明治開化期の日本と朝鮮(5)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
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江華府内の廟。日本全権大臣たちのために朝鮮側が用意した宿。 明治9年2月 撮影
河田紀一 |
索 引
・ 日朝両大臣の会談
・ 冒頭で国交を緊密にすることを確認
・ 雲揚号への砲撃事件について
・ 書契問題について
・ 日朝条約締結に向けて
・ 条約案、大筋で合意
・ 批准の署名押印をめぐって
・ 日本両大臣、断然帰国を表明
・ 朝鮮側の懇請に応じて4日間帰国を延べる
・ 条約調印と謝罪文なる
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日朝両大臣の会談
以下(韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記/2/3/4 丙子〔明治9年〕正月16日から〔明治9年〕2月27日・黒田弁理大臣使鮮日記
正本・黒田弁理大臣使鮮始末 正本)より適宜抜粋要約参考。第1回会談原文テキストはこちら
明治9年2月11日午後1時、日朝両国の大臣会談が開かれた。
まず朝鮮側から、日本の兵士2名が上陸の際に溺死事故があったことに驚きと共に各地方へ通達して遺体が発見された場合は日本へすぐに通知することを約した。日本側はそれを謝した。また朝鮮側も、日本人が勝手に遊歩しないよう要望したことを守っていることに感謝の意を表した。
冒頭で国交を緊密にすることを確認
黒田全権大臣は、「我が皇帝陛下は、両国三百年の旧交を敦(あつ)うするの意を以って、貴国接待の大臣へ細かに談議いたすべしと鄭重に命じられたり」と本題に入った。
それに対し申大臣は、「両国三百年来の交誼、誠に廃すべからざるなり。今、さらに旧交を敦(あつ)うするの言を承って、殊に感謝に堪えず」と答えた。
冒頭からまず日朝両国の国交をより緊密な関係とすることが確認された。
次に黒田は、王政維新の書契を贈ったことや使臣を派したことに触れ、「今に何の回答もないが、両国で情意が充分に通わないのはこのためではないか」と問うた。
申大臣はこれに答えて、「両国間で従来からの慣習の違いがあり、それによって疎隔を生じた故であろう。今さらに憫忙(心痛)している」と述べた。
雲揚号への砲撃事件について
黒田は言葉を継いで、雲揚号の件に話を移した。
(以下、「黒田弁理大臣使鮮始末 正本/2」p16〜p27より、抜粋して現代語に、()は筆者。黒田は黒田清隆全権大臣、申は申 大臣。)
黒田「これ(明治維新を告げる書や使節に対してなんらの回答もないこと)に加えて、先般我が汽船雲揚艦が清国牛荘地方に航する途中に、水を求めんがために草芝鎮に到って俄かに砲撃に遭う。これまた(両国の)交情が通わないことにより起こったのである。」
申「江華島は京城接近の地ゆえに守衛を厳重にする。貴国徽章見本(国旗のこと)は既に我が政府へお差し出しなされども、まだ地方へはやっていない。もっとも、その船は黄色の旗を立てたれば全く別国の船と認め防守の為に砲声を発したものである。」
黒田「黄色の旗を立てたとは疑うべし。正しく日本国旗を掲げたのに相違これなし。」
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申大臣の「その船は黄色の旗を立てたれば全く別国の船と認め」とは矛盾した言である。そもそも江華島の朝鮮兵は日本の国旗を知らないのであるから、黄色の旗であろうが日の丸の旗であろうが、日本国と別の国の区別が出来ようはずはない。したがって、黄色の旗であるから別国と認めたとは言い訳になっていない。おそらく報告した朝鮮兵か政府側が作った嘘であろう。
申「地方からは黄旗である由届け出たのである。誤って認めたのだろうか。もっとも、貴国旗章見本はまだ江華島へ達知せず。且つ、その際に異様の船舶近海へ来往するとの説があった。ゆえに貴国船であることを知らずに砲声を発したのである。今般広津(広津弘信)からの報せで初めて貴国船であることを知った。」
黒田「我が国、支那と条約を結びて以来、汽船が貴国沿海を往来することが特に多い。誤認などの害がないことを要するために国旗見本を貴国に交付してからすでに久しい。」
申「貴国旗見本が我が朝廷に達したのは確乎たるものではあるが、全国に公布されないのは両国交際のことが未だ十分でないところがあるから、外務卿の書契を収めることに至っての後に公布すべしと思っていたのである。今、地方に於いては外に公布していることは聞かない。黄色の旗を見て忽ち発砲したのであろう。そうでなければ平常時に商船などの海上風波の難に遭うことがあれば直ちにこれを救援するを爲す。まして貴国軍艦に謂われなく無礼を加えるであろうか。」
黒田「たとえ交際のことが充分でなく書契の往復がなくとも両国は敵視するのでないのであるから暴挙をする理がない。ゆえに誤認等の害を防ぐためにわざわざ通知した旗号を、人民に告知しなかったのは事が等閑(いいかげん)に属するものである。」
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まことに黒田の言う通りである。申大臣のこの言はまたも言い訳になっていない。「貴国軍艦にいわれなく無礼を加え」ないためにこそ各地方官や兵は日本国旗を知って識別せねばならないのである。旗を地方に知らせなかったことと外務卿の書契の収受のことは別件の問題であり、要するに朝鮮政府の言う事する事はいいかげんなものであると言えよう。
申「当時、その船がもし我が国に留まって、やはり貴国船であったことを知ったら処分の道もあるべきであるが、その船は永宗城に至り火を放って兵器を奪い直ちに帰り去ったことにより、まったく外夷(西洋国)の所為であると思ったのである。以後はこれらのことが起きないように注意する。」
黒田「これらの事件は畢竟、両国の情意が疎隔することにより生じるところであれば、今回和好の大局を全うするならば、以後このような不都合があるはずはない。今、永宗城云々の件は、当時その船が江華府に至り、そのわけを問わんと、更に国旗を三本のマストに掲げて進んだのに砲撃が益々激しくなったことにより、止むを得ず退去の困難を極め、防御の戦術を尽くしたのである。これは我が国を敵視されるにあたる。・・・」
(ここで全権委任についての話題に転じたので中略する。)
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雲揚号がそのまま留まっていたら、どうなっていたろうか。すでに戦闘状態になっている朝鮮兵が改めて船の国籍を確かめようとするであろうか。
そもそも国籍を確かめたり来意を問うたりする気があるなら、いきなり攻撃などせずに最初から使を送って尋問をしたであろう。すなわち慶尚道迎日湾での朝鮮兵のように。つまりここで改めて国籍を確かめることはまず考えられない。それでそのまま留まるなら必ず夜になってから雲揚号は焼き討ちを受けていたろう。かつてフランス艦や米商船が受けたように。それぐらいのことは井上艦長は考えたであろうし、まして海外まで聞こえた朝鮮の惨酷さである。
また雲揚号は戦闘しに来たわけでもなく、支援する僚艦が居る訳でもないのであるから、直ちに立ち去ることこそが肝要で、それに当たっては「防御の戦術」として追撃される憂いを取り除く処置、すなわち砲銃を破壊あるいは押収し拠点としての要塞を取り除くことは軍事上の常識である。
なお戦闘後に井上艦長は負傷者を帰し捕虜は食料を与えて放している点、むしろ人道的である。逆にかつてフランス兵やアメリカ人が朝鮮に捕らえられて帰ってきた話は聞かない。
(p27、再び雲揚艦の話題に戻る)
黒田「・・・今一応、雲揚艦の事を問いたい。先ほど貴大臣が言うのに、雲揚艦は守兵が日本船である事を知らずに誤ってこれを砲撃したと。貴朝廷はこれをどう思っているのか。」
申「貴国船であるのを知らずして発砲した。故に守兵に罪はない。」
黒田「それなら誤撃に遭った方に対してはどう思うのか。」
申「既に貴国船であることを知れば、我が朝廷としては宜しからざる事を為したと思うものである。」
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対談の当初は、雲揚号への砲撃事件、書契問題、大臣の権限委任の問題などが錯綜する形で進められたが、雲揚号についての日朝双方の議論をまとめるとだいたい次のようになる。
朝鮮側
・江華島は首都ソウルに接近の地であるから警戒厳重である。
・異様の船舶が近海へ来往するの説があった。(明治8年9月の英国艦の風説の事であろうか)
・日本側から受け取っていた国旗見本は地方官に渡していなかった。
・江華島の朝鮮兵は黄色い旗が見えただけだと報告している。
・軍艦は火を放って兵器を奪って直ぐに去ったので外夷(西洋国)の仕業と思った。
・日本の軍艦と分かっていたら無礼をしなかった。
・誤って砲撃したのであるから兵士に罪は無い。
・今は貴国船であったことを知れば、我が朝廷はよくない事をしたと思うものである。(遺憾の意)
日本側
・渡していた国旗見本を地方に通知していなかったとは等閑(いいかげん)である。
・黄色い旗が見えたとの報告は受け入れがたい、軍艦は国旗を3枚も掲げた。
・朝鮮側の砲撃が激しくやむを得ず防禦の処置をとっただけであり、砲撃は我が国を敵視することに当たる。
・誤って撃ったと言うが、誤撃された方に対してどう思うのか。
・そもそもこの事件は両国の阻隔から生じたことであって、和交の大局を全うすればこのような不都合は起きないだろう。
日本側は朝鮮側から一応、砲撃事件に対して遺憾の意に当たる言質を引き出したところで書契問題に言及した。
書契問題について
冒頭で、黒田が王政維新の書契問題に触れ、申が「今さらに憫忙(心痛)している」と答えたことについて、井上副大臣が発言した。
井上「先ほど『憫忙(心痛)している』と言われたが、それは貴朝廷の言なのか大臣個人の意であるか。」
申大臣「朝廷の君臣、皆憫忙す。ここに至る曲折を聞いてもらいたい。」
井上は、国王殿下はじめ諸大臣がそうならあえて済んだことを強くは聞かない、と言ったが、申大臣は大略でも聞いてもらいたいとして、「八戸順叔」の事を話し始めた。
申「『八戸順叔』の事が新聞紙に載って清国政府も我が国に諮問した。それによって我が国がまさに疑惑の念にあるところにちょうど貴国の維新を告げる書が来て、『皇勅』などの文字があったので疑惑が増して阻隔に至ったが、今日に至ってそのことは皆氷解した。今後は親睦を厚くして情意阻隔がないようにしたい。」
井上「貴国の事情内政がどうかはこちらの与り知らないことである。『八戸』説によって疑惑が生じたのは貴国が自ずからしたことであって、我が政府の知るところではない。各国は互いに礼を以って相対し書簡に対して報ずるのは交際の道であり、貴国は我が国を待たせて8年に久しく経るも一言の返事もない。『八戸順叔』の説と言うが、人民の言説を取り上げるとするなら、我が国にも征韓論を言う者もある、貴国にも政府を怨むものもあろう、各国政府の言でないものを根拠とするべぎではない。」
申「自ら疑惑を起こしたという指摘は、実にその通りである。しかし、日本人がこのような言説を出してそれがついに新聞紙に載るに至ったことは、実に恨むべきである。けれども今はこのこと既に氷解した。今後は和交をはかるべきである。」
井上「貴大臣は新聞紙のことを言うが、新聞は政府の関知するものではない。その国の君主の非をあげたり掲げたりするものもある。新聞紙をもって国の交際の事に関わるなら各国は相争って干戈が絶えないことになる。」
申・尹両大臣「今日から見れば実に笑うべきことで今後は新聞は信じずに貴国と必ず旧交を修め、両国の交わりに誠信敬礼をもって旨としたい。」
しかし、日本側からしてみれば、笑い事では済まされないことである。8年間に渉る交渉、そのことが国内に及ぼした影響は少なくなかった。朝鮮問題を巡って国民世論は沸騰し政府内は紛糾し、西郷隆盛や江藤新平ら征韓論派は政界から去り、江藤は征韓党などの不平士族に担がれて佐賀の乱を引き起こし、それによって大勢の日本人が死んでいるのである。
日本側は、書契問題をめぐる8年間に対しては明確な謝罪を求めるつもりであった。 |
黒田「念のために一応承りたい。従前両国の情意阻隔、我が国の書簡に答えずに8年を久しく経て遷延したことは、今日に至って非理と思われるか。」
申「戊辰(明治1年)以来、書契の件、従前はこれを拒みたるもの、今ことごとく氷解した。向後はこれを拒まず異議なく領受すべし。」
井上「しからば我が国の情意はすでによく通じた。貴国のこれを拒みしは今は悔悟されたであろう。」
申・尹「我らは貴大臣を接待する一介の使臣なれば、悔悟の字面は説き出し難い。従前の疑いは全て氷解したということである。」
井上「それなら、このような事が友好国に対し当然のことと思われるか。」
申「すんだことは必ずしも是非を論ぜず。今後の和交を計らんとすでに説いているのである。」
井上「事の是非を明らかにしないとは、その意を得ないことである。今しばらく両国交際のことをもってこれを論じないが、ただ貴大臣は自ら反省されよ。互いに交際する約束に背いて信を失うことを理に合うこととするか。悖ることとするか。」
申「すでに説いたように、戊辰以来の書契などのことは全てこれを拒む必要はなかったと思う。しかし、過去の非を陳謝することは(その権限上)本大臣ではあえてなし得ないところである。」
これを以て会談第1回目を終了。
翌日12日の会談第2回目、黒田は佐賀の乱のことなども話し、日本がいかに朝鮮と交際することに努力してきたかを懇々と説いた。その上で、ただ「氷解した。」だけでは、こちらは帰国して報告も出来ないし過去のことを咎めないということにも至らない、と述べ、貴国が日本に無礼をしてきたことに対してそれ相当の挨拶があってしかるべきであると、朝鮮政府の正式な謝罪を求めた。
それに対して申大臣は、
「この数年の両国の阻隔によって、貴国の内情が不安になり、ついに佐賀の変までになったことは今日はじめて承った。貴朝廷の様々な努力の委細を承って、あらためて感謝に堪えない。我が国においてもかつて阻隔を生じさせた東莱府使を追放し訓導を処刑したことは既に御承知もあるべし。しかしながら、我らはただ接待の命を奉じて来たのであってここでご挨拶するわけにもいかない。いずれ朝廷へ上申した上で、朝廷から貴大臣が納得されるだけのそれ相当のご挨拶は致すべきなり。」
と政府からの謝罪があるだろう事を告げた。
これにより黒田は、過去のことはこれで不問にするとして、今後の日朝両国の交情に阻隔がないように永遠共守の条約を締結することを提案し、条約案を提示した。
日朝条約締結に向けて
申・尹両大臣が「条約案を拝見したい」と言ったのを受けて、井上が続いて説明した。
「この条約は、貴国も自主の国にして日本国と同等の権を有するに付き、万国交際普通の例に依り天地の公道に基いて調えたものであり、先ず猜疑の念を除いて御考案ありたい。」
「万国交際普通の例・天地の公道」とは、当時唯一の国際法と見なされていた「万国公法」に基づくことを意味していると思われる。 |
浦瀬裕通訳官が条約を口頭で訳して説明した。
申大臣は、大意は了解したが朝廷に詳細を報告するのに漢文のものはないかを尋ね、日本側は後でそちらの訓導に説明するのでそれを書記されたらよい、と答えた。
黒田は重ねて説いた。
「・・・新条約は天地の公道に基づき万国普通の例に依り調えたものであり、まして隣国の交際においてはもっとも欠くべからざる緊要の事である。もし朝廷へ奏聞の上に条約を結ぶに至らないときは、すなわち貴朝廷は旧交を継ぐ意思がないのである。」
申「我が国は従来から貴国との交際があるだけで、外国と通商したことはない。だから万国交際の法も不案内である。いま考えてみるのに、朝鮮は至って貧しい国で物産とても僅かに綿および牛皮などであり、処々に開港してもそれ程の益はないであろう。しかしながらこれは私見である。とにかく朝廷に奏聞の上で確答あるべし。」
黒田はその回答に期日が必要であるとして5日間を主張したが、朝鮮側が10日間を要求したのでそれを受け入れた。
条約案、大筋で合意
その後、事務官レベルで一か条ごとの検討がされ、大筋では合意がなり、修正といえば、大日本国の「大」を削れとか、それならこちらも「大朝鮮国」にするとかその程度のことであった。(詳細は後述する。)
2月20日、朝鮮朝廷から条約案に依存が無いことを伝えてきた。同時に、申・尹両大臣にこの件を委任する、つまり大臣を全権とする旨の伝えもあった。
しかし一点だけ問題があった。
批准の署名押印をめぐって
条約の批准について国王署名押印とせず、「御寶」と記するのみだったことである。
黒田は、国と国との条約にそれぞれの国王が署名押印するのが当然であり、また対等なのであり、是非そうするように要求した。
しかし朝鮮側は、国王の署名が無いのが我が国の法であり、我が国には我が国の法があり、しかも今さら臣である自分が国王に署名せよなどと言うのは、臣下の礼にかなわないことであり、こればかりは死んでも出来ないことであると突っぱねた。
あきれたのは黒田である。徳川時代にも朝鮮とは何度か国書のやり取りがあったが、その時に朝鮮国王の署名と押印がされた文書もあったからである(公文別録・朝鮮事件1p97〜「隣交始末物語句解」)。
そのことを指摘して追及し、これでは条約を批准した証拠とはならず不成立になってしまうから、結局旧交を継がずに友好を破ることになってしまうがそれでもよいのか、と糾した。
しかし朝鮮側は、これぐらいのことでここまで調った条約をそちらが傷めようとしているのは真に遺憾である、両国の交際は誠心礼義をもって主とせねばならない、それでは「允(ゆるす)」の1字ではどうか、と言う。
日本側はまさに「ハァ?」の状態であった。
維新後の日本政府の視線はいよいよ世界万国に向けられていた。国と国との条約文こそ、国際法に基いて調え、どこの国からも突っ込み所がないものにせねばならないのである。
しかし、朝鮮は万国公法も知らないしその視点も無い。あるのは華夷秩序と儒教の礼律があるだけであった。
これは実は、日本語文の条約批准案文に「朝鮮国王 李なにがし □(押印する枠)」とあったところを朝鮮側が漢訳した際に、臣である自分が王の名前をそのまま書くわけにはいかないからと「国王寶」と書き換えたのを、日本側が見咎めて、訳文に意訳が伴うのは仕方が無いが国王署名押印のところは必ず守るように、と伝えていたにもかかわらず、朝鮮側は更に「国王寶」の三文字を塗りつぶしたのを朝廷に上申し、結果として「御寶」となってしまったのであった。
一旦朝議で決まったものを変更することは、交渉に当たる者たちの責任問題となってくる。申・尹両大臣はこの時点で全権を委任されたからよけい重圧を感じたのだろう。なんとしてでもこのままの形で条約を成立させたかったようである。
日本側は繰り返し説得したが、朝鮮側は「我が国の法がある」「臣下の礼にかなわない」「それなら代案を出してもらいたい」「署名押印のことは何とか御熟考されたい。その他の箇条はすべて異議はない」と署名押印不可能の一点張りであった。
そもそも、礼儀とか法があるとか朝鮮側は主張するのだが、それは個人の思いつきに過ぎない疑いがある。
というのも、江華島に向かう日進艦の上で、開化派の呉慶錫と対談した時に一緒に居た訓導 玄昔運が後からそっと浦瀬裕通訳官に話したことがあった。
それは、かつて明治7年〜8年に釜山草梁公館で、森山茂たちが彼を相手に交渉していた頃に、訓導は自分の個人的な考えや思い付きをあたかも朝鮮政府の決議のように言い、それがために森山は一度日本に帰って「書契」の修正を稟議上申し、その結果を持ってまた釜山に戻り、東莱府使に持参して面晤しようとしたことがあったが、それが実は訓導自身が思いついた嘘によるものだったことを打ち明けたのである。
しかも、後の日朝両大臣の会談で事の経緯の細部が議題となり、もし自分の嘘が政府に知れたら自分の命は無いので、なんとかその話を出さないでほしいと懇願して打ち明けたものであった。(「韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記/2
明治9年1月30日から明治9年2月19日」p44)
それを聞いた浦瀬裕通訳官は、ただただ呆れかえるしかなかった。
訓導一人の嘘に、森山は日朝を往復し日本の参議たちが稟議し朝廷親書が修正されたのである。ようするに日本一国が振り回されたのである。
かかる嘘やごまかしは朝鮮の文化なのであろうが、ひどい話である。
朝鮮人の言うことがどこまで本当なのか分からない場合、それを確かめるには実力行使しかない。
日本側は密かに話し合って、断然帰国することに決定した。
日本両大臣、断然帰国を表明
2月22日、黒田は随行員の一人(安田少判官:庶務係兼会計係)を申大臣と次に尹副大臣の所にやり、本日帰ることを代わって告げさせた。
驚愕したのは申大臣だった。
申「貴大臣が今より帰艦されるとは真に愕然の次第である。それは既に決定したことか。」
安田「既に決定し、今まさに出発せんと余をして別れを告げさせたのである。」
申「両国交際のこと今まさに美果を呈せんとするのに帰られるとは遺憾なり。君、余のために大臣に4、5日間待ってくれるよう請うてくれ。」
安田「余は、別れを告げることのみ任じられたのであり、出発の時機を延ばす事の約束は出来ない。」
申「君の言うとおりなら余はどうすればよいのか。君、ひとえに余の心事を察して、どうしたらよいかを示せ。」
安田「どうしたらよいかを余からは言い難いが、要するに約束を厳守する外ないのである。昨夜も話し合いで玄訓導を今朝早く我らの所に派遣される約束であったと聞く。しかるに今既に昼になろうとしている。訓導はまだ来てない。これらは些細なことに属するといえども、約束を守らないことを気にしない者を誰が信じようか。まして我が大臣は人と約束すれば毫もこれを変えることがない。一度決意したことは廃することがない。たとえ貴大臣の心事を計り、百方これを止めようとしても、我が大臣がどうして余輩の言うことを聞こうか。貴大臣、これを諒察せよ。」
申「真に君の言うように約束を守るのを尊ぶはもちろんであるが、昨夜は深更におよんで呉慶錫が都より持ち帰った朝命のこともあり、訓導はこのため多忙であるから本意ならずこうまで遅くなったのである。しかも、・・・(くどくど)」
安田「その事情はともかく、昨夜の約束を違えたには相違ない。我が大臣も既に出発されるべし。自分も退散せん。」
約束を違えたのはこの時だけではない。先に、条約案の漢訳をするのに訓導を派遣する時も約束日からほとんど一日遅れであった。信義・誠意・丁寧などを好む当時の日本文化と、全てにいい加減が許される、朝鮮文化の違いである。
安田少判官は申大臣の居を辞し、次いで尹副大臣の居に向かった。
尹も驚愕し、申大臣の時と同じような問答を繰り返し更に、
尹「・・・この上は自分たちが行って何としてでも日にちを延べることを懇請するほかはない。」
と言って近くの者に酒を持ってこさせ、
尹「請う。まず一杯を酌め。」
安田は辞退して帰った。
朝鮮側の懇請に応じて4日間帰国を延べる
申・尹両大臣はすぐに黒田大臣たちの居る館にやって来た。黒田たちは丁度帰り支度も済んだ時だった。
申「本日帰られると安田より聞いた。驚愕するところを知らず。ひたすら日程を延ばされることを乞うために参館いたした。」
黒田「日朝修好の目的を達することが出来ないと判断し帰艦を決意した。直接別れを告げるはずであったが、潮時の都合が迫っているので、これより辞別する。」
申・尹「条約の件がほとんど調わんとする今にして帰られるのは、本大臣ら真に遺憾に耐えず。今より5日間の猶予を賜らば、実に無限の大幸なり。」
しかし黒田は、本日帰艦することに決したのである、と繰り返した。
申はなおも、昨夜朝廷から使いが帰り朝議の皆が決してすでに条約案を清書するまでになっているから、直ぐに折り返し使いを遣って署名押印のことを促すので、4、5日間の猶予を是非とも承諾して欲しい、と懇請した。
黒田は、それでは4日間だけ本艦で決答を待つ、用事があるので後は副大臣と話されよ、と言ってその場を去っていった。
副大臣が説明した日本側の不満点は次のとおりであった。
・謝罪の草案を見るに、弁解に終始し謝罪の実がない。(「八戸順叔」に始まる事の経緯をだらだらと記しただけのもの。)
・雲揚艦の件について一言も触れてないこと。
・国王署名押印を、みだりに「国王寶」と書き換えたこと。
・批准交換を六ヶ月後と約束したなどと言ったこと。(該当公文書未明。)
朝鮮側は、4日間内には必ず全うするから、くれぐれも貴艦に在って待たれるよう懇請する、と言って帰っていった。
黒田一行はそれを見届けてから、事務官などの随行員と若干の兵を残して館を出発した。来たときと同じように儀仗兵や砲兵に守られて粛々と行進する。しかし、副大臣はその中にいなかった。
「井上副大臣ハ潜カニ館中ニ留ル。」と。
(筆者曰く。オゝ井上馨は何かしでかすのかと、ワクワクして次の展開を調べたが、あっさりと不満解消の顛末となって条約は成れり。読者も期待せられるな。)
黒田は玄武丸に帰艦した。その後、溺死した兵士2名の件で朝鮮側が江華府から四方に命令を発して今にあちこちで捜索していることを知り、これをもう止めるように使いをもって知らせた。しかし担当者(江華府留守役)は朝廷の命令でやっているので勝手に止めるわけには行かないので、それでは朝廷に中止を要請する、と言った。
また、朝鮮国王たちへの進贈品(回転砲や短銃、弾薬、絹織物など)を江華府に持って行かせたりもした。条約締結後に贈るのためのものである。
24日に本国から船が来た。
実は黒田艦隊が江華島に至ってからも石炭などの補給と連絡に本国から繰り返し艦船が行き来していたが、そのうちの1隻である。黒田はこれ幸いと、江華府に居る副大臣に書簡を送った。「(事務官を朝鮮側に遣わせて)我が政府、督促の命あり、またかつて下関に残してきた儀仗兵の1部を送ってきた、と言うべし。」と。また諸艦をして火矢(信号用)を盛んに上げさせるなどして日本からの船を歓迎して特別の艦船であるかのように装うことを命じた。
黒田はどうもハッタリ好きのようである。しかし、交渉中はこのように圧力をかけ続けることが大切なのかもしれない。それでいてこの時に、河田紀一が撮影した写真数枚を観娯に供せんと、朝鮮の大臣たちに贈っている。もっとも、大臣たちは一通り観て直ぐに返したという。すなわち厚意が大きすぎて荷うこと莫大であると。おそらく写真というものを見るのは初めてだったのだろう。
条約調印と謝罪文なる
2月25日 呉慶錫と玄昔運が来て、朝鮮政府は全て日本側の意見を入れ、条約書並びに議政府謝辞の文を提示したとの知らせを持ってきた。
これにより、黒田一行は26日に江華府に戻った。
江華府に至った黒田らは、朝鮮国王に進呈する当時最新兵器である回転砲(ガトリング砲)の試射と朝鮮側に操作を習得させるために標的を設けて、100間ないし200間(約300メートル?)の距離から80発を撃つ。命中すること60発。見物人は歎賞しない者がなかった。また、短銃などの操作も教えた。
2月27日午前9時、条約調印式のため黒田・井上両大臣並びに随員計14名は大礼服を着し、その前後を儀仗兵が整列して館門を出る。垣根のように見物人が溢れる中、鼓笛喇叭の演奏をしながら式場の練武堂前まで進む。
しかし練武堂は黒田の目には相当お粗末に見えたらしい。
「堂は西門内にあり、垣根なく門戸なく、田圃間にこつ然たり。我が国の僻地の村落の頽廃せる仏堂を彷彿とさせる。その三面に幔幕を覆い、一方を欠いて出入りの門とする。」(ほかに大きな建物がなかったのか?)
朝鮮側両大臣は外に出て迎えた。
「堂に上がれば、中央に卓(テーブル)を設けて油紙でそれを覆い、左右に椅子を並べていた。皆虎豹の皮を敷く。この堂、三面壁なくその正面は屏風を以って遮れり。(寒そうだ。)」
日朝両国大臣は条約に調印して交換し、国王批准と議政府の謝辞を受領し、次に双方が贈答品の目録を渡した。
日本から朝鮮国王へ、回転砲、短銃、小銃、弾薬、絹の綴れ織物、晴雨計、磁計、など。大臣へ、装金刀、短銃、弾薬、絹の綴れ織物、国史畧、馬、酒など。(以下略)
朝鮮国王から日本大臣へは、四書、詩箋、色筆、彩筆、彩墨など、朝鮮大臣からは、大緞子、白綿紬、白木綿、虎皮、色紙、色団扇など。(以下略)
それがすむと祝宴が設けられた。黒田は、その饗応するところは「11日のと同じだから、復記せず」と素っ気ない。
11日の最初の会談のときにも酒宴がもうけられたが、その時の食事(生演奏付き)を黒田は記録している。
「茶、クワスリ(朝鮮の菓子)、生栗、乾柿、色餅、梨子、煤卵子、明太(スケトウダラ)、乾棗(なつめ)、松子(松の実?)、薬菓、鶏、菓、南蛮蕎麺」 とある。
う〜ん。「南蛮蕎麺」というのは元祖冷麺だろうか。もしそれなら余計寒そうである。
黒田の素っ気無さがなんとなく分かるような・・・。
次の記述が「午後1時半に帰艦」とあるから、黒田・井上両大臣は早々に退席して別れを告げたらしい。
帰艦すると、朝鮮国王への祝福として祝砲21発を発した。(対韓政策関係雑纂/明治八年朝鮮江華島事件/黒田全権大臣派遣関係
第五巻)
翌日28日に事務など全てが完了し、全員帰艦した。 ここにおいて、午前十時、黒田艦隊は錨を抜いて日本に向かった。行きと違って追い風が強く、矢のように進んだ、とある。
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