しかしまあ世間では随分とひどい言われようである(笑)
あまたある書誌やTV番組、またWebでも、そのほとんどが自分で資料を調べず、解説本と称する他人の文章の孫引き、引用、それも事実かどうかを検証することもなく、そして資料の提示もせずに、空想や妄想を交えての論説の数々。そして一番悪質なのが、資料の一部を取り上げて故意に曲解して説く、例えば日本の公共放送局など(検証一例)。
いかにも資料を提示したように見せて、実は文章の前後を考慮すればまったく違う意味となるのに、わざと一部分のみを抜書きして曲解させるような手法をとる手合いのまあ何と多いことか。
まさに虚偽と作為に満ちた日本の近代史解説のオンパレードであり、それはもう、いちいち取り上げるのも面倒なぐらい。よくもまあこれほど過去の日本を誹謗中傷讒言するも同様の解説で満ち満ちていることかと、実に驚いたしだいである。
筆者は自ら資料を読むまで、この国では近代史の最初が、かくも虚言で汚辱されたものが評価としてまかり通ってるとは、夢にも思わないことであった。orz
これ、恐ろしく重大なことではないのか?
近代史の評価は、現代の教育・政治・制度などにまでかかわってくるものではないのか?
日朝修好条規締結余話
さて、2月28日に日本に帰った黒田一行たちであったが、その前日つまり27日の条約調印後、次のように宮本小一外務大丞、野村靖外務権大丞と、申大臣たちとの話し合いが持たれている。
日本の全権大臣派遣に対する朝鮮側の答礼としての朝鮮修信使派遣についてのことが議題の中心であったが、宮本・野村はそれにとどまらず条約なった朝鮮を同盟国と呼んで経済、外交、国家観、といったことにまで突っ込んだ話をしている。
それは、当時の日本が日朝関係というものをどう見ていたかまでが伺え、筆者としてはある意味興味深かったので、少し長いがここに掲載する。
(韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記)より、適宜句読点、ひらがな書き、カタカナ書き、語句などを修正した。
(2月27日条約調印後、宮本小一大丞卿、野村靖権大丞卿は、申大臣の居館を訪ね、次のような会談を持った)
野村「両国和親の条約、調印までも既にすんだ上は、本日は特に懇情をもって相接し、自分たちが出発するに臨んで、なお申し上げたいことがあるので篤とお聴き頂きたい。」
申「貴意を了解する」
野村「今般、我が国において現に両大臣を差し向けられたことについては、貴国においても速やかに答礼の使節を我が国に差し向けられたい。元来、両国にて対等の礼を行う上は、万事つとめてその和平を得るようにすべきは勿論である。かねて説くように、我が国においては偏に三百年の旧交を重んじ候より、ご承知の通り現に貴重の大臣を派出し、数隻の軍艦を以て千里の波涛を航し、従来の紛糾を排除し、更に和好を結びたるは右の出費のみを算しても真に容易ならざる事なり。況や従来貴国の我を処するの計行をもってすれば今般も尋常の談判に至り難きを見込み、かねて話し申せし如く、馬関長崎等の地には数多の軍艦及び兵隊を繰り出しこれあり。これらもみなこれ両国の旧交を重んずるの主意より出たることなり。この辺を考えられても貴国において和交の本意を表し速やかに使節を答派せられるべきは当然のようにあられ候。しかるに我が旧幕府の時に貴国より使節をわが国に差し立てらるるは容易ならぬ雑費もかかるよし承りたり。右らは今日においては実に無用のことにて、方今は各国とも使節を派出するには書記官とも僅か五、六名くらいに過ぎずして、その簡便を尊び、その繁雑を省き、ただ情意の相通ずるを主とする。ゆえに貴国より使節を派することに至らば、釜山まで出向きにさえなれば、時々我が国より往復の便ある汽船に乗り込まるれば、こと誠に容易なり。くれぐれもこのことありたし。」
申「累々の貴意、事理自ずからまさに然るべしと存ず。詳らかに我が朝廷へ具申すべし。」
宮本「ただ今、野村より申し上げし如く、貴国にていよいよ使節派遣の順序に相運べばまことに大慶なり。釜山より我が国の蒸気船に乗り込まれ下関に至り、それより郵便船に乗り換えて東京に至れば実に簡便にて、なるだけ出費もかからぬように周旋いたすべし。且つ政府へは進贈物等は一切これなくして可なり。昔日は贈答を厚くして礼となせしが、方今は友好の国にても贈品を持参するなどのことは更に無し。この度両大臣より諸品を呈出したれども是は条約順成を喜ぶの心に溢れてそれがためにかくしたるにて、決して常時使節往復の例礼にはこれなし。
さて、貴使差遣の事はこの方にて期限を刻する訳にはこれなしといえども、なるべくは六ヵ月後に通商章呈取調になるその前になさるれば、我が国の事情もつぶさに分かり、我が政府の誠意をも了解せらるべし。さりながら六ヶ月内と申しては貴国にてなおその都合に運び難きことならば、先ず本使節には及ばず。理事官か又は遊覧書生にても我が国の形勢を視察するに足るべき人物を差し立てらるる様に相成るときは、なお更手軽にてよく相分かるべし。
いったい貴国にては我が国人の洋服を着くるを見て、日本人は残らず夷狄に変性したりなど言う人多くあり。また、その外にも種々難しき議論などする人もあるよし。成るだけは掛かる人たちを出され、我が国の実況を目撃して会心する所あらしめば、殊に貴国の都合にも好かるべしと存ず。」
申「なるほど、左様の者を遣わす方、至極よろしからん。何れにも朝廷へ申し立て必ず右の運びに立ち至るように斡旋すべし。もしその場合に至らば殊に両君の意を煩わすを請う。」
宮本・野村「領承。何様にも周旋すべし。」
野村「釜山港の事は従来の交易場なれども、六ヵ月後の通商章程取り決めまでは、先ず諸事旧慣によらざるを得ざるべし。さりながら貴国にてもこれまでの通り過厳に処分あられては、自然紛糾を醸し、今般条約の主意に悖るの境に至ることなきも必すべからず。故になるだけ寛裕にせられたし。たとえばついに石垣を越え(外に)出ればたちまちこれを厳に排斥し、又は門前に至ればたちまち扉を閉じるようのことは無いようになされたし。もっともこの方においても精々注意し強圧らしき様成ることはなさせまじ。」
申「是また了承す。速やかにこれを東莱府使に通達すべし。しかし貴方においてもなるだけ注意せしことを望む。」
野村「本日、条約調印の済み上は、ひとり東莱府へ達するのみならず彼の御批准の意に准じ、速やかに全国に布令せらるべし。我が国にては速やかに条約文を刊刻して全国に布くを例とす。」
申「勿論、全国へ布告なすぺし。」
野村「前日、照会せし貴国国旗の事は速やかに製造して一本を送逓せられたし。右は同盟国互いに慶弔のことあるときには必要の具なれば送逓すること速やかなるを期す。」
申「了承す。これまた朝廷へ具陳し我が使節差遣のことある時に携帯せしむべし。」
野村「さて、今一事改めて申し入れたき事あり。他にあらず。本日既に和親通商の条約結了については六ヵ月後には彼の通商章呈を議立するべし。しかるに本日の条約はいわば両国相和親すという名と目すべし。また、通商章程は真実なり。実をふまざれば名すなわち無用物に属す。ゆえにもし彼の章程を議するの時に至り双方の議、相背紛糾する事あれば自ずから本条約の意に悖り違いするなるをもって再び不測の事体にも立ち至るべし。その期に至らば閣下今日の労意も空しく水泡に帰すべし。この事くれぐれも申し上げ候により、名実相反せざるように精々貴慮を注がれたし。
元来両国の間、対等の権を相有しその盟を永遠に伝えんと欲せばすなわち互いに富国強兵をもって国本を固くせざるべからず。しかして富国強兵の道はその国の人民繁殖して有無相通ずるに在るべし。有無相通じて人民繁殖するにあらざれば以って富国強兵に由なし。富国強兵にあらざればすなわち永遠の親盟を期し難し。いわんや方今世勢一変し、欧州各国互いにその富強を競い、万里の波涛も時日を刻して来往するの活動世界に際し、いたずらに無形の精神を説き、空しく定数の天険を頼んで万国を拒絶し、自ら孤立せんとするは実に思わざるの甚だしき志なり。
過日も聞くのに、通商章程議立の日には米穀輸出をば禁止なしたきとのよし、又国内物産寡少を以って他に出すに足らず、さりとて他より仰がざるを得ざるものもあり云々と陳談ありしよし。右は一通り御尤ものように聞こゆれども、ただ失敬ながら経済上において大なる相違の御所見と言わざるを得ず。我が国にても20年前はやはり右の如き説を主張せし人多数これあり。それがしの如きもすなわちその一人なりしが、追々と経済学問の開くるに従い今日に至りては全く前日と反対の見込みと相成りたり。」
是に於いて米穀輸出を許せし前後の形况、飢饉の年の飢餓人の有無及び物産運輸の事業を論述す。
野村「右のわけにつき盟約永続富国強兵も到底通商章程の実事に帰するなり。且つ又大世界の現況を察するに清国日本及び貴国とも相互に孜々として富強の実を謀らざるべからざることは、過日も陳述せしが如し。思うに失敬の申し分ながら、貴国にては此の上人民に増税を課することは難かるべし時なれば、このままにては差し当たり軍艦を造る等の業に着手せらるることも難かるべし。右らは失敬のように聞こゆれども、自分ら我が国にて従来経験上より検し得たる事を懇談に及ぶなり。」
申「軍艦製造などは我が微力にて中々企て及ぶ所にあらず。且つ我が国にては開祖以来三綱五倫の学に従事し、天険により外敵を防ぐを知り、絶えて外国と交通せず、経済の学等に至りては実に茫手としてこれを知らず。本日の高談つぶさに会心す。なお篤と朝廷に申告せん。」
宮本「ただ今、野村より富国強兵論を申し述べたり。右は経世上の要務にして一日も打ち棄てられ難きことなるは申すまでも無し。右につき思考するに貴国人民は兎角勉強力に乏しきよし承れども、人間は誰にても欲のなきものはこれなし。導くに欲を以ってすれば自然に奮発いたすべし。それにつき今ここに貨幣の論を申し上ぐべし。いったい上古は物をもって物に換え、これを有無貿易するということは内地は勿論外国貿易も同様にて何れの国も同じ。しかるにそればかりのことにては、たとえば甲の人は銅を所持しこれを売らんと欲し、乙の人はまた米を売らんと欲す。しかも乙の人は銅の入用これなく、甲の人も米の入用これ無き時は、互いに売買も出来ず、又甲の人は米を買わんと欲するも、所持の銅さらに売れざればその米を買うべき代物なし。かようなる訳なるにより銭貨なる者を制して貿易の媒酌とす。既に貴国にても常平銭これあれば右の理は了解せらるるなるべし。今殊に贅説を費やさず、ただその便利を一層進ませんと望む所は金銀貨なり。それゆえに何れの国にも鉱山を開き金銀採掘の便を謀るなり。」
是に於いて日本金銀銅紙幣の四種を出しすなわち銅銭百枚を以って銀銭一枚に換え、銀銭十枚をもって金銭一枚に換うる訳、ならびに1円金は貨幣の本位なる事。金銀に銅を混和する分量の訳などを一つひとつ細示す。
宮本「かく銅銭は少数のものを売買するために作りたるものにして、もしこの銅貨幣のみなる時は例えば一艘の船を買わんとする時は、山の如くに銅銭を積み立てざればその物を買い入れ得ず。その不便なる是のみならず、たとえば旅行せんと欲する時は携帯するに便ならず。またたとえば前に言いし如く、乙の米を売らんと欲するもの、銅は不用なる時は金銀を受け取り、米を売らんにその金銀は何程にても貯え置かるるもの故、これがすなわち自然と富民の出来る訳にて、この富民の多きすなわち富国の基と言うものなり。支那にても馬蹄銀はこれあり。ポツポツと切りて使用するなれども、今ここに貴覧に入るる通り大小幾種をも製し出し一般に融通する程の便利には及ばず。」
申「貴説、明了、感服す。しかるに一朝急にこれを我が国に施さんと欲するも中々行われざるべし。既に先年、我が国にて當百銭を作り出せしところ、農民共はこれに服せず六年ばかりの内にたちまち不用となりたり。今日といえどもこの貨幣談判でも外に漏るれば民間にては又々何事を仕出すやらんとて、忽ち沸騰すべきに付き我が国にては容易にはかようの事に手をつけかぬるなり。」
宮本「申さるる所の當百銭とは何程の量目にて製造なされしや。常平銭百枚の重さか又は七、八十枚位か或は十枚もしくは二十枚位の重さか。」
申「大概十枚位と考えらる。」
宮本「それゆえに民間の沸騰を起こせしものと思わる。その故は紙幣も同様にて、真に常平銭百枚の値これなきものを以って強いて百枚に通用せしめんとする故人心に適せさるべし。我が日本にても昔日はこれに類する事、許多ありて人民不承服の末、段段と工夫を面らし、この新貨を用うる事に至りたり。紙幣と申すものは真価の金銀ありてこれに代用するものにて、人民も旅行などには真金銀貨を携帯するより、紙幣を携帯することの軽便なるなどの便利よりして、金銀の代用に行わる。すなわちこれに貴覧にいるる我が紙幣も専ら内地に通用いたすなり。かようなる訳なれば、貴国にても真の金銀貨にて通行せざることは有るまじと考えらる。鉱山は掘り尽す際限のある様のものにはこれ無く申さば無尽蔵と同様なり。
ここに出せるこの金銀貨は貴政府へ差し出し申すべし。今日貴政府にて是非金銀を製造せられよと申すにはあらざれども、経済の事には必用のものゆえ参考に備うるまでなり。」
申「御尤もにて好意はかたじけなけれども、この金銀を預かり申すには又々朝廷に啓聞せざるを得ざるに付き、先ず預かり申し上げ難し。高説の趣、ならびに珍しき金銀貨を一覧したる次第をばつぶさに朝廷に申告し、経済の参考に備うべし。」
右の通りにて新貨をば受け取らざる故、持ち帰りて会計係へ引き渡す。
野村「貴国の北の方、現今ロシア領の中にポセツトという処あり。これには貴国人の移住するもの甚だ多し。その人々は皆々ロシア国の貨幣を使用せるを見れば、貴国人といえども慣れさえすれば貨幣を忌み嫌うということはあるまじ。」
宮本「ロシア国界のことにつき、ただ今野村より申し上げたり。さてこの事についても一応申し上げ置たし。(絵図を出し)この所は豆満江にて貴国とロシア領との境界なり。このポセツト港へは、昨年我が政府より官員を差遣し、篤と地理ならびに貴国人民の追々ロシア領へ投入する実況を視察せしめたり。その上、冬になり更に官員を出し、この冬を越し今もって滞勤せり。このポセツトにはロシア国の精兵およそ三千ばかりも屯在し、貴国人民を追々と撫で来る境界を曖昧にし、次第に貴国を蚕食せんとする姿あり。且つまたそれがしの朋友にして当時ロシアの国都にある日本公使館に在勤せる人あり。その人より申し来たりしには、ロシア国、近来の目的を探るにポセツトは寒気強く冬天は氷海になり。不便利ゆえ朝鮮領にて、この絵図面西にあるこの永興府の港を占有し、この所にこの兵所を引き移す見込みなる由なり。果たしてしかる時は貴国はもちろん日本支那などのためにも後來の大害と成るべし。まさにまたこの絵図面には載せらざれども、この地の方に北海道というて大なる島あり。すなわち黒田大臣その開拓の任を蒙り大いにその業を着手せられる所なり。この奥に樺太という大島あり。この地へロシア国人移住いたし、我が官民に恩恵を施したることあり。今ここには詳しくは申し上げ難きことながら、右については日本政府にても殊のほか心配せしことあり。依りて貴国にても今後必定右様の患害これあるべく、只今より注意なされずしては相すまじと考え候。」
申「それは實もって大事なり。しかし他人の国を剥奪すると申すことは不義の甚だしきものなり。なにとぞ左様の事は致さぬように貴国より差し止め下されたし。」
宮本「それは決して出来申さず。第一我が政府にして表向きにこのことを承りたる事にはあらず。それがしが親友より申し来たりし事にこれあり。その上、他国のなすことを差し留める様とは彼の内政に預かることゆえ、とても出来ざる道理なり。いったいかようの話にてすらみだりに発言すべからざることなれども、今日は条約も結了したればこそ拙者より内々に忠告申すなれ。是すなわち最初に懇談と申せし所なり。」
申「さりながら他国よりわが国の危害となる事は済いくだされよ。右らのためにこそ条約をも結びたるなれ。なにとぞ貴国よりロシア国へ説諭は出来申さぬものなりや。」
宮本「なにぶん左様には参り申さず。ただ今貴国にて境界を厳にし十分に注意これありて、ロシアと争端を開かざる様に取り締まりをなさるれば右にて相済むべし。いったいいずれの場所にても隣国との境目はよくよく注意せねばならぬことなり。すなわちこの絵図面の如し。台湾は半分は青色にて支那領なり。半分は白色にて土蛮なり。この土蛮この赤き島すなわち琉球の八重山と申すところの舟人を五十人、土蛮のために殺されたり。よりて今朝錬武堂にて御接遇申したる樺山氏(チェストー!)は、この土蛮を征伐し大いに苦辛し彼の地を攻め取りたる所に、支那にては此の地はわが領地内なりと言い出せり。よりて日本にては、しからば何故我が属藩たる琉球人を屠殺せしをそのままに打ち捨て置きたるや、と支那政府へ掛け合い、支那政府は余儀なく我に謝して五十万テールの償金を出したり。とかく境界のことは注意無しでは相済まず。
さてまたついでながら申し上ぐべし。先日江華湾外碇泊中に我が通弁の者仁川へ上陸せしところ尹映という人に面会す。同人の説を承りたり。その説は多分通弁の間違いかと存ぜらるれども、先ず承りたる所にては尹映氏は豆満江の辺におられ、かつてロシア人を百五十人ばかり殺したる由を誇りて申されたり。いよいよそのこと実説ならば、貴国はすみやかにロシアのために攻め困るべき勢いにもこれあるべきに、只今に至るまで何事も承らざるゆえ実説とは心得られず。たとえ百五十人はさて置き一人たりとも魯人を殺す様なることこれありては貴国のため大変を生じ申すべし。」
申・呉とも打ち笑い、
「尹映の申す所は全く虚説にこれあり。」
宮本「永興府の港のことはよくよく用心めされよ。いったい我が国にてこの地に開港を望みしは、北海道物産運輸の便利なるを主意にして傍ら我が国より港を開き置き候へば、自然と貴国にも取り締まり行き届き候事ゆえ同所を名指して申し上げたることなれども、祖先の陵墓ある故不都合とのこと強いては申し上げず。しかし未だ二十ヶ月の期もこれあること故、篤と御勘考これありたし。」
此処にて亜細亜東部図並びに朝鮮国図とも申氏に贈る。彼は収受す。
訓導、都よりの指令書を取り出し、
「この如く永興府の地には祖先の陵廟これあること故、何分にも開港しては相すまず故、決してゆえなく断り申したる事には之なし。」
宮本「その儀は篤と承知いたせり。」
申「我が国王へ献上されし大砲及び小銃は貴国製なるかまた洋製なるか。」
この前訓導来たり。浦瀬訳官に面会し右砲に横文ある故定めて洋製ならん。然れば国王へ献納するに甚だ都合悪し。如何せんや云々申し談せしことあり。
野村「国製洋製いずれの分かそれがし之を明知せざれども、我が国武庫に蔵せしを我が大臣の儀仗に附せられし品を以って国王殿下へ献上せられたり。その洋字を刻したる如きは只今ご覧ぜられたる我が国貨幣にも洋字あり。皆これ我これを用いて彼に通せしむるなり。造幣寮、造船寮、器械製造、鉱山、そのほか製作場数多くあり。貴国人もし我が国に来るあらば之を実見することを得べし。右等製作するには洋字ならざれば切り口などがより合いかぬる事もあり。」
野村「今、一事問い合わせ置くべし。指定港口居留の日本人遊歩規定は大概我が十里すなわち貴国百里四方位にこれなくては大いに困窮いたすべし。如何考えなさるや。」
申「我が百里と申しては余り広すぎるように考え候。しかし是等は細目を議するに当たりその当を定め申すべし。」
右にて終わる。酒肴饗応ありて(ここだけ墨線で消してある(笑)。)の後に別を告げて帰る。
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日本が朝鮮に求めるもの
ここで野村が、「元来両国の間、対等の権を相有しその盟を永遠に伝えんと欲せばすなわち互いに富国強兵をもって国本を固くせざるべからず。しかして富国強兵の道はその国の人民繁殖して有無相通ずるに在るべし。有無相通じて人民繁殖するにあらざれば以って富国強兵に由なし。富国強兵にあらざればすなわち永遠の親盟を期し難し」
と言っているが、これこそが日本が条約を結んだ朝鮮に求めているものであろう。
つまりは、「国を富ませて強くなれ。それこそが日本の同盟国たるものである。それが出来ないなら同盟国とは言わないぞ。」と。
ところで、この「富国強兵」であるが、そもそも日本が富国強兵策に取り組みだしたのはペリー来航以降の幕末時代からであり、それは「日朝の交際歴史の補填資料」にある、慶応3年(1867)8月に、同年3月の朝鮮国礼曹参判からの八戸順叔の言に関しての問い合わせに対して、
「抑我大君殿下丕撫区域旧弊斯除百度一新文武庶員賛成謀議夙夜唯以張皇国威為目今急購其砲艦器械於海外給我冨国強兵之資者往往皆然安知非流言之所以由来」(「朝鮮国交通手続 2」p9))
『我が大君殿下(徳川将軍)は大いに旧弊を取り除いて文武を一新し、皇国の威を張るために砲艦器械を海外に求めて富国強兵の資とするは皆知ることであって流言に由来することではない・・・』
という資料からも伺うことが出来る。そして富国強兵に向けての国体の大変革の結果が明治維新であったと言ってもよいだろう。
まあ考えてみれば、当時の世界情勢を知るなら富と力こそ繁栄を保ち身を守る手立てであるとは子供でも分かる道理であって、何もドイツから学ぶほどのことでもない。そのことにいち早く気づいた日本人はだからこそ攘夷を棄てて開国に踏み切り、その手段を大いに西洋の文物に求め、留学をし、貿易を盛んにし、以って国を富ませ強兵を養うことに全力を挙げたのである。
で、朝鮮もまた是非そうせよ、それ以外に国を保つ道はないぞ、という日本政府からの強い進言がこの時の対談でなされたということになる。
最初から朝鮮を併呑する意図があるならこのような進言はしない。未開の貧国弱兵の国であり続けることこそ望むだろう。さらには、修好条約など結ぶこともなかったろう。
また、文章全体を見ると、筆者には、朝鮮に対してまるで子供を諭すかのように宮本や野村たちが話しているように感じるのだが、どうであろうか。またこれは、日本による朝鮮への第1回目の「指導」とも言えるものではなかろうか。
しかしまあ、文明開化の視点から見れば朝鮮国は明らかに後進国であり、その将来もまた覚束ないものに見えたろうと思う。
上下貧困、至急繁盛の市を開く時にあらず
無事大役を果たして日本に帰国した黒田・井上両大臣も、4月に「朝鮮國條約履行之目的」と称する建言書を提出して、朝鮮とのこれからの交際への提言を行っているが、それによれば、まず黒田たちの目に付いたのは、朝鮮の貧しさだったらしい(修好條規実践ニ関シ正副両大臣建言ノ件)。
「要するに上下貧困、いたるところに寂寞たる部落あるのみ」
「彼と強いて貿易せんと欲するも貨幣ある無く、産物、一の貴重すべきなければ、至急繁盛の市を開く時にあらず」と。
かつて江華島に向かう途中で「未開の野蛮は十分の懲戒を加えたる上に」などときつい事を言っていたのとだいぶ様子が違い、朝鮮のことを思いやる文章となっている。
当時の日本も貧国の部類だったが、黒田たちには朝鮮の貧しさが格別なものに映ったらしい。「使鮮日記」にもそんな朝鮮の様子がいろいろと描写されている。
まず黒田は朝鮮の山に木が少ないことを繰り返し述べている。釜山では木あっても杉や檜などの美材がなく、背の低い潅木ばかりであると、江華島では山がみな禿げていて樹木がなく目を慰めるものがないと。
併合時代に日帝が切り倒してそうなったと言う者があるが、そうではなくて李氏朝鮮時代からだったようである。
また、黒田が浦瀬裕通訳官から聞いた話として、江華府である時に玄訓導に蜜柑5、6個を贈ったところ、玄がひどく喜んでもう若干を求めた。なんでも国王に献上したいと言う。それで浦瀬は安田(庶務係)に頼んで百個を贈らせた。朝鮮では蜜柑や柑橘類を産しないが、冬至の祭りの頃にかつて必ずこれを食する習俗があり、今では国王とその親族のみが釜山の官吏に命じて日本から取り寄せてこれを食すると言う。(例の夕張メロンみたいなものか。)「かつて必ずこれを食する習俗」とあるから、昔は産していたのだろうか。それらの樹木も荒廃してなくなったと言うことだろうか。
建物については、会談や調印式の会場となった錬武堂のそのお粗末さを、日本の僻地の村落の頽廃した仏堂を彷彿とさせるものだ、と言っている。
河田紀一が撮影した江華府の写真などを見ても、瓦屋根の建物はわずかで、そのほとんどが藁葺きの襤褸小屋のような家ばかりである。
都(ソウル)に行っていたらまた印象が違ったろうか。しかし、この年の7月に外務大丞宮本小一は使節としてソウルに赴いたのであるが、明治の日本人にとって初めてのその地もまた、見るぺきものがなく、山には木がなく赤土色であり、道路は整わず、井戸や川や排水などの生活環境のあまりの不潔さに呆れている。また、便所というものがなく、朝廷が用意した宿では日本人のためにわざわざそれが作られた、とも。
また周囲の村落の家々は、石と土で出来ておりその上に稲藁をのせて屋根とし、屋根が低いために大人は中で立っていることが出来ず、土の上に藁を敷いてその上で住まいしていると書いている。(これはまるで竪穴式住居を思わせる。宮本のこの時の報告の詳細は後述したい。)
朝鮮という国は充分貧しい国だったのである。
それがためか建言の中で、草梁公館の地代が対馬宗氏時代から無料であるところから(また「公館は宗氏が朝鮮から譲り受けたものだという説があるが、その確証無し」と建議の中で断じている。)、領事館施設のみ残して他は朝鮮に返し、必要な敷地のみを地代を払って借りるほうが良いと提案している。
とにかく朝鮮に対しては、急がず、かと言って怠け癖が出ないようにそれなりに督促して事を進めるべきであり、また宗氏のこれまでの不正貿易を厳しく排し(どうやら二種類の升を使って量を誤魔化したりなどしていたらしい。)、日本側に貿易の不正があった場合は厳しく処罰せねばならない、などと述べている。
建言にある黒田・井上たちの視点はきわめて現実的である。先の宮本・野村の朝鮮の大臣たちとの会談は、どちらかといえば朝鮮に改革を求めんとする指導的立場での物言いが伺われる。もちろん朝鮮は日本の防衛にとっての生命線であり、対清国、対ロシアということでしっかりしてもらいたい国である。またそれは朝鮮国のためでもあった。産業を興し国力を増し富を豊かにしてこそ、国の繁栄、人民の幸福はあるのであるから。
それに対して黒田たちの建言は、朝鮮国の現状を目の当たりにして、分かりやすく言えば、「まあ、ぼちぼち交際すればよいではないか」ぐらいの物言いに感じられる。
「通商章程議立ノ事」としてこうも述べている。(「修好條規実践ニ関シ正副両大臣建言ノ件」p7より要旨。()は筆者)
「商議の場所は江華府でも出来る。(宮本は京城ソウルを希望しているらしい)軍艦に官員を乗せて測量の傍ら行けばよい。また、商議決定までは兵威を示さないでは、朝鮮はまた怠慢の心を生じて決定が難しいかもしれない。通商章程も細部まで細かく決めてもかえって実際の用を成さないように思う。両国の輸出入の物品の見込みを定めて、朝鮮側もわざわざ税関の官吏などを多数を置かずにすむぐらいのことにして、貿易の景況にしたがって次第に章程も双方よく協議して追加したり是正したりしていけばよい。これらのことは、朝鮮の地の事情を酌量する参考にしてもらいたい。
また、従来は日本からの輸出品に税金をかけていたが、その量も少ないことから収税は廃止して貿易推進をはかり、その際、今までの和船を使って対馬経由での貿易では不便でありまた風波の難も少なくないから、日本型西洋型を問わず政府から平素より来往する艦船に物品を運ばせればよい」
と。
つまりは日朝間貿易は当面は非関税とするのがよいという判断の理由がこれであった。もちろん、貿易の情況によって将来は関税を設けるという是正も含めてのものである。
何しろ現在では早合点をして、「日帝は不平等な条約を強制的に結ばせ、不当な貿易で朝鮮から搾取した」などと言う者もいるから気になっていたが、こうして実際調べてみると、黒田たちの通商章程への建言も至極まともなものだったのだなと思う。
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