日朝の交際歴史の補填資料
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)

参考(朝鮮国交通手続 対韓政策関係雑纂/再撰朝鮮尋交摘要、慶應三年 対韓政策関係雑纂/朝鮮事務書 、朝鮮交際録上呈山県陸軍卿ヘ送達ノ儀上申)


天授3年(1377)高麗使来る。

元中9年(1392)高麗の臣、李成桂が恭譲王を廃して自ら高麗王となる。李成桂は翌1393年に中国の明から「権知朝鮮国事」(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王)に封ぜられて国号を朝鮮と定め、1401年に明から正式に朝鮮国王として冊封を受けて、李氏朝鮮を建国する。

嘉吉3年(1443)対馬州守宗氏に朝鮮が勘合国書を贈って歳遣船を年間50隻で公貿易。
同年、朝鮮は和館を三ヶ所に設けて接待の所とする。すなわち東莱の釜山浦、熊川の薺浦、蔚山の鹽浦。足利氏や諸家氏の使は国都に至り、東平館に宿る。
「正統癸亥約條  一 島主ノ處毎歳、米大豆共ニ貳百石ヲ賜フ事   一 歳遣船ハ五拾隻ヲ以テ限トス。如シ止ヲ得サルノコトアリ、其所以ヲ報告スルトキハ則チ数外更ニ船ヲ送ルコトヲ許ス事」

永正7年(1510)の時に、朝鮮側が駐留する日本人に過酷の処置をしたことから日本人が憤怒し、薺浦の僉使である李友曽を襲殺する。それにより朝鮮は駐留日本人全員を国外に排する。これにより隣交がしばし途絶える。

永正9年(1512)に和議が成る。その時に朝鮮側は、薺浦、鹽浦の2ヶ所を閉鎖して釜山のみを残し、また歳遣船も年間25隻に減ずる。
「正徳壬申條約  一 島主ノ處毎歳米大豆共ニ貳百石ノ内一百石ヲ減スル事   一 受図書並二受職人ハ共二接待セサル事   一 島主歳遣船五拾隻ヲ減シテ貳拾五隻ト為シ・・・」など。

天正年間(1573〜1592)に豊臣秀吉から宗氏に令して、朝鮮に慶賀の信使を送るように告げさせる。朝鮮は日本までの航路がよく分らないと断る。

天正18年(1590)朝鮮から秀吉への天下統一慶賀のための国使3人が来る。

文禄1年(1592)豊臣出兵から途絶。

その後、徳川家康、宗氏をして和議を唱える。

慶長12年(1607)朝鮮国王、国使を来聘し、幕府に国書を呈する。交際復活し、ただし京城に至るのは禁止。館は南部楽善坊に設ける。(対馬藩士の墓碑があり、後に草梁和館からの外出は年に一度の墓参としてここに来るのを許された。現在の釜山鎮豆毛浦倭館跡、古館とも言う。)

慶長14年(1609)歳遣船の復活。ただし20隻に減ずる。
「萬暦己酉約條  一 島主ノ處毎歳、米大豆共ニ一百石ヲ賜フ事   一 島主ノ歳遣船定額ヲ減シ二拾隻ト為ス事   一 文引(朝鮮が出す許可証)無キ船ハ海賊ヲ以テ処断ノ事」など。

慶長16年(1611)宗氏、朝鮮に書を送って歳遣船を50隻にするよう要請。朝鮮は許諾せず。

元和3年(1617)朝鮮使来日。回答兼刷還使

寛永1年(1624)朝鮮使来日。回答兼刷還使・家光襲封祝賀
宗氏が朝鮮使を促して江戸城に行かせる。以後それを恒例とする。

寛永13年(1636)朝鮮使来日。通信使。

寛永20年(1643)朝鮮使来日。家綱誕生祝賀

承応2年(1653)
「順治癸巳定式(主に朝鮮人向け)  日本人から債務を負う事の厳禁厳罰、日本人と接する者の国内事情漏洩の禁止と厳罰」など。」

「倭書定式(主に日本人向け)  秤の制限(計量の不正禁止)、朝鮮人と争論の禁止、朝鮮人と相接するときに敬恭を極めること、船が風などで難船すれば力を極めて救うこと。」など。

明暦1年(1655)朝鮮使来日。家綱襲封祝賀
この時の朝鮮国王の国書から明国の年号を記載するのを止めて干支のみを用いる。当時の朝鮮はすでに清国に降り清国の属国として朝鮮内部の公文書には清国の年号を使用している。干支のみを使うのは日本向けであった。寺島宗則外務卿は「清が韃靼(モンゴル族)から出ているので朝鮮がそのことを忌避し、日本には秘するためである。」と言っている。

朝鮮国の公文書。光緒の年号は清国の年号である。光緒十一年は日本では明治18年(1885)にあたる。

万治1年(1658)日本側は、船舶の碇泊に不便なので和館を釜山城側へ移転するよう要請。朝鮮許さず。使臣往復して討議したが決着つかずに16年を経る。

延宝1年(1673)に至って釜山草梁移転に決する。同3年(1675)に館舎の経営を始め同6年(1678)に施設整備(敷地およそ6万坪)が完了する。

天和2年(1682)朝鮮使来日。綱吉襲封祝賀

宝永4年(1707)
「康熙癸亥制札  日朝互いの犯罪人は和館の門外で刑を施すこと、など。また朝鮮側は、釜山草梁村の女が日本人と性的関係を持った場合は女は処刑してさらし首と決める。日本側の男にも同じ処断の決定を求めたが日本側は断る。」

正徳1年(1711)朝鮮使来日。家宣襲封祝賀
「辛卯約條  宝永4年の朝鮮側の求めに応じて定約する。」

享保4年 (1719)朝鮮使来日。吉宗襲封祝賀

延享5年 (1748)朝鮮使来日。家重襲封祝賀

明和1年 (1764)朝鮮使来日。家治襲封祝賀

文化8年 (1811)朝鮮使来日。家斉襲封祝賀。この時幕府は臣を対馬に派遣して宗氏に接待させる。

 これまで宗氏の慶弔ある毎に朝鮮から使者が来ていたが、万延1年(1860)以後は廃絶した。
 宗氏からは毎年使いを送り、また朝鮮人漂流民の救助送還などを続けたがその時は朝鮮側も接待をした。

慶応2年(1866)10月、朝鮮が西洋船を撃退した事を告げる書を送る。

(朝鮮交際録上呈山県陸軍卿ヘ送達ノ儀上申、二号)より抜粋、意訳(適当)要約、括弧は筆者。

朝鮮国礼曹参議任 冕鎬 奉書
日本国対馬州太守拾遺平公 閣下

 貴国との修好は三百年にわたり、貴国とは旧約をもってあつい交誼がある。
 西洋の英国仏国諸国がたびたび我が国に於いて交易を交渉に来ることが止まない。それで兵刃を加えてその妄動を排すことにした。
 本年の春、フランス人宣教者は邪教を広め匪賊と結託し西洋人を引き入れようとしているのでこれを捕らえて悉く処刑した。
 また夏から秋にかけて西洋船が一隻来た。江華府に至って交易を求めたがこちらはこれを拒んでついに聞かず。それで望みはかなえられずに出て行った。しかし平壌に来て略奪して人や家畜を殺した。それで臣たちが火攻めにして全て滅ぼした。
 8月16日に西洋船2隻が来た。言語不通で阻んだ。
 9月初6日に西洋船大小30余隻が京畿に来る。江華府の要塞を破り人民を殺害し牛を奪う。通津府、済物鎮、文珠山、広城鎮、楊花津、などなどの将兵によって合戦となる。沈めあるいは焼き潜んでは襲い、相手は戦艦修繕のために引き下がる。10月12日に去って行った。我が国も兵の被害が大きかった。
 我が国は平和が久しかったが武備がおろそかになっていた戒めであり長期的には勝つことを計ることは出来ない。もとより武威も不足であり、当面将来の憂慮である。また有事があるなら我が国の海岸の東南からであろう。
 貴国諸州の涯渓また人家が連なると聞く。夏から秋にかけて無数の帆が西または南から島々の間に煙をなびかせて出没するからこれを急いで知らせる。かの野蛮人はまさに生贄の血を欲っしている。
 貴国に備えがあるか知らない。貴国すでに兵を構えてかの野蛮人を我が国のように破ったであろうか。また、彼らは牙を磨いて潜んで伺っているかも知れない。
 または貴国はいまだこの状況を知らないだろうか。あるいは逆に気勢をなくしたろうか。
 我が国はそれをこそ憂慮する。事の顛末事態を伝え広められれば将に幸いである。
 江戸幕府にこれを深く望むものである。

   丙寅年十月
    礼曹参議任 冕鎬

(「火攻めにして全て滅ぼした。」とは米商船シャーマン号のことであろう。「8月16日に西洋船2隻」は宣教師の事を問うフランスの船であろう。「西洋船大小30余隻」はフランス艦隊であろう。実際は7隻であったが、ボート類も含めるとそれほどの数に見えたのであろう。江華島周辺は潮流が早くまた暗礁が多く天険の要害である。黒田全権時の日本艦隊もこまめに測量しながら用心深く進んだが上陸時に潮流でボートが転覆して日本人兵士が2人水死している。)

慶応3年(1867)3月、朝鮮国礼曹参判から問い合わせの書が来る。

(慶應三年 対韓政策関係雑纂/朝鮮事務書 第一巻 p15)より抜粋、意訳(適当)、現代語、括弧は筆者。

朝鮮国礼曹参判 李 沇應 奉書
日本国対馬州太守拾遺平公 閣下

貴国との隣交続き以来二百余年の間修好替わらず。
この春、使者に北京から問うのに伝聞の説があるとのこと。
(北京滞在の)日本人の八戸順叔の言に、
日本江戸政府督理船務将軍、中濱萬次郎が上海で火輪船八十余艘を製造し、二百六十諸候が江戸で合議して朝鮮を討つとのこと。八戸順叔がどのような者でどの籍に属するものかも知らない。
貴国はこのような話が流れるもとを知らないか。
(略)
慶応三年丁卯三月

 

慶応3年(1867)4月、朝鮮に対して仏米が連合軍を整えてその罪を問わんとすることを知った徳川幕府は、仏米の公使に調停役を申し出る。

(慶應三年 対韓政策関係雑纂/朝鮮事務書 第一巻 p5)より抜粋、現代語に。

亜墨利加合衆国ミニストルレシデントエキセルレンシー
アルビワルケンヒュルゲ へ

朝鮮国が最近フランスと戦争の事が起こってから後、貴国の商船を残害したと聞く。朝鮮はもとより我が国の旧交の国にて、このような義無き挙をなし、我が国同盟の国民を惨害すると聞いて我が国の大君は深く痛嘆にたえない。且つ、隣国の誼に於いて忠告と善導をしないわけにはいかない理がある。このたび朝鮮の国王に国書を投じ、平山図書頭に命じて委細を解かせようと思う。かくて朝鮮が悔悟して我が国に就いて和を請うことに至るなら、貴国は戦旗を降ろし旧怒を棄てて相友善する道を開かんことを希望する。これらの情状を貴国政府へ深く周旋を頼み入る。もっとも、朝鮮旧来の習慣から牢として説くこともできないことに至るかは計り難いことであるが、隣国の義に於いて我が尽くすべきを尽くし、四海の和平を祈るは我が大君の素志である。了解尽力あることを願う。

慶応三卯年四月七日    板倉伊賀守
                 稲葉美濃守
                 小笠原壱岐守

 

慶応3年(1867)六月、幕府は使者を長崎に遣り、慶応2年の朝鮮の書に対する返書も兼ねて、対馬の宗氏をもって書を送らせる。

(「朝鮮交際録上呈山県陸軍卿ヘ送達ノ儀上申」p48の「三号」)より抜粋、意訳(適当)。

日本国対馬州太守拾遺 平 義達 奉書
朝鮮国礼曹参義大人 閣下 

戦闘の件で一連の顛末列記に対して、我が国の所見を述べる。

 江戸幕府はすなわち廷議したことを伝える。
 去年秋のフランス国との不和の事は思いもかけないことであり、ただお互い密接して共に患いとなるのみにあらず、そもそも隣国睦んで誼をあつくし情けをかけあうものである。
 ここに使者を送って貴国の安堵をはからんとす。 これ江戸幕府の大なる意である。

    慶応三年丁卯六月

 

慶応3年(1867)8月、同年3月の朝鮮国礼曹参判から問い合わせの書に返事を送る。

(朝鮮国交通手続 2 p9)より抜粋要約、現代語、括弧は筆者。

日本国対馬州太守拾遺 平 義達 奉書
朝鮮国礼曹参義大人 閣下

江戸幕府が言うことは以下のとおりである。
その説(八戸順叔の言説)は虚妄無形のものであり、これらの流言は囂々として煩わしいばかりである。
そもそも大君殿下は、旧弊を取り除いて文武を一新し、皇国の威を張るために砲艦器械を海外に求めて富国強兵の資とするは皆知ることであって流言に由来することではない。
また、フランス国との戦闘の事を聞いた。
隣国お互い密接してどうしてそのことを看過できようか。貴国の今後の憂慮を取り除くために特命使節を送りたい。
(略)

 慶応三年丁卯八月
 対馬州太守拾遺 平 義達

 

慶応3年(1867)12月、朝鮮が江戸幕府による調停の使節派遣を、旧例に無いことだからと断る。

(朝鮮国交通手続 2 p12)より抜粋、意訳、要約、現代語、括弧は筆者。

江戸幕府が遣使するにおいて、その意とすることには言葉にも筆にもすることが出来ないほど感謝する。
しかし両国交際三百年は誠信を篤くしてこそ後人の典守である。今ここに江戸の使者があるのは、旧約の例にはないことであり、貿易規則の約条としてもそれは慎まねばならないことではなかろうか。
(略)
丁卯十二月
     訓導 俊卿 安僉知
     別差 徳民 玄主簿
幹事館  尊公

(敵対的に拒絶する、という文章内容ではない。三百年の交際ある隣国に対して結構気をつかった文面である。)


 

以下工事中なり

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