きままに歴史資料集その11

 海外と幕末そして明治

 

1853年7月 日本にペリーが来た頃、世界を見渡すと、アジア・オセアニアは西欧白人諸国の領土・植民地だらけだった。

アヘン戦争、アロー戦争

清の軍艦を攻撃するイギリスの鋼鉄戦艦ネメシス号(右)

 1840年〜1842年、イギリスが仕掛けた阿片(アヘン)戦争→清国大敗。南京条約で香港のイギリスへの割譲、各地港の開港、多額の賠償金の支払い。その後の追加条約で、治外法権、関税自主権の放棄などを承認させられる。
 これに、アメリカ、フランスも便乗。同じ条約を結ばせる。

 この戦争について日本には、長崎入港のオランダ船がイギリス側の情報を、清国船が現地での見聞をもたらした。それらの情報をもとに戦いの記録や論評などが書籍として出版され、武士階級はもとより百姓町人まで知ることとなった。塩谷宕陰著『阿芙蓉彙聞』、斎藤竹堂著『阿片始末』など。


 1857年〜1860年、第2次阿片戦争(アロー戦争)、イギリス・フランスの連合軍が仕掛けた戦争→清国大敗。天津条約で公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金・阿片の輸入の公認化。さらに、清側が天津条約の批准を拒んだために、英仏連合軍は北京に進出して占領。ロシア公使の調停の下に北京条約締結。それにより天津開港、イギリスに対し九竜の割譲など、また調停に入ったロシアは沿海州(中心都市ウラジオストック)を手に入れた。

 連合軍に略奪・破壊しつくされた皇帝の離宮・北京の円明園。ヨーロッパ形式の建築で多くの宝物が収蔵されていたという。

 その頃アメリカは江戸幕府に対し、清を打ち破って天津条約を結んだ英仏連合軍がそのまま日本に来る可能性ありと進言し、他国間との問題時にはアメリカが仲介する事を約束して交渉していた修好通商条約の調印を迫った。
 安政5年(1858)7月、危機を感じた大老・井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ないままに調印。しかしこの条約は自主関税権がなく、アメリカ人の犯罪(民事・刑事)に対して日本側の裁判権もないもの。
(今日では「不平等な条約」と言われる。当時はどう思っていたろうか。)
 そして約2ヶ月余りの間に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ぶことになった。


日本人が香港・上海で見たものは

 1860年の遣米使節の一員玉虫左太夫誼茂の『航米日録』より。香港で見たもの。
 「(町を)徘徊すでに一時ばかりなりければ、、数十の支那人群がり、予らの装いを見んとす。英国の兵卒、傍にあり。鉄棍をもって撃ち払う。あたかも犬馬を追うが如し。これを以ってはなはだ心を傷ます。」

 
1862年上海に渡った高杉晋作が帰国後に著した記録書「遊清五録」より
 「ヨーロッパ諸国の商船や、軍艦のマストが港を埋め尽しているさまは森の如く、陸上には諸国の商館が壁を連ねること城郭の如くその広大なことは筆舌に尽くしがたい。」
 「この地はかって英夷に奪われた場所であって港が賑わっているといってもそれは外国船が多いためである。中国人の居場所を見れば、多くは貧者で不潔な環境に置かれている。わずかに富んでいるのは外国人に使役されている者だけである。」
 「つくづく上海の形勢を見れば、支那人はすべて外国人の使役となっている。イギリス人、フランス人が街を歩けば、支那人は傍らに避けて道をゆずる。じつに上海の地は、支那に属すると言うが、英仏の属地と言うこともできる。」

 日本人にとって中国はとりわけ思い入れのある国であった。日本文化の恩師であり東洋文化の拠点である中国が、この大国清ですらが、西洋列強白人諸国にずたずたにされている。あの漢詩を愛しおおらかに歌う大人たちが白人の前で小さくなっている。それらの姿を実際に見聞した玉虫や高杉たちの受けた衝撃はたいへんなものであったろう。

 

薩 英 戦 争

 薩摩藩士によるイギリス人殺害(島津久光の行列の前を乗馬のまま横切ったことへの無礼討ち)を発端とした戦争。

 文久3年(1863)7月 賠償を求めてイギリス艦隊7隻(旗艦ユーリアラス号2371t)が鹿児島湾に襲来し、薩摩藩との交渉決裂により戦闘となる。
 これにより薩摩藩の砲台は壊滅的損害を受け、城下町も一割が焼失する。また、イギリス側も60余人の死傷者を出す。

 講和談判で薩摩側は賠償金を払うことに同意。薩摩は攘夷が不可能であることを痛感する。

 

馬 関 戦 争

  文久3年(1863)5月11日未明…関門海峡を通過しようとしたアメリカ商船「ペンブローク号」に対して、馬関(下関の別称)に作られた長州藩砲台が猛烈な砲撃をくわえる。
  長州藩のその無謀とも言える「攘夷・外国船打ち払い」の行為だった。
  さらに、5月23日にはフランス艦キャンシャン号を砲撃。26日にはオランダ艦メデューサ号を砲撃。
  これに対して、元治元年(1864)8月5日にイギリス、オランダ、フランス、アメリカの計17隻の連合艦隊が襲来。
  あっという間に長州の軍艦2隻を撃沈。海岸の長州側砲台も沈黙させて、やすやすと占領。
  当時の日本と西洋列強との武力の差を嫌というほど日本側に見せつけた。

姫島沖の連合艦隊 元治元年、F・ベアト撮影
長州藩への報復のため連合艦隊は下関を攻撃。
イギリス軍に占拠された長州側砲台 元治元年、F・ベアト撮影
約2千人の上陸部隊は、砲台や弾薬庫を破壊した。
 

人種差別と明治維新

古い幕藩体制を壊し、天皇を国の中心と頂いて日本人全員の心を一つにし、西洋列強なみの国力を持った新生日本を作り上げねば、このままでは日本は西洋諸国の植民地とされ、日本人は白人の奴隷として生きる民族に成り果ててしまう。

 それは、明治維新をおし進めた多くの日本人の一致した見解であったろう。


 当時、西洋列強の白人たちは、西洋文明に染まらぬ民族を未開の野蛮人ぐらいにしか見てはいなかった。
 ここに、アメリカ大陸発見を象徴的に現した一枚の絵がある。



 1523年生まれのオランダ人、ヨハンネス・ストラダヌス(Johannes Stradanus)による、アメリゴ・ヴェスプッチとアメリカ大陸との遭遇の場面をイメージ的に描いた作品。

 アメリカの地は、男に支配されるべき裸の女として象徴化され、神の十字架と文明の利器を持ち文明の乗り物に乗ってやってきた左の西洋人の姿に驚く様は、まるで神に出会ったかのように右手をささげ、そのハンモッハクに座る姿は、なんら生産的なことをしていない者としてこの地の人々を表現する。周囲には獣が徘徊し遠くの海岸では人間の下半身のようなものを火で焼いて食料にしている未開で野蛮な土地として描いている。
 西洋文明こそこの野蛮を正し支配し正しき神の地とせねばならない、という当時の西洋白人の偏見と独り善がりな考え方を見ることができる典型的な絵である。

 それは、19世紀に至っても大して変わらなかった。世界各地の未開の地すなわち西洋文明に染まっていない地を支配し併合あるいは植民地とするのは当然のこととする時代であったのだ。そして、それをなしうるのは「力」。それに抵抗できるのもまた「力」である。


 これは、時代は下がって1944年の写真である。米国戦艦ニュージャージー甲板上に乗組員が集合し、1人の裸の人物を見物する演出で記念写真としている。
 この写真のキャプションには、「Here a captured Japanese soldier bathes before being given GI clothing.」
(捕らえられた日本兵が服を与えられる前に水浴をしている。)とあった。
 わざわざこのような所でしかも大勢の前で、辱めを与えるためなのか、プロパガンダに使うべく演出したのか、定かではない。しかし、もしドイツ人捕虜だった場合も同じようにしたろうか。
 そうは思えない。
 これは20世紀半ばになっても露骨な人種差別があったことを如実に語る写真である。

 この日本兵とされる方の顔がはっきりと写っていないのがせめてもの幸いか。

 明治維新をなした日本が、長き伝統をばっさりと断ち切り、衣食住を西洋風に改め必死に文明開化せんとする当時の姿は、涙ぐましいものがある。後に夏目漱石が「軽挙」などと文明開化批判をしたが、そもそも彼が文壇に文人として名を馳せたのも、この日本という国が白人支配から逃れることが出来たおかげであることを気付いていない愚である。
 文明開化を押しすすめた明治大帝を始めとして多くの先人たちのその苦悩を知って、なんらかの感銘を覚えない者はこの国にアイデンティティーを置く人間とは思えない。もちろん明治以前の日本の優れた制度・文化も少なからず損なわれたことは否定できない。しかしもう後には戻れない。歴史の流れがそれを許さないのである。

ロ シ ア と 朝 鮮

 開国をして世界情勢を見渡すと、日本にとって厄介な国が隣にあった。ロシアと朝鮮である。



超大国ロシア(皇帝ニコラス1世)
 


朝 鮮  儒教と白衣の国

 ロシアはペリーとほぼ時を同じくして軍艦を送って開国を迫った国である。その広大たる国土を持つ国力計り知れない白人の国が眼前にあったことに日本は改めて恐怖した。

 一方、朝鮮は清の属国である。(参考 「(清国)沈大臣答 『朝鮮国ハ我国ノ属管礼部衙門ニ隷スル所ニシテ』」(明治8年 在北京森全権公使ヨリ達スル機密報告書)。)この国の位置がまた日本を悩ませた。

 

目 次                        明治開化期の日本と朝鮮(1)

 

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