明治開化期の日本と朝鮮(1)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

坤輿萬國全圖(こんよばんこくぜんず)明国作製 1602年 1部

 

索 引

 日本との交易と侵略拠点
 仏米と幕府使節と流言
 明治政府、朝鮮へ親書を送る
 礼儀にかなっていないと受け取りを拒否
 朝鮮の対日交渉術
 日本国内で朝鮮に対して怒りの声が
 儒教の差別思想・華夷秩序
 人道無視と日本への貿易制限と誹謗中傷
 朝鮮通信使と儒教的価値観
 朝鮮政権内の対立・大院君と閔氏一派
 日朝交渉と内政干渉

 

日本との交易と侵略拠点

 朝鮮は日本とは古代から交流ある国であり、江戸時代には将軍が変わるたびに朝鮮通信使を送って来てよしみを結んでいた。また鎖国政策をとっていた朝鮮が、宗主国である清を除いて唯一交易をしていたのが日本の対馬藩である。朝鮮は対馬を通して、銅、陶器、ミョウバン、紅絹(紅花染料で染めた絹布)、海気(絹の平織物)、砂糖、菓子、素麺、葛、紅粉(べにとおしろい)、唐木綿(西洋高級木綿)などを輸入し、輸出品としては、乕(虎)皮、豹皮、熊皮、犬皮、綿布、鱶鰭(ふかひれ)、北魚(スケトウダラ)、牛皮、牛角、牛馬骨、牛毛草、海蘿(ふのり)、朝鮮人参、熊胆、黄芩(オウゴン・漢方薬材)、牡丹皮(ボタンピ・漢方薬材)、山茱萸(サンシュユ・漢方薬材)などがあり、年間(明治8年の価格で)30万円ほどの取引があった。(「黒田弁理大臣使鮮日記 正本/1 明治8年12月9日から明治9年1月29日」p18)

 しかし同時に朝鮮はその位置から、例えば「元寇」に代表されるように日本侵略の拠点となりうる地である。(元寇の詳細)
 当時の元軍は朝鮮半島南岸に前進基地を設けて屯田兵を配置し、やがて元・南宋・高麗連合軍となって対馬、壱岐、今津、博多と攻め寄せている。(『元史』世祖本紀 1272年3月条)
 日本の国防上の観点からも、その国の動向を注視せざるを得ない、極めて重要な位置にあるのが朝鮮なのである。


仏米と幕府使節と流言

 江戸時代幕末の頃、朝鮮は西洋列強が清国を侵略していることを知って攘夷を決定した。
 慶応2年(1866)3月には、国内で布教するフランス人神父11名を含むキリスト教徒数千名を処刑。それを怒ったフランスは2度にわたって艦隊を送ったが、朝鮮は2度とも撃退し(朝鮮政府から幕府への書簡の中での言。実際は艦隊は海岸部分を一時占拠して、その後撤退している。)、また同じく9月には、大同江を行く米商船シャーマン号を焼き払った。
 朝鮮政府は書簡を以ってその事を日本に知らせたが、徳川幕府はその後に、仏米両国が連合軍を整えて朝鮮を問責せんとしているのを知った。
 それにより幕府は仏米に調停役を申し出、また対馬の宗氏を以って、朝鮮政府に対して事態を憂慮していることを知らせ、またそのことで幕府使節を長崎に送って朝鮮に渡海したい旨を報じた。
 すると朝鮮は、清国の新聞の記事によれば、日本人の八戸順叔という者の話として、「日本江戸政府は船務将軍である中濱萬次郎の新制度により80隻の火輪船(蒸気船)を建造し、それによって朝鮮を征討しようとしている」とあるが、これは事実かと問うた。
 幕府は、「その説(八戸順叔の言説)は虚妄無形のものであり、これらの流言は囂々として煩わしいばかりである。そもそも大君殿下(幕府将軍)は、旧弊を取り除いて文武を一新し、皇国の威を張るために砲艦器械を海外に求めて富国強兵の資とするは皆知ることであって流言に由来することではない。また、フランス国との戦闘の事を聞いた。隣国お互い密接してどうしてそのことを看過できようか。貴国の今後の憂慮を取り除くために特命使節を送りたい」と対馬宗氏を通して答えた。
 すると朝鮮は、「今ここに江戸の使者があるのは、旧約の例にはないことである」と、それを断った。
 そうこうしているうちに幕府が政権を返上して明治の世となり、幕府使節は長崎を去って、このことはそのままとなった。
 以上(朝鮮国交通手続1対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要、慶應三年 対韓政策関係雑纂/朝鮮事務書 第一巻)より。


明治政府、朝鮮へ親書を送る・・・「皇政維新の書契」

 明治元年(1868年)、日本は朝鮮に使節を送って新政府の樹立を告げて新たな国交と通商を求めた。当初その使節となったのは、従来から朝鮮との折衝にあたってきた対馬の宗氏である。
 「王政一新萬機親裁ノ旨ヲ朝鮮国ニ通達セシム」と宗氏をして朝鮮通信使などの300年来の親交ある朝鮮に知らせ、従来どおりの勘合貿易と海難事故による漁民や商人の漂流民の保護などを確認したいだけのことだった。


朝鮮、儒教の礼義にかなっていないと受け取りを拒否

 ところが、そのための文書「皇政維新の書契」を朝鮮側の官吏が頑として受け取ろうとしない。
 なんでも礼義にかなっていない文字が使われ、印鑑がいけない、文字の位置も違うという。どこがどうかと言えば「天皇」の「皇」の字がいけない、「天朝」なども使ってはいけないと言う。そこで、朝鮮通信使時代の朝鮮側の文書にも「天朝・皇朝・朝臣」という文字を使っていたことなどを、日本側が示して追及すると、朝鮮の外交官は急に「病気」になったりして話し合いが引き延ばされる。
 もうわけが分からないのである。これは宗氏から外務省が直接に折衝するようになってからも同じだった。


       倭館図(一部)

 朝鮮の南東端に位置する釜山の港湾、草梁には、対馬藩が朝鮮から租借したとも譲り受けたとも言われている地に藩の施設を設けていた。その規模およそ6万坪(「黒田弁理大臣使鮮日記」による)と長崎出島の15倍の面積があり、石垣で囲んだ城郭様式の中では対馬藩士と商人などを合わせて、常に数百の人数が滞在していた。
 朝鮮から「倭館」と呼ばれたこの施設は、明治の廃藩置県に伴って日本政府の領事館的施設を伴う日本人居留地として、「釜山草梁公館」と称するようになった。朝鮮側との交渉はここで行われ、日本人が公館の敷地外に勝手に出ることは許されなかった。
 施設に面して船着場が設けられ、民間交易船や、日本政府の外交官が乗る船などが出入りしていた。

 釜山は東莱府に属し、その行政は東莱府使の管轄下にあった。東莱府使は直接に日本外交官と接触はせず、草梁公館近くに居住する訓導や通事という官吏が日本側と会談したり府使に取り次いでいた。

 明治5年には、日本政府は朝鮮側に日本の船舶を識別する国旗などを示し、朝鮮の配慮を求めた。(対韓政策関係雑纂/明治五年日韓尋交ノ為花房大丞、森山茂一行渡韓一件)
 また明治7年9月には日本国旗を含む船隻旗号を再度示し、また蒸気船の模型を見せて日本の汽船の航行にも配慮を求め、朝鮮側はそれを受領した。(対韓政策関係雑纂/朝鮮事務書 第九巻)
 当時、攘夷政策を執る朝鮮が、蒸気船を西洋の夷敵の船と見ていることから、日本の蒸気船を西洋のものと間違われないようにするためであった。
 これらのことは後に重要な意味を持つことになる。

朝鮮の対日交渉術

 当時の朝鮮との交渉の記録を読むと非常に興味深い。(公文別録・朝鮮事件 公文別録・朝鮮始末 公文別録・朝鮮尋交始末、その他)
 日本側は繰り返し繰り返し何度も何度も話し合いを進め、朝鮮側に配慮して文章を変更したりしている。
 これがまた半端な数ではないのである。当時の史料を見ると、書き直しにつぐ書き直し、案件につぐ案件、印章も作り直したり、どの文章がいつの書契なのかよく分からないような量と手数の多さなのである。書記官たちは同じような文章をいったい何度書かされたのか、実に同情にたえない。
 しかし日本側のそのような譲歩にもかかわらず、朝鮮側は断固受け取り拒否なのである。なんと明治元年から7年経っても!。

 朝鮮の外交官僚の態度は日本人から見るとたいへん不誠実に見える。まるで、嘘・ごまかし・公私混同の弁明・仮病・突然の前言翻し、など虚々実々の駆け引きのオンパレードである。それに対して、日本側はというと、ただひたすら辛抱強く粘り強く正論をもって交渉している。その姿はまあ馬鹿正直なほどである。そこには日朝の文化の違いすらが感じられてある意味面白い。

 ここにひとつの史料がある。明治7年4月、日朝交渉をしていた日本側代表は、『朝鮮人が日本人をあつかうの6ヶ条の秘訣』なるものを入手している。(アジ歴資料「公文別録」の「朝鮮始末(三)」p91)
 年代が日本の江戸時代中期(元禄時代)頃に当たる作とされ、作者は不明であるが、この頃から、朝鮮人は日本人に対する交渉術なるものを編み出していたらしい。日本との交易に携わる者たちの間で広まっていたものかもしれない。

曾テ韓人 我ヲ待ニ 六條ノ秘訣アリト聞ケリ 偶 住永友輔 左ノ文ヲ得テ出セリ 果シテ 其 聞所ノモノナラン

朝鮮人待日本人六條

一 遜辭  屈己接人辞氣温恭
一 哀乞  勢窮情迫望人見憐
一 怨言  失志慷慨激出怒膓
一 恐喝  将加威脅先試嚇動
一 閃弄  乗時幸會翻用機関
一 変幻  情態無常眩惑難測

  右元禄年

一 謙遜する  自分を低くして接し言葉遣いも雰囲気もうやうやしくおだやかにする。
一 哀れみを乞う  困りきったような情をあらわし憐憫で見られるようにする。
一 怨みを言う  精神を失ったかのように憤ってはらわたから激しい怒りを出す。
一 恐喝  まさに威圧し脅しをかけておそれさせる。
一 閃くように弄する  あらゆる機会を用い時に乗じて翻弄する
一 変幻  同じ態度をせず眩惑し推し量ることを難しくする。

 ざっとこんな意味であろうか。
 明治元年から7年間にわたる日朝交渉において、まさしく朝鮮側の交渉態度はこのとおりであった。
 しかし国と国との交渉にこのような小手先の技で臨むなら、それは小児の外交である。必ず信義をなくし、その真意も伝わらないだろう。

 もっとも、当時、日本外交官と折衝した府使や訓導らは、理由あって初めから詐偽を以って日本側に対応し続けており、後にこのことを知った国王は激怒して彼等を斬首刑に処しているが。


日本国内で朝鮮に対して怒りの声が上がり始める。

 当然、日本国内ではだんだんと怒りの声が上がってくることになった。
 曰く、「痛憤骨ニ至リ」「屈辱」「非常ノ無礼」「朝鮮ノ傲慢無禮」と。(各地からの建白書より)
 政治家、新聞社、士族、軍人、庶民までが、いわゆる「征韓の議論」をやり始めた。

 「征韓論」というと直ぐに西郷隆盛が代表され、朝鮮侵略、植民地化を狙ったものである、などと言う者があるが、これは違っている。

 「征韓の議論」とは、要するに、怒っているのである。そのために、「けしからん、いっそのこと軍隊を送って征服せよ」「いやそんなことをしては国家の財政が破綻する」「しかしこのまま黙っておれるか」「その気持ちは分かるがここは辛抱するしかない」「いや、これ以上皇国に対する無礼に堪えられるか」などなどの議論が国を挙げて百出したのである。
 つまりは朝鮮を征服したいというよりも、懲らしめたいのである。言葉としては「征韓論」なのであるが、その内容は感情的なものであったと言えよう。
 その証拠に、明治9年に「日朝修好条規」が結ばれて交際が正常化すると、あれほど激しかった「征韓論」は国内からすっかり消えてしまっている。もし「征韓論」が、朝鮮を征服したいとの「日本の野望」から生じたものであるなら、たとえ国交はなっても、相変わらず盛んに議論されたであろう。否むしろ、釜山、元山、仁川の居留地が出来たことから、いよいよ征服の足掛かりが出来たと、益々声が大きくなったのではなかろうか。しかし、事実はそうではなかった。それどころか、日本人はやがて朝鮮の実情を見聞するにしたがい、朝鮮が清の属国の地位に甘んじ、貧国弱兵の国となっていることから、これを開明に向かわせ、独立国として、また中立の立場をとる富国強兵の国として発展することを強く望んだのであった。そのことの経緯は追って後述したい。


儒教の差別思想・・・華夷秩序

 この一連のすったもんだは、実は日本側の問題によるものではなく朝鮮の国内事情によるものだった。
 まず、朝鮮に渡す「皇政維新の書契」の問題である。

 朝鮮は、徳川時代には徳川将軍に書を送る際に「日本国王」宛てとしていた。すべてに貴賎上下の価値観を当てはめる儒教による中華思想・華夷秩序に生きる朝鮮は、国家間にも中国>朝鮮>日本という上下関係を観念として持ち、さらに、朝鮮は清国の属国の立場にあることから、朝鮮の首領は清国皇帝から任じられた朝鮮国王ということになる(世子―後継者となる王子を認許、すなわち実質的に国王の選任である。またその妃も清の認許が要る。(「第二号同上(第一号朝鮮国見聞諸況ノ件)」p4))。朝鮮は、その華夷秩序に従って日本の徳川代々の将軍にも「日本国王」として書を送っていたのである。

 しかし、日本は明治維新によって「将軍である日本国王」は退き「天皇による親政」となった。したがって、明治以降は他国に対しては政府書簡の中で「皇帝」の意味である「天皇」や「皇上」「皇勅」という字を使うことになる。しかし朝鮮はこれが気に食わなかった。それでは今まで国王同士で一応対等だったのが、皇帝>国王という上下関係から言えば、朝鮮は日本の下位の国となる。つまり旧来の礼義に反するというわけである。ましてや中華思想から言って、より外側の国が中華に近い国よりも上位に立つことがあってよかろうはずがない、というのである。

 これは日本側からすれば全くのナンセンスであった。日本は別に中国の属国でもなければ、華夷秩序の中にいるわけでもない。独立した自主の国であり、国の首領にどういう地位名を付けようが勝手である。しかし、それが気に食わないというのならと、先に述べたように、様々に手直しをするという譲歩をしたが、それでも朝鮮側は受け取ろうとしないのである。
 これでは当時の日本人としては怒らずにはおれなかったろう。


人道無視と日本への貿易制限と誹謗中傷

 さらには従来人道上から当たり前のこととしてなされていた海難事故による漂流民を相互に救助し保護することについても、それを無視して日本人の漂流民数人を釜山草梁の海岸に放置するなどした。また対馬との貿易も制限したため対馬は経済的に立ち行かなくなった。つまり事実上の経済制裁である。
 更にその上、公館の門には次のような文書が貼り付けられるという事態に至った。
 「無法の国、恥知らず、衣服容貌とも日本人にあらず(洋装洋服のことらしい)、(明治維新など)天下の笑うところなるを平然としている恥知らずである」と。(アジ歴資料「公文別録」の「朝鮮始末(一)」p19)
 朝鮮官吏から草梁公館の門番兵宛の達示文であったが、日本に対するその露骨な誹謗中傷の内容と、また何度も繰り返したことや、文書が東莱府使によるものであったことから、日本への宣戦布告の公示とも解釈できる代物であった。(「同上」p19の「東莱府使釜山僉使等其属官ニ達スル所ノ示令」
 当然「征韓の議論」も激しくなる。西郷隆盛が、自分が単身朝鮮に渡って宮廷で直談判して説き伏せる、それがかなわねば戦争だ、などという物騒なことを言い出したのは、この誹謗中傷の報告を受けてのことであった。

朝鮮通信使と儒教的価値観

 そもそも、朝鮮は昔から日本を蔑んでいたようである。理由としては豊臣秀吉の朝鮮出兵に対する怨みからそうなったと言われている。たとえば対馬藩に仕えた雨森芳洲が朝鮮通信使らの態度の傲慢さを批判したことに対し、朝鮮通信使申維翻はそう答えている。また後に、旅行作家イザベラ・ルーシー・ビショップが朝鮮人から聞いた理由としてもこの事を述べている。
 しかし、明治12年1月の報告書において、すでに6年間朝鮮に滞在した山ノ城祐長釜山管理官は、よくよく観察すると、そうではなく、もっと根源的な、国としてのあり方にその理由があることを見出している。(参考 報告書該当部分
 朝鮮は明国から、その思想や法体系を全面的に導入した国である。つまりは、中国の傲慢自尊すなわち中華思想をまねたのであり、更に、明国が滅んだ後は朝鮮はもはや宇宙間における唯一聖教(儒教)賢伝の宗匠であるという自負があると。また、日本が国力において自国よりも上にあることを妬み、それらの感情から日本人自身が自尊心を持つことを快しとしない情があると、報告している。
 たとえば、徳川時代の朝鮮通信使なども朝鮮側の記録を読むと、彼らは内心では日本人を屈折した感情で見ていたことがよく分かる。

「韓国の「民族」と「反日」」 田中明 1988年 朝日文庫より抜粋

 第二回通信使(1764年)に随行した金仁謙は「日東壮遊歌」という日本紀行文を著わしているが、そこには日本を表わすのに、「倭ノム」(ノムは「奴」といった意味)という言葉がしばしば出てくる。さらには、倭と音が通ずるので「穢ノム」という言葉までが使われている。

  館舎は本国寺、五層の楼門には
  十余の銅柱、天に達するばかりなり
  水石も奇絶、竹林も趣あり
  倭皇の住む所とて、奢移をば極め
  帝王よ、皇帝よと称して、子孫に伝う
  犬の糞が如き臭類はことごとく追い払いて
  四千里六十州を、朝鮮の地となし
  王化に浴せしめて、礼義の国に作りたし。

 筆者の自尊意識は甚だ強い。日本関白(将軍のこと)に国書を奉ずる儀式に出ると、前後四回、四拝せねばならぬと聞き、「堂々たる千乗国の、礼冠礼服着けたる身、頭を剃りたる醜類に、四拝なんどは以ての外」と、参席を拒み通している。したがって、その日本観察は蔑視と自尊のサイクルのなかに閉じこめられて終る。『海游録』の著者、申維翰もそうだが、日本の都市や建築物の壮大さとか商業の盛んな様子は詳しく述べつつも、なぜそうなったかには関心が向わず、日本の風俗の淫靡なことや学の未熟さなどに目が転じてしまうのが特徴である。「日本は儒学は輸入したが儒教は入れなかった」という言葉がある一方、朝鮮はそれと反対に、習俗すべてを儒礼にそうよう言動を磨き上げることに努めた。したがって、家庭の秩序、男女の関係、衣冠制度など、儒家的な基準に合わぬことをする日本人は、朝鮮の知識人の目には全くの野蛮人に見えたのであった。

 ここで日本人を指す言葉として「犬の糞が如き臭類」と訳されているが、直訳すれば「犬の陰茎のような」だそうである。その罵詈たるや痛烈過ぎて逆に感心するぐらいである。この国では人を罵る語彙が豊富であるという。参 考(国立国会図書館近代デジタルライブラリー「韓国社会略説」の画面65)

 それにしても「追い払って朝鮮の地にしたい」とは、日本征服の野望とも見てとれるが(笑)。

 他国を征服すると言えば、吉田松陰が次のように述べている。

 『朝鮮を攻めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くなさしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、即ち善く国を保つと謂ふべし。』(吉田松陰「幽囚録」)

 今ではよく「征韓論」の走りとして紹介される文章であるが、「日本は侵略者である」としたくてたまらない人々は卑怯にも必ず「・・・進取の勢を示すべし。」のところまでしか引用記述しない。しかしその次には「然る後に民を愛して武士(軍人)を養い、慎んで辺境を守るなら、すなわち善く国の保全が出来るというものである」と言っているのである。「犬の糞」のようなそこの人間は追い出してしまえとは言っていない。逆に民を愛し、軍人を養成して、そこの国の安全を守れ、というのである。つまり、白人西洋列強の侵略からアジアを守らなければならない使命感が言わせた言葉であることは明らかであろう。
 ただきらびやかな人のものを奪って日本人は追い払い自分たちの領土にしたいという、これこそが侵略思想であろう金仁謙の征服の言葉とは雲泥の差があるのである。

 

 このように書契問題は朝鮮側の偏見と差別意識に基づいた、ほとんど言いがかりと言ってもよいようなものであったが、これには朝鮮の政策上の立場もあった。

朝鮮政権内の対立・・・大院君と閔氏一派

 当時の朝鮮の実質的権力者はかの興宣大院君である。アヘン戦争などで宗主国の清が西洋列強から次々に侵食されていくのを見て、大院君は徹底した外国排斥、鎖国路線をとっていた。

 大院君は激烈な攘夷を敢行し、「衛正斥邪(ただしきをまもり、よこしまなるものをしりぞける)」運動を展開した。もちろんこの場合、正しきは儒教の伝統であり、よこしまなるものは西洋文明的なものという意味である。
 1866年3月には、フランス人神父を含むキリスト教徒数千名を処刑。それに怒ったフランスは2度にわたって艦隊を送って攻撃した。しかし、後に朝鮮政府が日本に知らせた手紙によれば、朝鮮はこれを2度とも撃退し、また、1866年9月には、大同江を行く米商船シャーマン号を焼き払い、ためにその消息を求めて1871年に米艦隊が襲来したが、朝鮮軍は奇襲・夜襲攻撃をかけてやはり退去させた、としている。
 いわば対外的には得意の絶頂期がこの頃だったのである。
(しかし実際は、朝鮮軍の負け戦であって、仏米は江華島沿岸を一時占拠したが、補給のこともあって撤退せざるを得なかったに過ぎない。それでもまあ、朝鮮側からすれば、果敢に追い払ったと誇りたくもあろう。)

 一方日本は開国をし、積極的に西洋文化を取り込み始めている。それは朝鮮にとってかつて交流していた昔の日本ではなく、西洋と同化しようとする異国の日本とも見えたのである。当時、西洋人は中華思想的には人間以下の獣類とみなされていた。そして日本はその獣類の仲間入りをし、英仏の手先となって朝鮮に対しているのではないかと。だからこそ日本は「皇帝」と称して朝鮮を従わせようとしているのではないかと。
 ここに、書契をはじめ国交も受け付けようとしない朝鮮側の理由があった。とりわけ、日本との交渉に当たる東莱府使や訓導らは大院君の腹心の部下として、大院君のその方針を実行していたのであり、それも、すべて詐偽をもって答えるという姿勢で日本側に接し続けていたのであった。
 そのような中で日本側が粘り強く交渉を続けていたのは、世界の情勢を見たとき、もはや鎖国を続けることなど不可能なことが明らかだったからである。日本の朝鮮に対する見方はっきりとしていた。

 即ち明治4年3月に発せられた内諭に、
「一 方今ノ形勢 一旦 朝鮮之ヲ拒ムモ 永ク之ヲ守ル事 能ハズ 必ラズヤ 開国セザルヲ 得ズ 宜シク 今ニ処スルニ 将来ヲ熟慮シ 敢テ 妨碍ヲ遺ス事勿レ」とある。
(公文別録・朝鮮事件・明治元年〜明治四年・第二巻・明治元年〜明治四年)
 当時の日本は、朝鮮が必ず自ら開国せざるを得ないことを見通していたことが分かる。

 やがて機が熟し始めたかのように、明治6年(1873)頃から朝鮮の内政に大きな変化が起こった。



明成王后(閔妃 1851〜1895 )(「昭和7年1月1日発行 別乾坤附録 近代朝鮮人物画報」より。ただし、この写真の真偽は不明)
 


高宗(1852〜1919 )
  長期にわたる大院君の政権は、その強権さと時に横暴な政策(塾の強制閉鎖と王宮再建のための賦課賦役)から反大院君勢力の結集を招いていたが、その中心となったのが、大院君の息子である朝鮮国王高宗の妻、閔妃(びんぴ)の一族である。
 朝鮮は政争の激しい国であり、ひとたび地位あるものが出現すると親族一同が利権や権力に群がって何らかの力を得ようとする傾向が強い。
 この時に大院君を失脚させたのが閔妃の兄を中心とした閔氏一派だった。高宗の摂政として豪腕を振るってきた大院君に対し、成人した高宗による政治体制への要求が上がり、明治6年(1873)ついに大院君は失脚し、閔妃の義兄であり閔氏最高の実力者である閔升鎬が国政全般に参与するようになった。
 閔升鎬は民宰相と称せられ、大院君時代の日本との国交を拒絶する政策に反対し、むしろ両国が相互提携して文明開化することを主張していた人物である。これによって日本との関係も改善される方向に向かった。
 

 そういう中で高宗は、日本との交渉経緯を初めて知ることとなったが、大院君の腹心である東莱府使と、その部下である訓導や通事らが、詐偽を以って日本と接していたことに激怒したという。

 『明治7年4月17日 陪通事金福珠談 「国王、即ち其書契の謄本を看て始て積年阻隔之上を知り、諸臣を譴めて云く。我国、数百年来、礼を日本に失せず。今猶、然く思いしに、豈図らんや、其信義に反する、已に数年に及べりと。是、何等の事ぞや。諸臣、詳に陳するに依り、国王、盛怒。忽ち旧府使訓導等を法に抵し・・・」(「公文別録・朝鮮始末(三)」p93)

 これにより東莱府使鄭顕徳と訓導安俊卿は斬首刑に処され、さらし首となっている。日本との外交を誤った、ということがその理由であった。(「公文別録・朝鮮始末(三)」p93、p97)
 また通事崔在守は逃亡して捕らわれた時に服毒自殺をしている。罰は財産や家族にまで及んだ。『挙家、老初と無く、数を尽して東莱府に縛送。家財、悉く没収せられ、殊に其妻、懐胎なりしに、猶、笞鞭を加えられ、肉破れ血迸るに至ると(「朝鮮始末(一)」p125)

 朝鮮は量刑の程度が非常に重い。(例えば、女が倭館の日本人と性的交渉を持った場合は斬首されてさらし首と決められていた。(朝鮮国交通手続2 対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要))それは酷いほどであり、しかも親族にまで及ぶ。
 そしてそのことこそが人をして責任逃れや事なかれ主義に向かわせる要因でもあった。

日朝交渉と内政干渉

 高宗中心の閔氏政権となって日朝交渉が再開された。日本側代表の森山茂草梁公館理事官の提案に応えて、明治7年(1874)9月19日には、修正した書契を受理することと、宮中での応対の形式をどのようにするかの日朝の話し合いを持つ約束がされた。
 しかし、新しく任命された官僚(訓導 玄昔運)は、初めから責任が自分に及ばないように言を左右する者であった。なにしろ大院君派の政治勢力は依然として宮中にはびこっており、いつ政府の方針がひっくり返るか分からないからである。
 日本側は、訓導が政府からの達示すらまともに伝えようとしないことに怒り、激しく対立することもしばしばであった。

 しかも明治7年(1874)11月、民宰相閔升鎬が自宅で先祖祭りをしている時に美しい小箱が届けられ、それを開けたとたんに爆発して母子と共に爆死する事件が起きた。大院君派によるとも閔氏内部からの者による仕業とも言われている。
 これによって、朝鮮側の方針は再び変わり、明治8年(1875)5月15日には、とりあえず「書契」は受理することとし、そのための宴を催すことを指示した。ただしその際にあたっては「旧格」を厳守させるよう命じた。旧格とは、日本側が、服装なども含めた礼儀作法を昔の幕府時代の通りに執り行うことである。

 訓導からそれを聞いた森山理事官は、明治政府の服制による大礼服で宴に出席するつもりであった日本側に「旧格」を遵守させようとするなどは、一国の内政問題に属することまで立ち入る侮辱であるとして激語して拒み、先の応対の形式を日朝で話し合うという約束を遵守せよと迫った。

 日本にとってこのことは独立国たる体面として容易ならざる問題であった。幕府時代から朝鮮との交渉は対馬の宗氏がしていたが、かつて国書の偽造までもおこなったように、宗氏は朝鮮との交易抜きに経済的に成り立たないところから、しばしば朝鮮に取り入り、そのために臣下の礼まで取っていたらしいのである。
 後にそのことを外務省出仕の調査員から厳しく批判されている。
『宗氏ノ朝鮮ニ於ルヤ 名 交際ヲ為スト雖モ(いえども) 実ハ累百年 彼ニ食ヲ仰キ 臣下ノ礼ヲ取 私交ノ謬例 枚挙スルニ遑(いとま)アラス』(外務省出仕斎藤栄建議)と。
 これは、対馬が朝鮮と結んでいた条約として、國譯朝鮮條約類書の中に「正統癸亥約條  一 島主ノ處 毎歳 米大豆 共ニ 貳百石ヲ賜フ事」とあるが、このことであろうか。もっとも後の正徳壬申條約では百石減らしているが(笑)。(朝鮮国交通手続2 対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要)
 ともかく幕藩時代の一小藩の生き方としては無理からぬことであったろうが、日本国政府が、そのような「旧格」の礼を踏襲する事は不可能なのである。

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