明治開化期の日本と朝鮮(6)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)


索 引

 干戈を以って是に当たらず
 朝鮮政府の謝罪文(正式)
 強要した? そう簡単に言えない真実
 国王署名押印の件
 いわゆる「不平等な」条約について
 日朝両国による条約の検討の詳細
 どこがどう不平等なのか

干戈を以って是に当たらず

 日本に帰国した黒田一行は凱旋して大歓迎を受けた。その時の雰囲気が伺える錦絵である。制作年代は残念ながら分からない。
  文章の欄には、
「・・・今や我国文明の域に進み、彼(朝鮮)先に屡(しばしば)我(日本)に無礼を加うといえども、干戈を以って是に当たらず、弁理両大臣が力を尽し、朝命を奉じ一言の下に説破し、彼固有の頑陋心を転じ我と好みを厚うするや、皇威のさかんなる事を待すといえども、両大臣の功また偉ならずや。」
 とある。
 当時の日本人一般の認識として、「干戈を以って是に当たらず、弁理両大臣が力を尽し、朝命を奉じ一言の下に説破し」とあるように、武力によらずに論破して改心させて問題を解決したというものであったことが分かる。その根拠ともなろうと思われるのが次の朝鮮政府の謝辞(謝罪文)である。

朝鮮政府の謝罪文(正式)


 2月20日に提示した朝鮮側の謝辞(謝罪文)は、日朝両国の交際が阻隔したのは(日本人と称する)「八戸順叔」のせいであると言わんばかりの、謝罪の実のない言い訳がましい長文であったが、26日に再度提出した謝辞は次のように簡潔かつ妥当なものとなった。

(対韓政策関係雑纂/黒田弁理大臣使鮮始末 正本/4 )

朝鮮政府謝辞
議政府為照會事兩國修睦且三百年矣使幣往來情若兄弟各安人民無爭嚇戊辰以來因未審
貴國革新状所以有種々疑端
貴國屡次使書未遂接受終爲隣誼阻隔之地昨秋會
貴國汽船抵江華島又致有紛擾迨此次
貴大臣奉使臨與敝國使相接得領盛意従前猜疑一朝開釋曷勝歎如承示立約各款我朝廷既委敝國使會商戊辰以來兩國往來公文均廢爲枯紙庶永遠親睦共謀兩國之慶亦以昭我國善隣之誼

右 照 會
大日本國辨理大臣
大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日[議政府印]
(明治9年2月26日)

『両国が睦んでほとんど三百年にして使節往来の情は兄弟の如く、各人民は安んじて相争う事がなかったのに、戊辰(明治1年)以来、未だ貴国の革新(維新)の状況を審議しなかったことに因り種々の疑いをし、貴国が何度も送る使書を未だ遂に接受をせず、終に隣国阻隔の地として、そうして昨秋には貴国の汽船(雲揚号)が江華島にいたるに及んで紛擾までしてしまった。今、貴大臣が我が国と相接するにおよんで、従前の猜疑は一朝にして消えてなくなった。従来の事を回顧すれば、痛歎に堪えないことである。条約を結ぶことや各款の検討は、我が朝廷より既に我が国の大臣に委任して会商させた。この上は、戊辰以来の両国来往の公文(朝鮮が出した諸例規や誹謗文とそれに対する日本の抗議文のことか。)は均しく廃して枯紙となし、更に永遠に親睦し、共に両国の慶を謀らば、また以って我が善隣の誼を明らかにするものである。』

 日本側はそれに対して「彼が頑固狭隘なる悔悟陳謝の意は十分に言外に顕われたれども、猶体面を修飾し申謝の隻字を文中に挿入せざるを。しかれども、(我が)大臣は既に大局において我が目的を達すれば、細故に拘泥して使事を稽延するを欲せず。すなわち此の書を接受して以って彼が謝辞を致すの名を存せり。」としている。(公文別録・朝鮮尋交始末・明治九年・第三巻・明治九年)

 明治1年以来の日朝阻隔のことを痛歎に堪えないことであると悔い、雲揚号事件のことにもふれて非を認め、齟齬のすべてを水に流して永遠の親睦善隣をはかろうとする文である。
 もっとも、前の20日の謝辞にも「情若兄弟」「貴国厚意何可忘也萬々感謝」とか貴大臣に接して「猜疑一朝開釋」し「痛歎」したとか「永久為好」とかは言っており、「八戸」のことを削除して江華島のことにふれ、遺憾の意を明確にしたものと言えよう。

強要した? そう簡単に言えない真実

 日本が武力で脅して開国と条約を強要した?
 筆者もかつてはそう思っていた。いや思い込まされていたのである。
 今は思う。そう簡単に言うなと。 そもそも「開国」ではないし、幕府時代からの政府間交際を回復したに過ぎないのだが。それに民間交易は途絶えることなく続いていたし。

 陪通事 金福珠は、「我が国が日本艦を砲撃したのは実に妄動というべきである。・・・しかもこの事は日本に理があって我々に理はない。」、司訳院堂上 呉慶錫は、「そもそも我が国からこそ交際を貴国に求め、緩急に際して斡旋をも願うべきはずである。それに引き替え今日の現況なり。歎くべし」、「自分は今、自国に対して叱り言を吐くは実にこういうわけである」、そして申大臣も、「両国三百年来の交誼、真に廃すべからざるなり。今、さらに旧交を敦(あつ)うするの言を承って、殊に感謝に堪えず」「戊辰(明治1年)以来、書契の件、従前はこれを拒みたるもの、今ことごとく氷解した。向後はこれを拒まず異議なく領受すべし。」と言い、あの嘘つき訓導 玄昔運ですら、「もとより(日本は)交わらざるを得ない国であるから」「今日この地に対面した。心おのずから楽し。」と言っている。
 これが当時の朝鮮の現場の人間たちの声である。
 そして、開国に反対し日本との交際を謝絶せんとした旧東莱府使は追放され、旧訓導 安俊卿は処刑されてさらし首にされている。それは明治7年4月のことであり、雲揚や第二丁卯が派遣される1年以上前のことである。

 これが自分なりに調べて浮かんでくる当時の事実である。

国王署名押印の件

 さて、「国王署名押印」の件であるが、以下のものとなった。

 「対韓政策関係雑纂/黒田弁理大臣使鮮始末 正本/4」からのコピーであるが、これはもちろん写本である。
 当初の約束では「朝鮮國君王」ということであったが、申大臣の話では、
 「我が国王、臣下に対しては君王或いは主上と称するゆえ主上と書きたる訳なれば」とのこと。
  それに対して黒田は、
 「君王を主上と改められたるのみにて事に害あるとも思わざれば」と受け入れた。
 また、これにより、野村・宮本は、「日本側の批准も天皇の名は記さずに『大日本皇帝 御璽』とされては」と寺島外務卿に上申したが、実際の批准書には「睦仁 大日本国璽」とあって、普段どおりのものとなっている。(「第三巻 自 明治七年 至 明治九年/3 同九年丙子」p48、アジ歴の御署名原本資料「日朝修好条規・批准書」)
 なお、両国大臣による実際の調印は2月27日であったが、約束期日が26日に当たることと国王批准が26日でもあるところから、明治9年2月26日をもって条約の成立としている。(明治八年江華島事件善後處置 日米間難破舩救助費償還條約/13 条約調印当日ノ記事)

 

 

 次に、いわゆる「不平等な」条約について調べて行きたい。「不平等な」と括弧でくくったのは、どうもこれもそう簡単には言えないぞ、と思えてきたからである。

いわゆる「不平等な」条約について

日朝修好条規
(正副弁理大臣朝鮮政府ト交換ノ修好条規御批准)より。句読点は筆者。


修 好 條 規

大日本國
大朝鮮國ト、素ヨリ友誼ニ敦ク年所ヲ歴有ヲセリ。今両國ノ情意、未ダ洽子カラサルヲ視ルニ因テ、重ネテ舊好ヲ修メ、親睦ヲ固フセント欲ス。是ヲ以テ日本國政府ハ、特命全權辨理大臣陸軍中將兼参議開拓長官黒田清隆、特命副全權辨理大臣議官井上馨ヲ簡ミ、朝鮮國江華府ニ詣リ、朝鮮國政府ハ判中樞府事申、都ハ府副ハ管尹滋承ヲ簡ミ、奉スル所ノ諭旨ニ遵ヒ議立セル條款ヲ左ニ開列ス。


  第一款
朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ。嗣後兩國和親ノ實ヲ表セント欲スルニハ、彼此互ニ同等ノ禮義ヲ以テ相接待シ、毫モ侵越猜嫌スル事アルへカラス。先ツ從前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ、務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開擴シ、以テ雙方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ。

  第二款
日本國政府ハ今ヨリ十五箇月ノ後時ニ随ヒ、使臣ヲ派出シ朝鮮國京城ニ到リ禮曹判書ニ親接シ交際ノ事務ヲ商議スルヲ得ヘシ。該使臣或ハ留滞シ或ハ直ニ歸國スルモ亦其時宜ニ任スヘシ。朝鮮國政府ハ何時ニテモ使臣ヲ派出シ日本國東京ニ至リ外務卿ニ親接シ交際事務ヲ商議スルヲ得ヘシ。該使臣或ハ時機ニ歸國スルモ亦其時宜ニ任スヘシ。

  第三款
嗣後、兩國相往復スル公用文ハ日本ハ其國文ヲ用ヒ、今ヨリ十年間ハ添フルニ漢譯文ヲ以テシ、朝鮮ハ眞文ヲ用フヘシ。

  第四款
朝鮮國釜山ノ草梁項ニハ日本公館アリテ、年來兩國人民通商ノ地タリ。今ヨリ從前ノ慣例及歳遣船等ノ事ヲ改革シ、今般新立セル條款ヲ憑準トナシ、貿易事務措辨スヘシ。且又朝鮮國政府ハ第五款ニ載スル所ノ二口ヲ開キ、日本人民ノ往來通商スルヲ准聽ス可シ。右ノ場所ニ就キ地面ヲ賃借シ家屋ヲ造営シ、又ハ所在朝鮮人民ノ居宅ヲ賃借スルモ各其随意ニ任スヘシ。

  第五款
京畿、忠清、全羅、慶尚、咸鏡、五道ノ沿岸ニテ通商ニ便利ナル港口二個所ヲ見立タル後、地名ヲ指定スヘシ。開港ノ期ハ日本暦明治九年二月ヨリ朝鮮暦丙子年正月ヨリ、共ニ數ヘテ二十個月ニ當ルヲ期トスヘシ。

  第六款
嗣後、日本國船隻朝鮮國沿海ニ在リテ、或ハ大風ニ遭ヒ又ハ薪糧ニ窮竭シ指定シタル港口ニ達スル能ハサル時ハ、何レノ港灣ニテモ船隻ヲ寄泊シ風波ノ險ヲ避ケ要用品ヲ買入レ船具ヲ修繕シ柴炭類ヲ買求ムルヲ得ヘシ。勿論其供給費用ハ總テ船主ヨリ賠償スヘシト雖トモ、是等ノ事ニ就テハ地方官人民トモニ其ノ困難ヲ體察シ、眞實ニ憐恤ヲ加ヘ救援至ラサル無ク補給敢テ吝惜スル無ルヘシ。倘シ又兩國ノ船隻大洋中ニテ破壊シ乗組人員何レノ地方ニテモ漂着スル時ハ、其地ノ人民ヨリ即刻救助ノ手續ヲ施シ各人ノ性命ヲ保全セシメ、地方官ニ届出、該官ヨリ各本國ヘ護送スルカ又ハ其近傍ニ在留セル本國ノ官員ヘ引渡スヘシ。

  第七款
朝鮮國ノ沿海島嶼岩礁、從前審撿ヲ經サレハ極メテ危險トナスニ因リ、日本國ノ航海者自由ニ海岸ヲ測量スルヲ准シ其位置淺深ヲ審ニシテ圖誌ヲ編製シ、兩國船客ヲシテ危險ヲ避ケ安穏ニ航通スルヲ得セシムヘシ。

  第八款
嗣後、日本國政府ヨリ朝鮮國指定各口ヘ時宜ニ随ヒ、日本商民ヲ管理スルノ官ヲ設ケ置クヘシ。兩國ニ交渉スル事件アル時ハ、該官ヨリ其所ノ地方長官ニ會商シテ辨理セン。

  第九款
兩國既ニ通交ヲ經タリ。彼此ノ人民各自ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ。兩國官吏毫モ之レニ關係スルコトナシ。又貿易ノ制限ヲ立テ、或ルハ禁沮スルヲ得ス。倘シ兩國ノ商民欺罔衒賣又ハ貸借償ハサルコトアル時ハ、兩國ノ官吏嚴重ニ該逋商民ヲ取糺シ債缼ヲ追辨セシムヘシ。但シ兩國ノ政府ハ之ヲ代償スルノ理ナシ。

  第十款
日本國人民、朝鮮國指定ノ各口ニ在留中、若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ。若シ朝鮮國人民罪科ヲ犯シ日本國人民ニ交渉スル事件ハ均シク朝鮮國官員ノ査辨ニ歸スヘシ。尤雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ、毫モ回護袒庇スルコトナク務メテ公平充當ノ裁判ヲ示スヘシ。

  第十一款
兩國既ニ通好ヲ經タレハ、別ニ通商章程ヲ設立シ兩國商民ノ便利ヲ與フヘシ。且、現今議立セル各款中更ニ細目ヲ補添シテ以テ遵照ニ便ニスヘキ。條件共自今六個月ヲ過スシテ兩國別ニ委員ヲ命シ、朝鮮國京城又ハ江華府ニ會シテ商議定立セン。

  第十二款
右議定セル十一款ノ條約、此日ヨリ兩國信守遵行ノ始トス。兩國政府復之レヲ變革スルヲ得ス。以テ永遠ニ及ホシ兩國ノ和親ヲ固フスヘシ。之レカ爲ニ此約書二本ヲ作リ兩國委任ノ大臣各ツ印シ相互ニ交付シ以テ憑信ヲ昭ニスルモノナリ。


大日本國紀元二千五百三十六年明治九年二月二十六日

大日本國特命全權辨理大臣陸軍中將兼参議開拓長官 黒田清隆 印
大日本國特命副全權辨理大臣議官 井上 馨 印

大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日

大朝鮮國大官判中樞府事 申  印
大朝鮮國副官都ハ府副ハ管 尹 滋承 印

 

日朝両国による条約の検討の詳細

 まず、確認しておかねばならないことは、上記の明治9年2月26日成立の日朝修好条規は、日朝両大臣とその随行員たちによる議論と検討がなされた上で整えられたものであるということである。何も日本側が一方的に押し付けて受け入れさせたものではない。以下、その各款に対する朝鮮側の異議と要求を、また、日本側はどうそれを了承して改定したかを記す。

(対韓政策関係雑纂/黒田弁理大臣使鮮始末 正本3)より

2月19日、朝鮮議政府より條約條款中に内議の件ある旨を言って来たとのことで、朝鮮側の要望で、宮本小一と野村靖が申大臣の居館に赴いた。そこで議したことは次の通りであった。

  首款について

大日本國
大朝鮮國ト、素ヨリ友誼ニ敦ク年所ヲ歴有ヲセリ。今両國ノ情意、未ダ洽子カラサルヲ視ルニ因テ、重ネテ舊好ヲ修メ、親睦ヲ固フセント欲ス。是ヲ以テ日本國政府ハ、特命全權辨理大臣陸軍中將兼参議開拓長官黒田清隆、特命副全權辨理大臣議官井上馨ヲ簡ミ、朝鮮國江華府ニ詣リ、朝鮮國政府ハ判中樞府事申、都ハ府副ハ管尹滋承ヲ簡ミ、奉スル所ノ諭旨ニ遵ヒ議立セル條款ヲ左ニ開列ス。

 『大日本國大朝鮮國』───案では、大日本國朝鮮國となっていたが、朝鮮側は当初、両国対等の礼に合わないと「大日本國」の「大」を省くことを要求したが、後に朝鮮國にも「大」を付けて「大朝鮮國」としたいとの要求に変わってそれに決定。
 『日本國政府ハ、・・・朝鮮國政府ハ・・・』───案では、「皇帝陛下ハ」と「国王殿下ハ」とあったが、朝鮮側が、それでは差異があるので「日本國政府」「朝鮮國政府」に改めたいというので、それに決定した。

  第一款
朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ。嗣後兩國和親ノ實ヲ表セント欲スルニハ、彼此互ニ同等ノ禮義ヲ以テ相接待シ、毫モ侵越猜嫌スル事アルへカラス。先ツ從前交情阻塞ノ患ヲ為セシ諸例規ヲ悉ク革除シ、務メテ寛裕弘通ノ法ヲ開擴シ、以テ雙方トモ安寧ヲ永遠ニ期スヘシ。

 ───朝鮮側から別に異議なし。


  第二款
日本國政府ハ今ヨリ十五箇月ノ後時ニ随ヒ、使臣ヲ派出シ朝鮮國京城ニ到リ禮曹判書ニ親接シ交際ノ事務ヲ商議スルヲ得ヘシ。該使臣或ハ留滞シ或ハ直ニ歸國スルモ亦其時宜ニ任スヘシ。朝鮮國政府ハ何時ニテモ使臣ヲ派出シ日本國東京ニ至リ外務卿ニ親接シ交際事務ヲ商議スルヲ得ヘシ。該使臣或ハ時機ニ歸國スルモ亦其時宜ニ任スヘシ。

『禮曹判書ニ親接シ』───案では、「秉権大臣ニ親接シ」となっていたが、朝鮮側は、「秉権大臣」ではその指すところが判然としないので、「禮曹判書」と改めたいとのこと。日本側は、日本の使臣は交際事務を議するのは秉権(秉は、手ににぎる、保持する、の意)使臣でなければ出来ないが、禮曹判書の権はどの程度のものか、また礼典に関係するのみで交際事務に関係するかどうかはこちらは知らないが、何官にても談判に差し支えないほどの権を有する者ならこちらはそれで差し支えないと答えた。それに対し朝鮮側は、以前から「日本交際禮曹判書」にて引き受けたからその官名を指定したい、とのことでそれに決定した。


  第三款
嗣後、兩國相往復スル公用文ハ日本ハ其國文ヲ用ヒ、今ヨリ十年間ハ添フルニ漢譯文ヲ以テシ、朝鮮ハ眞文ヲ用フヘシ。

 ───案では、『今ヨリ十年間ハ添フルニ漢譯文ヲ以テシ』はなかったが、朝鮮側の要望として、朝鮮人は日本文を読める者がいないので、日本文を送付されては事務に差し支えるので漢訳文を添えてもらいたい、とのこと。これにより日本側は10年間はそうすることに決定。


  第四款
朝鮮國釜山ノ草梁項ニハ日本公館アリテ、年來兩國人民通商ノ地タリ。今ヨリ從前ノ慣例及歳遣船等ノ事ヲ改革シ、今般新立セル條款ヲ憑準トナシ、貿易事務措辨スヘシ。且又朝鮮國政府ハ第五款ニ載スル所ノ二口ヲ開キ、日本人民ノ往來通商スルヲ准聽ス可シ。右ノ場所ニ就キ地面ヲ賃借シ家屋ヲ造営シ、又ハ所在朝鮮人民ノ居宅ヲ賃借スルモ各其随意ニ任スヘシ。
(なお「歳遣船」とは、幕府時代から毎年一定数だけ朝鮮へ派遣した修好の使船のこと。実質的には貿易船であった。)

『今ヨリ從前ノ慣例及歳遣船等ノ事ヲ改革シ』───案では「歳遣船」は入っていなかったが、朝鮮側から、従来からの対馬宗氏の歳遣船公貿易の事は朝鮮政府の望まないところであるので、従前の慣例を改革するとは歳遣船公貿易の事もその中に入るのかどうか、と言うので、「歳遣船」の語を書き加えた。


  第五款
京畿、忠清、全羅、慶尚、咸鏡、五道ノ沿岸ニテ通商ニ便利ナル港口二個所ヲ見立タル後、地名ヲ指定スヘシ。開港ノ期ハ日本暦明治九年二月ヨリ朝鮮暦丙子年正月ヨリ、共ニ數ヘテ二十個月ニ當ルヲ期トスヘシ。

 ───案では永興府海口(咸鏡南道)と地名を指定していたが、朝鮮側が、永興府には朝鮮国王の開祖の廟があり、ここで開港すれば外国人の為にどういうことがあるとも分からないので他の港にしたい、との要望があり、結局、土地名を指定しないことにした。


  第六款
嗣後、日本國船隻朝鮮國沿海ニ在リテ、或ハ大風ニ遭ヒ又ハ薪糧ニ窮竭シ指定シタル港口ニ達スル能ハサル時ハ、何レノ港灣ニテモ船隻ヲ寄泊シ風波ノ險ヲ避ケ要用品ヲ買入レ船具ヲ修繕シ柴炭類ヲ買求ムルヲ得ヘシ。勿論其供給費用ハ總テ船主ヨリ賠償スヘシト雖トモ、是等ノ事ニ就テハ地方官人民トモニ其ノ困難ヲ體察シ、眞實ニ憐恤ヲ加ヘ救援至ラサル無ク補給敢テ吝惜スル無ルヘシ。倘シ又兩國ノ船隻大洋中ニテ破壊シ乗組人員何レノ地方ニテモ漂着スル時ハ、其地ノ人民ヨリ即刻救助ノ手續ヲ施シ各人ノ性命ヲ保全セシメ、地方官ニ届出、該官ヨリ各本國ヘ護送スルカ又ハ其近傍ニ在留セル本國ノ官員ヘ引渡スヘシ。

  第七款
朝鮮國ノ沿海島嶼岩礁、從前審撿ヲ經サレハ極メテ危險トナスニ因リ、日本國ノ航海者自由ニ海岸ヲ測量スルヲ准シ其位置淺深ヲ審ニシテ圖誌ヲ編製シ、兩國船客ヲシテ危險ヲ避ケ安穏ニ航通スルヲ得セシムヘシ。

  第八款
嗣後、日本國政府ヨリ朝鮮國指定各口ヘ時宜ニ随ヒ、日本商民ヲ管理スルノ官ヲ設ケ置クヘシ。兩國ニ交渉スル事件アル時ハ、該官ヨリ其所ノ地方長官ニ會商シテ辨理セン。

 ───第六、七、八款と朝鮮側から別に異議なし。


  第九款
兩國既ニ通交ヲ經タリ。彼此ノ人民各自ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ。兩國官吏毫モ之レニ關係スルコトナシ。又貿易ノ制限ヲ立テ、或ルハ禁沮スルヲ得ス。倘シ兩國ノ商民欺罔衒賣又ハ貸借償ハサルコトアル時ハ、兩國ノ官吏嚴重ニ該逋商民ヲ取糺シ債缼ヲ追辨セシムヘシ。但シ兩國ノ政府ハ之ヲ代償スルノ理ナシ。

─── 案では、「倘シ兩國ノ商民欺罔衒賣又ハ貸借償ハサルコトアル時ハ、兩國ノ官吏嚴重ニ該逋商民ヲ取糺シ債缼ヲ追辨セシムヘシ。但シ兩國ノ政府ハ之ヲ代償スルノ理ナシ。」はなかった。しかし朝鮮側が、もし朝鮮人民が日本人民に対して、引負いや違約がある時は朝鮮政府はその責任を負うことになることを憂慮すると述べた。それに対し日本側は、各自その意見に任せて貿易させるべきであり、両国の官吏はこれに関係しないとあれば、政府ももとよりその責任を負う理由が無い。もし政府がこの貿易に干渉する時は、それによって責任もまた生じると答えた。しかし、朝鮮側はそれでも不安のようでついに款末に数言を加えた。しかしその文意が難しくて意味不明なので、相談して「倘シ兩國ノ商民欺罔衒賣・・・」の文を付け加えることにした。


  第十款
日本國人民、朝鮮國指定ノ各口ニ在留中、若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ。若シ朝鮮國人民罪科ヲ犯シ日本國人民ニ交渉スル事件ハ均シク朝鮮國官員ノ査辨ニ歸スヘシ。尤雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ、毫モ回護袒庇スルコトナク務メテ公平充當ノ裁判ヲ示スヘシ。

  第十一款
兩國既ニ通好ヲ經タレハ、別ニ通商章程ヲ設立シ兩國商民ノ便利ヲ與フヘシ。且、現今議立セル各款中更ニ細目ヲ補添シテ以テ遵照ニ便ニスヘキ。條件共自今六個月ヲ過スシテ兩國別ニ委員ヲ命シ、朝鮮國京城又ハ江華府ニ會シテ商議定立セン。

───第十款、第十一款と朝鮮側から別に異議なし。


  第十二款
右議定セル十一款ノ條約、此日ヨリ兩國信守遵行ノ始トス。兩國政府復之レヲ變革スルヲ得ス。以テ永遠ニ及ホシ兩國ノ和親ヲ固フスヘシ。之レカ爲ニ此約書二本ヲ作リ兩國委任ノ大臣各ツ印シ相互ニ交付シ以テ憑信ヲ昭ニスルモノナリ。

───案ではこの十二款は、全く別のものであった。即ち、
「日本國従前外国人民ニ准シテ通商スル各口ハ均シク朝鮮國人民ノ来往貿易スルヲ免許シ他國ト異ナルナシ。又朝鮮國ニテ爾後他國ト通好ヲ脩メ、和約ヲ義立スルコトアル時此条約内載セサル所ニシテ別ニ他國ニ許セル箇条アラハ日本國ニテモ同シク其特典ヲ蒙ラサルナシ。」
と。
 しかし朝鮮側が言うのには、「朝鮮は西洋各国と多くは仇敵であり、決して条約を結ぶことはしない。たとえ条約を結ぶことになっても必ず先ず日本と謀り全て日本の周旋に頼らざるを得ないから、もし日本に許さなかった条件を各国に許すことになった場合においては、日本国政府から朝鮮政府に問い合わせれば、日本にも許すことになるのは間違いない。しかし今は、あらかじめこの條款を設けるということは、我が国が外国と条約を結ぶ意があることになるから、この款は削除することを望む。」ということで、上記の内容と改められたか、上記の内容が十三款にあったものが十二款となったかしたものであり、元の十二款は全文削除されている。


 以上のように朝鮮側の要望により改定された案を、日本側大臣に提出。
 「大臣すなわち各條、皆彼の求むる所に応じ、斟酌改定す。」
 と了承した。

 

 また更に、外務大丞 宮本小一からの報告に、条約調印期限ぎりぎりになって、次のような論議がされたことが報告されている。(修好條規談判中朝鮮政府希望ノ件々申出ノ義ニ付宮本、野村両大丞ヨリ具申ノ件)

 朝鮮議政府から、条約の款に加えるか付録としたい箇条がある、というものであった。(2月25日と推定される。)
 それに対し宮本は、すでに條約調印の期限が一両日中に切迫しているのに、今また新箇条を加えれば、その議決を得るために京城(ソウル)と往復するだけで期限が過ぎてしまうだろう。それでは結局、まとまらないことになってしまうので、いずれ6ヶ月後の通商章程を議する時に検討して、今度のには掲載せずに済ますべきである、と答えた。
 それに対して、申大臣は、議政府から言って来ていることなので、自分としては今ぜひ検討してもらいたいと言った。

 その箇条と論議内容は次のとおりである。

一 日本人、常平銭(朝鮮貨幣)の使用を許さざる事。

宮本「常平銭を日本人民が使用できないということは、朝鮮にあって果物ひとつ、タバコひとつ買い入れることも出来ないということである。これでは寛裕貿易(自由貿易)を許した議決の意味が無い。」

一 米穀を貿易するを禁ずる事。

宮本「米穀の事は、たとえ朝鮮より輸出を禁じるとも、輸入を禁じるには及ぶまい。もし朝鮮が飢饉の時は日本から輸入自由なら朝鮮の人民は飢えから免れる道理である。そうであるならこの条も不要である。」

一 貿易は総て物を以って物に易る事。並びに彼我商民売買に手付金または銭物貸借および利息を取る事を禁ずる事。

宮本「物を以って物に易るは古風の貿易法であって、方今各国でも今さら用いない方法である。自由貿易とはこのような規則を用いないことである。」
 と、貿易についてよく説明をすると朝鮮側もよく了解した。

一 鴉片烟(アヘンたばこ)の輸入ならびに洋教(キリスト教)宣布禁止の事。

申大臣「我が国にて厳に注意して禁止したい箇条はアヘンである。また、洋教(キリスト教)を日本人から伝播すること(を禁ずる事)外国人をして日本人の名前で朝鮮居留地に雑居すること(を禁ずる事)、などは是非とも日本政府にて承諾なくては我が国政府は困却するゆえ、これだけは取り上げてもらいたい。」

宮本「アヘンは我が国の外国条約中すでに厳禁中のものである。キリスト教は現今日本でも国禁中のひとつである。外国人が日本人の籍で朝鮮に在住するも、今は外国人は我が国の支配下にない。また、そのような内外商社組合の許可も無いところから、我が国政府も決して(籍を与えることは)しないことである。であるから朝鮮政府が禁ずるこの三か条は我が国としても差し支えは無い。よって、後々に条約の議に及んだところでこの条を加えいれればよいのであって、今日のところは期日も迫っているので新たに談判に上げなくともよいだろう。」

申大臣「我が国政府の命令であるから、それではこの三か条は加入する見込みであるという貴殿の書付をしてもらいたい。」
 宮本はその通りに書付をして井上副大臣にも説明し、その書付を見せて内諾を得た後に申大臣に渡すと、申大臣たちは大いに安心した。そしてその日の内に、つまり2月25日に朝鮮政府から条約調印が決定したことを伝えてきた。

 ところがその翌日朝、つまり26日に、なおもう1条加えてもらいたいと言って来た。それは、もし西洋船が日本の国旗を掲げて日本船のように見せかけて来たらどうしたらよいのか、というものであった。

 宮本は、「そのようなことは決してない。船籍書類を管理している。しかしもし甲国の船が勝手に乙国の国旗を掲げるならば、乙国の軍艦はその船を捕まえてよいものである」と答えた。
 朝鮮側は、政府が大いに憂慮するところであるからこれも昨日の書付に書き加えて欲しいと頼んだ。

 よって、それらをも書き加えて朝鮮側に渡した文書は次の通りである。

凡貿易ノ為メ外國ノ諸港ヘ往ク日本商船ハ必ス日本政府ヨリ渡シタル航海公證及ヒ該船ノ船籍ヲ帯往セサルナシ。外國ノ港ヘ到着シ二十四時ヲ過キサル内ニ船主ヨリ右等ノ諸書類ヲ其地ニ在ル日本領事官ヘ引渡シ、領事官ハ是ヲ照検シテ後、船主ハ其地方ニ在ル役所ヘ入津シタル届書ヲ出スナリ。此届書ニハ領事官證書アリ。故ニ日本船ニアラサル疑アル事ナシ。國旗ハ至大至重ノ物ナリ。若シ甲國ノ船、乙國ノ旗章ヲ假冒スル事アル時ハ海賊ノ所業ト見テ乙國ノ軍艦是ヲ捕ヘテ十分ニ罰シテ可ナリ。

一 鴉片(アヘン)ノ輸入ハ朝鮮政府是レヲ禁シテ日本人ニ差支アル事ナシ。

一 現今日本人民耶蘇教ヲ奉スルヲ聞カス。若シ朝鮮政府、日本人民ノ耶蘇教ヲ朝鮮人民ニ傳フルコトアランヲ恐ルルガ為メ是ヲ禁止セント欲スルハ朝鮮政府ノ望次第タルヘシ。

一 朝鮮國ニテ日本人民ノ為メ開キタル港ノ居留地ヘ他ノ外国人、日本人ノ籍ヲ借リ居留商売スル事ハ日本政府ノ許サザル所ナリ。

 右 判中樞府事申閣下ノ御尋ニ付愚意演述シ置候也
   外務大丞 宮本小一

 これを漢訳して朝鮮側に渡した。黒田全権大臣が条約調印のために再び江華府に向かった当日26日のことである。

 

 さて、このように条約の締結に至るまでの種々の史料をそろえて眺めると、何と日本側の対応は柔軟であることだろうか、と思う。三條實美太政大臣の訓条と内諭そのままに和交一筋であることがよく伺えるのである。
 これでもまだ「条約を武力で強制した」となどと言う者があるとすると、そもそも条約とは何ぞや、ということになろう。

 いや、そして実際は条約を結んだからと言ってそれを実行する保証はどこにも無いのである。
 案の定この後、朝鮮は条約を守らず、港は開かないは、日本人に暴力をふるうは、一方的に関税をかけるは、兵士が内乱を起こして大臣たちのほとんどを殺すは、日本公使館も襲うは、もうめちゃくちゃなのである。これによって日本人は、「誠心礼義」をよく口にする朝鮮人の民度の低さの実態をいやと言うほど思い知らされることになるのであるが・・・それはまだ先のことである。

どこがどう不平等なのか

 それではどこがどう不平等であるのか、どこが不当なのかを検討したい。(やっと本題に入れる。)

 ・ 領事裁判権、いわゆる治外法権について

 現代の価値観に基づく評価では、日朝修好条規は不平等な条約であると言われている。なにしろ中学生の教科書にすらそう記述されているぐらいである。例えば、平成12年2月5日発行の大阪書籍刊行の中学社会「歴史的分野」p187には、こう書かれている。
 「・・・軍事力を背景にして治外法権などをふくむ不平等な日朝修好条規を朝鮮に認めさせ、・・・」と。

 「治外法権」とは条規第十款の、
「日本國人民、朝鮮國指定ノ各口ニ在留中、若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ。若シ朝鮮國人民罪科ヲ犯シ日本國人民ニ交渉スル事件ハ均シク朝鮮國官員ノ査辨ニ歸スヘシ。尤雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ、毫モ回護袒庇スルコトナク務メテ公平充當ノ裁判ヲ示スヘシ。」のことであろう。

 日本人の犯罪は日本が裁き、朝鮮人の犯罪は朝鮮が裁く、これはすでに対馬宗氏の倭館時代からの取り決めであった。それを継承したものに過ぎないのであり、また相互のものとして実に公平なものである、と言えないのであろうか。もちろん朝鮮側にとっては、朝鮮の国内で日本人が犯罪を犯したのにどうして朝鮮の法で裁けないのか、という不満は生じるであろう。しかし日本側にとっても、日本人が居住する特別の地区で日本人が被害を蒙っているのになぜ日本の官憲による処断が出来ないのかという不満が生じるであろう。結局は痛み分けと言うことで、日本人のことは日本人に、朝鮮人のことは朝鮮人に、それぞれ任せることである、という精神に則った取り決めとは言えないのであろうか。
  だからこそ大切なことは不公平なことがないようにと、
  「雙方トモ各其國律ニ據リ裁判シ、毫モ回護袒庇スルコトナク務メテ公平充當ノ裁判ヲ示スヘシ。」
  と公平さを示さねばならないとの記述がわざわざあるのではないか。

  ちなみに、日米修好通商条約の当該の条には公平さをこのように説いた記述はない。
 すなわち、日米修好通商条約第六條
  「日本人に對し法を犯せる亞墨利加人ハ、亞墨利加コンシュル裁斷所にて吟味の上、亞墨利加の法度を以て罰すへし。亞墨利加人へ對し法を犯したる日本人ハ、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。日本奉行所、亞墨利加コンシュル裁斷所ハ、双方商人逋債等の事をも公に取扱ふへし。都(すべ)て條約中の規定並に別冊に記する所の法則を犯すにおゐてはコンシュルへ申達し、取上品並に返料ハ、日本役人へ渡すへし。両國の役人ハ、双方商民取引の事に付て差構ふ事なし。(単行書・亜墨利加国条約書)
  とあるのみである。

 ここで更に気が付くことは、日朝修好条規には「朝鮮國指定ノ各口ニ在留中」という条件が付いていることである。つまり日本人が居留し或いは散策できる範囲の地、という特別地区に限定されての治外法権ということになる。

 ただし、このことが返って後に次のような問題を生んではいる。

 修好条規締結から18年後の明治27年、当時朝鮮政府は日本の東京に朝鮮公使館を設けていた。そこに、罪を犯した日本滞在の朝鮮人が朝鮮公使館に逃げ込み、ために日本政府が身柄の引渡しを要求したことがあった。

 当時、朝鮮政府は日本国内に於いても朝鮮人の罪犯の事件は、朝鮮国官員の査弁に委ねられる、と思い込んでいた。
 しかし、十条はどこまでも「日本國人民、朝鮮國指定ノ各口ニ在留中」の規定なのである。
 つまり、朝鮮国内に於けるところの日朝の双務規定であり、日本国内適応の記述はない。したがって日本滞在の朝鮮人の罪犯は日本官員の査弁に帰すのである。

 その時は公使館権限の制限に関する万国公法上のこともあって問題となったが、結局は罪犯の朝鮮人は日本側に引き渡された。後に京城駐在の大鳥公使が朝鮮政府外交部に詳しく説明してやっと朝鮮側はそれを理解したのであった。

 これは不平等というよりも、修好条規締結時点での朝鮮政府の認識としては、朝鮮人が日本に居ることなどは想定外のことであり、まして勝手に渡航して滞在するなどは国禁であり、犯せば大罪として罰せられること、また、日本に自国の公使館を設け、あるいはまた民間の朝鮮人居留があって領事裁判権を必要とすることなど夢想だにしなかったことからであった。もちろん、日本側もそんな想定は出来ていない。

 十条以外の箇条は日朝双方事務官で細々と協議して修正或いは削除しながら、この十条については全くそのような記録も無いところから、双方とも、朝鮮国内の各港口在留の日本人を想定した取り決めとして、将来のことを慮ることはしなかったと思われる。つまりは、かつて対馬宗氏時代の釜山倭館時代もそうであったように、これを継承したことは双方が一番納得する方法でもあったろう。

 もっとも、両国関係発展に伴い、随時修正すればよいことであるが、明治27年時点のその後に於てもそれをしなかったのは、朝鮮政府の主なる怠慢といわざるを得ない。内政改革をして法制を整え直し、早く日本と条約改正出来るようにと、強くアドバイスしたのは他ならぬ日本政府派遣の特命全権公使井上馨である。

 したがって、当時の状況を考慮すれば、今日の価値観においても、不平等なものであるとは言えないだろう。
 日朝修好条規を「不平等な」条約と言うことへの筆者の大いなる疑問である。
 これがまず第一点

 第二点に、日朝修好条規は賠償協定の性格を持つものであるということである。すなわち、明治8年12月太政大臣三條實美の訓條の第三項に「彼能(よく)我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ふときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し」とある通りである。
 したがって条約を結ぶことで朝鮮側に不利が生じることがあっても、それこそが賠償協定たる所以であり、だからこそ朝鮮政府も謝罪文を提示した上で条約を締結したのである、と言えるのではないか。
これがもう一つ。

 第三点に、当時の日朝の文化的差異を考慮した場合、治外法権なき、いわゆる「平等」とすることは現実的ではないということである。具体的に言えば当時の朝鮮の刑罰はあまりにも重く且つ残酷過ぎるのである。
 国家を挙げて近代化を進めている日本と違って、当時の朝鮮は開化には程遠くその刑罰の制度も旧態依然のものであった。
 明治7年4月の森山理事官の記録にもあるように、刑罰は身体刑が主でありしかも連座制が適用され、家族全員老人子供も捕縛され、家財は没収、本人の妻が妊娠中であるにもかかわらず笞鞭刑に処せられて、肉は破れ血は滴り落ちた、とあったり、雲揚艦の井上少佐に賄賂を要求した朝鮮の縣令次官は裸でうつ伏せにされ棍棒で打たれ、その酷さは見るに忍びず、かえって日本側が赦しを請うこと再三に及んだとある通りである。
 朝鮮の刑罰制度は日本に併合される頃まで続き、その酷さは当時の外国人ジャーナリストや外国人キリスト教宣教師たちによって数多く指摘されている。
 もちろん当時の日本でもほんの数年前までは徳川時代の刑罰とほとんど変わらぬものであったが、例えば明治3年(1870)には「新律綱領」によって笞、杖、徒、流、死を正刑としたが、明治5年(1872)に笞と杖は「懲役刑」にとって代わったし、「監獄則」を制定するなど当時としても画期的であった。さらには明治6年(1873)に「改定律例」によって笞、杖、流などの刑を廃止して懲役刑としている。もっとも、地方においては監獄施設が予算の関係で間に合わず明治17年になっても、重禁固百日以下は笞杖実刑を以って換えるなどもあったが(佐賀県令鎌田景弼建白監獄狭隘ナル地方ニ於テハ重禁錮百日以下笞杖実決ニ換フルノ議)、それでも近代化という方向性に伴う改革が年とともになされていくのは確実であった。
 しかし朝鮮は新例を嫌い旧例を守ろうとする儒教文化の国である。それは当時の日本からすれば黒田弁理大臣がかつて言ったように「未開の野蛮」とも見えるものである。したがって例え犯罪を犯した者であっても日本人を朝鮮の刑罰に委ねるわけにはいかなかったろう。要約すれば、近代法制を整えつつある国とそうでない国との間で、自国の法制を相手国の人民に適用すること事体が無理というものであろう。


 参考までに、後の明治27年(1894)11月に、当時の特命全権公使井上馨が朝鮮政府に内政改革の要項を提出した時に、国王や大臣たちに対して条約の改正に関して次のような勧告をしているのを読まれたい。

 

(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/19 第十五号 〔内政改革案奏上 1〕」より現代語に。文字の強調と()は筆者。原文テキストはこちら

第十 刑律を制定する事について

井上 「これは、刑法、民法などの法律を制定する必要があり、刑法とは主として悪事をした者を処分する法律であり、民法とは動産、不動産、人民相互の権利、義務に関して、人民間で、また政府や王宮での貸し借りなどのことを規定する法律を言う。まず、刑法は200箇条から300箇条で事足りるだろうが、民法は1000箇条余りも要するものである。ゆえに民法の制定は大事業であるから、一朝一夕に成るものではない。故に先ず第一に旧法を改正するのに、他国の刑法を参考にして国情に適した刑法を定めることが差当り必要である。しかし完全なる民法等を制定することは、決してなおざりにするべきものではない。今や貴国の人も外国に渡航しているので、法律ということは最も注意を要すべきものである。つまり今の状態を言えば、自国の人は外国に行って外国の法律に従わねばならない。そうして外国人が朝鮮に居ても朝鮮の法律で支配することは出来ずに、在留外国人はその外国の法律によって支配されることとなっている。これは、この国の法律が不完全であるが故に、外国人がこの国の法律に支配されることは出来ないという原因による。もともと国の法律は、国内にある人は外国人であると否とに関わらず、一様にこれによって支配されるべきであるのに、そうはならずに外国人は外国の法律によって支配されている。つまりは治外法権の害を生じている。故に刑法、民法、商法等の諸法律を時勢に適合するように、外国の法律なども参考にして制定されるのは、いずれ治外法権を撤去されて国体を保たれる基礎なので、決しておろそかにしてはならないことである。商法とは商業上に関する一切を規定する法律である」


国王 「日本は現今に治外法権のことで回復中と聞く。すでに全てを恢復したかどうか」

井上 「然り。近頃は英国との間に条約改正してこれを撤去し、またその他の諸外国とも交渉中なので遠からず皆これを撤去するに至るだろう。これは我が国が鋭意これらの法律を制定したことによる。貴国もまたこれを制定されて、いずれ治外法権を撤去されることに御務めなられ、以って国体を保たられねばならないだろう。しかしこれは中々大事業なので5年10年で成るわけにもいかないので、漸次されることとして、差し当りの急務は刑法を制定されることである。刑法を制定されて人民を罰するのに総てこの刑法以外では、たとえ国王殿下であっても、みだりに人民を監禁し懲罰されるようなことは一切これを廃止されなければならない。このようにして人民が安心できる法が成って、国家経営の基礎が初めて立つのである。(以下略)」

 井上の朝鮮国を思うての善意ある進言であろう。つまりはこれらを達成してこそ治外法権なき条約となるのであると。
 当時、朝鮮における司法というものは実に勝手気ままなものであった。地方などではそこの官吏が住民の生殺与奪の権を全くほしいままにしていた。そのような国と条約を結ぶにおいて、治外法権となるのは真に止むを得ないことであろう。それを撤することに至るか否かは朝鮮国の努力次第と言う他はない。

 つまり、治外法権でないことは、当時としては極めて不合理なことであったと言える。

 ・ 関税権について

 また関税権のことであるが、後述するように、これも朝鮮政府の財政と貿易発展を考慮した現実的な選択だったと言えるものである。

 以上のように、日朝修好条規が「不平等」であることに疑問を呈したが、そもそも文化の違う国家間の条約に「平等、不平等」のレッテルを貼って、それのみで評価しようとする後世の人間のずさんな歴史観こそ問題なのであろう。

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