朝鮮改革の意味
この明治27年の朝鮮改革が提議されたことを、東学党の乱に端を発した一連の出来事の中のこととして見た場合は、日清開戦の口実ぐらいにしか読み取れないものである。即ち、
・明治27年(1894)3月頃、東学党の乱発生。
・5月31日、全州城陥落の報。
・6月1日、朝鮮政府、清国に援兵要請の公文作成。
・6月2日、日本政府、済物浦条約により出兵を閣議決定、混成旅団。
・6月3日、朝鮮政府、清国に援兵を公式要請。
・6月6日、7日、朝鮮軍、全州城奪還。
・6月7日、清国、日本に派兵を行文知照。
・同日、日本政府、清国に行文知照。
・同日、日本政府、朝鮮政府に派兵を通知。
・6月8、9、10日、清兵2100人、牙山に上陸。
・6月9日、先発の大鳥公使と日本兵、仁川港着。
・6月10日、大鳥公使と護衛兵420人、京城に入る。
・6月11日、大鳥公使、旅団派兵は不必要と判断。陸奥と電信で議論。
・6月13日、陸奥、何もせずに大兵を帰国させるわけに行かない、なお今後のことは政府内で協議中と。→過去の経緯からも清国が欺く虞あり、再乱の虞あり、乱の根本原因を取り除く必要あり。
・同日、杉村、朝鮮内政改革を提案。
・6月15日、日本政府、清国との協同による乱民平定、朝鮮改革と合同委員設置提議を決定。(杉村の提案がヒントかは不明。)
・同日、大鳥と袁世凱の間で、日清双方同時撤兵案整う。
・6月16日、日本政府、清国政府に協同鎮圧と朝鮮改革についての合同委員会設置を提案。
・6月17日、大鳥、袁世凱との間で整っていた同時撤兵案に同意せずを決意。
・6月18日、大鳥の元に、朝鮮改革のことなどの指示が届く。
・6月22日、清国政府、日本提案を拒絶することを公式回答。同日、日本政府は清政府の拒否を遺憾として返書を送り、朝鮮の惨状を黙認することは隣交からも自衛からも出来ないと、撤兵しないことを通告。(第一次絶交書と言える)
・6月23日、日本政府、大鳥に、朝鮮政府に対して改革のことを厳談するよう指示。同時に、清国との開戦は避けられず、よって非の無い限りの手段で開戦口実を作れ、と指示。その命を伝えるために加藤書記官を京城に派遣。
・6月27日、日本政府、陸奥提出の朝鮮内政改革の詳細案を協議。
・6月28日午前、加藤書記官入京、大鳥公使に政府訓令ならびに説明。
・6月28日、大鳥、朝鮮政府に属邦問題を照会。
・6月28日、日本政府、改革案詳細を閣議決定。陸奥、朝鮮政府に日清平等待遇の要求、外国留学生、特赦の勧告は別文として作成。
・6月29日、それらを栗野政務局長に携帯させて京城に派遣。
・6月30日、露国、日本政府に、朝鮮政府の日清両国撤兵要請を受け容れることを勧告。
・同日、大鳥、日本政府の指示により属邦問題は暫く置くこととする。
・7月1日、日本政府は大鳥に、日本は各国に対して、進んで開戦はしないと明言したので(開戦口実について)激烈なる処置を執らないように指示。
・7月2日、日本政府、露国の勧告に対する公式回答。朝鮮治安が平穏に復し再乱の虞がないことを確認次第撤兵すると。
・7月3日、大鳥公使、朝鮮政府に改革方案綱領五条を提案。栗野政務局長到着せず、大鳥らの発案によるもの。
・7月5日、栗野政務局長、京城着。大鳥らの改革案と日本政府の改革要綱は大同小異。よってそのままとする。
・7月10、11日、大鳥公使ら、栗野携帯の日本政府の改革案詳細を基に、外国留学生のことも含めた改革詳細を作成して朝鮮政府に説明。
・7月14日、日本政府、清政府へ最後通牒。(第二次絶交書)
・7月16日、朝鮮政府、大鳥公使に対し、改革各条に異議は無いが先に日本兵撤兵を求める、と公文提出。 |
と少々詳しく並べてみれば、6月11日、13日、15日と、陸奥と大鳥の議論の中で混成旅団のことが取沙汰された結果として、兵を止め置くために朝鮮改革のことが出てきたとしか見えないものである。
また、陸奥も「蹇蹇録」の中で、「畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なり」と述べていて、まるで改革は本意ではなく、政策上の一個の口実に過ぎないことと考えていた、との印象を与えるものである。
しかしながら当時の陸奥が、この時まさに日本積年の悲願である西洋列強国との条約改正問題、即ち7月16日締結となった「日英通商航海条約」という領事裁判権撤廃に関わる重大事案も扱っていた割には、その傍ら朝鮮改革とりわけ詳細を閣議決定するまでの経緯を見ると、そうそう軽視していたとも思えないものがある。
なるほど6月15日の改革と日清合同委員設置のことは、まるで口実として唐突に出てきたように感じる。しかし22日に清国が拒絶したことによってからは、予めそのことを見通していたとは言え、開戦口実のアイデアまでは無く、言い出した以上は改革案にまともに取り組まざるを得なくなったとの感じを受ける。とりわけ27日に陸奥が提出した詳細案は、微に入り細に渡ってなかなかに行き届いたものである。尤も、閣議に於いて削除されたり手直しされたりはしているが。
その内容経緯は以下のものである。
青文字は閣議で除外された文
(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p30より、太字は欄外の文。)
廃 参考の為めに記録に存じ置く。
最初外務大臣は、此分を閣議に提出せられたれども、閣議の結果に因て、前に綴込みし分に引換ることとなりたり。
駐韓大鳥公使え訓令案
曩きに我帝国が貴国との旧交を尋き、隣好を修むるや深く東洋大局に顧念する所ありたるを以て、独り自ら率先して条約を訂結して平等の権利を確実ならしめ、章程を設立して通商の便益を皇張せしめ、因て以て貴国の一独立国たることを万国に彰表せり。
爾来、我政府が該国に向て施為するところ一として該国をして日々に隆盛を致して、以て愈々独立自主の実を挙げしめんと勉めたるに非ざるはなし。而して苟も貴国政府にして内に自ら追思回顧したらんには、必ず歴々として其事実を認識せずんばあらず。
然るに該国徒らに旧章を墨守し、宿弊未だ除かず、秕政百端綱紀之が為めに弛廃し、
擾乱相い継ぎ、民心乖離し、国家の秩序を紊乱し、邦土の安寧を危殆ならしめ、屡々塁を隣邦に及ぼす。
若し今に方て之が救済の道を講じ、作振の計を為さずんば其極遂に収拾すべからざるの勢となり、独り自国独立の根基を寛鬆にするのみならず、延びて大憂を東洋大局に及すことあるに至るべし。是れ我国が隣邦の情誼に於て、又我が帝国自衛の道を顧みるに於て、一日だも拱手傍観するに忍びざる所なり。
故に我政府は此際貴国政府に向て独立自主の実を挙げ、王室の尊栄を永遠に維持する長計を求むるの外、更に左に列載するところの事項を勧告し、其内治の改革を促がすこと洵に刻下の急務なり。
一 職司の責任を明らかにする事
朝鮮国情弊の多き因循の久しき政令、横に出て官紀序を失い、衙署有司の設ありと雖も、徒らに其職に充て、其欠を補わしむるのみ此の如くにして、安ぞ能く吏治を整頓することを得んや。故に宜く此時に当りて各其分掌の事務を明らかにし、以て其責守を曠からしめざること最も必要なりとす。
一 外国交渉の任に当る職守を重ずる事
之を従来の経験に徴するに、彼我交渉事件の起るに際し、権閥の横議は常に当局者の説を左右し、朝には之を是とするも夕には之を非とし、昨は之を諾するも今は之を肯ぜず、泛々茫々強いて其言質を捉えて之に迫ることあるときは、忽ち当局者の辞職転任となり、竟に外国使臣をして該国政府定見の在るところを知るに迷い、随て信を当局者の言語に措くこと能わざらしむるに至る。故に向後は宜く外務当局者の職守を重くし、其一言一語は、常に該国政府を代表するものたることを明確にせざるべからず。
一 裁判の制度を立る事
該国現在の裁判制度に依るときは、地方長官に於て訟件を受理し、其判決を以て終審となし、更に控訴上告の道なく、動もすれば理非曲直其処を失し、往々冤枉に屈し、更に補伸の道を得ざるより、延て外交上事端を滋すに至る。依て宜く訟廷制度を設備し、裁判官を常置し、裁判所の階級を劃設し、以て控訴上告の道を洞開し、公衆の傍聴を允許し、務めて審理の公平を期すべし。
一 会計出納を厳正にする事
貢租賦税の実額を調査し、国庫の歳出入を明かにし、貪官汚吏をして其侵蝕を恣にすることを得ざらしむるべし。
「除 一 行政官吏に対し訴訟を起すことを許す事
該国の官吏たる情弊極めて多く、賄賂苞苴盛に行われ、贈遺の多寡に因て公を棄てゝ私に徇うこと往々皆然り。故に宜く法令を発して行政官の不正の措置に対し、補伸を求むることを明許すべし。」
一 警察の制を設くる事
常に国内の公安秩序維持し、擾乱を未発に防がんとするには、宜く警察の制を設て、以て機を察し微を識ることを期すべし。
一 兵制を改良する事
必要の兵備を設けて以て国安を保持することを勉むべし。
「除 一 学校を設けて泰西の学術を講ずる事」
一 幣制を設くる事
目下該国の通貨は濫鋳粗造、国家の経済を紊り、貿易上の不便言うべからず。故に宜く一定の幣制を設け、通貨を鋳造し、益々貿易の便を謀るべし。
一 交通の便を起す事
元山、仁川、釜山、其他要地えの電信線を改造し、釜山、京城、仁川間に鉄道を布設し、全国に郵政を布き、其他往来交通の便を増すことを謀るべし。
「一 特赦を行う事
該国にては朋党相い争鬩するの弊よりして脾睨相い属し、一巳の私怨に因て恣に罪を構い刑を行うの風、誠に少なからず。故に政府の宏量を示し、人心を収る為めに此際特赦を行い、以て国事の為めに罪を負いたる者を赦免すべし。」
一 門閥俊秀を撰抜して外国に留学せしむる事
該国をして益々文明の域に赴かしむるには、広く智識を開き、益々新鮮なる元素を注入するに如くはなし。而して此等新鮮なる元素を注入するには、少年子弟をして広く外国の事情に通暁し、宇内の形勢を熟知せしめ、兼て専科の学術を講習せしむるを以て第一の良策とす。
又此外単に我国の利益に関し、左の事項を要求すべし。
「一 京城駐紮帝国外交官は清国より派遣の外交官と同一の礼遇特権を享くべき事」
一 帝国臣民は清国人民が該国に於て享有する一切の特権恩恵に均霑すべき事。
一 仮令ば仁川港の埋立工事の如き其他両国政府間に現に尚お懸延するところの事項を急速処弁せしむべき事。
右、請閣議
明治廿七年六月廿七日
外務大臣陸奥宗光
内閣総理大臣伯爵伊藤博文殿
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以上の内、青文字の部分が除外され、更に次のように井上毅文部大臣によって要綱箇条が追加記述された。
(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p37より、太字は欄外の文。)
閣にて修正。 井上(毅)文部大臣起草。
一は官司の職守を明かにし、地方官吏の参事を矯正す。
一 外国交渉の事、宜を重んじ職守其人を択ぶ ?
一 裁判を公正にす ?
一 会計出納を厳にす。
一 兵制を改良し、及警察の制を設く。
一 幣制を定む ?
一 交通の便を起し、釜山、京城、其他の地に鉄道を布設し、各所要地に電信線を設け及改造す。
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そして、修正されて最終的に閣議決定されたものを29日に栗野政務局長が提携して京城に向ったのである。
その際、陸奥は除外された外国留学生や特赦のことを別文として作成し、同時に携帯させている。それは以下のものである。
(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p44より)
明治廿七年六月廿七日起草 同年同月廿八日発遣
同廿九日、京城え派遣の栗野政務局長、之を携帯す。
在京城 大鳥公使 陸奥外務大臣
閣下には別信訓令中に列載せし朝鮮国内治の改良に関する事項を該国政府に勧告せらるゝと同時に帝国の利益に関し左の事項を要求相成候様致度候。即ち、
従来、清国人民が該国に於て他の各国人民に比して特有するところの一切の利益には、帝国臣民も之に均霑する事。
仮令ば、仁川港の埋立工事の如き其他両国政府間に現に尚お懸延するところの事項を、急速処弁せしむべき事。
又該国をして益々文明の域に赴かしむるには、広く智識を開き、益々新鮮なる元素を注入するに如くはなし。而して此等新鮮なる元素を注入するには、少年子弟をして広く外国の事情に通暁し、宇内の形勢を熟知せしめ、兼て専科の学術を講習せしむるを以て第一の良作と相信候に付ては、此際同国門閥俊秀を選抜して外国に留学せしむることを御勧告相成度、
又御談話の都合にて、如し好機会有之候はゞ、閣下の御考として此際特赦を行わしむることを被勧試度、御承知の通該国にては朋党比類互に相争鬩するの弊よりして脾睨相い属し、動もすれば一巳の私怨を晴さんが為め、恣に罪を構え人を陥るゝの風、誠に少なからず。是れ実に文明国に有間敷悪風と謂うべし。
故に此際、特赦の典を行い、国事の為めに罪を負う者を赦免し、政府の宏量を示し、以て人心を取撹することを務むるは同政府の為め得策と存じ候。
右申進候。敬具。
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朝鮮に於ける日清対等の権利、朝鮮の文明開化の為めに広く世界の智識を学ばせる、朝鮮内の政争を減じる為に特赦を実施する、などの条理を尽くした改革勧告である。
更に以下のように、朝鮮政府に改革を提議するに当っての各綱目上の注意事項を懇ろに指示している。
(「明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日」p48より、()は筆者)
内信 明治廿七年六月廿九日、栗野政務局長、之を携帯す。
閣議
在京城大鳥圭■ 陸奥宗光
今般、栗野政務局長を特派し齎送致候訓令中に列載候朝鮮政府え勧告すべき事項に付、只単に口頭にて彼の約束を取置候のみにては、他日其成を責るべき場合相生候に当りて、又斯る約束は致せしこと有りとか無しとか水掛論に日を費し、例え朝鮮風の■手段の為め含糊に帰するの懸念有之候付、已に訓令中にも申述置候通、公然公文を以て御照会相成、而して彼にて如何なる事情を申立候とも夫等には御聞入なく、必ず公文にての回答即ち我政府のの勧告を容るべしとの約束を取付置候様致度、
尤も、其内にも第一項の官司の職守を明かにし、地方官吏の情弊を矯正するという一事に付ては、我に向て必ず之を実行することを約束せしむるの外、差向き評判の宜からざる人物を免黜遷転せしむることにて満足可致置、
又第二項の外国交渉の事宜を重んじ職守其人を択ぶ、という一事に付ては、訓令中の理由の左に記載せし通、君側に出入する権閥の旁議、当局者の意見を左右し、其極遂に動もすれば其人を換え、後任者は前任者の責に任ぜず、新任者と旧任者とは其言語に差違を生じ、徒らに当国交渉の事態を淹滞し、責任の帰する所なしというが如き悪風有之候に付、将来言行一致の行動を為すことを得る実力家、即ち所謂勢道と申す如き人物を外国交渉の当局者に任命せらるゝことと致度所存に付、其御含にて御談示相成度、
又、裁判、会計、兵制、警察、幣制に関する各項に至ては、今といって今実行し得らるべきことにも無之候得共、差向き必ず改良すべしという明約を取付置候而已にて満足可致置、
但し、交通の便を起すという一項に付ては、電信のことも、鉄道のことも、確乎たる約束と共に早々着手置致候事、最も必要に有之。
電信の事は新たに架設するとも又は現今の京釜線を買上るとも、何れに致せ、純然たる朝鮮政府の所有、即ち他の干渉を受けざる線路を設けしむるか、又は我政府にて代りて架設し、若くは買上る場合には、之を我政府監督の下に置くこと猶お今日清国政府の京釜線に於けるが如くするか、何れにても宜敷、
又鉄道の事は、是非京城、釜山、仁川間に布設せしむる様致度、茲(然?)し此等工事の為め資金を要するとのことなれば、我政府にて其周旋致■候ても差支無之候に付、
兎に角速かに実行為致候様御談じ付け相成度、右御心得までに内信を以て申上置候。尚其他は栗野の口述に譲り居度候 敬具
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陸奥さん、「蹇蹇録」の記述に反してなかなか熱心じゃないの、と言いたくなる。また後に、朝鮮内政改革に必要な資金、つまりは朝鮮政府の次年度予算300万円の調達に随分と尽力したのも陸奥外務である。詳細は後述する。
どうも陸奥宗光という人は「蹇蹇録」に於いて、自分はどこまでも感情には左右されず、冷徹なまでに合理的であった、また外交とはそうでなければならない、と強調したかったのではなかろうかと感じられるのであるが。
勿論、陸奥が頭脳明晰な人であったことは「蹇蹇録」の文章からもよく窺えるものである。しかしまあ、これをもし坂本竜馬が読んだならば、 「おんしゃあ難しい言葉をこじゃんと知っちゅうにゃあ。後のもんが読むのにまっこと疲れるぜよ」 とでも言いたくなるような(笑)
要するに冷たくそして熱かったのがこの人ではなかったかと。本心では決して朝鮮改革のことを軽視していたわけでもなく、単なる外交上の一口実として扱ったわけでもなかったと。筆者にはそう思えるのである。
とりわけ戦後書かれた「蹇蹇録」については、何となく「すっぱい葡萄の狐」の姿が浮かんできたりして(笑)
そしてこの朝鮮改革に至る本当の経緯は、もっと深いものがある。
当サイトの「明治開化期の日本と朝鮮(1)」から読み進めて来られた読者諸氏ならば良く御理解頂けようが、朝鮮をして内政改革に向わせんとする日本の取り組みは、明治27年のこの時に始まったものではない。
正確には、朝鮮が仏艦米艦と戦闘したことを知った徳川幕府が、慶応3年(1867)4月に調停役を仏米公使に申し込み、6月にはそのことを朝鮮に知らせ、特使を派遣して和平を勧告せんとしたことに始まったと言ってもよい。
明治となって修好の条約を結んでからのいよいよの取り組みはご覧の通りである。明治開化期の日朝交渉から流れを追って行ってこそ初めて理解出来るこの朝鮮改革は、いわば20数年間に亘って日本人が朝鮮内政の不備を随時随所で見聞きし感じてきたところの、それに対する改善の集大成なのである。
佐田白茅は朝鮮政府の非礼に激怒し、森山茂は韓奴と侮蔑するに至り、黒田清隆は朝鮮の貧しさに呆れ、宮本小一は王城に不潔と未開の風習をあるを見、山ノ城祐長は長年の観察から絶望して朝鮮と交際する必要があるのかと問い、花房は朝鮮政府が人民の餓死するも無関心であることを「嗚呼、数百万の民餓死し政府坐視して之を救うの道を講求せず」と嘆き、竹添は着任早々に悲観し、井上馨は親日派の金玉均に落胆して朝鮮と距離を置かんことを望むも朝鮮が東亜の不安定要因となっていることを憂い、室田義之は地方官吏のいい加減さを告発し、内田定槌は賄賂体質が王と王妃も同様であって人材登用は贈り物の多寡次第であることを報告し、そして杉村濬は、この際一挙に朝鮮の内政改革まで行うことを政府に進言した。
その間、日本政府が朝鮮に対して行ってきた様々な援助のみならず、勧告、警告含めての提言はもう何度も繰り返されて来たのであるが、陸奥の言うように「朝鮮の如き国柄が果して善く満足なる改革を為し遂ぐべきや否やを疑」わざるを得ないものであった。
しかし今度、行き掛かり上大兵を派したことにより、朝鮮政府に対して大なる圧力となっている今こそ、改革の実を挙げる千歳一遇のチャンスと捉えたということであろう。
7月3日に大鳥公使が朝鮮政府に提出した「改革方案綱領五条」は大鳥ら京城公使館側で発案したものであり、日本で閣議決定したものは栗野政務局長が携帯して京城に向っている途中であって、この時点ではまだ到着していなかった。
それが着いたのは7月5日である。しかしその内容は大同小異であったことにより大鳥は敢えて訂正はしないこととした。
さらに改革案細目については、その閣議決定したものに外国留学生のことなども追記して編集し直し、7月10日、11日と、朝鮮政府の改革取調委員に説明している。
それは朝鮮政府の実情をよく知る公使館の人たちの手によるものであるだけに、更に具体的且つ詳細を極めたものとなっている。
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