両国交際三百年
ところで、雲揚号への砲撃事件、すなわち江華島事件について、多少とも知識のある人は、この時の事件のことを、まるで幕末日本にペリーの黒船が来たように、全く交際のない国の船が、突然朝鮮に進入したかのような印象を持っている人が少なくないのではなかろうか。
実際は、あらゆる面でそれは違っている。
まず、幕末の頃の日朝政府間で交わされる書簡の冒頭に必ず書かれるものに「両国は交際して三百年になる」という意味の言葉がある。
これは明治新政府となっても変わらず、例えば国交前の明治7年8月(旧暦)の、日本との折衝窓口である朝鮮東莱府の府使朴齊寛からの、森山茂宛て書簡にも、「貴国交隣修好今為三百年所」とあり(「明治七年ノ五/巻之二十九
自九月至十二月/2 自明治七年五月乃至十月 朝鮮事件取扱手続提要」p32)、また日本側も、例えば森山茂から左将軍趙寧夏宛ての書簡冒頭に、「貴国唇歯相保已三百年」とある通りである(「明治七年ノ五/巻之二十九
自九月至十二月/2 自明治七年五月乃至十月 朝鮮事件取扱手続提要」p19)。
つまりは明治初期当時、朝鮮政府は日本の「皇政維新」を通知する書契の受け取りは拒否していたものの、日朝両国の関係の認識については、幕府時代からの交際をなお継続して日本とは三百年の交わりがある、というものであった。ただ、書契受け取り拒否によって朝鮮政府は明治新政府を認めないという形となっており、それはそれで重大な問題なわけだが。
しかし日本の官民は共に船で釜山に渡り、日本居留地は存続して明治政府外交官が駐在し、そこでは日本側に対して薪水の提供があり、朝鮮商人は出入りし、そして船舶の遭難時には、両国は互いに救助して送還することも実際に行われていた。
また、雲揚号事件の後に、日朝両大臣による談判が江華島の地で開かれたが、その時に日本側が、万国公法に基づいて新条約を結ぶことを提議した時に、朝鮮大臣はそれに答えて、「我国は従来貴国との交あるのみ。外国へ通商したる事なき故、万国交際の法も不案内なり」と述べた(「韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記/3
丙子〔明治9年〕正月16日から明治9年2月13日」p50)。
正確には、清国と日本国とのみ旧来から交際があるという認識を、当時の朝鮮政府は持っていたということである。
以下に雲楊号への砲撃事件、すなわち「江華島事件」を詳述するに当たり、ペリーの黒船来航時のような日本と米国との関係とは全く違い、当時の日本と朝鮮とは決して絶交していたのではなく、交際はあって船は出入りし、すでに述べたように日本の軍艦も、釜山港に、或いは慶尚道迎日湾に入港し、何ら大きなトラブルも無かったということは、あらかじめ留意しておかねばなるまい。
さて、6月30日に釜山草梁を出港した雲揚は長崎に帰港した。9月に入って、海軍大輔川村純義から、「対馬の海湾を測量し、その後に朝鮮東南西海岸から清国牛荘にかけて航海して航路を調査研究し、帰路に琉球諸島を測量するように」との命令を受け、まず、対馬の海湾の測量を行った。次に朝鮮東南西海岸から清国牛荘に向かう途中で、淡水が足りないことに気づき、その補給のため江華島に向かった。雲揚号への砲撃事件はこの時に起るのである。
砲撃事件報告及び談話集
雲揚号が砲撃された事に関する報告及び談話は以下のように複数記録されている。当然、雲揚艦長海軍少佐井上良馨の報告以外は伝聞情報であることを留意しておかねばならない。
1. 9月28日午前11時、雲揚艦長海軍少佐井上良馨から海軍大輔川村純義への電文報告
2. 9月28日午後7時、長崎県令宮川房之から太政大臣三条実美への電文報告
3. 9月29日、海軍大輔川村純義から太政大臣三條実美への報告
4. 9月30日、地方官へ御達の立案
5. 10月8日、雲揚艦長海軍少佐井上良馨提出の実況上申書(戦闘詳報)
6. 10月9日、寺島宗則外務卿と在日本各国公使との応接談話筆記
7. 釜山草梁公館理事官森山茂の朝鮮理事日表
8. 日朝両大臣の会談における申大臣の朝鮮側報告
9. 9月29日、井上良馨からの報告
以下にそれらを記述する。
1. 9月28日午前11時、雲揚艦長海軍少佐井上良馨から海軍大輔川村純義への電文報告
(「海軍省并ニ長崎県ヨリ雲揚艦牛荘ニ向ケ駛往シ朝鮮国江華島ニ在テ韓人俄カニ砲撃ノ旨ヲ報ス・二条」p6より旧漢字は新漢字に、句読点、()は筆者。)
朝鮮興化島(江華島の誤り)[釜山を離るゝこと陸地直径九十里京城の河口にある離島なり]え二十日到着端舟を卸し測量せし処、彼より大砲小銃を暴発したり。何故砲発せしか上陸尋問せんとすれとも彼砲発励しき故不得止当艦より大砲小銃を発し上陸。彼の大砲三拾八其外小銃品々持帰る。城は焼失、手負水夫二人、一人は療治不叶。電信にては委細申出難し。故に米国郵船より帰京の上申出度に付大至急御指令可被下候。
九月廿八日午前十一時廿五分 長崎
雲揚艦長
井上海軍少佐
河(川)村海軍大輔殿
|
事件の第一報は雲揚艦長から電文でなされた。
なお、艦長が帰京して詳細報告をした時に、この電文中の「端舟を卸し測量せし処」の「測量」の字は、「探水」という字の暗号電文の誤りである、として但し書きがされている。すなわち、
「本文『測量』せしとあるは今般井上少佐帰京、事実上陳の書に『探水』と有之に付測量の文字は全く電信暗号の誤解に候事。」(「雲揚艦ヨリ朝鮮事件電信ノ儀上申」p2)」
と。
2. 9月28日午後7時、長崎県令宮川房之から太政大臣三条実美への電文報告
(「同上」p7より電文を漢字仮名混じりに。()は筆者。)
届 太政大臣三条実美殿 出 長崎県令宮川房之
局発 官報 第七十二号 長崎局 九月廿八日午後七時二十五分
我が雲揚艦、朝鮮海かの都へ通るソウル側、廿日ハツテイラ(端艇、ボートのこと)にて測量の折り、彼れ台場より砲を発つ。遂に戦いとなり、翌廿一日未明本艦を進め、陸戦となり、台場を乗り取り、砦人家を焼き払い、彼敗走離散す。よって海軍少佐井上、彼の地引き揚げ今日入港す。釜山にて森山未だ知らざるゆえ押切漁船にて報知せり。春日艦修復出来、今日試み乗りあり。右申し上ぐる。
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「ハツテイラ(端艇)にて測量の折り」とある。ここも電信暗号の誤りであろうか。或いは長崎県令の誤解であろうか。
3. 9月29日、海軍大輔川村純義から太政大臣三條実美への報告
(「海軍省ヨリ我人民保護ノ為メ長崎港碇泊ノ軍艦一艘釡山浦ヘ派出ヲ候ス」p2より抜粋、旧漢字は新漢字に、句読点、()は筆者。)
第一号
雲揚艦より電報の儀に付上申
当省所轄雲揚艦の儀、先般対州海湾を測量し、夫より朝鮮東南西海岸を航海し、帰路琉球諸島を測量可致旨申付置候処、今般別紙の通同艦長井上海軍少佐より電報有之候条、不取敢御届申上候。(略)
八年九月二十九日 海軍大輔川村純義
太政大臣三條実美殿
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「対州海湾を測量し夫より朝鮮東南西海岸を航海し帰路琉球諸島を測量可致旨申付置候」と、雲揚号に命じた任務内容が書かれている。「朝鮮東南西海岸を航海し」とあり「測量し」とは記していない。
4. 9月30日、地方官へ御達の立案
(「朝鮮国東南海岸於テ我雲揚艦砲撃ノ旨趣ヲ地方官ニ令ス」p1より抜粋、旧漢字は新漢字に、句読点、()は筆者。)
八年九月三十日 地方官へ御達
先般我が雲揚艦、朝鮮国東南海岸回艦の末、猶又西海岸より支那牛荘辺へ向けて航海の次、九月廿日同国江華島辺通行の処、不図彼れより砲発に及び候に付上陸し其所由可及尋問の処、彼れ砲発益励しき故、不得止同艦よりも発砲し、次日遂に上陸台場を乗取り兵器を分取り、我水夫二名手負有之。長崎港まで回艦の趣電報有之候。此旨為心得相達候事
太政類典抄録
史官本局議案
今般朝鮮事件付海軍大輔上申に付ては各管内へ露布し随て浮説伝播人心動揺候ては不容易儀に付、不取敢左の通御達可然哉此段奉伺候也
海軍 ○(ママ)左の通御達し■は、前文の御達案なり。
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誤った情報が流布して人心動揺するを防ぐためのものである。「西海岸より支那牛荘辺へ向けて航海」と、より具体的になっている。太政大臣の裁可を得て10月3日に府県に示達されている。(「雲揚艦ヨリ朝鮮事件電信ノ儀上申」p4)
5. 10月8日、雲揚艦長海軍少佐井上良馨提出の実況上申書(戦闘詳報)
(現代語訳付き)
(「雲揚艦長海軍少佐井上良馨帰朝砲撃ニ遇フ実況ヲ上申ス」p4より、旧漢字は新漢字に、変体仮名は平仮名に、句読点、段落、()、現代語訳は筆者。)
朝鮮航海の節、我雲揚艦、彼より暴挙の始末帰京の上委細上陳可仕旨先般長崎港迄の電令を奉じ作七日米脚船コスタリカ号より帰京に付事実上陳する如左
下官儀
先般対州海湾を測量せし後、朝鮮東南西海岸より支那牛荘辺まで航路研究の命を奉じ出艦す。
而後東南海岸航海既に終り、西海岸より牛荘に到んとする途上艦中の蓄水を胸算するに牛荘着港の日まで艦裏に給与し難き故に艦を港湾に寄せ良水を蓄積せんと欲すと雖も当艦は不俟言我艦未曾航の海路にして良港の有無海底の深浅審ならず。
故に既刊の海図を展観研究するに、特り江花島の辺京畿道サリー河口のみ概略の深浅を記載するの便を得、針路を同方位に転じ九月十九日■月尾島[島名]に沿い投錨す。
翌日同処抜錨、江花島に向い航海し、鷹嶋を北西に望み暫時投錨す。固より此近海は未航未開之地なるが故に、士官をして探水或は請水せしむるも心自不安。親く端艇に乗り江花の島南を航し、河上に泝り第三砲台の近傍に至る。航路狭小岩礁尤多し。河岸を矚目すれば則一小丘に陣営の如きあり、又一層の低地に一砲台あり。
此辺に上陸良水を請求せんとし、右営門及砲台前を航過せんとするや、突然彼より我端艇を目的とし銃砲を交射する事尤激烈。吾速に艇の挙動を制し彼が弾路を避けんとす。然れども本艇の泝水するや流潮の河流を圧するの力に乗ずるを以て、回艇せんとするや逆潮に阻られ、又上陸して其所為を尋訪せんとするや弾丸雨注航路を不得。
進退殆窮危険愈迫る。於此志を一艇防禦一身保護に決し、水夫に命じ小銃を彼砲台に発射せしめ、備來るの号火を発し危窮を我艦に報じ、徐に退航す。
既にして本艦号火の暗令に応じ、国旗を檣上に掲げ航來し[聞く我国旗を彼国に釜山和館より兼て通知せし由故に掲しむるなり]、直に各砲を答発す。彼亦発射、各互交撃弾丸乱飛す。然れとも彼所発の弾丸大凡十一弐拇にして走力六七丁、偶一弾の本艦を飛越するあるのみ。此時我百拾斤、四拾斤の両砲より発射する弾丸台場に命中し破却するを認得す。
此機に乗じ上陸、其所為を愈尋問せんとすと雖も、海路最も浅く着岸する不能、又上陸すと雖も兵員僅少にして談判其利なきを追思し、止戦の命を下す。
尓後第一砲台に航進し各砲を探射し、又士官を指揮し海兵水夫廿二名を引率せしめ、端艇二艘を乗出し、既に着岸せんとする時、彼より砲射如雨。我艇亦発砲して上陸を欲すと雖も海浅うして艇近付難し。
依て兵員奮激直に入水、大喝一声城門に肉薄す。彼固守して不屈、劇戦時を費す。干時両士官厳命を下し、城壁に先登する者あり。乗機(機に乗じ)各士官兵夫を分卒し、北門に西門に東門に並進んで放火或は発砲し、進撃の喇叭を激吹し三面合撃す。彼大に潰ゆ。
此挙や敵死する者三拾五名、我水夫両名亦疵傷を負。其他敵の逃走する者大凡四五百名、生捕者上下合せて十六名。
婦人或は手負は尽く保護して無難の場所に放還す。城中寂として敵影を不見。此時東門の岩上山峰[丘名]頂上に国旗を翻し、萬世橋[敵の逃路]畔に斥候を配置し、兵士を慰労し休息せしむ。
於此本艦より兵員を上陸せしめ、城内砲台等より砲銃、剣、槍、旗章、軍服、兵書、楽器等の軍器を分捕る各有差。右品は生捕の者に命じ端艇まで運搬せしむ。然後彼等に食料を給与し生命を許し尽く放免還帰せしむ。城中放火尽く灰燼となし総員本艦に帰る。
到此飲水愈闕乏、諸所捜索の処、稍樹木繁茂せし一孤島を見出す。[余は樹木なし。]必谿水有らん事を測り上陸探求し果して清水を得始て積水の便宜を求む。
此行や牛荘辺まで航行せんと欲し不図前述の暴挙に際し小戦闘に及びし故、一先同月廿八日午前第八時長崎港に帰艦し直に事状を電通し帰京縷述を希窺せしなり。
右実況謹で上陳す。頓首再拝。
明治八年十月八日 雲揚艦長
海軍少佐 井上良馨 (押印)
(本文現代語訳)
先般、対馬の海湾を測量した後、朝鮮の東南西海岸から支那の牛荘あたりまで航路研究の命を奉じて出艦した。
その後、東南海岸の航海を既に終り西海岸から牛荘に到ろうとする途上、艦中の蓄水を胸算すると牛荘着港の日まで艦内に給与し難いが故に、艦を港湾に寄せて良水を蓄積するのを求めようとしたが、当艦は言うまでもなく、我が国の艦船がかつて未航海の海路であり、良港の有無も海底の深浅も明らかではない。
それで既刊の海図(フランス製)を開いて調べると、一ヶ所だけ江花島(江華島)のあたり京畿道サリー河口のみの概略の深浅を記載しているのが分かった。
それで針路をその方位に転じ九月十九日に■月尾島[島名]沿いに投錨した。
翌日に同処を抜錨し江花島(江華島)に向って航行し鷹嶋を北西に望んでしばし投錨した。もとよりこの近海は航海上未開の所なので、士官に命じて水を探させ、また給水を要請させることに不安を感じた。それで私自らがボートに乗り江華島の南を行き、川上に漕いで第3砲台(頂山島)の近くに至る。航路狭く、小さい岩礁が最も多く、川岸をよく見れば小さな丘に陣営のようなものがあり、また一段と低い地にひとつの砲台があった。
ここらあたりで上陸して良水を求めようと、右の営門および砲台を航行しようとすると、突然我等のボートを目的として、朝鮮側から銃砲を激しく撃ってきた。私は速やかにボートの動きを制して銃弾の方向から避けようとした。しかし、ボートが川の流れを押し返して漕ぎ進むのに乗って向きを回転させようとすると逆の流れに阻まれ、また上陸してその所業を尋問しようとするが、弾丸は雨の如く注ぎ、航路も定まらない。
進退はほとんど窮まり危険はいよいよ迫った。ここにおいて志をただ防禦のみに向け、水夫に命じて小銃を朝鮮側の砲台に発砲させ、備えていた号火(のろし)を発し、こちらの危急を我が軍艦に報せ徐々に退却した。
すでにして本艦は号火の指令に応じて、国旗を掲げてこちらに来[これは我が国の旗を掲げることを朝鮮の釜山の日本館よりかねて通知をしていたことを聞いていたことから、掲げさせたものである。]、直ぐに我が方も砲撃する。朝鮮側もまた砲撃する。各々互いに砲撃を交わし弾丸は乱れ飛んだ。しかし、朝鮮側の放つ弾丸はおおよそ口径11サンチ〜12サンチのものであり、その飛距離は6〜7町で、たまたま1弾が本艦を飛び越えたものがあるのみであった。この時わが110斤・40斤の両砲より発射する弾丸は、朝鮮側の台場に命中しこれを破却するを認めた。
この機に乗じて上陸し、朝鮮側の行動をいよいよ尋問しようとするといえども、海路が最も浅くて着岸することが不可能であり、また上陸しようとするも兵員は僅かにして、その談判もこちらに利のないを思い返し、我が方に戦いを止めるよう命令を下した。
それからは、第1砲台に向かって航行し、また、各砲の様子を見ながら、士官に海兵と水夫22名の引率を命じた。
ボート2隻を乗り出して、まさに着岸せんとする時に、朝鮮側より発砲雨の如し。我が軍艦また発砲して援護し、それで上陸をしようとしたが水深が浅くてボートが岸に近づくのが難しい。これより兵たちは奮って水に飛び込む。大喝一声して城門に肉薄する。朝鮮側は固く守ってこれに屈せず激戦の時を費やす。
その中にあって、両士官は厳命を下し城壁を真っ先に登る者があり、乗じて各士官は兵を分けて率い、北門、西門、東門に同時に迫って火を放ちあるいは銃撃し、また進撃のラッパを高々と鳴らして三面から攻撃する。朝鮮側は大いに敗北する。
これによって敵側の死者は35名。こちらは水夫2名が負傷する。そのほか敵の逃走する者およそ4百〜5百名があった。捕らえた者はあわせて16名であった。
婦人と負傷者はすべて保護して無難の場所にて去らせた。
城中は寂として敵の影は見えなかった。この時東門の岩上山峰[丘名]頂上に、国旗を立てて翻らせ、萬世橋[敵の逃路]の畔に斥候を配置して、兵士を慰労し休息させた。
これにおいて本艦から兵員を上陸させ、城内や砲台から、銃砲、剣と槍、旗章、軍服、兵書、楽器、軍器を捕獲する。それらは捕虜たちに命じてボートに運ばせた。
その後、彼等(捕虜たち)に食料を与え、その生命を許し、すべて放免して帰らせた。
城中に放火しすべて灰燼とした。その後、総員は本艦に戻った。
ここに到って飲料水は益々欠乏し、諸所を捜索したところ、やや樹木が繁茂した一孤島を発見した。[他は樹木がない。]必ず渓谷の水があると見て上陸して捜し求める。果して清水を得て初めて積水の便宜を求めることが出来た。
この度は牛荘あたりまで航行しようとして突然に前述の暴挙に遭遇して小戦闘に及んだので、一先ず同月二十八日午前八時に長崎港に帰艦して直に事状を電文通知し、帰京して詳述するを希望したものである。
右実況を謹んで上陳する。(以下略)
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日本から朝鮮政府に前もって通知されていた「国旗」のことが書かれている。すなわち、
「聞く我国旗を彼国に釜山和館より兼て通知せし由故に掲しむるなり」
と。
日本国旗のことは明治5年、明治7年と両度にわたって釜山草梁公館に於て日本側から通知され、朝鮮側も了承して受け取っている。すなわち「明治7年9月13日、釜山草梁公館理事官森山茂から廣津弘信宛書簡」に、
「一 [我より](玄昔運訓導へ)[御国旗章及び海軍旗章等を模写し蒸気船の雛型を付し示して曰く]此は我国の国旗及び船艦の旗号也。若し遭風貴国各道に漂着せば宜しく保護あるべし。尤此事は曾て旧訓導えも達し置たれど尚為念再び達する所なり。[彼曰]承諾せり。而るに今此事を状啓するも三件の大体不相立内は各道え布告するに難しからん。[我曰]夫は貴国の取捨にあらん。我は先此事を告くるを要するなり。・・(「明治七年ノ五/巻之二十九
自九月至十二月/1 明治7年9月5日から明治7年9月24日」p20)」とある通りである。
また、後の日朝両大臣による会談で朝鮮側大臣も「貴国旗見本我朝に達したるは確乎たり」と述べている。(詳細後述)
雲揚号に掲げられ、前もって朝鮮政府にも渡されていた日本国旗の事は、江華島事件についての歴史認識において「領海侵犯、武力威嚇、計画的挑発」などと著述する人々が決してこれまで触れようとしなかった極めて重要な事跡である。
6. 10月9日、寺島宗則外務卿と在日本各国公使との応接談話筆記
その後井上良馨少佐は外務省に出頭して寺島外務卿にも詳細を報告した。その報告に基いて寺島外務卿が各国公使に事件内容を説明しているが、中でも最も詳細に述べている英国公使パークスへの応接記を抜粋して記述する。
(「明治8年10月2日から明治8年12月9日」p3より抜粋して旧漢字は新漢字に、句読点段落、()は筆者。)
明治八年十月九日 於本省寺島外務卿英公使ハークス応接記
朝鮮暴発一件
一 (パークス)雲揚艦舩将井上氏御着之趣朝鮮戦争之詳説承度候
一 (寺島)我雲揚艦牛荘辺へ通航の砌、九月廿日朝鮮江華島の近傍に停泊し、飲料の水を得んが為め端舩を卸し海峡に入る。
第一砲台[周囲凡我二里程周囲城壁を築き四門を開けり。城兵凡そ五百余名城中家屋は皆兵営の様子なり。]の前を過ぎ、第二、第三、砲台の前に至る[第一砲台は第二第三砲台とは遥かに離れ、第二第三は接近せり。第二は空虚の様子人影を見ず。第三は巨大の砲台牆壁を築き、砲門を開きたり。備うる所の大砲は凡そ十二三斤位の真鋳砲なり。小銃は我二三匁筒位にして火縄打ちなり。凡そ我艦の彼海岸に至るや彼の役人問状の為め舩に来り、其来意を問う。依て水を乞い測量する等のことは其役人に頼るを例とす。今度も其問状の来らんことを欲し、本艦を離れて遥かに第三砲台前に来る。この端舩より本艦は見えずと言う。]時、城兵の柵門に出入するを見る。
舩近づくの時、突然小銃の声を聞といえども他事の発砲と想い敢て意とせざりしに復一声を聞く[弾丸は来らざる由。]と斉しく砲門より大小砲を列発して端船を襲撃す。
端舩応ずる能わず。引退かんとするに、折ふし満潮且狭峡ゆえ、潮勢甚しくして退くを得ず。不得止小銃を発して本艦へ合図せり。本艦この号砲を聞て直に進み来れり。
以前軍艦彼の海岸に行くや彼は我国旗を知らざるの模様ありし事もありたり。依てこの艦の此に入るや常に掲る国旗の外に二流の国旗を増し三檣に三流の旗を掲げて示せり。
[此所退潮の時は左右干上り水流の狭き所ゆえ、本艦回転の自由を得ず。]
端舩を収め本艦に■を卸し砲台に応じて発炮攻撃すること凡一時有半。[本艦射る所の弾丸二個思う図に於て着発せり。其時城中より黒烟上騰せりと。]
既に時正午に際す。この戦激烈なるを以て午饌を喫せんため暫時休息せんとて錨を引揚げ引退く。
台場に於ては敵、舩を追払いたりとや思いけん。城中旗を掲げて喜ぶの模様あり。[此国軍中合図をなすには火を掲げて報すという。此時城内火を揚げたり。他の台場への合図ならん。]
本艦退きながら兵士を憩わせ午饌を喫し第一砲台の前を過ぎるは凡そ二時半時分なり。
此時突然第一砲台より発炮襲撃せり。本艦復応じて炮戦す。間を窺うて端艇を卸し、三十余人の兵士[皆兵卒ならず。舩中乗る所の料理人、工人、水夫等なり。船中乗組七十余人水夫等は常に調練を教え其事に熟せり。]を此島の隣島とを接する橋[名を萬世橋という。]の傍に上陸せり。
門の内外に於て暫時打合えり。[此時両人傷を負い、一人はすでに死せり。]二人牆壁を踰え内に入り内より城門を開き味方の人々を迎い入る。
これより先、水夫四五名別の端船に乗じ他方[萬世橋ならず。]より上陸せんとするに登る事を得ず。壁外人家[五六軒]あるを以てこれに火を放ちて焼く。これによって城中動揺兵を棄て走る。
然るに其遁道萬世橋には我兵を引てこれを守る。遁るゝに路なく他方常に水浅き処を覧じめて徒渉して逃れんと各衣を脱し水に投ずるもの幾許なるを知らず。我兵追てこれを狙撃せり。死者溺者甚多し。其数を知らず。卒兵十二名を擒にす。城中疵傷を蒙って死する者凡そ二十七八名。
我全勝を得て後、彼囚人を使役して旌旗、金鼓及び大小銃砲三十七門ほど[確数は失念せり。]を分捕して本艦に帰り、生擒を放ち去らしむ。
[尤も囚人は本艦に伴わず、この者等に城中の景況を問わんと筆談をなせしが通ぜず。惟大臣討死せりとの旨略通ず。海岸水に投ずる所に高官の着すべきとも思わしき衣類脱捨有之。或は大将裸体水に投じて走るならんか。]時既に夜十二時なりしと言う。是より長崎に帰る。[釜山浦には立よらず。]
森山茂すでに長崎に在り。このことを聞き再び朝鮮へ出発せり。
以上[本文雲揚艦将井上某本省へ出頭。外務卿へ悉詳申稟の趣を演述せられ候由]
此日仏公使も出省、朝鮮戦争の詳説を望む。卿公前条の儀を略説被害致候。
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「常に掲る国旗の外に二流の国旗を増し三檣に三流の旗を掲げて示せり」とある。通常、国旗は艦尾に掲げて航行するものであるが、砲撃を受けたので日本の艦船である事を大きく示したのであろう。
また、朝鮮側には相当の高官がいたらしく、それと分かる白衣以外の着色の衣類を脱ぎ捨てて逃走したらしい。
当時朝鮮の兵卒には制服はなく皆普通の白衣であった。
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米国艦上の朝鮮兵捕虜。1871年5月、F・ベアト撮影 |
7. 釜山草梁公館理事官森山茂の朝鮮理事日表
29日に長崎に着いた森山茂理事官もその理事日記に雲揚号の件を記録しているが、艦長井上少佐から直接聞いたものではなく長崎県大属上村直則からの伝聞である。
(「朝鮮理事日表 (副本)/4 自明治八年二月二日至同年十一月四日」p30より抜粋、旧漢字は新漢字に、句読点、段落、()は筆者。)
同(九月)二十九日晴 午前八時、平戸海峡を経て午後六時長崎に入港上陸して石灰町本山某の家に宿し、直に電線を以て着崎のことを本省に告んとす時に本県大属上村直則来り、昨日雲揚艦朝鮮より帰り来り其話に、
本月二十日本艦測量の為め京幾道江華島に沿い漢江に入り、脚艇を下して河流を泝るに、彼れ妄挙我日旗を砲射せり。故に即時艦中に令して暫らく答砲して本艦に帰る。
翌二十一日本艦の三檣に日章を掲げ我大日本船たるを表し砲台の下に進め、昨日妄挙の情を問わんとす。然るに彼れ又砲撃すること初めの如し。故に我之れに応ずと雖も河流湍急にして運転自由を得ず、且つ其距離遠くして砲丸達し難きを以て終に退て第二の砲台に迫るに、守兵既に遁逃。故に之を火し過て第一砲台の下に碇を下す。時日已に暮る。
翌二十三日昧爽艦を進む。彼れ遑遽(急ぎ慌てて)激しく砲射すと雖も弾丸皆海に墜て達せず。而して我大小砲虚発なし。乃て脚艇を下し士官六名水夫二十余名を上陸撃破せしめ、城に迫る。此時我水夫二名創を被る。[一名は船に還て後死す。]衆奮激肉迫す。其間数名墻を踰えて城に入り門を開て我兵を納れ、放火突戦す。彼将士凡五百人狼狽逃竄すること群羊の虎に遭うに同じ。斬殺二十余人、海を游で逃れんとするものを狙撃すること数人、俘獲また十余人、皆戦慄して仰ぎ見るものなし。
大砲三十六門弓銃刀槍旗章図書楽器等尽く彼俘獲をして担負以て我艦に運輸せしめ、その他城堞(ひめがき・城牆)と共に皆灰燼となる。時日既に暮る。其俘獲に飲食を給して放還す。而して我兵艦内に宴を張り鼓を撾驩呼酔舞興を尽し、二十四日暁、錨を抜て還ると云う。
是に於て海軍出張所及び本県共に理事官の猶彼の地に在るを以て速に此の変を報じ且公館人民保護の為め特に汽船を発せんことを朝廷に伺う。(以下略)
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「我大小砲虚発なし」「狼狽逃竄すること群羊の虎に遭うに同じ」「皆戦慄して仰ぎ見るものなし」と、いささか武辺話めいた印象を受ける修飾の伴う記述である。
これまでの報告類と最も違うところは、戦闘が4日間にもわたって続いたとしていることである。また、帰国日時にも触れていることであろう。
明治9年の8月末に宮本小一外務大丞が浅間艦で仁川から帰国した時は、「8月29日午前6時5分、仁川湾を抜錨、風波なし。31日午後4時5分長崎港着(「宮本大丞朝鮮理事始末
四/1 朝鮮理事日記 2」p34)」とある。
浅間艦と雲揚号は大きさこそ違うが速度は殆ど同じである。(凡そ10ノットから11ノット)。それで算ずると24日朝に出発すれば26日には長崎に着くことになる。実際は28日に着いたのであるから2日ほど余るが、井上少佐報告のように「探水」に費やしたとすれば不自然ではない。
また、20日または21日に長崎に向かったと言う方が、なぜ1週間以上もかかったのか、という疑問が湧く。ただし、遅れるということ自体は止むを得ない事象(故障、悪天候など)に因るとも考えられなくもない。
8. 日朝両大臣の会談における申大臣の朝鮮側報告
それでは、朝鮮側はこの事件をどのように見たのか。そのことを伺い知る史料を後に江華島で行われた日朝両大臣の会談記録から拾い上げたい。
以下は、砲撃事件に関することだけの朝鮮国大臣申 の発言の抜粋である。
(「黒田弁理大臣使鮮始末 正本/2」p16より抜粋して旧漢字は新漢字に、句読点、()は筆者。)
申 「江華島は京城接近の地故に守衛を厳にす。貴国徽章見本は既に我政府へ御差出し相成しなれども、未だ地方へは達し置かず。尤、其船は黄色の旗を立たれば全く別個の船と認め、防守の為砲声を発せしなり。」
申 「地方よりは黄旗なりし由を届け出たり。誤り認めたるか。尤、貴国旗章見本は未だ江華へ達知せず。且、其際異様の船舶近海へ来往するの説あり。故に貴国舩なるを知らず砲声を発したるなり。今般廣津(廣津弘信副官)よりの報にて初て貴国舩なりしを知れり。」
申 「貴国旗見本我朝に達したるは確乎たりと雖ども、全国へ公布せざるは両国交際の事未だ十分ならざる処あれば外務卿の書契を収むるの事に至て後公布すべしと思いしなり。今地方に於ては別に公布を聞かず。忽ち黄色の旗を見、発砲せしならん。然らざれば平常商船等の海上風波の難に罹るの事あれば、直に之を救恤するを為す。況や貴国軍艦に謂れなく無礼を加う可けんや。」
申 「当時其船若し我国に留り、果して貴国船なるを知らば処分の道もあるべきに、其船は永宗城に至り火を放ち兵器を奪い直ちに帰り去りしにより、全く外夷の所為なると思いしなり。自後此等の事出来せざる様注意いたすべし。」
(p27より)
申 「貴国船なるを知らずして発炮す。故に守兵罪なし。」
申 「既に貴国船なりしを知れば、我朝廷宜しからざる事を為せしと思うなり。」
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日本国旗を受け取っていたのは確かであることと、日本の軍艦と分かっていたらどうして無礼をしたろうか、という朝鮮国大臣の発言は、この事件の歴史認識の史材として重要であろう。
9. 9月29日、井上良馨からの報告
次に日順は前後するが、9月29日付の井上艦長からの報告を記す。アジ歴資料ではないが、防衛庁防衛研究所戦史部図書館蔵の『綴り「明八 孟春 雲揚 朝鮮廻航記事」』に収められたものという。
冒頭に「此段不取敢致御届候也」とあるので、取り敢えずのものであって後の10月8日の報告とは違い、正式のものとは言えない扱いのものなのであろうか。
以下、「史学雑誌」第111編 第12号 2002(平成14年)12月20日発行 「「運揚」艦長井上良馨の明治八年九月二九日付け江華島事件報告書・・・鈴木 淳」より、井上艦長の報告書部分のみを引用する。
当艦義、海路研究として朝鮮西海岸廻航中、本月20日同国京畿道サリー河砲台より暴発し、夫より戦争に及びし始末、別紙之通に御座候。則日誌、サリー河図面、及永宗城図面等相添、此段不取敢致御届候也。
明治八年九月廿九日 雲揚艦長 海軍少佐 井上良馨
九月十二日、天気晴。午後四時長崎出張、夫より五島玉の浦に到り天気を見定め、朝鮮国全羅道所安島[海図クリチントンダロープ]を経て、海上泰静にして、同十九日午後四時三十二分、同国京畿道サリー河口「リエンチヨン」島の東端に外周檣壁を築きたる一城あり[記中第一砲台と記すは、則永宗城是なり]。之を北西に望み贅月尾島に沿い投錨す。
同月二十日、天気晴。午前第八時三十分同所抜錨、第十時永宗城の上に鷹島[海図カットル島]を北西に望み錨を投ず。而後、測量及諸事検捜且当国官吏え面会万事尋問をなさんと、海兵四名、水夫拾人に小銃をもたらし、井上少佐、星山中機関士、立見少尉、角田少尉、八州少主計、高田正久、神宮寺少尉補、午後一時四十分、端艇を乗出し江華島に向け進む。
同島より海上一里程の前に一小島あり。此島南東の端に白壁の砲台あり[是を第二砲台と記す]。四時七分、此前面に到りしなれ共、兵備更になく、人家僅かに七八軒あるを見認たり。
同時二十二分江華島の南端第三砲台の前に至れば、航路狭小にして岩礁等散布し、又東海岸の少し小高き平坦の地に、白壁の砲台あり。陣営の如きもの其中にあり[水軍防営ならんか]。夫より一段低く南の海岸に一の強台場あり。此所は勇敢の兵を以て之を防禦するときは、実に有到要害の地位と見認たり。
此所へ上陸せんと思え共、日も未だ高く、依ていま少し奥に進み、帰路上陸に決し、同三十分、右営門及砲台の前を已に経過せんとするとき、端艇を目的とし、彼れ営門及砲台より、突然大小砲を乱射すること、陸続雨を注ぐが如し。
暫く挙動を見合と雖も、進退終に此に究り。故に不得止我より亦其日用意の小銃を以て之に応じ、暫くは打合に及びしなれども、何分彼は多人数にして、且砲台より大小砲を乱射す。我は只小銃十四五挺のみなり。仍て之れと競撃すれ共益なし。故に一先帰艦の上、本艦を以て之に応ずるに不如と、同時五十七分発砲を止む。
第九時、一同無事にして本艦に帰る。
同月廿一日、天気晴。午前第四時、惣員起揃、蒸気罐に点火す。第八時檣上に御国旗を掲げ、而後分隊整列。
抑、本日戦争を起す所由は、一同承知の通り、昨日我端舟出測の時、第三砲台より一応の尋問もなく乱りに発砲し、大に困却す。此儘捨置くときは、御国辱に相成、且軍艦の職務欠可きなり。因て、本日彼の砲台に向け、其罪を攻んとす。一同職務を奉じ、国威を落さゞるよう勉励し、且海陸共戦争中惣て粛清にして万事号令に従い、不都合なきよう致すべく旨、数ヶ条の軍法を申渡し、終て戦争用意を為し、第八時三十分抜錨、徐に進み、砲員其位置に整列す。
第九時十八分、各砲に着発弾を装填し、第十時二十分第二砲台の前を過ぐ。
尚進んで同四十二分、第三砲台の前に到る。直に台場に接近せんことを一同切歯すれども、何分遠浅且流潮烈しく、及暗礁散布し遂に近寄ること不能。
因て不得止凡拾六町の所に投錨[此所すら流潮烈しく、船を留むるのみにて、船の自由甚困難なり]。直に巨離試しの為め、四拾斤を発すれば、八分時を遅れて、彼よりも亦発砲す。
夫より戦争互に交撃をなす。然れども、彼れが発する所の弾は、大約十一二拇のものにして、飛走すること六七町、偶一弾の遠く超越するあれども、艦を距る僅か一二町にして海中に落けれども、功を奏せざるのみならず、其装填放火の間た時を失すること数十分時、我百拾斤、四拾斤より発する弾丸、海岸砲台に命中し、胸墻を砲却すること二ヶ所現に見認めり。
朝来互に遠く競合すとも、急埒不致。よって陸戦を掛んことを企望すと雖ども、何分遠浅にして深泥なり。故に端艇は尚更歩行すら不出来。爰を以て少人数にて上陸すとも、敢て利なきを計り、是又相止めり。
此時最早昼食食事時なり。依て十二時四十分、戦を止めたり。午前十時四十二分より同時まで、戦争時間一時五十八分、其間我弾丸二十七発を費す。
艦及人員傷疵なく十二時五十六分同所抜錨。午後一時十五分、第二砲台の下に投錨し、食事を整う。午後二時四十分、第二砲台に上陸。其所を焼払い、同六時五分同所抜錨、七時三十三分、再び鷹島の南に投錨す。
同月廿二日、天気晴、微風北より吹く。午前五時総員起揃、同五十五分抜錨、第一の台場に向う。是則ち永宗城なり。
六時十六分、戦争用意をなし、各砲に榴弾を装填し、七時十八分、第一砲台の前面凡八町の所に進み、直ちに四拾斤砲を発し、続て各砲を発射す。其内弐拾斤一弾城中に侵入す。然るに彼れ、粛清して一砲を応ぜず。唯城中兵士の群集するを見る。
七時三十九分、城郭前面に投錨し、直に陸戦の用意をなし、小笠原中尉、星山中機関士、角田少尉、八州少主計、高田正久、神宮寺少尉補、銃隊弐拾弐名を引率し、同時四十三分、端舟二艘を乗出し、已に着岸せんとするとき、彼の台場より頻りに発砲す。然れども少しも不屈、我亦発砲して進む。此所浅うして端舟陸に接近せず。故に依て直に海に飛入り、大喝一声城門に肉薄す。
敵亦堅く守りて不屈。此時八分時程、尤劇戦なり。東門は角田少尉、神宮寺少尉補、厳しく令し、一声を発し、城壁を乗越す。
此時我水夫両名手負たり。是より先き、八州少主計は北門より、小笠原中尉、星山中機関士は西門よ、進んで所々に放火し、頻りに発砲しつゝ、鯨声を発し、且つ進撃の喇叭を吹かせ、急激三面より攻撃するを以て、終に守を捨て逃走するもの数百人[此とき城中の人員目撃するに凡そ五百余人なり]。
然るに、高田政久銃卒二三名壁外を旋りて彼が逃走する南門に向う。遂に四方より追撃するを以て、彼れ道を失い、壁を越え海浜に走り衣を脱して海中に入り、逃れんとするもあり。又、岩間に潜匿するもあり。此所にて敵死するもの弐拾五名、傷を蒙るもの其数を不知。逃走すること恰も、豚児の群り曠野を飢走する如く、或は躓き或は転倒し、其有様実に抱服の至りなり。之を鏖殺すること至て易しと雖、甚愍然、依て逃ぐるものは尽く見のがし、午前八時二十分退軍の喇叭を吹き、諸兵士を率いて東門の前に集合、人員を点検す。我兵、傷を蒙むるもの水夫弐名のみ[内一名、帰艦の上午後二時十分死去]。
敵、死するもの三拾五名余、生捕頭分五名、其外合せて拾壱名、其他敵の手負、婦人等は尽く保護して無難の場所に逃す。
此際東門の前岩上山峰頂上に御国旗を翻し、而して午飯を整う。此とき井上少佐、上陸して兵士を慰労し、暫く休息し、同九時七分、萬世橋等に斥候を配置し、追々本艦よりも人数を上陸させ、兵を分て城内及砲台に至り、武器を分捕る。大砲凡三十六門を始め、其外小銃、剱、鑓、旗、軍服、兵書、楽器其他武器類、惣て分捕り、城は尽く焼払い、彼の生捕拾壱名は夫卒として分取の諸品を端舟まで持ち運ばせ、午後九時五十九分、皆済に付、夫々に食物を給与し助命を申渡し放免す。
同十時三十分、惣員引上げ本艦に帰る。
此夜諸「ランプ」を餝点し、酒宴を開き、本日勝利の祝、及戦死の者霊魂を慰むる為め、彼の分捕の楽器を列奏し、各愉快を尽し、其夜第二時に至て休憩す。
同月廿三日、晴れ。午前第十時、昨日積残りの大砲を積込み、十一時同所発艦、午後四時十五分サリー河入り口小島前に投錨す。
同月廿四日、曇、午前呑水を積み、第十時三十分、同所抜錨。天気見定めの為、午後五時七分「ショーラム」湾へ投錨す。
同月廿五日、晴、午前第三時五十分、同所抜錨、天気宜しく海上平穏にして、同廿八日、午前第十時四十九分、長崎に帰艦す。
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ここでは、「同月二十日、天気晴。午前第八時三十分同所抜錨、第十時永宗城の上に鷹島[海図カットル島]を北西に望み錨を投ず。而後、測量及諸事検捜且当国官吏え面会万事尋問をなさんと」端艇を出したとある。「測量」及び「諸事検捜」且つ「当国官吏え面会万事尋問」とは、表現が広範囲すぎて却って具体的な事を特定でき難いものがある。しかしこの報告書は、上記の森山茂の朝鮮理事日表にほぼ沿った内容となっており、なお24日に小島で給水をしたとの記述もある。
また、国旗については翌日の21日午前8時に「檣上に御国旗を掲げ、而後分隊整列。」とあるが、もとより艦船が国旗を掲げているのは常のことである。しかしその位置は、上記写真や「雲揚・第二丁卯の派遣」にあるように、ガフ(斜桁)と称する部分でありマスト(檣)ではない。それを「檣上に」と明記しているところから、これは寺島外務卿が言うように、マストに2枚余分に掲げたことを指すと思われる。(寺島もマスト(檣)が2本しかない雲揚号に「三檣に三流の旗を掲げ」と勘違いしているが。)つまりこれは、21日になって初めて国旗を掲げたという意味ではないということである。
さて、井上少佐はこの報告書の中で、自分の事を「井上少佐」と記述しているところが2個所ある。本来なら「本官」とせねばならないところであろう。どうも部下の手による草稿文的な印象を受ける。それで、そのことの不備も含めて給水の事を強調するようにと、改めて報告書を作成し直すように命じられ、10月8日の上申書を以って正式のものとした可能性がなくもないだろう。
ただ10月8日の上申書では戦闘期間が1日なのか何日なのかがよく分からないものとなっており、後世この点から上申そのものの信憑性に疑問を持つ人もいるようであるが、それは少し結論を急ぎ過ぎであろう。なぜ戦闘各個の日付がないのかの理由を見出してからでも遅くはないはずである。
探水か測量か
「探水或は請水」のために脚艇を下ろして上陸しようとしたとの井上少佐の報告に疑問を持つ人が多いようである。つまり実際は測量をしていたのだろうと。
海路研究のための航海であるから、当然海深測量もあったろう。雲揚号が同年6月に咸鏡道永興を測量したことは井上少佐自ら森山茂理事官に話していることである。
ただこの江華島でも事件当時に測量をしていたとは言い切れないものがある。9月29日付の報告書に、端艇を乗り出した目的は、「測量」とあっても、及び「諸事検捜」とあり、更に、且つ「当国官吏え面会万事尋問」とある。範囲が広すぎてこれだけでは測量をしていたとは断定出来ない。むしろ、官吏に面会して話をするために端艇で乗り出したということが重要な語であろう。つまりは万事尋問であるから、水の事を尋ねることが含まれるとしても矛盾はない。そして「同月廿四日、曇、午前呑水を積み」と、確かに給水をしたことを記しているのであるから、10月8日の報告にある「探水或は請水」と整合することになるのである。
この事件を機として後に黒田全権派遣による日朝談判が江華島で開かれることになるのであるが、後述するように、その時の日本の艦船は何日もかけて(釜山を出発してから凡そ20日間)測量をしながら江華島にたどり着いているのである。
つまり、もし雲揚号がすでに測量をしていたなら、その測量結果が全く生かされなかったのは何故だろう。しかもこのとき井上良馨少佐は兵員運送船の高雄丸(乗員405名)の船長として黒田全権に同行しているのである(「黒田弁理大臣使鮮日記
正本/1 明治8年12月9日から明治9年1月29日」p5)。よって江華島近辺などの測量は未だなされていなかったと見るのが自然ではなかろうか。
「探水或は請水」そのものを明確に否定し、測量をしていたのだとする史料がない限り、10月8日付けの井上少佐の正式の報告をもって歴史の1ページとする外はないようである。
江華島事件への歴史認識さまざま
さて、インターネット上でいろいろと「江華島事件」に関する文章を読むと大体次のような決り文句を使うところが多い。
・ 領海侵犯
・ 砲艦外交
・ 計画的挑発行為
・ 開国の強要
中には、「武力で脅迫をしてきたのを朝鮮軍が撃退したところ、日本が『朝鮮側の不法砲撃』であるとでっち上げて、開港と国交を迫った。(在日朝鮮学校系サイト)」というのもある。(笑)
まず「領海侵犯」であるが、先述したように雲揚号はすでに6月20日から29日まで朝鮮沿岸を測量しており、その際、咸鏡道永興にては事実上容認され、慶尚道迎日湾にては、兵数百を率いた慶州県令の尋問を受けたが、退去要請もなく、そのまま半日とどまってから無事に釜山草梁に戻っている。朝鮮側は日本の艦船に対しては軍艦であっても「侵犯された」という発想をしていなかったことが分かる。
或いはまた、軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であるとか、京城中心部に行こうとしたとか言う人もある。しかし朝鮮が交際を認めている国の者が「当国官吏え面会万事尋問をなさん」とボートで岸壁に近づいた位のことが、はたして侵犯に値するものであったろうか。そもそも国際法(万国公法)も知らない朝鮮国が何をどう国際法的に判断をすると言うのだろうか。法というものはその国が用いない限り適用することはできない。
上述したように、後の日朝談判で朝鮮国大臣が「日本の軍艦と分かっていたらどうして無礼をしたろうか」との意味の発言は、当時の日朝の関係を知る上で重要な言葉である。
この事は雲揚号が6月に慶尚道迎日湾に入港した時に、兵を率いて囲んだ朝鮮側から何ら敵対的行為などはなかったことから、朝鮮政府の日本の軍艦に対する認識はその通りであったろう。尤も、県令次官が「酒ちょっとよこすニダ」といきなり言ったことから井上良馨が「無礼者め!」とばかりに立腹しているが(笑)
つまりは、交際三百年の日本の船を外夷(西洋国)の船の侵犯と勝手に誤認したのは朝鮮側であり、しかも誤認を防ぐために日本側が渡していた国旗見本をいい加減にしていたことと併せて侵犯誤認の全責任は朝鮮側にあると言える。
次に「砲艦外交」であるが、フランス艦隊・アメリカ艦隊に比してわずか270トンの小砲艦1隻を「砲艦外交」とは、過大評価しすぎであろう。実際は小さな測量船一隻の行動に過ぎない。
(しかし20〜30人の日本水兵の陸戦に、朝鮮兵400〜500名が逃げ出すとはなあ。怯懦なのか、それとも日本兵と分かったからか。しかし米軍の時には朝鮮兵は一旦砦を棄てて退却し、夜になって襲撃をかけているから、この時もそうする積もりだったのかも)
「計画的挑発行為」を裏付ける史料はない。そもそも薪水などの供給や遭難した時などに救恤するのを約束している日本の船が、しかも事前に国旗見本を渡して誤認のないようにまでした上での行動が、どうして「挑発行為」となるのであろうか。全く理解に苦しむことであるが、このようなことを言い募る人は、どうも当時の日朝関係の詳細を全然知らずに言っているようである。
事件発生前後の史料を精査しても計画性なるものは見出せない。計画的と言っている人は特別の史料でも発見しているのだろうか。もしかして前述した「軍艦ヲ派遣シ對州近海ヲ測量セシメ以テ朝鮮國ノ内訌ニ乗シ以テ我応接ノ聲援ヲ為ン事ヲ請ウノ議」のことを言っているのであろうか。この否決された上申は、5月の釜山草梁公館での服制をめぐる談判で事前協議の約束を守らせんとした「圧力」としての提案であって、軍事衝突を想定した「挑発」とは何ら関係のないものである。この献議否定のことはその経緯の資料も添えて既に述べた。
逆に計画性に欠けていた証として以下のことがある。
事件後の10月5日に外務卿寺島宗則は海軍省雇いのイギリス人・ゼームスから江華島の地理などの詳細を事情聴取している。
ゼームスは9年前に江華島に上陸し、現地の状況をよく知る者であった。すなわち、
「明治八年十月五日午後二時、外務省に於て海軍省雇い英人『ゼームス』氏を招き同氏が曾て朝鮮国江華島に航し至りしときの景況を問う。『ゼームス』答話聞書。(略)『ゼームス』曰く。『余の彼国に航せしは今より九年前彼国に於て仏国の僧徒を暴殺せし頃ろにして仏国より軍艦を進めたりしときより六ヶ月計り前の事なりし』」と。(「対韓政策関係雑纂/明治八年朝鮮江華島事件/長崎県厳原支庁ヨリ釜山居留民保護ノ為吏員出張ノ件」p4)
計画的であったならそのようなことは事件前に調査済みであったろう。
もう「開国の強要」などが単なる妄想であることは明らかであろう。4月29日付の森山理事官への訓令で分かるように、譲歩と対話による平和的解決が日本側の方針だったのである。
ところでこの「開国の・・・」という文言であるが、日本は書契の受納こそ求めていたものの、何も朝鮮が直ぐに開国つまりは西洋諸国との交際を始めることを求めたわけではない。また、後に日本と修好条規を結ぶが、これが朝鮮の「開国」に相当するわけでもない。そもそも日本と朝鮮は交際三百年の関係があるとは当時の両国の認識であり、この条規締結は幕府時代からのものを改めて近代条約としたに過ぎず、実際に朝鮮が「開国」したのは明治15年からである。そしてこれによって大事件が起きるのであるが、そのことは後述する。
さてまた、警戒度が高い首都防衛の拠点に来たことから「挑発である事が分かる」と言う人もあるが、これは艦長の井上良馨少佐と言う人物を知らないからであろう。6月の慶尚道迎日湾で朝鮮兵から賄賂を要求されて激怒し、わずか数名の兵を伴って、対する朝鮮兵数百の中を分け入って行って長官に抗議するという豪胆な人物である。また井上少佐には、朝鮮軍はそのように話し合いの通じる人々である、と言う認識でもあったろう。だからこそ艦長でありながらボートに自ら乗り込み給水を請いに行ったと言える。そもそも挑発であるなら戦闘を想定するから艦長が本艦を離れるはずはないのである。
また、9月29日の報告によれば、戦闘状態が3日間に亘ったことから、それを執拗と見、最初から挑発して戦闘する積もりだったに違いない、と言う人もある。しかし何とまあ当時の軍人の精神に無知な意見だろうか。いきなり攻撃されて反撃もせずにすたこら逃げるだけの者が当時貴重の軍艦の艦長をしていたろうか。まして日朝間は敵対していたわけではなく、一応は交際国である。井上艦長はすでに釜山で朝鮮官吏とも会話し、兵を率いた朝鮮県令などとも接触している。その時はまず先に尋問があった。それを今度は「尋問もなしに無法にもいきなり攻撃するとは何事ぞ!」とあくまで問責するのは当時の軍人としては当然のことであったろう。たとえ何日かかろうと。そしてやっと捕まえた朝鮮兵は筆談も通じぬ者であったから、結局罪を問うのを諦めている。
或いはまた、「井上良馨は征韓的な考えの持ち主であった」とする意見もある。つまりは井上良馨少佐が政府方針に逆らって勝手に暴走したと言いたいらしい。とんだ濡れ衣であろう。そもそも当時の日本人で「征韓感情」すなわち朝鮮の非礼に対して怒りを抱いていない者がいたろうか。それでも軍務の行使と、個人的感情を爆発させることとは全く意味が違うものである。それとも井上良馨少佐は間抜けにもボートに乗って自己の征韓論を実行しに行ったとでも言うのだろうか(笑)
9月29日の井上艦長の報告をとりわけ重視する人があるが、これにも「当艦義、海路研究として」とあるだけである。
そして江華島に向かったのはフランス製の海図に江華島の河口だけ水深が書かれてあったのでそれを頼りとして行ったと言える。座礁の危険をまず避ける、これ航海の常識である。
更にまたWeb上の諸氏が指摘されてあることとして、1隻のみで挑発行為をする事は到底考えられないと言う問題がある。
もし砲撃を受けて被害甚大に及び航行不能あるいは沈没した場合、そもそもこの事件を誰が日本に帰って「向こうから先に砲撃されました」と報告するのか。
挑発を目的とするなら、必ず支援し又報告の任に当たれる僚艦を伴わねば作戦計画の段階で不可となる軍事行動であろう。もちろん、雲揚号のみであったことは後の日朝双方の会談でも明らかである。
つまり、よくよく考えれば計画的でもなければ挑発でもなかった事はもう明らかであろう。たかがボート1隻で交際ある国の海岸に近づくことを以って挑発行為であるとするなど、もし井上良馨が聞くなら腹を抱えて大笑いするに違いない。
「朝鮮軍が撃退したが・・でっち上げて、開港と国交を迫った」においては何をかいわんやである。撃退したというのだから開国を迫ってもまた撃退すればよいではないか。「でっちあげた」つまり嘘である、というならそれを裏付ける史料を出さねばならない。それをせずに言うのは単なる言いがかりである。「もともと日本側の史料は信用できない」とまで言う者があるが、それならば江華島での事件を詳細に記録した朝鮮側の史料があるとでも言うのだろうか。アジアの近代史の詳細を、日本の緻密で膨大な公文書を抜きに語るとするなら、それこそ史料に基づかない嘘を嘘で塗り固めたでっち上げの歴史を創り上げるしかないであろう。
ついでであるが、朝鮮側の被害に人家などがあったことを強調して日本はこんなにひどい事をしたのだと印象付けようとする人がある。砲台のある要塞に民家を建てたり民間人を引き入れている方がどうかしている。人命軽視もはなはだしいのはどちらであろうか。もう一つ。戦闘後、大勢死人が出ているのに捕獲品を前に祝宴を張ったのはひどい、と現代人の感覚でとやこう言う者もある。
戦いに勝利して祝杯をあげるは当時の武人の心得であるが、何か? 9月29日の報告には「本日勝利の祝」及び「戦死の者霊魂を慰むる為め」とある。真に宜なるかな。
それでは、この事件はどうして起こったのか。
風説と怠慢が過剰反応と誤認をもたらした
1.江華島の朝鮮軍の過剰反応だったと言える。
これには理由がある。
9月19日にまだ公館に居た森山茂理事官は次のような朝鮮人たちの話を聞いている。(対韓政策関係雑纂/日韓尋交ノ為森山茂、広津弘信一行渡韓一件
第六巻 朝鮮理事誌4 p11)
「支那から急報があって、8月中旬までに英国軍艦が朝鮮海岸を侵撃するとのこと。果たして9月初旬に咸鏡道に3隻の英国軍艦が侵入してきたので、朝鮮軍は1100人の水軍陸軍を発して取り囲んだが軍艦はそれを撃破して上陸。ついに陸軍と戦闘になったが朝鮮側は敗走し、急使をもって都に援兵を乞うたが、援兵が来る前に軍艦は引き上げていった。朝鮮軍の死者は多かったが、英国人は一人の死傷もなかった。」
また、全羅道から帰ってきた者の話として、
「外国の軍艦が全羅道に来ていて、まだ戦端は開いていないが、釜山水軍などの官吏は公館の北浜から石礫を城内に蓄える策を考えている。」とあった。
英国軍艦との戦闘のことはどこまでも風説であり、陪通事金正植もその説は詳らかになってはいないと述べている。
つまりは、このような噂が立つぐらいであるから、当然朝鮮各地の軍も緊張していたろう。過剰反応する可能性は高かったといえる。
もちろんこの話を日本側が耳にした時には雲楊の井上少佐はもう江華島付近に達していて英国艦との戦闘のことなど知りようもない。井上少佐の朝鮮軍への印象は6月の慶尚道迎日湾での姿であったろう。つまり、充分話が通じる相手であるということである。
また金正植は、大院君が復帰して入城し(8月初旬)、国権を手に入れたと言い、これでまた大臣などが変わり国議がどう紛糾するか分からないと嘆いている。攘夷強行の人、大院君の存在、このことも影響していないとは言えない。
そもそも上記したように、後の日朝両大臣の会談において申大臣は、「異様の船舶近海へ来往するの説あり。故に貴国舩なるを知らず砲声を発したるなり。」とはっきり言っているのだし。(笑)
2.誤認すなわち朝鮮政府の怠慢と言える。
すでに述べたように、「全く別個の船と認め」「貴国軍艦に謂れなく無礼を加うる」ということがないように、朝鮮政府は日本政府が提出した国旗見本を地方に公布し、無用の事件を引き起こさぬようにするべきであった。
明らかに朝鮮政府の怠慢であろう。
以上のように、朝鮮軍の過剰反応と誤認による偶発事件と言える。非は全面的に朝鮮側にあり、後に朝鮮側もこれを認めて遺憾の意を表し、謝罪文でも触れている。
江華島事件のみならず
さて、この事件から35年後には韓国併合ということになったからだろうか、今日ではどうも日本と朝鮮との関係を侵略者と被侵略者との関係と最初から結論付けた視点で、江華島事件のことを評価する人が多いようである。実は筆者も以前まではそうであった。実際色々な解説書がそのような書き方をしているし。
しかし実際に当時の資料を丹念に読んでいくと随分と印象の違うものとなった。なにより事件のことのみならず、その前後、また背景となった当時の日朝関係の詳細などを知ることが重要と思われる。無論、資料といっても、手紙や書類の一つや二つで結論を出すのは早計である。
『歴史を見る時、複雑なものを複雑に見ることが非常に大事です。単純化するのは危険です。』(伊達物産アジア研究所長 平田隆太郎氏)という言葉を再認識させられた次第である。ついでに言うと、自分で資料も読まずに空想や他人の文章の孫引きで歴史を鵜呑みにするのも危険です、と言いたい(笑)。少なくとも今日に於いて、近代史のことを反省や非難の題材として迫ったり、反対に変に美談として語る人の歴史観は、まず疑ったがよいと筆者は思うしだいである(笑)。
戦争の危機
先に述べたように、「まさに朝鮮側から日本に対して破約と絶交を突きつけた形」の上に、更に朝鮮側から武力行使をしてしまったのである。普通ならば戦争であろう。
すでに「征韓論」は終わったも同然の日本政府内部と違って、国民世論が朝鮮に対して最高に怒ったのはこの事件によってであった。まさに「征韓」の声が国中に満ち沸騰したのである。日本全国から「朝鮮討つべし」の建白が続々と政府に届けられた。
建白征韓先鉾ヲ乞ノ議
「先月二十日 我国ヲシテ自主自立ノ権ヲ矢ハシメ 我 天皇陛下ノ頭上ヲ無限ノ汚辱ヲ降下来ルナリ 我大日本帝国内ニ在ランモノ 誰カ扼腕切歯セサランヤ(公文録・明治八年・第二十巻・明治八年十月・元老院附録)」
建白征韓ノ議
「朝鮮ノ如キハ既ニ我(我が国)ニ叛クノ大罪アリ 王命ヲ拒ムの無礼アリ 國旗ニ砲撃スルノ無道アリ(同上)」
建白征韓ノ議
「今征韓ノ令出ルヲ聞カハ 拍手踴踊白骨ヲ敵讐朝鮮ニ曝シ 上国恩ニ報ジ 下宿志ヲ遂ン(公文録・明治八年・第二十一巻・明治八年十一月〜十二月・元老院附録)」
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『加藤主計頭清正朝鮮国に渡海して皇威を海外に輝す図』 佐藤豊忠画 山村金三郎 明治8年
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上の絵は明治8年(1875)に出版されたものだが、かつての豊臣秀吉による「朝鮮出兵」での加藤清正の活躍を再現し、「皇威を海外に輝す」という当代的タイトルを付けている。もちろん明治8年当時の人々の朝鮮に対する憤懣を代弁し、また煽り立てているとも言える錦絵である。
このような絵画が出版されることを以ってしても、当時の日本国内の雰囲気を知ることが出来るのではなかろうか。
江華島事件と釜山草梁の人々
一方、雲楊号への砲撃を知った朝鮮側の反応はどんなものだったろう。
以下に当時の記録から、事件前後の釜山草梁の様子を抜粋し現代語にして記す。(括弧内は編者註)
『6.朝鮮理事誌 (正本)/4 自明治八年二月至同年十一月四日』
8月9日 突然、英国軍艦(ホルキ号)が釜山草梁に入港する。上陸許可を求めたが、森山理事官が直接応対し現地の事情を説いてこれを阻止した。軍艦は長崎に去った。
9月19日 咸鏡道に3隻の英国軍艦が侵入して朝鮮の水軍陸軍と戦闘したとの話が伝わる。
また、全羅道から帰ってきた者の話として、全羅道に外国の軍艦が現れ、まだ戦端は開いてないが当地は騒動になっている。釜山の朝鮮水軍の官吏はそのために公館北側の浜から石礫を運んで城内に蓄え、もし敵が上陸したらこれを投げて防御するという策を考えているという。
(9月20日 雲楊号事件発生)
9月21日 森山理事官らは数名の留守居の館員を残して帰国。対馬へ向かう。
9月25日 公館からの報告に(当時森山は在対馬)24日に英国軍艦(シルベヤ号 乗組員110人)が突然草梁に入港した。理事官に面会を求めたので不在を伝えた。艦はこの地を測量するためにしばらく碇泊するという。
(9月28日 雲楊号、長崎に入港)
9月29日 森山理事官ら長崎に上陸。雲楊号事件の事を知る。ただちに外務省に、「雲楊号のことを聞いた。イギリス艦も釜山に来て測量中である。公館のことが心配であるからこれから引き返して公館の日本人の保護に務めるべきかどうか。出来れば戻りたい。」との電信を発する。
(9月30日 寺島外務卿指令 「春日艦にて韓地へ渡り人民保護に努めること。雲楊艦について朝鮮側から問われたら、自分が在任中のことではないから本国へ奏聞の上に返事する、と答えておくこと。」)
10月3日 釜山草梁公館在日本人保護の命を受けた軍艦春日(1289t 全長75.7m 18cm前装砲 1門, 11.4cm砲 4門, 30ポンド前装砲
2門 乗員 124人)と共に釜山草梁に戻った。春日は砲門を開いて警戒しながら湾に入ったが、草梁はいたって平穏であった。
公館在勤の者に近況を聞くと、「公館には何も変わったことはなかったが、英国軍艦が来た時には朝鮮軍は兵を募って防衛の処置をし、軍艦が去った後で彼らが誇らしげに話すことには『本日、もし軍艦がなおも滞泊するなら、断然追い出すことに議が決した。もし戦闘になるなら公館の人らの目を慰めるに足るであろうに、そこに至らなかったのは残念である』と言い、その後3日間は釜山城周辺で練兵し大砲を撃つなどして、その武威を日本側にも見せるかのようであった。その後、彼らが言うのに『我が国の兵備は大いに調い、今や何国人が来撃しようとも決して差し支えない。』とその慢侮は日頃に倍した。ただし、一昨日(1日)には多太令使が将兵200人余りを率い、絶影島(草梁公館沖の小島)に来て発砲演習を終日行った」とのことであった。今は、その絶影島に100人ぐらいの人が集まって陣小屋のようなものを作っている。夜になって完成し、その人らは南に去った。
しかし人々の様子を伺うと、まだ雲楊号のことは伝わっていないようであった。
戻ったことを朝鮮側に知らせると、訓導は用事で他所に行っていると言って、朝鮮側の官吏(別差)が来た。彼は、森山理事官が戻ったことを賀し、軍艦を見たいと言ったので見せると、本艦の機関や兵器などの荘厳さに驚嘆して帰っていった。
森山理事官は公館職員と主だった日本人商人に雲楊号事件のことを話し、まだ朝鮮人には知られないようにしてほしいと言い、政府の日本人保護の意向を伝えた。
この夜、釜山近辺諸所に篝火を灯し松明の往来が絶えないことからも朝鮮側が厳戒していることが知れる。
5日 陪通事らが「江華島に於いて日本軍艦を砲撃し、我が国がかえって大敗したとの風説がある」と話した。また公館の書記生に語ったのには「まだ公然と官報にあるわけではないが、この事はもうすでに伝わっていて防ぎようがない。この戦役によって我が国より戦端を開き、自ら禍を招くのである。」と嘆息した。
(この話しを聞いた)朝鮮人たちは皆心を寒くし舌を巻いて茫然としていた。
6日 今までは汽船が入港すると、夜の市場を規制し人の出入りを制限するのが常であるのに、今回は、そうでなく返って規制を緩くしているようである。
7日 雲楊号の一件が上下に伝わったようで、皆が憂鬱紛れの表情であるようだ。
昨日来、巨済島嘉徳浦−公館からの距離7里−に汽船が2隻碇泊し、そこの土民たちが驚き騒いでいるとの風説があったので、船を出して探らせた。
8日 巨済島嘉徳浦の探索の者の報告に、汽船の姿はなかったが海辺の数ヶ所に篝火を灯して警戒の様子だったと。
9日 朝鮮人らの話に、「軍官ら10数人が来て、土民を大勢賦役し一戸ごとに賦銭を課したので、怨嗟の声が道にあふれている。僕らは事あるときには寧ろ日本公館に保護を求める」と。近隣の朝鮮人は皆同じ気持ちのようである。
12日 (日本の)汽船満珠艦が着館。寺島外務卿からの指令があった。
一 朝鮮国と我が測量船とが相砲撃したことで、在朝鮮の我が人民鎮静保護の指令を電信でしたが、その心得方を(以下に)言う。。
一 もし朝鮮側が公館官民の退去を言って来た場合、その旨を記した政府発行の書類を取り、これを上申して指令を待つこと。みだりに退去させてはならない。
一 もし朝鮮側が我が国の官民に迫って粗暴の挙動があらんとする情勢を見れば、速やかに春日艦と協議して被害が及ばないように取り計らうこと。
一 いずれの模様になるとも、現場の状況をもらさず逐一上報すること。
以上、明治8年10月1日付け。
訓導から手紙が来る。「理事官が無事に来られたことを祝う。僕は忙しすぎて疲労困憊して寝込んでいる、残念。」と言う内容。
13日 別差が来て満珠艦を拝見したいと言うので許可した。その時に書記生に語ったことに「理事官公の渡来を聞いて、別遣金知事や訓導は歓閲し、必ず近日中に来て対談したいと言っている。」と。
春日艦が砲撃演習をする。大小砲が連発する。硝煙は海を蔽い、砲声は四方の山を震動させた。
午後に陪通事が浦瀬副官の所に来て「今日、訓導が釜山に来て、理事官公の渡来を賀し、しかし公務が忙しすぎて会うことが出来ないとのことだった。・・・」と言ったので、浦瀬が訓導の手紙を見せて「寝込んでいるとあるが、今日はすでに快癒を得られたか。良いこと良いこと。」と言うと、彼は顔を赤らめ黙って帰っていった。
15日 ・・・近日、朝鮮人の話に「我が人民が、日本人のために10人中9人まで殺されても、決してこちらから抵抗してはならない。また、理事官らが東莱府に話し合いに行こうとしても、以前のようにそれを阻むなどの無礼あるべからずと、東莱釜山より厳命があった」という。
陪通事の金福珠の話に「訓導が、理事官公の再渡のことを上に告げたが、その返書に、そのことに付いては大丘に報告せよ、速やかに朝廷に伺わざるを得ない件があるとの事。それで報告したが、東莱の新府使の出発と行き違いになってはいないだろうか。服制のことで何らかの議決があったことを以って来ているだろうか。いや、もし何もそのことがない間は、公館からこちらが来ることを促してきても、おまえたちがよろしく言い繕っててくれ。」とのことだった。
18日 通事らの話に「朝市の魚菜が少なくては公館の日本人が困るから、よろしく潤沢に販売せよ」との布令があったと。
19日 通事らが公館の日本人に告げて言うには「我が国が日本艦を砲撃したのは、貴国にこのような艦船があることを知らなかったからであり、まったく双方の錯誤であるとの説がある」と。
20日 金福珠(陪通事)が来た。「我が国が日本艦を砲撃したのは実に妄動というべきである。必ず日本人が激怒し、やがて問われることがあるに違いない。しかもこの事は日本に理があって我々に理はない。その問うところの意味も曲げても従わざるを得ないことになるか。それでも我が国の談判の都合によっては、決して兵を動かすことなどに至らず、必ず和好の時あるべし。我が国もとより日本に敵対する勢意なし」と言う。また、
「近頃、兵の備えが盛んであると言うが、その実はなはだしく衰え弛んでいるようだ。土民が賦役で困っているから、(朝鮮の)官吏を見るときに赤鬼のような顔でにらんでいる。」と言った。
22日 訓導が来る。住永、尾間、両書記生に応対させる。彼は、東莱の旧府使は先月20日に病没したと言うのみで、雲楊号の件は知らないようであった。
24日 「日頃の朝市で朝鮮人が遅刻するから公館の日本人の朝食の用に欠けるので、これからもっと早起きして市を開くべし。もし遅刻する者は入館を許さない。」と朝鮮の官吏より厳命があったという。
25日 釜山令使の命令であると言って、軍官両名が理事官のところに来た。「理事官が再来されたが時候が寒冷にあたるので、以前より薪と炭の量を増して送る。またこれからはそちらの属官の所へも数を定めて送る」とへつらいの言葉を言って去った。
26日 午前5時に突然春日艦が錨を上げて多太浦近辺に行った。朝鮮の通事らは驚き喜びながら走り回って「軍艦が帰った」と言って祝った。しかし、午後6時にまた帰港したので愕然としていた。
釜山浦辺の篝火の数が増し夜警をしている。
27日 午前9時、汽船が疾走してきた。(日本の)軍艦孟春号(砲艦 305t 全長45.7m 17.8cm砲1門 14cm砲2門 小砲2門
乗員88人)であった。マストに「将旗」を掲げていた。(将旗は「指揮權を有する海軍大將、海軍中將、海軍少將」の旗章。この時、中牟田海軍少将が乗艦していた。)
よって、春日号から祝砲を発した。孟春もまたこれに応じ、凜然たる雰囲気となった。
朝鮮人は驚き騒ぎ皆顔色なし。釜山城あたりで人が織りなすように往来し、老幼婦女は隠れ去った。
中牟田海軍少将は海兵を率いまた祝砲を撃たせて上陸した。
朝鮮の通事たちが、その行装の厳粛なるを見て、今や大事がまさに起ころうとしていると恐怖して奔走狼狽する姿は見るに堪えないものだった。
今日ほどいまだかつて皆がこれほど驚き騒いだことはなかった。
景況の上申のため帰京すべき旨外務卿の指令があった。また、春日艦も帰京の命令があった。
28日 少将は、春日艦の海兵10数名を留めて公館の警備に当てた。
理事官の帰京を訓導に告げた。
春日艦に乗って対馬に向かった。満珠丸も共に錨を上げた。
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当時の釜山草梁の人々の様子がよく分かる記録である。
8月9日に英国軍艦が突然来た時には、森山茂理事官の適切な処置もあって騒動にはならなかったが、9月19日に英国軍艦3隻との戦闘の話が伝わってからは、9月25日の再びの英国軍艦入港と碇泊に朝鮮軍が動き、撃退の決議までがされてまさに一触即発、しかし軍艦が去ったために事なきを得た。その時の人々の意気盛んなる様子がよく分かる。
しかし、日本の軍艦に朝鮮側から砲撃をした事件のことが伝わるとどうだろう、皆が意気消沈し鬱々とした表情に一変し、やりきれない心情と共に「何と言うことを我が国はしたのだろう」という思いに駆られていることが伺える。
鎖国政策をとる朝鮮が、300年来唯一交際していた国日本とかつてない危機的状況に陥ったことに、困惑し動転し、そしてどうにか関係改善をはかろうとする動きは、釜山草梁の人々だけでなく、また中央の朝鮮政府も同じであったろう。
日本も対応に慌てていた
なお、釜山草梁に派遣された軍艦春日(9月30日電信命令、10月3日入港)は、当時長崎において汽缶(蒸気機関主要部分)の新規交換の修覆中であったが、事件発生のために急遽日本人保護の処置が必要になり、そのため取り敢えず派遣されたものであった。さらに13日にいたって政府は現地で日本人保護にあたる軍に指揮権を持つ者を在勤させることに決定し、それには海軍少将中牟田倉之助を派遣することとなった。それで、取り敢えずの艦である春日と交代する軍艦孟春に同乗させて20日に派遣し、27日に現地に到着したのである。(公文録・明治八年・第三百七巻・朝鮮講信録3該地在留人民保護ノ為メ軍艦被差回ニ付指揮官在勤ノ儀海軍省ヘ御達方大史伺・春日艦帰着届)
この一連の流れを見ても、どうも日本政府は計画的どころか、万一の偶発の事件すら想定していなかったと思えてくる。驚き慌てたのは何も朝鮮だけでなく、実は日本も対応に慌てたのだ。
しかもその後の日本国政府は、激昂する世論をよそにどうにも動きが鈍い。事件から1ヶ月以上たっても朝鮮側に砲撃事件への問責等の行動を起こさないのである。
それはそうであろう。明治8年の日本は政治改革の真っ最中であり、そのため大臣、参議たちの意見が激しく対立するなど国内問題で手一杯であり、それをこの大変な時に朝鮮が面倒な事件を起こしたものだ、ぐらいが正直な思いではなかったろうか。(「民権」推進を巡って島津久光左大臣・板垣退助参議などの急進派と大久保利通などの漸進論派に木戸孝允も巻き込んで大ゲンカ)
木戸孝允の意見書
尤も、10月5日には木戸孝允が事件に対して以下のような意見書を提出している。原文テキストはこちら。
(「江華島事件ノ処理ニ関スル意見書 : 三条太政大臣宛 / 木戸孝允」公開者 早稲田大学図書館 画像はこちらから 現代語訳は筆者)
長崎の電報に拠れば、前月20日、軍艦が朝鮮海に於いて朝鮮からの不意の砲撃に遭った。我が軍艦は遂に戦闘し砲台を破毀し■屋を放火して退いたと。
我が政府は朝鮮との交際の成否に努めてから久しい。今は遂にこの事態となった。これは朝鮮が終に我が国と絶交したとするべきか。
朝鮮のことは国内与論は紛糾して何年も経つがまだ止まない。昨年はこれによって政府に変革を生じ、春にはこれによって九州で騒擾が起きた(佐賀の乱)。今や国内の論者は競って議論するだろう。政府は予め一定の政策を立て、その義務を尽くす責任がある。まさしく先年には小田県と琉球の人が台湾の蕃人から残虐を受けたことにより我が政府はその罪を台湾に問うた。まして今日のこの事は、我が帝国の国旗に向かって故なき暴挙を加えたのであるから。
朝鮮は台湾とは異なり、我が国の官吏人民は現にその国に居る。これをそのまま問わずに捨て置くわけにはいかない。必ず適当の処分によって我が帝国の光栄を保ち、我が国民の安心と幸福を努めなければならないのは論を俟たないことである。
しかし政略を定めるのには形勢と情理がある。施行するには前後の順序がある。徒に世の論者の軽薄な論議に従い、それに流れ、また乗ってはならない。もし政府が予め政略を立てて施行の順序が一定すれば、私に任せられたい。私は微力を尽くして我が国のために謀ることがある。
そもそも先帝の時代に我が国は開国の国是を定め、これを天下に詔してから初めて万国との交際を開き、維新の初めに各国と帝京で接見するに至った。そうであるから、支那と朝鮮は古来から我が国と通じている国であり又隣国であり、遠洋の各国と交際している時に、これら隣国と好誼を結ばずしてどうして公道を歩むものと言えようか。
よって、廟議決して支那朝鮮に通じる策が立てられたが私等はその決議に賛成した。明治2年(1869)12月3日に至り、陛下御前で私は朝鮮使節の命を受けた。その後、朝鮮のことは葛藤が解けず歳月のみが遷延した。私は西洋各国への使節の命を奉じて帰朝したが、既に支那との条約も結ばれた。しかし朝鮮との交際はまだ公のものとはならず、我が国の使臣はまだその途にある。征韓論が起るに至って私はまだ内治が整っていないことを深く憂い、内を先にして外を後にするよう主張した。それに朝鮮はまだ明らかに征伐すべきという罪は無いのである。
今、朝鮮は暴挙を我が国の軍艦に加え明らかに我が国に敵対した。これによって我が国の内治はまだ整ってはいないとしても、また徒に内を顧みて外を疎かにすることは出来ないものがある。私の考えもまたこれによって一変せざるを得ない。
しかし物事には前後あり順序あり。今、朝鮮は我が軍艦に砲撃した。我が兵は既に戦を開いた。しかしながら(朝鮮は)釜山浦における我が国の人に対しては依然として変わらないものがある。今もって朝鮮に対して我が国と絶交したものとして直ぐに派兵をしてはならない。
朝鮮は支那に対しては現に服して臣下となった。その両国間の関係がどの程度のものなのかは分からないことであるが、支那に服属するものであることは確かである。すなわち、今度の我が国と朝鮮との顛末を支那政府に向かって仲介と代弁を求めなければならない。支那政府が属国の義を以って我が国に代わってその罪を朝鮮に問い、また我が国に謝罪するなどの妥当な処置をさせるなら、我が国はこれによって終結とするべし。
もし、支那政府が仲介代弁をすることを承知せず、これを我が帝国が自ら処弁することに任せるなら、我が国は初めて朝鮮を詰責して穏当に処分することが必要となるだろう。朝鮮が終にそれを承知しないならその罪を問わざるを得ない。そのようなわけで、兵を用いる道には必ず我が国とその国との状況を見なければならないことである。すなわち、我が国の■■の贏縮、攻戦の遅速、必ず有利に立ち、以って万全の地に(?)立たねばならない。これらは前後順序の間あって、もとより忽ちよい結果を結ぶとは言えないことである。
もし政府が私に一切の便宜を委任し、最後までその事に従わせるなら、私はまさに微力を尽くして必ず我が帝国の栄光を損じることのないことに努めるものである。時機に変事あって政府の政略に関係することがあるようなら必ず政府の決議にも従うだろう。請う。私の前後の論議を明瞭なものとされて私が請うところを承諾されよ。これは私が常に国に報いる心があるからである。
謹んで上疏する。
明治8年10月5日
木戸孝允再拝
三條太政大臣公閣下
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木戸孝允が征韓論に反対したのは内治優先の必要性を感じたからだと言われているが、それだけではない。そもそも朝鮮には征伐するだけの罪は無い、という認識だったからのようだ。
すなわち、
「(原文)朝鮮の交未だ公せず。我使臣猶途に滞る。征韓の論起るに至て臣深く内治の未だ洽からざるを憂い、内を先にし外を後にするの論を主張せり。且朝鮮亦未だ明に征す可きの罪あらざるなり」
『朝鮮との交際はまだ公のものとはならず、我が国の使臣はまだその途にある。征韓論が起るに至って私はまだ内治が整っていないことを深く憂い、内を先にして外を後にするよう主張した。それに朝鮮はまだ明らかに征伐すべきという罪は無いのである。』と。
尤も、雲揚号への砲撃事件を受けてその考えも一変せざるを得ないと。しかし、次の3点を挙げて前後順序を考慮して処理すべきと。
1 朝鮮は我が国軍艦を砲撃してまさに戦端を開いた。しかし釜山の居留地ではその状況と待遇が普段と変わらない。よって、朝鮮が絶交したものとして直ちに朝鮮に派兵してはならない。
2 朝鮮は支那に服属していることは確かであろう。それがどの程度のものであるかは分からないが、我が国と朝鮮とのこの事は支那に仲介させ或いは代弁させて、支那から朝鮮の罪を問わせて謝罪させるなどの処置をさせてこの問題を終局させるべきである。
3 しかし支那が仲介代弁をせずに我が国に任せるなら、初めて朝鮮を詰責してその罪を問わねばならない。
で、木戸はその任務を自分に与えられたいと。
1にある、釜山では何の変わりも無いとは上記「江華島事件と釜山草梁の人々」の10月3日の情報に基づくと思われる。
ところが、維新三傑の一人木戸孝允のこのような意見書があったにもかかわらず、この事件処理は1ケ月ばかりもほったらかしにされ、清国に対して朝鮮問題を問うために北京駐箚特命全権公使として森有礼を派遣したのは、11月20日であった(後述)。
砲撃事件よりも重大なこと
やっと事件の処理に動きだしたのは11月に入ってからである。森山茂、広津弘信は11月に「特ニ大使ヲ朝鮮国江華島ニ派シ彼国隣誼に悖リタル罪ヲ問フノ議」を外務卿に献じた。この中で、砲撃事件だけが重大なことではなく、それは朝鮮が謝罪すればすむことになり、それよりも、そもそも朝鮮が交渉の約束を破っていることが問題であって、雲楊号のことと同じ重大さであると述べ、朝鮮には、事件を謝罪し約束を守り、親睦を図って条約を結べばこのような事件が再び起こることを防ぐことが出来ることを説くべきとした。また、そのための特命大使を朝鮮の首都の入り口である江華府に直接派遣する事を提案した。(「第三巻
自 明治七年 至 明治九年/2 同八年乙亥2 対韓政策関係雑纂/朝鮮交際始末」p17)
その後の日本政府の方針もほぼこれに添ったものとなった。
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