明治開化期の日本と朝鮮(4)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

 

 江華島の江華府に向かった艦船は、黒田特命全権弁理大臣並びに随員一行が乗る玄武丸(乗員66名)、その護衛艦としては、軍艦日進(1490t 全長61.8m 18cm前装砲1門,30ポンド砲6門 乗員160名)、軍艦孟春(305t 全長45.7m 17.8cm砲1門 14cm砲2門 小砲2門 乗員82人)が、儀仗兵、砲兵などが乗る運送船は、高雄丸(乗員405名)、函館丸(乗員54名)、矯龍丸(乗員42名)の計6隻。江華府で上陸したのは、特命全権弁理大臣副大臣をはじめ随員一行ならびに儀仗兵など、計107名。(対韓政策関係雑纂/黒田弁理大臣使鮮日記、使鮮日記)

 

索 引

 特命全権大使派遣を決定
 和交を結ぶことただ一点
 黒田艦隊、江華府に向かう
 水深測量と給水
 江華島に至るまでの接待いろいろ
 打ち明け話・開化派の苦悩そして希望
 民族国境を越えた「人間」たちの姿
 儀仗兵、軍楽隊、ガトリング砲の行軍儀式

 

特命全権大使派遣を決定

 江華島事件に対する日本側の対応も遅れたが、朝鮮側こそ政府から何の反応もなかった。
 これを機に完全に断絶するとか、こういう事件があったとか、一言も何も言ってこないのである。
 その事を踏まえて日本側の方針は特命大使を派遣する事となり、明治8年(1875)12月9日に陸軍中将兼参議開拓長官である黒田清隆が特命全権弁理大臣として朝鮮に差遣される発令がなされた。
 その訓條および内諭などは次の通りである。(第三巻 自 明治七年 至 明治九年/2 同八年乙亥2 対韓政策関係雑纂/朝鮮交際始末)より、カタカナをひらがなに直した。

一  我が政府は専ら朝鮮国と旧交を続き、和親を敦くせんことを望を以て主旨とせるが為に、朝鮮の我が書を斥け、我理事官を接せざるに関らず、仍ほ平和を以て良好なる結局を得んことを期したるに、何ぞ料らん、俄に雲揚艦砲撃の事あるに逢へり、右の暴害は当時相当なる防戦を為したると伝へども、然れども我が国旗の受けたる汚辱は、應に相当なる賠償を求むべし。

一  然れども朝鮮政府は未だ顕はに相絶つの言を吐かず、而して我が人民の釜山に至る者を待遇すること、旧時に異なることなし、又其砲撃は果して彼の政府の命若くは意に出たる歟、或は地方官弁の擅興に出たる歟も未だ知るべからざるを以て、我が政府は敢て親交全く絶えたりと見做さず。

一  故に我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、今全権使節たる者は、和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ふときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること、使臣の委任に在り。

一  右両個の成功は必ず相連貫して結局すべし、而してツ印は両案同時に於てすと伝とも、和約条款の文案を求めて、叶議に至ることは、必ず雲揚艦の事、結案承諾の前に在るべし。

一  雲揚艦の砲撃は果して朝鮮政府の意、若くは命に出たる歟、我要求は尤も大にして且急なるべし、或は其地方官弁の擅興に出たる歟、朝鮮政府亦其責に任ぜることを得ざるべし。

一  雲揚艦の事に付、若し朝鮮政府其責に任じ、我と旧交を続くの誠意を表せず、却て再び暴挙を行ひ、我政府の栄威を汚さんとするに至ては、臨機の処分に出ること、使臣の委任あり、要するに朝鮮人慣用する所の依違遷延の手段の為に誤らるることなかれ。

一  和交果して成るに至りては、徳川氏の旧例に拘ることなく、更に一歩進め、左の条件を完結すべし。

一  我日本国と朝鮮国と、永久の親睦を盟約し、彼我対等の礼を以て交接すべし。
一  両国臣民は両政府の定めたる場所に於て、貿易することを得べし。
一  朝鮮国政府は釜山に於て、彼我人民自由に商業を営ましむべし。且江華政府又は都府近傍に於て、運輸便宜の場所を選み、日本臣民居住貿易の地と為すべし。
一  都府と釜山、又は他の日本臣民貿易場との間に、日本人往来の自由を許し、朝鮮政府相当の扶助を加ふべし。
一  日本軍艦又は商売船を以て、朝鮮海何れの所にても航海測量することを得べし。
一  彼我の漂民を扶助護還するの方法を設くべし。
一  彼我の親睦を保存する為に、貿易の両国の都府に互いに使臣を在留せしめ、其使臣は礼曹判書と対等の礼を執るべし。
一  彼我人民の紛争を防ぐ為に、貿易の地に領事官を置き、貿易の臣民を管理す。


以上諸款の内、時宜に応じ、即今必要ならざる件を省略することを得るべし。

明治8年12月 太政大臣 三条実美

     内諭

一 朝鮮人、我が求望に応ずる接待を為すことを除くの外は、左の三つの所作に出るに過ぎざるべし。
    第一
  使節に対し凌辱を加え、或は使節を認めずして暴挙を行う。
    第二
  使節を接せず、又暴挙を行わず書を投ずれども答えず。
    第三
  新約を求めば支那の命を受けざれば答え難しと云に托し、又は他の辞柄を設け、巧みに遷延の計をなす。

一 右、第一の所意に出るときは相当の防御をなし、一旦対馬まで引揚げ、速に使船を以って実地の情状を奏報し、再命を待つべし。
第二の所為に出る時は我の隣誼を重し、和平を主とするの好意を認ざるの罪を責め、我、政府別に処分あるべしとの旨趣を以って彼に一書を投じ速にその旨を奏報し後命を待つべし。
第三の場合に於ては左の旨趣を以って詰責すべし。

一 両国の旧交は未だかつて支那の仲介に由らず。
一 昨年東莱府使朴より森山に向て外務卿の書を接すべきの約を為したるは支那の許可を経たるか今年又前約を違へたるも支那の許可を経たるか江華島の事は亦支那の許可を経たるか以上緒件已に支那の意に出るに非るときは江華暴挙の辨償と将来の新約とは俄かに支那に経由するの理なし。我が日本は必ず直ちに之を朝鮮政府に向て要求すべし。
一 若し朝鮮政府は必ず支那に問うて後に我が求めに應ぜんとならば其往復の時間は我兵隊を京城に屯駐せしめ而して彼の餉給を要し又江華城を佔有して公法の所謂強償の方法を行ふべしとの難題を発すべし。

一 以上諸件は豫画する所と云えども實地の景況によりては臨機取捨するは使臣の権内にあるべし。
一 我が朝鮮政府に求むる所の件々に付其必要ならざる部分は両國の幸福なる和好を重するが為には臨機酌≠オて我が意を降し、彼の言を申ぶることを得べしと云ども左の數項は必ず我が初議を執るを要すべし。

一 釜山の外江華港口貿易の地を定む。(12月28日付で、その時期などは全権大臣に委任とした。)
一 朝鮮海航行の自由。(12月28日付で、その時期などは全権大臣に委任とした。)
一 江華事件の謝罪

一 彼れ其説を主張し若しくは虚飾して到底我が必要なる求望に應ぜざるに至るときは縦令ひ顕はなる暴挙と凌辱とを行はずと雖も使節は両国和好の望み已に断へ、我が政府は別に処分あるべしとの旨趣を以て決絶の一書を投じ速に帰航して後命を俟ち、以て使節の体面を全ふすべし。
    明治8年12月
             太政大臣三條實美

和交を結ぶことただ一点

 以上のように雲揚艦砲撃への問責というよりも、ひたすらに和交を結ぶことただ一点であり、たとえ暴挙を受けても適当に防御して退くという、なんとも不思議な方針である。
 この行儀の良さは何なのだろう。「武力で威嚇して国交を迫った」などと言われているのとは逆の姿ではないか。
 明治4年(1871)5月の時のアメリカ艦隊などは、江華島に陸戦隊を上陸させて激戦を展開している。武力威嚇とは、このような戦闘行動を想定した上のことであるから、武力をもって威嚇するのである。

 

黒田艦隊、江華府に向かう

  トップの写真は、江華島事件処理と条約締結交渉のために黒田特命全権弁理大臣らが朝鮮の首都漢城(ソウル)に近い江華府に向かう途中、明治9年1月15日に日本公館のある釜山草梁に立ち寄った日本艦隊の姿である(撮影は16日)。

 一見すると壮観であるが、碇泊している8隻のうち江華府に向かったのは6隻であり、そのうち軍艦(黒田弁理大臣の乗る玄武丸の護衛艦)は2隻で、後は随員や兵員の運送船である。
また、運送船の玄武丸の船長と機械方(機関長)、矯龍丸の船長は、お雇い外国人であった。
 残る運送船満珠丸はもっぱら公館と本国の連絡用として配置され、残る軍艦鳳翔(316t 全長43.9m 17.8cm前装砲1門,14cm前装砲1門 乗員 65)は公館の日本人保護の役目を負っていた。

 明治8年12月に公館の広津弘信が朝鮮側に、日本の特命全権弁理大臣が首都に近い江華府に直接赴くことを告げた際、対応した訓導はそのことを朝廷に伝達したが、実際に日本側が本気かどうか疑っている態度を見せたので、黒田はわざわざ釜山草梁に立ち寄って艦隊を見せ、かつ朝鮮側にこれらは江華府に向かう艦船の一部である、と公館員をしてハッタリを言わせている。まあこれでも充分威容と言えようし、小さな雲揚号一隻を以って砲艦外交と言うは笑止、黒田艦隊こそがまさにそれであろう。
 しかし江華島に向かう時になって艦船への人員配置で変更が生じ、そのことの稟議上申のため17日に満珠丸を下関に派遣したが、2、3日で帰ってくるはずのがなかなか帰って来ない。下関から電信を打ってその返事をもらって来るだけなのが22日になっても帰還せず、その間に黒田弁理大臣の乗る玄武丸以外の艦船は先にそれぞれ出発しており、残る軍艦鳳翔をもって再び上申のために下関にやることになり、ために草梁湾に日本の艦船がいなくなるのもやむを得ず、23日に鳳翔は下関に、玄武丸は先の艦船を追って1隻で、それぞれ向かっている。

 どうも格好がつかないのであるがどうであろうが。「圧倒的な武力」「武力行使も辞さない」「武力威嚇による無理やりの条約調印」などと後世には言われているが、もしそうだとするなら、これはまるで「張子の虎」である。
 事実は、明治9年1月5日付けで太政大臣三條實美から黒田は「儀仗兵並ニ護衛艦進退之儀御委任被仰付候事」とあり、先の明治8年12月の訓條と内諭とも併せて、これは日本の全権大使の体面としてふさわしい陣容に過ぎないことが分かる。大使を送るに当たって、砲撃事件によって朝鮮側がどうでるかも分からず、また朝鮮側から何の反応も無いことも不気味ではあり、当然それ相応の護衛処置をしないわけにはいかないであろうし、もっとも、釜山草梁の感触からつまり「我が人民の釜山に至る者を待遇すること、旧時に異なることなし」ことから朝鮮側が暴挙に出る可能性は高くはないとも見ていたろう。もちろん用心に越したことはない。しかし、万一攻撃された場合も、防戦しながらいったん対馬まで撤退して日本政府にそのことを報告する、という方針しか決まっていなかったのである。だから、考え様によっては、日本側の緊張感の方がえらかったであろうと思う。黒田はやはり不安を感じたのか、17日に満珠丸を下関に派遣して人員配置の変更、すなわち増援部隊を要請している。(黒田全権弁理大臣朝鮮国ヘ出発并ニ途中ヨリ報告)
 「儀仗兵として陸兵二大隊」であるから、当時としては1000人弱の兵数となる。目的は一は応接上の助けとして、一はもし暴挙を受けた場合に相当に防禦し、また懲伐が出来得るような人数として、であった。
 しかし、それに対して三條太政大臣は「今になって急に兵を繰り出すことは出来ない。とにかく江華湾まで赴いて彼の国と応接して、内諭に依りて進退するべし」との書簡を持たせた野村靖外務権大丞を連絡船の満珠丸で派遣しただけであった(外務権大丞野村靖朝鮮国ヘ派遣附三条太政大臣ヨリ黒田弁理大臣ニ贈ラルヽ書翰)。もっとも、報告を受けた山縣陸軍卿、河村海軍大輔らは、不測の事態に備えて下関と長崎に軍艦と陸兵を新たに準備することとしたらしいが(該当公文書未明)
 このことは『黒田弁理大臣使鮮日記』や『黒田井上両大臣復命書』には記載されてないが、まあ考えてみれば、子供の使いではないのである。まして黒田清隆は軍人である。「朝鮮との外交戦のまさに決戦の時や今!」ぐらいに思っていたろう。ただし朝鮮国の事情を彼がどれぐらい知っていたかは分からない。いやほとんど知っていなかったろう。だから「・・出立前に申し述べ候通り、未開の野蛮は十分の懲戒を加えたる上にこれ無くては、我の目的を達し難く・・(黒田全権弁理大臣朝鮮国ヘ出発并ニ途中ヨリ報告)」などと報告している。
 しかし朝鮮は野蛮国などではない。日本の文化とは違う朝鮮文化に基づいているだけであり、黒田一行は目的地に近づくにつれその違いを大いに感じることになるのである。

水深測量と給水

 江華島付近に至ってからの航路も未踏である上、潮流も早く、水深の測量をしながら用心深く進まねばならなかった。その上、水の補給の問題もあった。真水を求めて高雄丸付属の小汽船を発したりボートを下ろしては何度も上陸して探すことをせねばならない。

 水を求めて現地に上陸した者たちからの報告も様々であった。
 時期あたかも朝鮮では正月に当たっていた。いわゆる日本の旧正月である。ために酔っ払いが多かったという。彼らは大声を上げて威嚇したり、あるいは逃げ散ったりし、またある酔っ払いに至っては、日本人の兵士が武装していないのをいいことに、ヒゲや髪をなでまわしたり、服を引っ張ったり、あげくにポケットまで手を突っ込んで来たという。また村人に水の場所を尋ねると、まるで泥水のような水溜りのところに連れて行って自らその水をすすりながら、これを持っていけと言う。
 かと思うと別の兵士の話では、わざわざ海岸に毛氈を敷いて休憩所を設けて礼厚く待遇し、良質の真水が湧く処にも案内して、帰りが夜になったので提灯をもって送ってくれたという。
 報告を受けた黒田弁理大臣は、これは兵士の人柄のせいなのか現地の人情柄の違いだけなのか、と首をかしげている。

江華島に至るまでの接待いろいろ

 日本側を迎える地方官や朝鮮政府の使者の応対も珍なるものであった。
 江華島に至って早々、猛船と呼ばれた朝鮮の船が近づいて来た。地方官の訪問である。彼はまず1封の書をを日本側に渡して、敢えて問うとして、どこの国の船か何のために行くのかを尋ねた。日本側がそれに答え、書を見ると「目録」であった。
 「白米5石 牛1頭 猪5匹 鶏20羽、醤(味噌類)1壷、酒3壷」とある。ようするに彼からの贈り物なのである。それで、糧食は充分に積んできているからと丁寧に断ると、日本とは三百年来の旧交があるのに今度初めて日本人と会ったので、わずかの志としてどうしても受け取ってほしいと言う。その心だけは有難く頂戴するが受け取るわけにはいかない旨を述べ、交渉談判のための先遣の者があることを政府に伝えてほしいと言うと、それは了解したが、贈り物は是非受け取れと言う。それでも失礼とは思うが固辞したいと言うと、地方官は、無理強いするのも返って失礼であるからと実に残念そうに了解し、それでは軍艦の中を見たいと請うので、艦の中に案内して運転機関や兵器などを一つひとつを見せると、感嘆して去っていった。
 また、一隻の船が来て、朝廷が先に高貴の官員を派遣してまさにこの船に来ようとしているので、差し支えないかどうか、と尋ねた。それで、応対はあちらに碇泊する日進艦でのみ受ける、と答えると、その者は悄然として木片を出して見せて、櫓の軸が折れて新しく作り直そうとしても工具がない、と言う。それで日本側は工匠に命じてそれを作って与えると、彼は大変感謝して去っていった。その後、ボートで水を探している兵士らがその高貴な官員らしき者の乗る船に出会った。その船は船先に天蓋のような傘を付け床には虎の皮が敷いてあった。ボートの兵士らを船に招いて、虎皮の上に座らせてしばし筆談。やがて水のあるところを尋ねると、近くの島を指差して、そこで清水を得ることが出来ると言った。
 また、ある岸壁では酒席を設けて応対をしようとしたり、軍艦に魚や鶏を運び込もうとする者もいた。
以上(対韓政策関係雑纂/黒田弁理大臣使鮮日記・韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記/1 明治9年1月6日から明治9年2月9日・明治八年江華島事件善後處置 日米間難破舩救助費償還條約/16 黒田井上両大臣復命書)より

打ち明け話・開化派の苦悩そして希望

 やがて、江華府での大臣同士の会談に同席する者が、朝廷から派遣されたとして釜山草梁公館への担当官である訓導 玄昔運を伴ってやって来た。司訳院堂上 呉慶錫である。

 この人は、清国との外交に携わるなどして少しは世界のことが見え、以前から、国交は開くべきであり、このまま孤立していることは出来ないと、朝廷に言上している人であった。
 いわゆる開化派の一人である。
 彼は日本の大臣をどのように迎えて応対したらよいのかを日本側に直接尋ねるように朝廷から命じられて来たのであったが、このような人物を先遣したところに、朝鮮政府の意向はもう決定していたも同然であった。

 日進艦内で外務大丞宮本小一、同じく森山茂らが応対した。
 ひととおり、両国大臣のことやその対応など、また会談する場所の特定などのことが話し合われ、茶菓が出される頃には打ち解けた雰囲気となった。

(韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記/2 明治9年1月30日から明治9年2月19日)より

 以下、その応対を所々は省略し且つ現代語に直して紹介する。また話者として、宮本小一を「宮」、同じく森山茂を「森」、司訳院堂上 呉慶錫を「呉」、訓導 玄昔運を「玄」と記す。

「これは打ち明け話であるが、自分は数回清国にも行き、その事情をも目撃し、我が国も到底外交を開かないわけにいかず孤立し続けることは出来ない事を朝廷にしばしば言上し、日本と交際するべきであると言っても、政府は少しもこれを採用することなく、大日本国を対馬一州ぐらいに思っていたのである。しかし今度の大事に至って却って自分に委託したと言える。(略)」

「誠にそのとおりである。ただ我輩から見れば、清国の外交も誠に拙いものである。しばしば失敗しては侮りを海外に遺している。しかし、いずれにせよ外交を開く貴国は、対馬の事情すら詳しくは知らない。まして海外万国のことも。ただ、君はすでにそのような志があるなら尽力せられよ。ともかく友好の増すことを願う。」
 ここにて酒を出す。

「(我が政府の)人々は、突然来たからここは無視しようとか朝命がないから外国の官憲と会見する必要もない、などと言って逃げれば大なる罪となると思う。自分が清国に行って初めて全権の使臣ということを知った。決戦・講和がその手にあると。しかし我が政府は全権がどういうものかも知らない。しかも大院君は隠居して別に執政官が居るというのに、諸官は極秘に大院君の認可を仰いでことをすすめている。だから諸事が堂々巡りや遅延することが多い。ところでいつ頃到着されるか。」

「ここからどれくらいかかろうか。」

「仁川に至ってからはだいたい一日ぐらい。」

「今はそのことはいつと言い難い。水深を測量しながら来ているから。」
(中略)

「先ほどから申すことは内情を話していることで、これが政府に漏れれば自分は再び5尺の体を容れる所はない。もっとも応接の仕方を問う以外の話は朝命ではなく自分ひとりの話であり、とにかく今度のことは諸事に不都合のないよう願うのみである。」

「これはまた私談であるが、先生はしばしば北京へも行かれたならその事情も熟知してあろうが、いったい国の大事を談ずるには必ずその国の首都においてするのが常例である。北京には各国の使臣が来往し我が国の使臣もある。このような状況からすれば、日本としても直ちに貴国の首都で会談するのは当然のことと思える。しかるに貴国は外人を内地に入れては風俗を見られるとか国勢を察っせられるとか言って、まるで婦人の身体を他人に窺わせるように思うのに似ている。これらの事を考慮したからこそ首都に行く前に江華府と定めたのである。しかし朝命がないから会おうとしないなど言うことがあれば、やむを得ず、仁川より首都まで1日と承れば陸行でもして直に入京出来るとも思える。日本側には、北京に使節が来往するのが普通であると思えるので、それが無理とも思えない。」

「先ほどより申すところは我が国情を打ち明けてのことで、当初はもちろん釜山においてもこの話が、もし少しでも我が国の人に漏れれば実に罪に当たるところを知ってほしい。故に今日の話は聞き捨てにして下されよ。聞き捨てにして下されればさらに話そう。」

「誠に然り。今日のことは相互に懇談ということになそう。深く考えられるな。」

「老婆心より申すが、江華島に至り、上陸の際にもし凶徒らの暴挙などがあったら何と思われる。」

「そのことがもし貴政府のなせることでなく、他の者の挙ならば、日本側では犬の吠えるくらいに見て深く無礼とは認めないであろう。」

「これは実に我が国に対して身を置くところない話なので、万一も漏れないことを願いたい。先年、まさにアメリカ船が来ると(1871年5月のアメリカ艦隊襲来)、大院君はその頃は全権を持つ最中であった。その時に自分は大院君に、開国せざるを得ないことを説いたが、米船はわずかの砲撃を受けて退去したので、それ以来自分は「開港家」と言われて、何を言上しても取り上げられることがない。貴国との交際も、これをするべきであると論じても、蛙の面に水で今日に至っているが、やはり米船が容易に退去したのと同じ事ぐらいに思っているのである。故に、江華に行かれれば、あるいは不慮の小暴動ぐらいはないとも言えない。また江華府の官吏もこれまで西洋型の艦船は打払うべきとの命令があったので、今回も別にそのことを制止する朝命がないからというので、結局は日本の艦船が来るのを拒否するかもしれない。今日の情勢を見ると、貴国の大臣は彼の地に到着したら直ちに上陸して威厳を示されるに越したことはない。でないと、また停滞延滞して釜山の談判と同じになってしまうであろう。自分らも皆に啓蒙しているが、信じる者がいない。今回のことでひとたび蹉跌すれば、実に万民に塗炭の苦しみを惹起することになるのを恐れるが故に、ここまで内情を打ち明けるのである。」

「こちらからもご注意申さん。8年前のアメリカ船のことは、北京駐留の米国公使と東洋滞航の米海軍将官との意見に出て事を挙げたのであって、本国政府の意向ではない。故にその後、再挙にも及ばないとのことである。フランスもまたその通りである。しかし、今回の弁理大臣の事は、厳に日本天皇の厳命を奉じられてのことなれば、これを8年前の事件と比較されては提灯と釣鐘、天と淵との差がある。これはついでの話であるが。」

「そのことは、自分もまたよく知っている。しかも今回、そのことを朝廷に報告しても信じる者が一人もいない。先年、自分が支那にいた時に、北京において貴国勅使が我が国と台湾とマカオの談判に交渉するのを見て、これを我が朝廷に報告したが信じない。それで台湾出兵の挙があったのに至って、それ見たか、この次には事が我が国に及ぶぞとまでに論説したが尚且つ信じようとしない。歎くべし。」

「それはまた常の用心深さには感服の至りである。」

「これは一つの意見であるが思うのに、海外各国より早晩手を我が国に出すに相違ない。そもそも我が国からこそ交際を貴国に求め、緩急に際して斡旋をも願うべきはずである。それに引き替え今日の現況なり。歎くべし」

「それほどの御志ならば、この上ともお骨折りを願う」

「今回のことで万民の塗炭を惹起することを恐れる。自分は今、自国に対して叱り言を吐くは実にこういうわけであるが、貴大臣が江華に至られたら、なるだけ威厳を張られよ。自分はしばしば我が大臣に申すも大臣はさらに世界の形勢を知らず、今日に及ぶとも茫然として昨日の如し。江華に前進されたら或いは、小暴挙もないとは保証できないが、もう我が朝議で拒否することはとても出来ない。これによって精一杯に国威を張られよ。両君よく了解されよ。」

「領意する。しかし大臣の意向はどう出るかは分からないが。」

「これほどまで説明すれば我が国の事情はたいてい洞察されよう。」

「左様。たいていは甚だ詳しく理解した。」
(中略)
 以下、話者が重なって誰かが特定できない場合は、「彼」「我」と表記する。

「これより雑談に渉る」

「御両君の年齢は?」

「40歳」

「35歳」

「両君は?」

「46歳」

「しからば余程永く力を国事につくされしと存ず。」

「自分は40才、すなわち大丞殿と同行なり」

「壬申でござるか」

「丁酉」

「しからば陰陽両歴の差あり。自分は君に長ずる1歳なり。」

「さて、これまで多年にわたって森山君の事に対しても、最初から自分の力が及ばなかったとは思われない。ただ力を尽くすことが足りなかったのであると思われる。しかし今日この地に対面した。心おのずから楽し。」

「自分も然り。」
(中略)

「趙寧夏氏はつつがなきや。」

「然り。」

「(中略)趙寧夏が書を森山公に贈った一連の事も自分はよくこれを知っている。それで、同氏はその書を贈ったために今日では却って不都合な目に会っている。当時、民宰相の(横死)事件があり、貴書(返事)を受け取らなかったのはもとより不当ではあるが、今日に至って公平にこれを見れば、かえってあの時に受けなかった事が幸いであった。何となれば、あの時に貴殿の書を受けても我が政府内には必ず不測の苦情が起こるはずであったからである。今日に至っては事一挙に決して、その効果が却って上がるであろう。」
(中略)

「(朝鮮から)北京に至るには山海関より牛荘にかかって行くや。」

「否、晋陽を経由する。貴殿は天津を通られた事があるか。」

「自分は彼の地方に行ったことがない。」

「自分もまたそこに行ったことはない。」

「同行している者には行った者が多くいるが、自分ら両人はまだ機会を得ない。」
(中略)

「牛荘には領事館を置かれるか。」

「天津と兼務である。」

「領事館は支那の中で何処何処に在るや。」

「天津、上海、澳門(マカオ)及び英領なれど広東省の香港。」

「その辺の地方にはしばしば遊覧せり。」
呉は、いろいろと地理のことを談じた。

「貴国人の清国に往き行商する者はそう多くはないが、清人の貴国に往くのは殊に夥しいようである。」

「近来極めて多く商客3千人もあろう。その他は召使や包丁人となり、或いは船舶の使役となる者が甚だ多い。」

「吾々の如きも家族を引き連れて貴国に往かば善く入られようか。」

「決然として迎へん。」
 2人は声を上げて笑った。

「日本の都に至れば世界の事情を悉く知ることか出来る。各国の人がいないことがない。」

「自分はよくそれを知っている。」

「蒸気船が通航しだしてからは、貴国などは直ちに隣に並んでいるのも同じである。」

「誠に然り。汽船、軍船、貴国に幾多隻あろうか。」

「日本形は数万、西洋形は300ぐらいであろう。自分らは内務に関せず、これをよく知らないが大抵このぐらいであろう。」

「陸路蒸気(蒸気機関車)は。」

「神戸より大阪に至るのが1条。横浜より東京に至るのが1条、すでに成れり。今また西京と東京の中間に1条を架そうとしている。その長さは数百里。」

「電気が字を書くと。」

「然り。電信機は全国に縦横して網の如し。東京より上海と一日中に座談すべし事を朝廷に啓陳するも、まだ東京に至るを要せず。」

「左様なり。左様にありてこそ人間が住むべき世界と云うのである。」
 訓導が艦内を見たいと言う。(中略)

「これよりなお小さい船舶があり、それの方が却って用をなす。」

「大も小もなく火輪船とさえ言えば此のようなものと思う。なるほど、小なる方が便利であろう。」

「貴国なども汽船を造り、島を渡ったり、天津などに通航するには、小さい方が都合が良い。」

「我が国が汽船を備えるように至るのは、中々程長き事であろう。いつともこれを見るの日あろうか。」

「どこの国でも同じような形勢である。ただ開明の進歩にしたがって自ずから成るべし。」

「さりながら、世界中にても我が国などは殊に迂遠の国なれば如何せん。」

「石炭ありや。」

「有り。しかしこれを掘り、またはこれを用うるの方法を知らない。」

「石炭あれば大いに好し。」

「然り。我が国も鉄と石炭を掘る事を知らば国必ず富まん。」

「然り然り。」

「開化の人に会い、開化の談をした。情意余さず述べた。今日は是にてお暇申さん。先刻より自分が打ち明けたことは一々真なり。更に虚偽なし。真実を告げておかねば、一方が(朝鮮側が)ただ茫然として熟慮も何もしてない相手であるから、事に大錯誤が生ずるのを恐れるのである。自分らが今日の事情を詳細に報告しても、我が政府にはこれを信ずる者もないからただ一通りを報告してその上に命令を待って帰京しよう。」

「先ほどからの種々の懇談は有り難いことであった。しかし一通り報告すると申されても、我々の江華府行きの事への応対は必ず遺漏されることがないように。」

「それはもとよりである。よって政府から直ちに江華府の責任者に下命があったら礼を欠くことはないであろうと思うが、もしその下命がある前に到着されるという事があれば懸念なくもないが、とにかくそれに関係なく直ちに上陸された方が自ずから道は明るくなるであろう。」

 ここで呉は、私(この対談の筆記録者のこと)の官職姓名を問う。しかし私には、見合う官名などない。そこで太政官出仕末松謙澄と答え、また今回の弁理大臣の随行として書記官の後ろに従って行くので、今からも時々は応接の光栄にあうと思いますとの意味を言った。

呉曰く、江華迎接の日に及べば、しばし会晤の機会もあらん。

民族国境を越えた「人間」たちの姿

 呉慶錫はあの金玉均に影響を与えた人である。ここでの対談からも開化派の急先鋒であることが窺える。このような人物を先遣として送ったところに、朝廷の意向は充分日本側に伝わったであろう。
 しかし実に楽しい会話である。日本で蒸気船や陸路(おか)蒸気、電信などが広がっている様子を話した時に、呉は「左様なり。左様にありてこそ人間が住むべき世界と云うのである。」と賛同し、朝鮮に石炭がある話から「我が国も鉄と石炭を掘る事を知らば国必ず富まん。」と言うと今度は日本側が「然り然り。」と応じる。
 そこには文明開化を成して、より幸福な世界を実現しようとする民族国境を越えた「人間」たちの姿があるだけである。
 後世に「武力で開国を迫った」などとレッテル貼りされているが、世界情勢が見えている呉の言葉はどうであろう。
「貴大臣が江華に至られたら、なるだけ威厳を張られよ。・・・これによって精一杯に国威を張られよ。両君よく了解されよ。」
 と、今こそ朝鮮政府に対して日本が威を張る大切な時なのだと、そのことをよく理解してくれと、「自分は今、自国に対して叱り言を吐く」と。
 日本の力で開国を迫ってくれという意味であることは間違いなかろう。

 

江華湾に面する「鎮海門」。右側は日本のボートと水夫か。撮影河田紀一

儀仗兵、軍楽隊、ガトリング砲の行軍儀式

 かくして明治9年(1876)2月10日、一行は江華湾に到着した。
 上陸したのは計107名で全権正副大臣、随行員、儀仗兵、軍楽隊、ガトリング砲(回転速射砲)4門を引く砲兵であった(護衛鑑儀仗兵其他乗組員取締ノ件 附私人ヨリ軍艦へ便乗方願出ノ件/3 明治9年2月9日から明治9年2月22日)。ガトリング砲や砲兵は朝鮮側(草芝僉使)に依頼して朝鮮船2隻を借りて、儀仗兵はボートで、それぞれ先に上陸させた。また、上陸に際し、日本側から朝鮮側に提案がなされた。軍艦による祝砲である。その数によって意味を持たせるとして、21発を以ってしてその国の独立を祝うということで21発に決定し、江華島に到着してから日進艦から祝砲を発した。続いて先に上陸した儀仗兵が鎮海門前に立ち並んで全権正副両大臣を迎え、軍楽隊の演奏をバックに粛々と行進をする。それは重厚なる儀式であり一幅の絵であった。
 かつて日本の地を踏んだ朝鮮通信使の行列は、にぎやかに楽器を鳴らしながら江戸の地に向かったという。おそらく同様の儀式を考慮しての日本側の配慮であったと思われる。
 約4キロ程の道程を経て江華府に入り、全権正副両大臣が朝鮮朝廷から派遣された申・尹滋承両大臣を訪ねて初面の挨拶をし、朝鮮政府の用意した宿に入る。すぐに申尹両大臣は宿を訪問して答礼を行う。
 日本側は明治服制に基づく大礼服で臨んだ。朝鮮側はあれほど服制のことにこだわっていたのに、もうそのことを口にする者はいなかった。実はこの時以前に既に朝鮮政府では、書契受け取りの方向で服制の事も問題とせずに日本側と会談することに決議していたのであった。(「韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記/2 明治9年1月30日から明治9年2月19日」p44)
 会談が開始されたのは翌日の11日だった。

上陸後江華府に向かう黒田弁理大臣一行。写真が不鮮明なので分かりづらいが、整然と行進している姿が見える。背景の建物は府を取り囲む城壁である。 撮影 河田紀一

 なお、江華島での上陸の際に、16人の兵員水夫を乗せたボートが転覆しすぐに救助処置がとられたが14人は救出したものの潮流が早いために2人は行方不明となる事故が起こっている。それを知った朝鮮側もすぐに数隻の船を出して捜索に協力したが、ついに見つからず、日本側の依頼を受けて発見した場合はただちに日本に報せることを約した。そして約束どおり、4月になって1人の遺体が発見されて江華島に丁寧に埋葬され、遺品が日本側に渡されている。(仁川着港ノ際二名ノ水兵溺死ノ件

江華府内。正面の建物はガトリング砲が置かれることになった建物。朝鮮側は屋根付きの場所を用意した。 撮影 河田紀一
雨露がしのげてご機嫌のガトリング砲(回転速射砲)4門と日本軍兵士。右端は水夫。 撮影 河田紀一

 

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