明治開化期の日本と朝鮮(3)補足資料

 

 

(「江華島事件ノ処理ニ関スル意見書 : 三条太政大臣宛 / 木戸孝允」公開者 早稲田大学図書館 画像はこちらから ()は筆者)

 長崎電報に拠るに、前月廿■■軍艦、朝鮮海に於て彼が不意の砲撃に遭えり。我軍艦遂に進戦し其砲台を毀■■屋を火し而して退けりと。朝鮮交際の成否に於て■我政府の力を茲に用ること久し。今忽此事に及ぶ。是朝鮮終に我に絶せりと為す可きか。朝鮮の事、国論紛に連歳未だ止まず。昨年は既に此に因て政府の変革を生じ、去春は又此に因て九州の騒擾を起せり。今や天下の議者必ず紛に競い起らんとす。政府予め一定の廟略を立て以て以て其義務を尽し其責に任せずんばある可らず。蓋し去年我小田県人及琉球蕃人の横逆を受けるに因て政府罪を台湾に問えり。況や今日の事、我帝国の旗章に向い故無きの暴撃を加うるに於てをや。其朝鮮は台湾と異なり、我官吏人民現に其国にあり。捨て之を問わざるに付す可からず。必や至当の処分を以て我帝国の光栄を保ち、我士民の安幸を務めざる可からざるは論を竢たざるべし。然ども略を定むるに形勢情理あり。事を施すに先後順序あり。徒に世の議者の剽軽なる論議に従い、其流を遂い其波を揚ぐ可からず。若政府予め廟略を立て其施行の順序を一定せば、之を以て臣■任せよ。臣、慎で微力を尽し、以て我国の為めに謀ることあらんとするなり。抑、先帝の季年開国の国是を定め之を天下に詔せしより始めて万国の交際を開き、維新の初、各国を京師に延見するに至れり。而して支那朝鮮は古来我と■通せし国にして又近く隣並に在り。遠洋各国相交際するの時■■隣並の国、漠然相信好せず、豈公道とすべけんや。於是、朝議路支那朝鮮に■ぬるの策あり。臣等実に其議を賛翼せり。己巳(明治2年・1869)十二月三日に至り、臣親しく御前に於て支那朝鮮使節の命を奉ぜり。其後朝鮮の事、葛藤未だ解けず故を以て歳月を遷延す。臣、西洋各国に使命を辱し、帰朝するに及んで支那既に条約を完す。而朝鮮の交未だ公せず。我使臣猶途に滞る。征韓の論起るに至て臣深く内治の未だ洽からざるを憂い、内を先にし外を後にするの論を主張せり。且朝鮮亦未だ明に征す可きの罪あらざるなり。今則暴撃を我軍艦に加い明に我に敵せり。於是乎我内治に於て未だ洽き能わずと雖ども、亦徒に其内を顧み其外を棄ること能ざるものあり。臣の思想亦是に於て一変せざることを得ざるなり。然ども事に先後あり順序あり。今朝鮮、我軍艦を砲撃せり。我兵既に戦を開けり。然ども我釜山浦に在るもの猶尚<本のまゝ>依然たるなり。未以て朝鮮我に絶せりとなし、直に兵を加う可らず。朝鮮の支那に於ける現に其正朔を奉ぜり。其交際の相親■する其患難の相関切する明知する能ずと雖ども、其相羈属する所あるや必せり。則我朝鮮の顛末を挙て一たび之を支那政府に向え其中保代弁を求めざる可らず。支那政府、其属邦の義を以て我■代て其罪を請しめ、我帝国に謝するに至当の所置を以てせしめ■我亦以て已む可し。若し支那政府、中保代弁するに肯ぜずして之を我帝国の自ら処弁するに任せば、我乃始て其■■を朝鮮に詰責し、穏当の処分を要す可し。彼若し終に肯ぜざれば其罪を問わざるを得ず。然り而して用兵の道は必ず之を彼我の情形に視ざる可らず。則我■■の贏縮、攻戦の遅速、必ず其≠権り、以て万全の地■立たざる可らず。是其先後順序の間固より忽卒の能く局を完すべき所に非ず。若朝廷、臣に委ずるに一切の機≠以てし、始終其事に従わしめば、臣、当に駑力を尽し必ず我帝国の光栄を損することなきを務めんとす。其機変の生ずる所事、政府の素<本のまゝ>略に於て大なる関渉あるが如きは固より之を朝議の決に仰ぐべし。請う、臣が前後の論議を明にし、以て臣が請う所を納れよ。是れ臣の始終国に報ずる所以なり。臣恐懼謹疏。
     明治八年十月五日
                   木戸孝允再拝
三條太政大臣公閣下