(「明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日」p12)

  清兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺

 本日八重山艦に付托して発送取計候電稟の趣意は、既に同文面に於て御承知相成り候通り、当地の形勢は本官東京発の際、想像したるとは大に事情を異にし、全羅道に於ける乱民も最初全州を陥したる侭、十余日間、同城に拠守したる処、その後、前後の京軍、之を攻撃して去十一日遂に之を恢復し、而して乱民は金堤古阜等地に退走し、その勢、復た前日の如く猖獗ならざる由及伝聞、且清兵は前後凡そ二千人程は既に牙山に到着したりと雖も、適々全州の恢復と乱民の勢力頓減したるが為め、朝鮮政府の請求も有之旁々、其兵を南方に進めず、復命を待て進退せんとする姿に有之候。

 之が為め事情、我兵を貸して乱民を鎮圧す可き形勢に無之、且又、京城近傍は、目下全く静穏の姿なれば、事実多数の護衛兵を要せざる義に付、旁以て先般後発兵の出帆差止め方を伝稟及び候次第に有之候。然るに此間中より清使袁世凱氏は、我両国兵の衝突を避け、東洋の大局を保全せんとの口実にて退兵の相談有之。現に再昨日も来館して、目下牙山に在る支那兵を撤回せしむ可きに付、我国の兵隊も同時に撤回せしめ候事を希望する間、協議有之候。依て彼の意中を推察するに、一は在牙山の清兵は長日の滞陣に困難を感じ、他の一は在天津李鴻章氏より、頻りに日清両兵の衝突を恐れ、撤回の訓令を下したるに因るものゝ如しと[天津来報に詳かなり]雖も猶お探偵に拠れば、彼が朝鮮政府に対する威信及び義務として我兵の撤回を周旋することは重なる原因にあらざるかと被推察候。

 探偵者の屡々報ずる所に拠れば、袁氏は韓廷に向い、我計略を以て日兵を撤回せしむ可しと、常々大言を吐き居るやに及伝聞候。依て本官は、
「我、両兵の衝突を避けんが為め之を撤回し、以て東洋の大局を保全することは至極同意に有之候得共、本使は撤兵の事に付、未だ本国政府より何たる訓令を奉有せざれば、電信の接続を待て、先ず政府の指令を請い、然る後、何分の御協議に及ぶ可し」と返答致置候。

 随分愚考するに、今回の事件は、本と袁世凱が朝鮮政府に勧めて援兵を出したるは其起因にて、我政府は事実之に促されて出兵したることなれば、若し撤兵の際に日時約束致、双方相均き引揚方を為すときは、局外者より之を観るも甚だ不公平にして、之が為めに袁氏に日兵を撤回せしめたりとの名誉を与うるは勿論、其結果は我大兵を入韓せしめながら、却て清韓両国の軽侮を受け、他の外国人の嗤笑を招くに至るも難計と、只管掛慮する所に有之候。

 殊に我兵は最初到着の一大隊のみなれば、我政府の処置は単に護衛の一点に止ることならんとは内外人共に之を認む可しと雖も、既に四千人に垂んとする大兵を派遣したる上は、輒ち清使の相談に応じ同時に之を引揚る如きは、甚だ政策の得たるものに有之間敷と致確信候故に、此際我国の威厳を保ち、将来の利益を考うるときは、徹頭徹尾、四分六分の権衡を執り、清国をして先ず其援兵を撤回せしめ、以て民乱鎮定の実証を挙げしめ、然る後、我兵を撤回することは当然の順序と存候。

 就ては本官始終此主意を確執し、朝鮮政府に向ては飽迄清兵を撤退せしめんことを督促し、清使に向ても同様、民乱既に鎮定に帰したる後は、一日も猶予せず其援兵を撤回して来援の本義を全うせんことを請求し、可及丈平和手段に依り、其目的を達する様、百方尽力致と存候得共、万一不幸にも清使、我意を募り当方の請求に応ぜず、依然其兵を牙山若くは其他の地方に駐紮せしむるか、或は之を京城に繰入れて、我兵と対峙せんと企つる如きこと有之候今、我国は如何なる方針を執るべきや、此際急に帝国政府は斯る場合に処する廟議を確定せられんこと希望する所に有之候。

 鄙案には日清両国の兵、永く朝鮮に対峙する場合には、早晩必ず衝突を免れざる可く、加之我に於ては四千に近き大兵を永く滞陳せしむることは、不得策なる可きに付、縦令兵力を借りても我より彼兵を退去せしめ、以て我が威厳と利益とを保全するは、今更解す可からざる政策と致確信候。

 右に付、我が執て以て各国に宣言する名義は、我国は従来朝鮮の独立を認定し、且つ其独立権を保護せんことを企画するものなるに、清国は故なく其兵を朝鮮国内に駐在せしむることは、彼が常に主張する如く、事実上朝鮮国を属邦とし、其主権を施行するものなれば、取も直さず我認定を抹殺し、其企画を妨碍するものなり。加之朝鮮国内に外兵の屯在するは我国に取りては甚だ危険を感ずるに付、我企画を遂行し、我利益を保護せんが為め、外兵を朝鮮より逐出す可しと、云わば我方に於て強くその道理なきに苦む事なかる可しと思考致し候間、何卒此一点に付、廟議御決定相成候様致度と存候。

 右は、大略既に電信にて陳述致候得共、猶お其意義の充分ならざる所あるを致掛念致候に付、茲に致詳陳候。至急何分の御訓示相成候様致度候。敬具。

 明治廿七年六月十七日
    特命全権公使大鳥圭介
外務大臣陸奥宗光殿
 追って過日来支那電線断絶致候に付、今回急に八重山艦差立電稟取計候。之が為め外に上申及度義、許多有之候得共、急速相纏め難く乍遺憾後便に相譲り申し候。