日清戦争前夜の日本と朝鮮(25)補足資料

 

(「明治27年7月5日から1894〔明治27〕年7月17日」p36)
廿七年七月十七日接受   受第八七九一号

 李鴻章より朝鮮政府に向い日本公使の申出は一切拒絶せよと勧告したる事件、貴電第廿六号末項に於て御訓示の趣も有之候付、本月六日■■甲号の通り、天津来電写二通を添えて直接外務督弁へ及問候処、同六日乙号の通り右は事実無根なる旨、回答有之候得共、其後洩れ聞く所に拠れば、其件に付宮中にては厳敷取調有之、内宦中機密漏洩の嫌疑を被ぶる者有之等々申居候儀ども相添此段及上申候也。

明治二十七年七月九日
    特命全権公使大鳥圭介
外務大臣陸奥宗光殿

 朝鮮政府は事実無根と回答しながら、一方で機密漏洩を厳しく取り調べていることからも、李鴻章のその勧告があったことは確かなことであろう。

 

 

(「明治27年7月2日から1894〔明治27〕年7月23日」p49)

廿七年七月廿六日接受
機密一二九
内政改革の勧告に付、朝鮮政府の回答

 当国内政改革勧告の義に付、本月十、十一両日会議の模様は機密第一二七号信を以て及具申候処、同十五日午後三時より重ねて該委員三名と老人亭に会同し、我提案に対する政府の決議如何を相尋ね候処、委員筆頭申正熙は、書面に拠り永々と演説有之候。
 其大要は、

 日本政府の勧告は感謝に堪えず。朝鮮政府に於ても十年以来内政改革の必要に心付き漸次着手したるも、未だ其実行を収むるに至らざるに、南道の民乱発生し、且其他の地方に於ても屡々民擾相興り候故、此際改革を断行せざる可からざることと廟義一決し、之が為め大君主陛下より厳重なる勅令もあり。
 引続き校正庁を設け、夫々委員を命ぜられたることなれば、遠からず一新の政を観るに至るべし。
 貴公使は今大軍を駐屯し、期限を立てゝ改革の実行を促さるゝことは聊か内治に干与する嫌あり。随て修好条規第一条の趣意に適わず。我政府は若し貴公使の御請求に応ずるときは、恐くは有約各国は均霑の例に依り銘々勝手の注文を申出ずべし。
 左候時は、朝鮮自主の体面に傷つる恐れあり。加之、大軍駐屯の間は民心驚擾して治らざれば、到底改革の目的を達し難かるべしと考えり。
 依之、貴公使は先ず衛兵を撤退被下、且乙号案[即期限を立て実行を促すもの]を御撤回被下度

 との義に有之候に付、本官は彼の申出に対し、一々弁明を相与え候処、彼等に於て稍納得の体に相見得候。
 依之、我勧告に対し当政府は之を採用したる旨、公文にて回答可致旨申入れ、翌十六日中に政府の議定を経て、一面は外務督弁より、一面は委員より回答することに相約し、以て当日の会議を相結び候処、同日夕刻に至り、外務督弁より別紙甲号の通り、委員よりは同乙号の通り回答有之候。其大要は、

 甲は、我留兵を撤回せば改革に着手すべしと云い、
 乙は、我留兵を撤去し、且提案を繳回せば、改革に着手すべし

 との趣意にて、前日の協議と大に相違致候得共、前日の協議とても前に書面を以て約束したる者に無之、加之、彼等は政府の議定に依り此決答を送越したる義なれば、此上彼公文を差戻して、再び協議を重ぬるは徒に時日を費すのみにて、好結果を得難かる可く、寧ろ彼が送越したる不満足の回答に付け入りて、我決意を示し、引続き第二手段に相移り候方、事を速決するの好方略と相考候に付、外務督弁に向ては別紙丙号の通り、委員に向ては同丁号の通り回答に及置き候。
依て別紙回通相添、此段及上申候也。

 明治二十七年七月十八日
       特命全権公使大鳥圭介
  外務大臣陸奥宗光殿

 追て本日、安駉壽の来話に拠れば、朝鮮政府にては誰ありて我に送る発案の起草者なく、依之、新外務主事兪吉濬は筆を執り、我勧告を峻拒したる厳重の文案を作りたる処、外務督弁始め其他の人々、之に添削を加え、稍円滑に拵替えたる趣に有之候。兪氏等が故らに我勧告を峻拒せしむる文案を作りしは、現時の当局者は到底改革を実行する企望もなく、且其気力なきを伺見し、寧ろ日韓の衝突を早俄取らせんとする考案に出でたることと被推測候。

 

 

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p4)

廿七年七月廿六日接受 発
第九十号

 当国政府の改革委員申正熙外二名と老人亭に会したる節の議事録なりと称し、該委員より別紙の如き筆記録を各大臣に廻付し一覧に供したる由にて、探報者之を写取り持参致候。然るに右筆録中には事実措誤し或は彼方の利益に関する分部丈を重に掲げたるものに有之。尚お右の外一通同様の筆記と称し、諸方に配布したる分には一層事を揑誣し、甚しきは種々罵詈の言行を我々加えたる旨をも記載したるものゝ由伝聞致候[其分は尤秘密にして容易に他に示さずと云う]。

 依之、昨日国分書記生をして申正熙氏に就き、其委員の手に成たるや否を慥めんとせんに、折柄不在中の由にて空しく立帰り、本朝再び同書記生を派したるに、同氏は右一覧の後、委員より決して右様の議事録を廻したる事なく、只だ口頭にて各大臣に復命したる迄の事なれば、右は何ものかの悪戯に出でたるものならん。尚お此外一通ありとの事を聞けり。其文言は是れより一層錯誤せりと聞けば、貴公使に於て右様の文書に就き、決して御信用不相成様希望する云々。

 並に目下厳重に右出所等捜索中なれども更に手掛を得ずとの答辞を為したる由、■報有之候。惟うに右二通共委員の手に成りしに相違有之間舗(敷)と推察せられ候え共、彼れは殊更に知らずとの遁辞を搆うに過ぎことに存候。聞く処に拠れば、右復命書を一覧したる老大臣連中は大に申氏の応接に巧みなるを称賛したる趣に有之候得ば、此一事より推しても我勧告の画餅に帰す可き事由御承知相成度候。別紙相添え此段申進候也。

明治二十七年七月十九日
        特命全権公使大鳥圭介
  外務大臣陸奥宗光殿


(添付書)
 左の筆記は、七月十日、同十一日、老人亭に於ける会議始末なりとて朝鮮政府改革委員の手に成り、陰に議政府大臣并に各権門の回覧に供したるものにして、記事中多く事実を揑誣したるものあり。之を要するに改革委員とは只だ其名のみにして、実心内政を革釐するの意あらざるを知るを見る。

(略)

 

 

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p38)

甲号
第七十壱号

 以書柬致啓上候陳は、貴国京城より釜山に至る電線は、我暦明治十八年十二月中貴我両国の間に訂結されたる海底電線設置条約続約に由り、貴政府の義務として御架設相成候処、其後該電線幾回となく破損不通の事ありて架設の効用充分ならず、現に我暦本年五月下旬已来久しく閉塞して通信の便を欠き、数日前に至りて漸く開通したりと雖も、従前の実験に徴すれば何時再び閉塞するや難計候。
 畢竟工事不充分にして軽微の変災にも堪ゆる能わず。因て以て屡々破損を致すものと推断せられ候。

 依之、目下該両地間に堅善の電線を架設することは、最も緊要に且つ貴政府の義務に属することと相認め候間、至急旧線修繕に御着手相成候か、若くは新線を架設せらるゝ様致度候。

 右に付、我電工数百名既に釜山及仁川に到着致候間、直ちに営立て御幇助可致と存候。若又貴政府に於て早速起工の御詮議の程相成に於ては、我政府は暫く別線を架設し以て貴我両国通信の便利を相図り可申と存候。尤も該線は本国官報を取扱うに止まれば、貴国線には差した(る)影響無之儀と存候。

 然而は貴政府に於て該工事至急御着手可相成度、右は可成速に御回答相成候様致度、茲に本国政府の訓令を奉じ及御問合候。此段照会得貴意候。敬具
  明治廿七年七月七日

 

 

(「対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録」の「1 前編 2」p1)

 大院君誘出に付ての部署は、二十三日の午前二時頃より、岡本柳之助、穂積寅九郎、鈴木重元及び通弁鈴木順見を派して同邸に潜入せしめて之を誘出し、邸外には荻原警部をして巡査数名を率て之を待たしめ、以て護衛に充て、尚お入闕の際護衛に供せんが為め、歩兵一個中隊を其外に待たしめ、兼て不慮を警戒せり。

 是時混成旅団長大島少将は既に大本営より在牙山の清兵を討伐すべき旨訓令を受け、将に日を期して兵を発せんとする折柄、適々京城事件の切迫に際し、一二日間牙山進軍の期を緩めたり。蓋し清国政府が英船高陞号を借り、援兵を牙山に送らんとしたるに付、大本営は之を口実として戦端を開かんとの見込にて、陸海両軍に訓令せられたるものと思われたり。

 扨又大院君の誘出は、積弊ある閔族政府を打破し、内政改革を行うには極めて必要と認めたるも、同君の同意を得難く、頗る困却せり。
 抑々も大院君は、先天的の漢土崇拝者[朝鮮人の漢土を聖人の国なりとして之を崇拝するも、今の清朝をば喜ばず]にして、且つ攘夷派なれば日本をば喜ばざる人なりしが、近年漸く世界の形勢いくを悟り、日清韓の三国同盟して東洋の形勢を維持する必要を説き、日本人を優待する事とは為れり。
 故に我が前後公使館員は皆同君と交際あり。殊に余は在勤永きが為め、一層深き交際を為せり。然るに、屡々同邸に出入するは閔妃並閔族の悦ばざる所なれば、館員は常に出入に注意し、殊に我兵入韓以後は特に嫌疑を避けて、幾んど足跡を絶てり。

 之が為めに同君と交渉する道なく、独り同邸の役員某が時々国分書記生の許に来り、その密旨を伝えたるも、果して同君の意に出でたるものなるや否やも詳ならずして、其要領を得るに苦しみしが、余は丁度思付き、在韓中の岡本柳之助を同君に紹介し、同人を以て双方の意思を通ずる階梯とは為したりき。

 岡本の始めて大院君を訪問したるは七月五日なるが、同日長時間議論を試みたるも、院君は毅然として我説に傾く様子なく、其後一両度訪問したるも、終に其要領を得ざりし。
 然るに岡本の同邸より帰宿するや、同邸の役員鄭益煥は必ず来り、院君の伝言と称し、
「今日は外聞を憚って意中を吐露せざるも、御高見には尽く同意なれば、爾く御承知下されたし」
と申し出、且つ屡々時機を早めんことを促せり。
 故に我は常に半信半疑を免れざる間に時機は目前に迫り、今更に再考する余暇なきに付、岡本等を派して之を誘出せしめんとしたり。

 然るに、二十二日に及んで同邸役員鄭某来て国分書記生に告げて曰く、
「国大公(大院君のこと)の内意を探るに、確定と認め難き所あり。万一事に臨で躊躇せらるることありては、大事を誤らんことを恐る。太公(大院君のこと)の親信に鄭雲鵬という人あり。その言う所聞かれざることなし。今や閔氏の為めに罪名を蒙り、某洞某氏の宅に囚禁せらるること七八年なり。故に夜潜に人を派し同人の囚禁を解き、彼をして太公を説かしめば、事成らざることなけん」と。

 是に於て国分書記生に巡査十名と兵卒十名を付し、二十三日午前一時頃を期し、同人を引出さしめんとせり。

 右の如く既に部署を定め、今や朝鮮政府の回答をのみ待ちしに、二十二日の夕陽に及ぶも来らず。
 既往の習慣は凡そ重要事件の回答は、朝鮮政府常に躊躇して発せざるを、我より再三催促を重ねて之を領したること少なからず。故に韓廷は我催促の来るを予期したらんに、我よりは一回の催促をも為さざりしが、夜半十二時を過ぎて漸く其回答を領収せり。

 その趣意は、
「我が国は自主の邦たるは朝日条約に載するが如し。且我国内治外交の自主たるは清国も素より之を知れり。清将の告示条中に保護属邦等の文字あるは朝鮮政府之を知らず。清軍は我が請に因て来援し、已に屡々其撤回を請うも未だ退かざること、猶貴兵の今尚住留するが如し。更に清国政府に請うて速に退兵せしむべし」
とのことなるも、我照会に対しては其要領を得ず。是に於て之を反駁する答書を裁し、後段に、
「貴政府は我権利ある要求を拒まるるに於ては、我は不得已兵力に訴えて我権利を保護せざるを得ざることあるべし」
と申し送れり。

 此時既に午前二時に垂んとせり。余は金嘉鎮、安駉壽の両氏と、兼ねて事興らば我為めに周旋尽力すべき内約を為したれば、我が使丁[多年我公使館に雇い置く朝鮮旗手なり。各官衙、並各国公使館、皆旗手を以て使丁に充つる例なり]に、前記の公文を送達せしめたる後、金安両氏に内通書を送らしめたり。

 午前二時を過ぐる頃、国分書記生は鄭雲鵬を禁室より引出して来れり。同人は国分の突入に遇うも別に驚きたる様子なく、「拙者は鄭某にあらず」と主張したる由なるも、国分は種々に説き聞かせて之を引出し、公使館に来りし時も猶お余に向て、
「拙者は国王の命に因て囚禁せられたるものなれば、擅に外出するは罪あり」
とて我が説に従わず。

 依て暫く之を官舎に移し、徐に食事等を為さしめ、国分、新庄、両書記生、替る替る目今の形勢を説き聴かせたる処、彼も始めて合点し、国家の為め死を致して尽力すべしと決心せり。

 此時岡本等四人は、既に潜に大院君邸に向えり。三時を過ぐる頃は、荻原警部及び数名の巡査も皆同邸に向えり。

 三時頃より余は館後の小丘に上り、城内の景況を窺いたるに寂として声なし。四時に近づきても猶お同様なるに余は窃に疑う。
 韓廷早くも之を覚り城門を閉ざして之を開かざるにあらずやと。
 この日は陰暦二十一日なるも天曇り月見えず。既にして東天漸く白み、鶏犬の声は四方に聞えたり。

 余は双眼鏡を手にし、丘上旗竿の下に蹲踞し、今や今やと待居たるに、王宮の前面に当て遠く喧騒の声を聞きたり。是は我が兵の無事に入城したるものならんと推想し、聊か安心したる処に、忽ち二三の銃声を聞きたり。蓋し王宮の衛兵が我兵の進入を見て発銃したるなり。
 引続き銃声再び興り、我兵鯨声を挙げたり。城内の人民は此銃声と鯨声とに驚かされ、難を避けんとて右往左往に奔走し、鼎の沸くが如き姿を呈せり。
 既に王宮の右側にも銃声興り、宮後の牆壁を越えて逃るる男女甚だ多きを観て、国王王妃も或は後門より難を避けられたるにあらずやと窃に杞憂を懐きたり。

 天全く明け、銃声止みたるも[銃声の初め興りしより全く止みしまでは僅か二三十分間なり]、大院君の動静更に分らず。余は掛念に堪えず丘を下り、人々に尋ねたるも之を知るものなし。

 須臾にして一巡査は、荻原警部の命なりとて駆け来り、「大院君強情にして我が勧言に従わず。無理にも君を誘うて入闕すべきや命を待つ」と申出たるに付、余は公使の認可を受け「此際大院君の入闕急を要するに付、少々無理をしても可なり。唯早く其目的を達せよ」と令したるも忽ちにして思う。万一大院君の感情を害し、到底我言に従わざる如きことありては実に大事なり。余自ら往かずんばあるべからずと、急に国分書記生を呼んで将に館の中門を出でんとする時、福島中佐、楼上より余を呼止め、「単行は危険なり。暫く之を待て。当に護衛の兵を付すべし」と云えり。

 余之を待つこと凡二十分間にして門を出でて急ぎ行くに、中途にて鈴木重元の騎馬にて駆け来り、大院君誘出困難の状を報ずるに遇う。余は之に向かい、「余は今行かんとせり。其趣早く院君及岡本等に帰報すべし」と云って之を還せり。

 既にして同邸に至れば、邸内には我多数の壮士等も混入し、稍雑踏の体なり。院君の乗轎も殿前に引出されてあり。
 荻原警部、余に謂て曰く。
「今朝未明前より岡本等中に入りて大院君と応接し居るに今に埒明かず。故に拙官は強て誘出せんと乗轎まで用意せしめたるに岡本等拒んで許さず」と。
 岡本もまた余に謂て曰く。
「大院君誘出に付ては拙者等四人は其委任を受け、力を極めて之を説き、今や稍く同意の色を見せたり。然るに荻原等局外より色々の議論を持ち出し、余等の行為を妨げり。斯の如き始末にては、拙者は其任を果す能わざるに付、是より退場せん」と。

 余は先ず両氏を慰解し剌を院君に通じ、進んで客間に入れば、院君の嗣子李載冕、長孫李呵Oの二氏此に在て余を迎えり。李載冕は聊か狼狽の体に見受けたるも、李呵Oは欣々として余の手を握れり。
 尚お進んで院君の室に入れば、君は臥床に横わり、鄭雲鵬は衣冠を着け既に座に在て徐ろに君の入闕を勧め居れり。
 是より先、同人は公使館より轎に駕し前間語学生に送られて来りしなり。

 余は初め一応の理由を並べて院君の入闕を勧めたれども、聴入るべき様子なし。却て余に王妃の安否を尋ねしに付、余は之に答えて、「宮内の男女後牆を超えて逃れたるもの甚だ多し。蓋し彼等に混じて春川に潜行せられたるにあらずや」と。
 院君稍喜色あり。既にして岡本入来る。院君指して曰く、「彼は英豪の士なり」と。
 蓋し岡本は曩きに院君立たざるに於ては自ら割腹して公使館に謝せざるべからずと迫りしは、痛く同君の恐懼心を興さしめたるが如し。

 余重て説て曰く、
「今朝の場合、多言を費すを要せず。抑々我が政府は、偏に東洋の平和を維持せんことを思うて貴国に内政改革を勧めたるも、閔党政府にては迚も改革を実行する見込なきのみならず、陰に之を拒斥したる結果、不得已今日の場合に及べり。而して今や内外の人望は一に邸下の一身に集まりたれば、我国は邸下の進んで此大任に当られんことを希望せり。此際邸下出でられなば朝鮮の中興望むべく東洋の平和亦維持するを得べし。然らざれば貴国宗社の安危如何もまた知るべからず。故に邸下にして我勧告を拒まるるに於ては、我国、別に考案を回さざるを得ず。願わくば邸下御熟考下されたし」

と申し述べたる辞を継で、岡本、鄭雲鵬の両人共に、「今日は実に千載の一遇なれば、躊躇すべきにあらず」と勧めたれば、大院君色を改めて曰く、
「貴国の此挙果して義挙に出なば、足下は貴国皇帝陛下に代り、事成るの後、我寸地を割かずと云うことを約束し能うや」と。

 余これに答て曰く、
「生は一書記官の身分なれば皇帝陛下に代て何等の約束を為すを得ずと雖も、生、現に大鳥公使の使として来れり。大鳥公使は御承知の通り、日本政府の代表者なれば、生は同公使に代りて出来得る限りの御約束を為すを得べし」と。

 大院君、然らば大鳥公使に代り我寸地を割かざる約束を為さんことを望むとて、侍者に命じて紙と筆とを持来らせたるに付、余は筆を執りて「日本政府之此挙実出於義挙、故事成之後断不割朝鮮国之寸地」と記し、末尾に余の官姓名を署して之を差出せり。

 大院君一閲の後、「然らば則、余は貴諭に応じて立つべし。唯余は臣下の身分なれば、王命なくして入闕すべからず。願くは勅使を発せらるゝ様取計われんことを望む」と云われたり。
 是に於て急に穂積を趙義淵の宅に派し、同氏をして宮中の都合を取計らわしめたり。

 右の如く大院君既に一諾したるも、猶お容易に立つべき模様なく、侍者に命じて朝飯を備えしめ、終りて便所に赴けり。
 既にして復席し轎の用意を命ぜられたる時、勅使参向の報知あり。院君、余等に目くばせして席を避けし(め)たるに付、一同殿後の廊下に避けたるも、久して勅使不来。時既に九時半に及びし頃、公使館より急使来り、余の帰館を促したるに付、余は後事を岡本、国分両人に托して帰館したり。

 余の未だ院君邸を去らざる前に、武田聯隊長は国王及び王妃に謁し、両陛下とも無事に御座しし旨承知し大に安心せり。

 是より先きに国王には我公使の参内を希望せらるゝ旨御沙汰ありし由にて、公使には言上振等相談の為め、急に余が帰館を促されたるものなれば、余は帰館するや否、公使の諮問に応じ、終て公使の出門せられたるは十時過ぎにして、同十一時頃、公使は光化門より、大院君は正秋門より前後して入闕せられたり。

 蓋し余の院君邸を去りし後、程なく一内官勅使として参向したるにつき、院君の意益々決し、我巡査及兵隊を護衛として参内せられたるなり。

 此参内に、同君は正秋門より数多の門を過ぎ、正殿まで進まれたる時、国王には階を下りて之を迎えられ、互に手を執りて相泣き、院君は一言国王の失政を責め、国王は只管其失政を詫びられたる間に、靉然として相親愛するの情双方の面色に顕われ、相携えて奥に入られたりと云う。
 蓋し多年の間閔氏に妨げられて対面の機少く、讒間亦随て之に乗じたれば、御親子の情、常に疎隔したるも、一旦の御対面は融然として之を氷解せしめたるが如し。

 是日、国王には御不例と称せられて公使を引見せられず。大院君代わりて接見せられたり。

 

 

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p48)

壬号
第八十五号

以書翰啓上候陳者貴暦本年六月二十日貴照会第十八号を以て云々御申越の趣致拝承候。

 査するに清国政府知照中我朝保護属邦例等語て掲げたる義に付ては先般本公使より公然及御照会候に付、貴政府に於ては既に御熟悉の義に有之候。
 聶軍門の告示に至ては牙山より全州に至る各地に貼付したる事なれば、是亦貴政府に於て素より御承知可相成筈と存候。

 然るに今貴督弁は徒らに、与本国無渉、或は、未及聞知、等語を以てその責を免がれんとせらるゝは、是れ貴国自ら其自主独立の権利を墜損し、併て日朝条約朝鮮自主の邦有与日本国平等之権一節を無視するものにして本公使の断然同意し能わざる所に有之候。

 依之此際貴政府をして条約明文を遵守せしむるが為め、満足なる回答を要求するは我政府が当然為す可きことゝ致確信候間、右に付至急御回答有之候様致度候。

 猶お貴政府より満足なる回答を与えられざるに於ては、時宜に依り我権利を保護するが為め兵力を用うることも可有之に付、右予め御承知相成度此段照会得貴意候。敬具。

  明治二十七年七月二十三日
           特命全権公使大鳥圭介
   督弁交渉通商事務趙秉稷閣下

 

 

(「明治27年7月18日から明治27年7月30日」p46、()は筆者。)

辛号
第十八号
大朝鮮督弁交渉通商事務 趙       為
(略)
 語煩査照可也等因 唯此 査我国為自主之邦 保有与貴国平等之権 巳載朝日条約 及我国内治外交 向由自主 亦為中国之素知各節 我暦本年五月十七日 業経照覆在案 此次聶軍門告示一節 本督弁所未及聞知
 貴公使既照会袁総理 質詢真偽 則仍向袁総理卞論可也 至清軍久在境内 寔因我国請援而来 南匪稍平之後 已屡請其撤回 而未即退 亦如貴兵之尚今住留 也方更要唐代弁転請中国政府 従速退兵 為此合行照覆貴公使 請煩査照可也 須至照覆者

  右 照 会
大日本特命全権公使大鳥
 甲午六月二十日。

 

 

(「混成旅団報告第16号 7月23日」より抜粋、電報時間より、実際の出来事の時間を優先して並び替えた。)

秘  第十六号        八月一日着
    混成旅団報告


      七月二十三日

 一 午前〇時30分着、大鳥公使より電報
    計画の通り実行せよ。

 一 午前四時、各隊は昨日の計画通り運動を始む。
   旅団長は京城公使館に入られ、西島歩兵中佐は来団代理せらる。

 一 午前四時半、韓兵発砲せるを以て我よりも応射、小戦始まる。

 一 午前五時五十分着、武田中佐より。
   四時四十七分、迎秋門を破壊するも、薬量不足にて破れず。尚破壊の為め少々時間を要す。

 一 午前六時三十分着、一戸少佐より。
   戦闘地より帰来の人の言に、我隊の配備、前五時頃全く終り、五時十分頃宮城に侵入せりと云う。

 一 午前五時四十分、龍山司令部に留守せる西島中佐に戦始めたりと電報す。

 一 午前六時五十分、西島中佐へ、韓兵逃た、銃五十分捕ると電報。

 一 午前八時二十分着、武田中佐より。
   親軍壮衛内にて、マルチニー二百四十五挺、火縄銃二百十四挺、大砲九門、野砲六門[其他武器種々]奪い置き、兵卒三百名を追出せり。

 一 午前八時四十分、西島中佐へ、分捕の武器運搬の為め、各隊の輸卒に士官を付し王城内に送り、武田中佐の指揮を受けしむる旨電報。

 一 午前九時、龍山に残せし西島中佐より、当地へ孔徳里及龍山等皆平穏なり。諸部警戒は充分になせり。[七時十五分出]

 一 午前九時十分、第六中隊予備一等卒早山岩吉戦死の旨、武田中佐より報告。

 一 午前九時十分着、田中少佐より発、於雍和門報告
   唯今国王に拝謁。王は雍和門に在り。
   受取りたる砲銃の種類員数は目下取調中なり。敵の死傷は五、六名あり。
   第六中隊に予備兵一名死、下士一傷、第三中隊の死傷は不明なり。

 

 一 午前十時、情況視察に出せる平城騎兵少尉の報告。
   七月廿三日京城王宮付近に於ける情況偵察の報告

   本日午前四時四十九分、歩兵第廿一聯隊の一部は迎秋門に到着し、第三中隊を王宮の西方より、第六中隊を王宮東方より、王宮の背後に迂回せしめたるに、朝鮮兵は射撃を始めたるを以て、猶一中隊を増加し之に向て射撃始めたり。是れと同時に迎秋門にありし一部は、門を破壊し王宮内に侵入し、猶お第一大隊の一部も光化門左側の壮衛営を襲い、内外相応して吶喊せり。
   是に於て壮衛営及び王宮内の兵は尽く武器を棄て逃走せり。先に我に向て射撃したるも、多くは白兵[岳?]方向に逃走し、猶お王宮北方の村落内に両三名宛埋伏し、我斥候等の至るを見れば直ちに出でゝ射撃を行えり。然れども王宮の各門は已に我手に落ち、是に歩哨を配布せり。

   午前五時三十分、朝鮮国外務督弁、王宮より出て来て我公使館に至ると称するを以て、之に護衛兵を付し、公使館に送れり。

   午前五時四十分、右捕将王宮に来れり。是に於て王の所在を詰問し、嚮導せしめたるに雍和門[義和門ならん。]に至り武器あるを発見し、之を没収せんとす。国王出て来り、之れを制して曰く。
   日本公使館に向て外務督弁を遣せり。故に帰還する迄猶予ありたし、と。
   然れども、遂に武器は没収することとせり。[其員数は取調中なり。]
   我兵を以て国王を護衛し、大に之を慰めたり。

 午前六時二十分、射撃も殆んど止みたるを以て、六時丗分、公使館に帰還報告せり。
   備考 壮衛営には小銃[スペンセル火縄銃混合]及刀剣各数百、前装黄銅砲約十門、後装砲[多分クルップ山砲ならん。]六門、皆我手に帰せり。

 

 一 午前十時武田中佐より。
   各国の公使たりとも先ず王城に入れざることに付きて、英語の通弁を廻されたし。

 一 午前十一時半、武田中佐より。
   各国公使又は米欧人来り入城を乞うときは、入れて宜しき哉、外交上に関し候に付、公使の命を受けたる可然者を派遣せられたし。目下は西洋人等を入ることなし。又国王の側にある韓兵二十余名も出すことを禁じたり。
   右何分の命を待つ。

 一 午前十一時半着、武田中佐より。
   通行韓人のこと承知預て考案上申ある如く、光化門を除く外閉鎖せり。之れ警戒と又洋人等に対し間違を避くる為めなり。

 一 午前十一時四十五分着、於鐘堂傍[十一時三十分発]橋本少佐より報告
   午前十一時過、迎春門より大院君王宮に入られたり。

 一 午前十二時武田中佐よりも同一の報告あり。

 

 一 午後一時半、武田中佐より、欧人二名入宮、国王の居室外迄誘導せり。
   今朝、第六中隊の進路に向て射撃したる韓兵二名負傷者を治療、第三中隊の進路を妨げたる韓兵一名即死、他三名の即死者ありとのこと。
   我兵は過刻報告せし通り、一名即死、一名は極めて軽症なり。

   韓人の咄しに、牙山の清兵、今朝水原を通過せんと云う。此報は過日牙山へ韓廷より馬を送りたるもの帰り報ずと。[例の虚説か。]
   白岳の南斜面及び頂上に韓兵約十名散在。第六中隊に向い時々射撃す。不得止、我兵も三発に一発位応射せり。
   [王宮に入る韓人のこと、姓名を通しあり。又公使館よりの手札を持ち来る入宮せしむべしと云う。]
   光化門内に積集したる武器は運搬済、従是、親軍営の武器弾薬運搬に掛り、其後統御営の運搬に掛る考なり。

 

 一 午後一時五十分発、西嶋中佐の許へ左の電報を発す。
   七時四十分、戦闘全く已み、分捕りの大砲十五門、小銃千以上なり。我兵死者二名[一名の誤りなりし。]傷者一名あり。

   十一時頃、大院君大闕に入る。

 一 午後五時半、旅団長、参謀、副官、王宮に入り拝謁、之れを慰す。

 一 午後九時、旅団長帰団せらる。

 (以下略)