軍艦派遣献議に関する一連の経緯

(以下、アジ歴の史料から)

 

 明治8年2月時点に於ける、森山茂外務小丞への朝鮮国応接心得は次のものであった。

(「朝鮮理事誌 (正本)/2 自明治八年二月至同年十一月四日」p14より、()は筆者)

一 彼国若し自ら独立と称し両国の君主等対にて交通すべき旨を挙論し来らば、其趣直に上申致し指令を待つべき事

一 彼国若し自ら清国の属藩と称して事物悉く清に仰ぐの旨を主張せば、是亦其趣を上申し指令を待つべき事。

一 彼国の独立と称し清属と云を論ぜず、彼国王と我太政大臣と又は我外務卿と礼曹判書とを適主と為し、旧誼を修め度旨申出候わば、其意を領諾するの趣を以て相答べき事。

 明治八年二月二日 太政大臣三条実美
 同前(太政大臣指令)
      外務小丞森山茂

 つまりは、天皇陛下と朝鮮国王の国書交換の要求というようなものでもなく、朝鮮の外交部署である礼曹判書と日本外務卿レベルでもOKということ。要するに、幕府時代からの旧誼を確認するだけ、というのが当時日本政府の方針であった。で、これが通らず既に7年近く経っていた。

 で、業を煮やした公館側では、副官廣津弘信と奥義制三等書記生が次のことを日本政府に献議するために一時帰国したと。

(「第三巻 自 明治七年 至 明治九年/2 同八年乙亥 1」p17)

○ 四月十五日 朝鮮国の我が理事官を待つ、反復前に論するが如し。故に後来の進止を仰がん為め、副官広津弘信及び奥義制[時為三等書記生]一時帰朝其情状を具上し、併て建議する所あり。

 軍艦を派遣し對州近海を測量せしめ、以て朝鮮國の内訌に乗じ以て我応接の聲援を為んことを請うの議

 朝鮮国使事、森山茂および[弘信(小文字)]、二月二十五日より本月一日に至り、現に弁理するの状及彼国内相訌し、昨年九月我と相約する所の条件未だ速に履行するに至らず、彼訓導玄昔運が上京往返間日期を延るを告る事、及び後来彼れ或は常に変に出づべき愚案并に之に処するの指令を仰ぐ等、頃ろ数通の書を献呈し業已に清鑑を経、一に高裁を奉持す。爰に茂が曾て上請する所ろ声援の事、今其好機会にして間髪を容れざるの時なるを以て、更に一議を連て其然らざる可からざる事由を具陳する左の如し。

 [弘信(小文字)] 今也。彼国の景況を探知するに、彼の民宰相横死し大院君入城し両党稍相軋るの勢ありて、一は漸く再煽を望み、一は頗る掣肘の累らいを生ずるに似たりと雖も、従来、彼国人概ね大院の苛暴を怨むるを以て未だ俄に旧に復するに至らず。故に我の挙動能く暗に開和の気勢を助け得べきなり。万一、他日大院の党、志を得て前約を履まざるに至らば、我も亦大に力を用いざるを得ざる可し如かじ。今、彼の内訌して攘鎖党未だ其勢を成さゞるの際に乗じ、力を用るの軽くして而して事を為すの易からんには、即今我軍艦一二隻を発遣し、対州と彼国との間に往還隠見して海路を測量し、彼をして我意の所在を測り得ざらしめ、又、朝廷時に我理事の遷延を督責するの状を示し、以て彼に逼るの辞あらしめば、内外の声援に因て理事の順成を促がし、又、結交上に於ても幾分の権利を進るを得べきは必然の勢なり。況や予め彼海を測量するは後来事あると事なきとを問わず、我に必要の事なるに於ておや。

 我の力を彼国に為す只此時を好機会とす。而して今日一二隻の小発遣は、他日或は大に発遣せざるを得ざるの憂いなからんを願うの意にして、敢て軽々凶器を隣国に弄舞せんを欲するに非るなり。謹で此に上申す。速に英断を賜へ。切願の至に堪えず。
 明治八年四月   外務省六等出仕廣津弘信頓首再拝

 この献議をどのように提出し、またどのような政府の指令があったかを資料から抜粋して時系列的に並べると、以下のようになる。

(「朝鮮理事誌 (正本)/2 自明治八年二月至同年十一月四日」p38より、()は筆者)

同(四月)十五日  午前第六時横浜へ達す。直ちに上陸滊車に乗じ、第八時品川に達し馳て外務卿寺島氏に至り帰京の由を陳じ、(略)」

(「同上」p39、()は筆者)

同廿三日  副官(廣津弘信)正院へ出頭し、軍艦発遣の議を献ず。

同廿四日  副官、三条公へ参向し書類を呈し、親しく献議の旨を陳上し、又板垣参議に謁して同議を述ぶ。(略)

 しかし寺島宗則外務卿は翌日25日に、森山茂理事官への新たな指令案を以下のように三条実美太政大臣に提出。

(「在朝鮮国森山理事官ヘ指令副加伺」p1)

甲第百四号
  在朝鮮国理事官ヘ指令案伺之儀
 去る二月朝鮮国御■派遣相成候理事官、彼地着後、実地上心得方最前指令書中に相洩候処、今般一時帰京仕候外務省六等出仕廣津弘信より伺出候義有之。別紙案文之通り更に二ケ条指令いたし度存候間、至急御詮儀相成り■仕度此段相伺候也
 八年四月廿五日   外務卿寺島宗則
    太政大臣三条実美殿

 つまり、廣津弘信の伺い出に対して、2月の心得条には足りないところがあったと。
 で、それが次の指令案である。

(「同上」p2)」)

  指令案

一  東莱府に入ること、若し彼れ延期を請い、情理相悖らざる辞あらば、年期を約して之を緩うするは其時宜に由るべき事。

一  彼国よりの使員即今直に交誼の旧を尋き、新を講ずべき有権の使員を出すに難んずる事あらば、先ず我一新を祝賀する等の使にても一応之を誘導し、若し其事も渋滞するときは、我より更に使を彼京城に派出する旨を以て談判致す可き事。

  以上

 つまり、寺島宗則外務卿は廣津弘信の献議を否定して新たな指令を追加したということ。
 で、それをまだ知らない廣津と奥は次のように行動。

(「朝鮮理事誌 (正本)/2 自明治八年二月至同年十一月四日」p39)

同廿五日  (略)
 奥義制をして海軍大輔河村氏に謁して軍艦発遣の献議を陳ぜしむ。

(「同上」p40)

同廿七日  軍艦発遣の再議を献ず。其書は留て外務卿の手に在り。蓋し卿の意、海軍大輔より軍艦発遣北海西海測量伺書の出たるを期とし、右の議を出さゞるなり。

同廿八日  (略)奥義制復た出て河村海軍大輔に面ず。

 で、河村海軍大輔から測量の伺いが出たと。それがどのような理由を以ってのものか、該当史料はまだ見つけられないので分らない。推測するに、航路のための測量の必要性ということは通ったのかもしれない。

 しかし、当の献議を否定する外務卿の伺は28日付けで大臣参議たちにも提出され接受・認可29日と以下のように承認。もちろん、河村海軍大輔の印もある。

(「在朝鮮国森山理事官ヘ指令副加伺」p3)

立案 第百七十六号
  八年四月廿八日  同廿九日受 同日成

大臣 参議

外務省伺在朝鮮国理事官実地上心得方最前指令中に相洩候処、二ヶ条更に指令可致旨伺之通御聞届相成可然間御指令案相伺候也

  御指令
 伺之通
  明治八年四月廿九日

 また三条太政大臣からは29日に「伺之通」と認可が出た。

(「在朝鮮国森山理事官ヘ指令副加伺」p2)

 伺之通
 明治八年四月廿九日

 そして、同日に三条太政大臣は廣津の献議を批判したとの記述がある。

(「朝鮮理事誌 (正本)/2 自明治八年二月至同年十一月四日」p40、()は筆者)

同廿九日  (廣津弘信は)正院に出頭して五月一日再発の議を伺う。此日指令案の通、太政大臣の批判あり。

 以上のように、 軍艦派遣を提案する森山や廣津に対して、その献議は否定し且つ批判し、どこまでも柔軟かつ平和的にせよ、という指令となったのは明らか。

 

以上。

 

 

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