明治開化期の日本と朝鮮(2)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

 

索 引

 対話と圧力
 仏米の艦隊と朝鮮軍
 日本政府の内諭
 雲揚・第二丁卯の派遣
 朝鮮側の日本軍艦への認識とは
 圧力にすらならなかった日本の軍艦
 朝鮮の破約と事実上の絶交
 朝鮮開化派の苦悩


対話と圧力

 明治3年(1870)から公館に出仕していた森山茂理事官は、長年の朝鮮人外交官僚との紆余曲折の交渉を経て、どうやら朝鮮「人」そのものへの不信とまでなったようである。
 曰く「韓奴之習弊 沈深狡獰ヲ以テ 大器量ノモノト イタシ居候(明治7年(1874)8月21日の項)」と朝鮮人を「韓奴」という侮蔑語すら使って、朝鮮では狡猾であることを器量人としている、と断じている。
 さらには、もはや交渉の感想を「侮蔑 愚弄 亦甚シキヲ 論スレトモ 到底 曖昧 明答ヲ得ス(明治8年(1875)5月15日の項)」と言うに至っては、これはもう嘆きであろう。

 しかしそれは、誠意・真心・信義などを尊ぶ日本の精神文化に基づく価値観との齟齬から出てきたものであり、華夷秩序の礼律を基盤とする朝鮮文化からすれば、格下に対するそのような(侮蔑 愚弄の)態度は理の当然であった。

 明治6年の政府内における征韓の議論において、西郷隆盛が自分を特使として朝鮮に派遣するよう主張したが、「決死の覚悟を持って話し合いをする」という西郷の心構えは、日本人には理解できても当時の朝鮮官僚なら「倭奴の蛮勇」ぐらいにしか見なかっただろう。
 外交の何たるかをいささか知る岩倉具視が、西郷の意見に反対したのは、話し合いが決裂すれば、決死の覚悟の西郷は朝鮮で憤死し、国民から人気がある西郷がそのような死に方をして、日本が何もせぬわけにはいかないということになるからであった。当然、朝鮮との戦争しか道は無い。朝鮮はそうすれば、必ず清に援軍を要請する。清は積極的に属国の内政外交にまで干渉しないことを建前としているが、要請を受ければ宗主国として軍を出さざるを得ない。つまり20年早い日清戦争、いや日清朝戦争である。当時の日本にそれができる国力があったろうか。

 賛成派は、反対派の岩倉たちが米国に派遣されている間に閣議を召集して、遣韓大使西郷の派遣を閣議決定して上奏したが、天皇は、岩倉たちが帰ってから熟議した上で奏するように、と差し戻されている。さらに、岩倉たちが帰って、西郷派遣の閣議決定と岩倉の反対の意見を同時に上奏したのに対し、天皇は即、岩倉の意見の嘉納を通知せられ、西郷派遣は無期延期と決定している。(公文別録・朝鮮事件3 p11)
 明治大帝の判断によって実は大変な危機が避けられたのである。まさに聖断であった。

 これにより西郷たちが下野し、やがて西南戦争ということになるのだが、それはまだ先のことである。

 朝鮮との外交戦最前線に居る森山茂がこれらのことをどの程度知っていたかは分からない。しかし「征韓」なぞ、思いもよらないことだったろう。それでも余りに頑な朝鮮側の外交官僚たちに憤慨し、今ここに軍艦の1隻や2隻が来てくれたらなあ、と孤軍奮闘する自分たちに、本国からの応援を求めるような気持ちがあってもおかしくはないだろう。明治8年4月、森山は、広津弘信副官らを帰国上京させて、行き詰まった交渉を打開するために、次のように軍艦による圧力を提案している。

 「軍艦ヲ派遣シ對州近海ヲ測量セシメ以テ朝鮮國ノ内訌ニ乗シ以テ我応接ノ聲援ヲ為ン事ヲ請ウノ議」
(「3.第三巻 自 明治七年 至 明治九年/2 同八年乙亥 1」p17)
 その大要は、
 『朝鮮国内は対立し、昨年9月に我が国と約束した条件をいまだ速やかに履行せず、訓導が上京したまま戻る期日まで延期することを告げた今、日本からの声援が必要であり、間髪をいれず今がその時期である。民宰相閔升鎬の横死によって、再び政情不安となって攘夷鎖国派の旧に戻らない今こそ、和交を開こうとしている勢力を助けるべきであり、そのためには軍艦の1、2隻を派遣し、対馬と朝鮮を往復して海路を測量し、こちらの意図を推し測れないようにして、軍艦派遣は理事官に交渉を督促してその責任を問責しているのであるという態度を示し、そのように理事官にも言わせるなら、理事官の交渉を進める応援となり、国の内外の声援ともあいまって交渉を推し進めることになり、また国交を結ぶ際に何らかの権利を有利にすることとなるのは必然の勢いとなる。まして、朝鮮国の海を測量することは後に国交のあるなしを問わず我が国にとっては必要のことである。しかし、このことによって一二隻どころか多数を派遣せねばならないような憂いとならないことを願うのであって、あえて軽々しく凶器を隣国に向けるようなことになるのを望むものではないのである。以上の様に上申する。』というものであった。

 この提案は副官廣津弘信が帰国して4月23日に寺島外務卿に献議し、24日には三条実美太政大臣にも献議した。しかし翌日25日、寺島外務卿は以下のようにどこまでも平和的解決を図るよう森理事官宛て訓令として実地心得を作成して政府伺を出し、29日には三条太政大臣も献議を批判し、外務卿の伺を裁可した。その実地心得は以下のものである。

(「6.朝鮮理事誌 (正本)/2 自明治八年二月至同年十一月四日」p16)

一  東莱府ニ入ル事若シ彼レ延期ヲ請ヒ、情理相悖ラサル辞アラハ、年期ヲ約シテ之ヲ緩フスルハ其時宜ニ由ルヘキ事。
一  彼ヨリノ使員即今直ニ交誼ノ舊ヲ尋キ、新ヲ講スヘキ有権ノ使ヲ出スニ難ンスル事アラハ、先ツ我一新ヲ祝賀スル等ノ使ニテモ、一應之ヲ誘導シ、若シ其事モ渋滞スルトキハ、我ヨリ更ニ使ヲ彼京城ニ派出スル旨ヲ以テ談判可致事。

 意訳すると、

一 東莱府に入ることについて、もし朝鮮側がその延期を要請し、それが止むを得ない事情によるものであるならば、期限を約束して延期を認めることは適当な判断によること。
一 朝鮮国から、直に旧交を新たに修めるための権能ある使者を出すことが難しいならば、先ずは我が国の国体一心(つまりは明治維新)を祝賀するなどの使者を出すことを一応は勧誘し、もしそのことも交渉が渋滞するときは、我が国から更に使者を京城に派遣するという趣旨を以って談判すること。

 日本公館のある釜山は東莱府の管轄下にあった。その長たる東莱府使に会って事前協議を行わなければ前には一歩も進めないのであるが、当時朝鮮側はそれすらも言を左右にして明確な回答を与えなかった。
 しかしこの指令は、依然として延期もまた止むを得ないこととして容認するものであり、それどころか、交渉権を有する使者でなくとも、一新した日本国への祝賀の使者程度でもよい、と一段とハードルを低くしている。

 要するに譲歩も含む弾力的姿勢と対話の継続である。この実地心得は各大臣や参議らに於てもやはり29日に了承している。(在朝鮮国森山理事官ヘ指令副加伺)であるから、これが当時の日本側の交渉方針であった。

 上の建議を以って「武力によって開国要求した」と言う者があるが、建議に対する4月29日の訓令によって平和的解決の指示を受けた事実を知らねばならない。(軍艦派遣献議に関する一連の原文テキスト
 次に建議そのものの内容を見ても、これは森山茂理事官をはじめ、外交戦の現場の人間に対する応援の要請であり、相手(訓導)への交渉圧力の要請に過ぎない。いわゆる「対話と圧力」である。だから、軽々しく凶器を隣国に向けるようなことになってはならないと言っている。ましてや武力行使も辞さずなどとは言っていないのである。
 むしろ宣戦布告も同然のことをしているのは朝鮮側であり、我慢しているのは日本側である。
 まるで言いがかりのような「皇」などの文字に関する侮辱、日本の使節と話し合うどころか会うことすら拒否する態度、日本人漂流民への無情な仕打ち、対馬への貿易制限、日本国に対する誹謗中傷と、これがかつて300年にわたって交際してきた隣国のすることかと、日本国内の怒りは沸騰し、「征伐」という言葉すら当然のように口にする当時の世論に比して、森山理事官たちは驚くほど理性的な対応をしていたと言える。

仏米の艦隊と朝鮮軍

 そもそも朝鮮国沿岸は遠浅且つ岩礁多く、大型船が岸壁に近づくのは容易でなく、まさに天険の要害に守られた地形を特徴としている。
 そこにフランスの艦隊が襲来してきたのは1866年3月であった。フランス人宣教師を初め8千人からの信徒が大院君政権に殺害されたことに対する責罰の行為であった。軍艦7隻と1500人の陸戦隊が2度にわたって展開したが、いずれも一時占拠で終わり引き揚げている。朝鮮側では2度とも撃退した、としているが、艦隊側からすれば政府の意向ではないフランス極東艦隊の独断行為でもあり、また補給のことも考慮すれば占拠し続けるのは困難であったろう。
 次に、米国の商船ゼネラル・シャ−マン号焼討ち事件に対する米国艦隊の襲来があったのが1871年(明治4)5月から6月にかけてであった。
 米軍艦5隻(2400トン級、旗艦Colorado、Alaska、Beniciaなど)が江華水路内に進み、当初、朝鮮官吏の尋問を受けて交渉となったが、米側が求めるシャーマン号の行方を、朝鮮官吏は知らぬ存ぜぬとにかく退去せよの一点張りで、終に交渉は決裂。よって米側は軍艦を進めて最初に砲艦モノカシー号が岸壁の砦を砲撃。しばらくして朝鮮側も応戦。軍艦から陸戦隊約650人と曲射砲7門を上陸させると朝鮮側は砦を放棄して後退。米軍は砦を占拠して破壊した。真夜中になって朝鮮軍が襲来したが、設置した曲射砲で撃退。やがて米軍は河に沿って前進したが、悪路と急坂には悩まされた。モノカシー号は陸戦隊に並行しながら河を遡り、新たな砦を見つけては砲撃し、その後陸戦隊が掃討。時に砦の中での戦いは熾烈を極め、朝鮮兵は勇敢で最後まで戦ったが次々と倒されたという。尤も、米側にしてみればひどく向こう見ずにしか見えなかったらしい。
 結局、5個の砦が破壊され、朝鮮兵234人の戦死者と20人足らずの捕虜を見るに至った。(Report of Rear Admiral John Rodgers Detailing the Events Leading Up to the U.S. Assault on the Korean Forts Report of the Secretary of the Navy No. 18.)
 なお米兵の死者は大尉ほか計3人だったという。
 この戦闘に於ても最大の敵は岩礁であり、軍艦や小蒸気船の船尾や船底には何度も穴が空いて航行に支障をきたしたという。
 朝鮮側は米国側と交渉することはなく、終に米軍艦は引き揚げざるを得なかった。つまりは補給ルートを確保できないまま占拠し続けるのは不可能であったろう。




米国戦艦Colorado(2400トン級)
江華水路を行く米国砲艦Monocacy
当時の砲艦Monocacy甲板上の陸戦隊員

 朝鮮国の防衛力というか、その天険の要害は半端なものではない。もちろんそれに宗主国である清国の軍事力も後ろに控えている。
 日本は、平和的に解決するしかないのである。

日本政府の内諭

 そもそも日本政府としては、書契問題のみならず、米欧諸国と朝鮮間の問題も考慮しないわけにいかず、よって明治4年3月には以下のように内諭を発して、米国との関係を重視しながら朝鮮への見方を以下のよう述べている。

(「公文別録・朝鮮事件・明治元年〜明治四年・第二巻・明治元年〜明治四年 朝鮮事件(一)」レファレンスコード:A03023621100 ()は筆者)

   内諭

一 朝鮮は接壌旧交、殊に方今既に官員を派して親交を求るに當る。然るに其国に事あらんとす、須らく其法策を盡し、其国の危急を憂うるの意を表し、其害を避くる事を勧め、以て皇朝隣接の親情を顕わすべし。

一 米利堅(米国)は旧交なしと雖ども既に政府と公然友誼を結び、朝鮮は末だ政府と交友の誼を表せざるに当て、公然たる皇朝の処分に至りては、米を助くべきの義ありて鮮を援くの理なし。
 故に皇朝朝鮮と友誼を結ばざるに先って、一旦事起るときは我皇朝は之を傍観して米の為す所に委ね、敢て之を妨くる事能わず。而し米とは友親の誼缺く事能はず。

一 朝鮮は接壌旧交加うるに先って交りを促す。未だ公義を存ぜざるも尚私情あり。米に至りては公然たる友国加うるに其問う所ろ理ありて、其欲する所ろは則ち我と其正鵠を同うす。皇朝に於る両国の関係是の如し。
 而し若し一方我に依りて以て其情■を通するを請■、其未だ公然交りなきは即公然の友誼を表せしめ、然して其間に処し其請を充することを務むべし。若し然らば謹で方今宇内の形勢を洞察し、普通の公理を助け、以て其処置を誤ること勿るべし。
 然れども亦我皇朝目今の形勢を熟慮顧念して、務めて自ら其問に投じ好んで其事に担当し以て他の責を己れに招くこと勿れ。

一 朝鮮当日の意、米の望む所と恰も相反せり。我も亦米と交際を欲するの義を同うす。然らば則ち一朝攘外鎖国の議決せば、我も亦猜疑を免れず。其極遂に危きを招くに至り害ありて利なし。謹で友国には信義を守りて他方に猜疑を避け、其危殆を我に招くこと勿れ。

一 方今の形勢一旦朝鮮之を拒むも永く之を守る事能わず、必らずや開国せざるを得ず。宜しく今に処するに将来を熟慮し敢て妨碍を遺す事勿るべし。

 以上方今米鮮の間我皇朝處分の大綱なり。汝輩宜しく之を領承し敢て其措置を誤り後患を招く事勿れ。

   明治四年辛未三月

 で、以下現代語訳。

一 朝鮮は隣接し且つ旧交ある国であり、特に今は官員を派遣して親交を求めている時であるから、その国に事が起ろうとするなら、必ず方法を尽くしてその国の危急を憂える意を表明し、その害を避けることを勧め、以って我が国としては隣接の親情を顕さなければならない。

一 米国は旧交の無い国であるが、既に我が政府とは公然の友誼を結び、朝鮮国はまだ我が政府とは交友の誼を表明していないのであるから、我が国の公然の処置としては、米国を助ける義はあっても、朝鮮を援ける理はない。
 よって、我が国が朝鮮と友誼を結ばない先にもし一旦事が起った時は、我が国はこれを傍観して米国の為すがままに委ね、あえてこれを妨げることは出来ない。つまりは米国との友誼を欠くことは出来ないのである。

一 朝鮮は隣接し且つ旧交ある国であり、その上今は交際を促しており、まだ公然たる交際はないが私情というものがある。米国とは公然の友好国であり、その上その問うていることは理があって、望んでいることもまた我が国と正鵠を同じくしている。我が国と両国の関係はこのようなものである。
 しかし我が国としては、もしその一方の国が我が国に依頼して交際を通じることを要請するなら、公然たる友誼を表明させるように、その要請を充たすことに務めなければならない。もしそうするならば、世界情勢を洞察して万国普遍の理を助けることになっても、処置を誤ることはないだろう。
 しかし我が国が今日の情勢を熟慮し、自ら問いを発して求めて担当することにより、却って他の責を我が国に招くようなことがあってはならない。

一 朝鮮国の意向は米国の望みとは相反しているが、我が国は米国と交際をしている。それならば、もし朝鮮国が外国を排斥するという議に決定するなら、我が国もまた猜疑を受けることは免れられないことである。その究極は遂には危機を招くことになって害あっても利はない。謹んで友好国には信義を守って、他方の猜疑を避け、その危険を我が国に招いてはならない。

一 今現在の形勢というものは、一旦は朝鮮が開国を拒んでも、長くそれを守ることは出来ず、必ず開国せざるを得ないだろう。これを処するに当たってよく将来を熟慮して禍根の残らないようにするべきである。

 以上は現在の米国と朝鮮との間に関し、我が国政府の処置の大綱である。汝等はよくこれを了承し、あえて処置を誤り後の患いを招くことが無いように。

 

 まさに、この直後に米艦隊の江華島での事件は起きるのであるが、条約国との信義を優先ざるを得ない日本の立場がよく見えてくるものである。しかし朝鮮に対する見方も次のように明確なものであった。

「朝鮮は接壌旧交・・・・然るに其国に事あらんとす、須らく其法策を盡し、其国の危急を憂うるの意を表し、其害を避くる事を勧め、以て皇朝隣接の親情を顕わすべし」
 旧交ある朝鮮への誠意ある言葉と言えよう。

 しかし条約を結んでいる米国のことがあり、すなわち「米利堅(米国)は旧交なしと雖ども既に政府と公然友誼を結び、朝鮮は末だ政府と交友の誼を表せざるに当て、公然たる皇朝の処分に至りては、米を助くべきの義ありて鮮を援くの理なし」とする外はなかった。
 それでも朝鮮に対しては「朝鮮は接壌旧交加うるに先って交りを促す。未だ公義を存ぜざるも尚私情あり」と見捨てず、
 そして結局は、「方今の形勢一旦朝鮮之を拒むも永く之を守る事能わず、必らずや開国せざるを得ず」という見通しを立てていた。
 勿論、ここでの「開国」とは米欧諸国に向けての開国という意味である。ところが朝鮮はこの西洋国と交際することを最も嫌っていた。明治8年に森山茂理事官が朝鮮側に事前協議の約束を守るように迫っていた頃、朝鮮政府は清国北京に使者を派して日本との交際のことについて伺いを立てていたようである。
 それによれば清政府は、「朝鮮政府が日本と既に約束しているなら交わらねばならないだろう」と答え、それで朝鮮使者が、「我が国が日本と交わったならば、異国人(西洋人)も続いて来ることになるのでは」と疑問を述べると、清政府は「それは来ないとは請合えない」と答えたという。よって朝鮮政府は、そうなっては甚だ迷惑なのでやはり日本とも交わらない方がよい、ということになったとの説が当時流布している。(「朝鮮始末(三)」【 レファレンスコード 】 A03023629600 のp141)

雲揚・第二丁卯の派遣

 さて、明治8年5月25日、釜山の草梁公館前の港に突然日本の軍艦が現れた。270トンの小型砲艦、雲揚である。小さいながらも軍艦は軍艦である。

雲揚(270t 全長38.4m 16cm前装砲1門,14cm砲1門)

 一説には、寺島外務卿が三条実美太政大臣・岩倉具視右大臣の了解を得て朝鮮の海路測量のために派遣したと言われているが、根拠資料なし。今の所、上記「軍艦派遣献議に関する一連の原文テキスト」で触れた「河村海軍大輔より軍艦発遣北海西海測量伺」があったことの記述資料を見るのみである。
 しかし森山たちへのいささかの応援ともなったろうと思う。

 以下、そのときの様子を森山はこのように記している。抜粋して現代語に改めてみた。

(「6.朝鮮理事誌 (正本)/3 自明治八年二月至同年十一月四日」p32より)

(5月)25日 午前11時、軍艦雲揚号入港。乗組員は、海軍少佐 艦長 井上良馨 同中佐 川村換秀 (中略)計65人

26日  服制をめぐって議論の末、訓導は交渉を絶ってこちらの出方を見るという奸策を講じていたが、突然に雲揚艦が渡来したことにより、彼はひどく驚き慌てて公館に入ると、まるで恭順するかのような態度で来艦の訳を尋ねた。恥知らずなところは彼の常であるが、そのうろたえ慌てるところもまた以って伺い知ることができる。
 さて、午前11時に正副官が応接する。
 (訓導)「昨日汽船が来たのはどういう訳か。」
 (森山)「朝廷より我輩に交渉が滞っているのを尋問するために渡来したのである。」
 「艦長の姓名と乗組員は何人か。」
 「艦長は海軍少佐井上良馨、乗組人員はおよそ100人ばかりである。」
 「渡来の理由を詳しく聞きたい。」
 「かつて言ったように、我が国の使者が他国に派遣される時は、その護衛のために必ず軍艦が並航するのが通例である。かつて花房外務大丞が来た時はそうだったことで知るべし。しかし、我輩は貴国の情をくんで、一旦これをやめた。しかし、このように使いの役目が停滞するのは意外であると、我輩にその事情を尋問するために派遣されたのである。」
 「このたびの渡来は少し疑われるような来方である。」
 「これは我が国の特命であって、我輩がどうこう言うことも出来ない。ただ、かつて照会したように、今後この近辺に通交する艦船もますます多くなるだろうから、もし貴国近辺の海に漂到したら例によって保護をしてもらいたい。」
 「事情を問うためにその船に入るのは我が国の例規であるから、入艦いたしたい。」
 「他の湾や港に停泊している時は勿論それが出来るが、公事あってこの館に来る船は、館内でまず問うことをするべきである。ただし軍艦はひとつの海域のようなもので、その規則は厳しい。我輩といえども、みだりに入ることは出来ない。ただ、艦内を一覧したいということなら、一応、艦長に相談してからのことであるが、一般の商船と同様に見ることは出来ない。」
 「それでは拝見することを申請する。」
 「承知した。」
 ここで訓導は何か思慮することがあるかのようにしばらくして、
 「軍艦とあってはそれぞれ手数を経た上で更に相談したい。」
 「承知した。我輩、使節としての役目が滞っている責任を問われたことは、実に恐れ多く恐懼に堪えない。訓導にも益々ご尽力いたされたい。」
 「自分はそれ相応の尽力をしてるのであるが、皆の停滞が残念である。」
(中略)
 訓導は3日以内に会議を持つことを約束した。応答の間中彼の表情は恐れ入ったふうだった。後に退館した。
 雲揚号の来艦は訓導の奸策をうちこわし、将来への声援となったようだ。この日、井上少佐が来館して話をかわした。
(中略)

30日 訓導たちが来る。「人々の疑いやおそれは少なくない。」と言うので、軍艦による護送、また軍艦を以って命令を伝える例がある、貴国の人民に疑惑の情あらばそのことを以って諭されよ、また、軍艦であることにこだわって、戦争のみに用いると誤って見ないように、と伝えた。
 「それなら懸念にもおよぶまいが、不審の余り言ったのである。」
(中略)
 「・・・我が国が、このように話し合いが滞っていることを恐れることは、貴国が我が軍艦を恐れられるよりも甚だしいものがある。」
 「その苦衷は実によく分かる。我が国においても、何ぞ1、2隻の軍艦を恐れるものではないが、貴国は和好の意に反している等の説を言うものがあって懸念に堪えない」
 「・・・我が国の使節が各国に行くこと、その数が多いとは言えないが、このように滞っている国は他にない。まして、国の内政である服制のことにまで干渉するのは万国に対しても甚だ恥ずかしいことである。もし約束どおりに国交が成れば、どうして軍艦が来るであろうか。」
 「それは至って当然な理であるが、我が国は旧誼旧式に従うとの議決により、このように齟齬淹滞に及んでいるが、もとより(日本は)交わらざるを得ない国であるから、結局、服制のことが合意に至れば事は順調に成るところであろう。そちらの委細はすでに上申したのでその返事を待つことである。」
 我等「それはいつのことなのか。」
 「確答はし難いが、必ず来月の二十日前後であろう。」
 副官「そちらですら確答しがたいものを我が朝廷に報告することは出来ないことを知られたい。」
 「・・・我が国情を吐露すると、去年、『清国日本朝鮮の三国は同じ文字を使う国であるから和同共力をもって外国の侮りを防ぐべき』との決議があった。ところが上京すると十日ほど入城を差し止められた。その仔細は、『かつて上申したものと本年に現状を陳述したものとが大いに違っている。』『日本人が異服(洋服)を着るとは決して信じ難い。』『三百年来の格式に逆らうようにただ命じられただけ』と。その後、日本側の取り決めが報じられたに及んで、『服装は以前とは違っても日本人であることに違いはないので接待するべき』との決議に至ってないとは言えないが、その見込みはどうか分からない。」

31日 軍艦は(演習などで)時々空砲を撃つことがある。それで驚くことがないように通達させた。

6月1日 理事官2、3人と雲揚艦に乗った。訓練があり、大小砲が50発撃たれ、山や海が振動した。帰るにあたって雨となった。

12日 午前9時 (軍艦)第二丁卯艦が渡来した。乗組員は、海軍大尉 艦長 青木住真 同中尉 大類義長 (中略)総計76人

13日 午前11時、訓導が和館に来る。軍艦の来意を問う。
 「貴国からの回答の期日が決まってないので、前艦(雲揚)が泊まり続けているのを懸念して我が国が督促のために、また一艦を派遣されたのである。心苦しいばかりである。」
 「回答は早々あることは確かであるのに、なお軍艦を派遣して督促あるのは怪訝に属する。それで、昨日来た艦を一覧することを申請する。」
 「軍艦の来意は我輩に関することで、あえて貴国に干することではない。また前日の艦はすでに見るに及ばずと言い、今日の艦のみ一覧するとあっては、両艦の間に異見あることになろうから両艦とも一様に見られたがよい。」
 「もとより願うところである。両艦共に一覧を許されるなら幸甚である。」
 「先ず艦長に照会する。それから、今後また軍艦が来ても貴国においてそんなに心労されるには及ばない。」
 「案ずるにもあらず、案ぜざるにもあらず。」
 (中略)
 ・・・両艦長より午後1時に来艦を待つの回答があった。
 住永書記生に訓導ら18名を引率させて、まず雲揚艦に至る。艦長のもてなしは非常に厚く、射撃訓練を見せた。
 両艦あわせて砲門を開いて発射する。山は鳴り海は波立ち、煙焔四方に充つる。
 初めの一発で、訓導たちは恐怖して立っていることが出来ずに耳を掩ってしゃがみこんだ。まだ(入艦歓迎の)式半ばもいっていないのにこれを止めるように何度も頼み、海軍の諸員は憫笑して、これを中止した。
 再び、丁卯艦に乗ったが(訓導らは)また発砲があることを恐れて早々に帰った。このことは、彼等の肝をひどく冷やしたがそれでも努めて醜態を見せぬように装うその姿は実に見るに忍びなかった。
 かくして、艦の機械、砲塔、その他艦内百般の整備、目を驚かし耳をそばだたせるものばかりであった。午後3時館に戻る。

 森山理事官はこの中で、軍艦が来たのは、私を「尋問」に来たのであるとか「督促」に来たとか恐懼に堪えないとか言っているが、もちろんそれが訓導たちへの圧力であることに他ならないことは充分承知していたであろう。

 さて、この明治8年5月から6月にかけての日本側と朝鮮側のやり取りを見ても、朝鮮政府がもはや日本に対して国交を正式に結びたいとの意向を持っていることを伺うことが出来る。その朝鮮政府の足を引っ張っているのは、旧式を守ろうとする人々であり、後に歴史上で「守旧派」と呼ぶことになる人々である。

朝鮮側の日本軍艦への認識とは

 ところで、雲揚・丁卯(ていぼう)の2艦をもって朝鮮国への武力威嚇と言えようか。朝鮮側は抗議すらしていない。もっとも訓導は「我が国においても、何ぞ1、2隻の軍艦を恐れるものではない・・」と言っているが、「歓迎」の式で肝を冷やしたことは間違いないだろう。しかし朝鮮軍は何も動いていない。6月1日に雲揚が演習で50発ほど大小の大砲を撃ったときも、5月31日に前もってそのことを知らせてあったためか、騒ぐ者もいない。これでは武力威嚇とは言えまい。もちろん森山たちを元気付けることにはなったろうが。

 そもそも草梁公館に於ては、対馬藩宗氏の和館時代から日本側は砲銃を備える権利を有し、時々「筒払い」と称して、発砲演習するのは昔からの習慣であった。それで朝鮮側もそのことを承知しており格別怪しむことも無かった。(「明治七年ノ五/巻之二十九 自九月至十二月/3 明治7年11月11日から明治7年12月8日」のp7)
 もっとも聞く方の朝鮮側にとっては、草梁公館の湾内という日本側がその権利を有する場所でのこととは言え、あまり良い気持ちはしなかったろう。
 だからこそ圧力になるはずなのであり、それによって森山茂も訓導玄昔運の色よい返事を期待したろうが、その後、結果として何の圧力にもならなかったことが分かる。

 更に、雲楊は6月19日の夜12時半、つまり6月20日に釜山草梁を出発して測量に行き、同29日に戻って来ている。その間、何のトラブルもない。それどころか、艦長井上少佐は森山に次のような話をしている。

(「6.朝鮮理事誌 (正本)/3 自明治八年二月至同年十一月四日」p43より抜粋、句読点、段落、括弧などは筆者。)

同二十九日(6月29日)
(略)
 雲揚艦帰来。艦長井上少佐の話に、

  咸鏡道永興に泊すること凡そ三日。稍湾中を測量せり。
 此地は北面の良港にして、大河、湾に注ぐもの六条あり。一日端舩(ボート)を以て之に泝ること三里。測るに猶小汽船を容るに足る。
 両岸、萩、蘆(あし)、弥望、平地多し。湾中に一小島あり。製塩場を設くること数所。蜑(あま)戸処々に散布して、土人頗る質朴。利を以て誘すれば太だ馴れ易きに似たり。

 或日、一民家の火災に罹るを見る。戸主狼狽奔走すれども、傍人恬然、観望して救うの意なし。故に、我艦より兵士を遣し、消防器を送り之を救い、災主に韓銭五百孔を給す。夫妻合掌して泣謝す。

 既に錨を抜き帰路、慶尚道迎日湾に入る。此れ良港と云うに非れども、東北面の一港とす。地形平坦にして頗る沃穣、人家亦多し。

 慶州県令、我艦の入港を見るや、兵数百を率い、次官を派して来意を訊問す。
 其もの筆して曰く「好酒二個請給之(良い酒を2樽請求する)」と。
 我、赫怒、之を擯す。即ち中尉以下数名兵士を具して上陸。其張幕中に入り県令に面し、以て酒を請うものゝことを問う。
 長官愧且つ怒り、忽ち次官の官服を剥き土上に偃臥せしめ、棍を挙て打たしめんとす。其酷虐、見るに忍びず。中尉等、寛さんことを請う再三に及て、漸く放ち、其過ちを謝し、話了りて上艦す。

 居ること半日にして抜錨せり。
 此時其兵士携うる所の器械を見るに、日本古銃及び竹槍の如きものにて、其状貌、実に一笑に堪たりと。

 此日、雲揚艦帰港のことを任官に通知す。

清朝末期の棒打刑

 「服を剥がせて棍棒で打った」というのは左の写真のようなものであろうか。朝鮮の懲罰刑などは中国とほとんど同じ形式であるが、これでは命にも関わる酷さであろう。同行の中尉らが止めるように再三言ったのも頷ける。

 しかしまるでドラマのハイライトを見るかのような話であるが、れっきとした公文書中の記録である。
 井上 良馨(いのうえ よしか)の経歴を調べてみると、弘化2年(1845)生まれの鹿児島出身。当時は31歳。海軍少佐。艦長としては雲揚は2隻目の艦である。その後各艦の艦長を歴任し、海軍最強(当時)の軍艦「扶桑」の艦長を経てその後司令部へ。軍務局長、常備艦隊司令長官、海軍参謀部長、横須賀鎮守府司令長官等を歴任。海軍大将、子爵、元帥。昭和4年(1929)、85歳で没した時に従一位、大勲位を贈られている。
 上の話とあわせて、仁義厚く胆勇傑出した武人であったことが伺える。

 以上のような記録から見えてくるのは、当時の日本の軍艦が朝鮮からどう見られていたかということである。
 まず、攘夷の対象ではないということは明らかであろう。軍艦による朝鮮沿岸領域の航行、測量は容認(放任?)され、釜山での演習すら抗議されていない。もっとも演習は昔からの権利ある習慣上のことでもあるが。

 かといって、歓迎はしていないだろう。敢えて言うなら、訓導が森山茂理事官に言ったように、
 「案ずるにもあらず、案ぜざるにもあらず。」といったところか。
 「案ずるにもあらず」だから順調に測量は進み、「案ぜざるにもあらず」だから縣令の朝鮮兵の尋問を受け、「案ずるにもあらず」だから事なきを得て釜山草梁の港に着いたのである。

圧力にすらならなかった日本の軍艦

 さて、明治8年6月20日、雲揚は測量のために港を出発した。もう一隻の軍艦、第二丁卯(小型砲艦 236t 全長38m 16.5cm前装砲2門, 小砲2門 乗員76人)は停泊中である。
 6月24日 朝鮮政府から正式な回答(6月9日決定)があったと訓導が伝えた。「日本と信を失わず従前のように善く交わりたい。」とのことであった。従前とはつまり、「旧格式」のことである。それで、新服では許可しないということか、と追求すると、そうだと言う。それでは、ちゃんと文書でそれを書いて出せと言うと、訓導はこれを文書にした。

「以相接儀節之時 貴國服制違旧相持事已仰稟干 朝廷矣 回下内 両國交隣古今一般不獨服制凡例違旧則不可許施之意詳確為 教而 使道教意亦如是故茲以仰陳 俯諒焉
乙亥 五月廿一日  訓導玄昔運 印」
 日付は日本では6月24日となる。

 大意としてはこうであろう。
 「貴国の服制が旧式とは違うことについては稟議した。朝廷では以下のように決定した。両国の交隣は古今一般からあるが服制に限らず旧式を違えた例はない。つまり服制を違えての交際はこれを許可しない意味である。」

 森山たちは、先の約束事項(応対の形式を日朝で話し合うという約束)のことを以って食い下がったが、訓導は、新服では担当者(東莱府使)が会わないから話し合いそのもの(約束の履行そのもの)が不可能と、事実上の反故とした。

 港には日本の軍艦がいたが、訓導にとっては 「案ずるにもあらず」だったようである。これでは「武力による開国要求」どころか「圧力」にすらなっていない。

朝鮮の破約と事実上の絶交

 6月30日 前日に戻って来ていた雲揚が日本に帰った。草梁公館では、日朝最後の談判とも言える話し合いが持たれた。

森山理事官 「・・・我輩は約束を履み信義を守り、5ヶ月間逗留したが、いまだ約束違反への答辞の一言でも聞かない。これで和交が終わらない道があるなら問いたい。」
訓導 「服制のことはあるが、もとより和好の意がないなら何度も話し合うことはしない」
森山理事官 「いや、すでにこの件(服制)をもって会談はしないとの答えに決した以上は、これにおいて和好を議る道は絶えたと見なければならない。貴国は約束を反古にして服制のことを通すという。もって隣国を侮辱、愚弄しているのである。しかし、交際は両国の大事であり、これを保つ道があるかないかを、後日の遺憾を免れるために、今あらためて問う。」
 などの問答が続いた。

 しばらくして訓導が、実は都からの私信に、朝廷が別使を公館に派遣されるとあった、と言い出した。
 この男はいつも大切なことを後からしか言わない。だから、聞く方には言い訳か嘘ぐらいにしか聞こえない。これは自尊心の強い朝鮮文化の欠点である。
 森山たち日本側は、何をいまさらと、信じようとしなかった。

 夕方、日本側は皆で宴を張った。ほぼ全員が帰国するためである。

 7月3日 副官たちが船で帰国した。第二丁卯艦も錨を抜いて東に向かった。

 7月19日 朝廷からの別使が公館を訪れた。70歳の老人であった。別遣堂上知事 金継運 正一品。きわめて高位の身分の人である。副官や書記生が応対し、来意を問うた。
 金知事は、両国の緊急重大事であるから朝廷の命を受けてきた。理事官公に面談したいと答え、
 「かつて訓導が陳述したように、新服で接すれば、すなわち新例を始めることになる。新例を始めれば我が国の『福』が逃げていくのである。よって全て旧式で行うべき命令の意向にて特別の遣使をもって丁寧に述べるべしとの意味であり、ゆえに老体を厭わず来たのである。」
と言った。

 それはまるで、信仰心の開陳であった。
 結局、森山理事官は面談しなかった。

正二品以上の高官が乗っていた一輪車。道路が極めて不整備で起伏が多かったから二輪よりは一輪の方が扱いやすかったのかもしれない。しかし実に珍奇な乗り物ではある。

朝鮮開化派の苦悩

 それにしても、ここに至っても、朝鮮朝廷がわざわざ特別の使者を派遣してくるのはなぜだろうか。

 断絶も同然だった大院君政権から高宗中心の閔氏政権となり、日朝交渉再開が約されて訓導たちとの会談が出来るようになった明治7年9月頃にも、朝廷は別の人間をもってメッセージを送っている。閔氏政権の実力者と言われた左将軍趙寧夏からの手紙である。 この人は大院君追放の先頭に立った人物であるが、手紙の中で朝廷の意向として、交渉が断絶していたことに遺憾の意を表し、日本の書契もその修正案も受け入れる、貴国が旧体制を改正して新体制を構えたその経緯も知りたいと、日本の維新・開化の評価すら伺わせる内容であった。(公文別録・朝鮮始末3 p154)

 これらのことから分かることは、高宗たちが発する信号である。つまり、「日本とは事を構えたくない。朝鮮は日本と和交を結びたいのである。」というメッセージであり、同時に「守旧派」に囲まれて開化したくても出来ないことを訴える声である。

 高宗はもともと開化派の人であったと言われている。

 しかし、この時点で日朝交渉は決裂した。しかもそうさせたのは旧格式にこだわる朝鮮側であり、そこから派生して正式会談の約束も破ることとなり、まさに朝鮮側から日本に対して破約と絶交を突きつけた形となってしまったのである。
 それは高宗にとって望んでもいないことであり、大きな負い目となったことだろう。

 そしてそれにもかかわらず、先に事を構えてしまったのはなんと朝鮮側であった。雲揚への砲撃事件である。かつて、日本艦船への便宜と保護を求め、国旗や信号旗を渡してそれを確約していたにもかかわらず、日本国旗を掲げる雲揚に対して武力行使をした事件である。

 明治8年(1875)9月20日 雲揚号に対する砲撃事件が起こる。その日は釜山草梁に森山理事官らを迎える艦が来た日でもあった。もちろん何も知らない森山たち一行は21日に帰国した。そのことを知ったのは、29日に長崎に上陸してからである。

明治開化期の日本と朝鮮(1)      目 次     明治開化期の日本と朝鮮(3)

 

 since 2004/12/20